話 1
バンッ――!
ボロボロのスーツケースが階上から蹴り落とされ、衝撃で蓋が開いてしまった。
安物の衣類が、江川朱里の足元に散らばっていた。
「あんたのガラクタと一緒に、さっさと江川家から出ていけ!」
朱里は顔を上げた。20年間、母と呼んできたその人は、今や嫌悪と怨嗟に満ちた目つきで自分を睨みつけている。
その腕には、江川家が最近取り戻したばかりの本物のお嬢様、江川咲月を抱きかかえている。
朱里は泣かなかった。ただ、あまりにも馬鹿げていると思っただけだ。
一か月前、父が交通事故に遭い、輸血が必要になった。娘として血液型検査を受けた彼女は、その時初めて、自分が江川家の実の娘ではないと知ったのだった。
江川夫妻はすぐさま人脈を駆使して調査し、ついに漁師の家で実の娘を探し出した。
それ以来、偽物の令嬢である朱里に、穏やかな日など一日たりともなかった。
咲月は、何度も朱里に濡れ衣を着せ、陥れた。
江川夫妻は常に実の娘の味方ばかりし、朱里に対しては、『咲月の人生を奪ったのだから、江川家に借りがあるのはあんたの方よ』と、精神的に追い詰めてきた。
本当に、笑わせる。
あの時、赤ん坊を取り違えたのは病院の看護師だった。なぜ自分がすべての責任を負わなければならないというのか?
「お母さん、お姉さんを責めないで……」
咲月は母の腕の中に縮こまり、か細い声を出した。膝には、取るに足らない小さな痣が一つあるだけだ。「お姉さんはわざと私を階段から突き落としたわけじゃないはずです。まさか、私を殺そうなんて……」
「咲月、この性根の腐った女の肩を持つんじゃないわ!」母の声は甲高くなった。「あなたが私の本当の娘だと知って嫉妬してるのよ。この家を乗っ取ろうとしてるんだわ!」
それを聞いて、朱里は笑った。目尻に冷たい紅が滲むかのようだ。
どうやら、これ以上ここに留まる意味はなさそうだ。
彼女は可憐さを装う咲月を見据え、冷笑した。「本気であなたを殺すつもりなら、階段なんかじゃなくて、屋上から突き落とすわ。生かしておいて、私を告発させるような真似はしない」
氷のように冷たい口調に、その場の空気は凍りついた。
父も母も、その言葉に呆然と立ち尽くした。
「お姉さん……私に、本当に死んでほしかったんですか」
咲月は大きな衝撃を受けたかのようなふりをしたが、その瞳の奥にひそむ得意げな色は隠しきれていなかった。
(この女、本当に馬鹿ね! こんな時に意地を張ったって、父さんと母さんにもっと嫌われるだけなのに。ちょうどいいわ、今日こそこの偽物の令嬢を江川家から追い出してやるんだから!)
朱里はしゃがみ込み、スーツケースの中から黒い小さなショルダーバッグを取り出した。そして立ち上がると、氷のような目で咲月をまっすぐ見据えた。
「私が死んでほしいと言ったら、あなたは本当に死ぬつもり?」
母は我に返り、朱里の鼻先を指差して罵った。「飼い犬に手を噛まれるとはこの恩知らずめ!気でも狂ったのね、殺人未遂で警察に通報してやる!」
「どうぞ、すればいい」
朱里は、わざとらしく怯えた顔を作る咲月をまっすぐ見つめ、唇の端をわずかに吊り上げた。「どうせ警察の取り調べに耐えられないのは、私じゃないもの」
咲月の表情が微かに強張り、狼狽の色が浮かんだ。
(この女、何を言い出すんだ……? いや、あの時周りには誰もいなかった。朱里はきっと、ハッタリをかましているだけだ!)
「いいわ、警察が来てもまだそんな強がりが言えるか見ものね」
母は、威勢よくスマホを取り出した。
「通報はやめろ」 父が突然、母の手を押さえ、低い声で言った。「どうであれ、あの子は20年間も俺たちを親と呼んでいたんだ。ここまで追い詰める必要はない」
事を荒立てれば、江川グループの評判にも響く。割に合わない。
父は数枚の紙幣を取り出すと、まるで施しでも与えるような顔で朱里に差し出した。「もういい。お前の本当の家は、辺鄙で貧しい凌雲村にあるんだろう。この交通費を持って、自分で帰れ。これから先、お前と江川家は一切関係ない」
朱里は三人の醜く歪んだ顔を見つめ、ただおかしくてたまらなかった。
(乞食に恵むつもりか?)
こんなわずかな金では、自分がこれまで江川家にもたらした利益の一万分の一にも満たない。
「そのお金は、あなたたちの腐った頭と節穴の目を治すのにでも使えば?でも、出て行く前に、今日の分はきっちり清算させてもらうわ」
朱里は咲月の方へ向き直り、一言一言、区切るように言った。「咲月、自分で言いなさい。一体どうやって階段から『転げ落ちた』のか?」
話 2
30分ほど前、江川朱里が水を飲もうと階下へ降りた時、突然背後から江川咲月の助けを求める声が響いた。
その声で、江川家の全員が駆け寄ってきた。
何の証拠もないまま、彼らは口を揃えて朱里が咲月を突き落としたのだと決めつけ、散々に罵った。
出ていくにしても、身の潔白だけはきちんと証明してからだ。
父は面目を潰されたのが癪に障り、不快そうに眉をひそめた。
母はすぐさま目を吊り上げ、責め立てるように言った。「もういい加減にしなさい!こんな時まで咲月に罪をなすりつけるつもり? まさか、あの子がわざと自分で階段から落ちてあなたを陥れたとでも言うの?」
「私はお姉さんみたいに、いい教育を受けて育ったわけじゃありません。でも、私にもプライドがありますし、越えられない一線だってあります。これ以上、私を侮辱しないでください!」
江川咲月は顔を覆って母の胸にすがりつき、泣きじゃくった。だが、伏せた目の奥にはあからさまな挑発が浮かんでいる。
(どうせ、誰もこの女の言うことなんて信じないんだから!)
だが、なぜか朱里の顔には慌てた様子も怒りもなく、ただその涼しい瞳には嘲りが浮かんでいるだけだった。
まるで、すべてが彼女の想定内であるかのように。
咲月の胸に不安がよぎった。その時だった。不意に耳元に、かすかな物音が聞こえてきた。
トントントン……。
誰かが小走りで階段を下りてくる音。
続いて響いたのは、彼女自身の泣き叫ぶ声だった。「お父さん、お母さん、助けて……!足が……!」
咲月ははっとして顔を上げた。
気がつけばリビングのプロジェクターが起動していて、壁一面の大きなスクリーンには廊下の監視カメラ映像が映し出されていた。そこには、彼女自身が階段を下り、わざと倒れ込み、苦しげな顔で助けを呼ぶ姿がはっきりと記録されていた。
咲月の顔からさっと血の気が引いた。
(どうして、家の中に監視カメラがあるなんて、誰も教えてくれなかったの!)
江川夫妻は、完全に言葉を失っていた。
階段から落ちたというあの騒ぎが、まさか自分たちの可愛い娘の自作自演だったなんて。
咲月が助けを呼んだ瞬間から、朱里はこの後の流れを読んでいた。
だからこそ、あらかじめ準備していたのだ。
咲月が決定的な証拠を突きつけられるまで非を認めない人間だと知っていたからこそ、完膚なきまでに叩きのめすつもりだった。
父と母の驚愕の表情を見て、咲月は込み上げる焦りと怒りを必死に押し殺し、震える声で一転して素直に謝り始めた。
「ごめんなさい……お父さん、お母さん。ただ、長年一緒に暮らしてきたお姉さんの方が大事なんじゃないかって怖くなって……だから、こんな方法で気持ちを確かめようとしてしまったの」
実の娘が長年送ってきた苦しい日々を思い出し、父の表情が和らぎ、その目には憐れみの色が浮かんだ。
「まったく、お前という子は……どうしてそんな悪戯を…… まあ、朱里が寛大な子で助かったな」
「私は寛大じゃありません」
朱里は冷たく言い返した。
(ほんと、期待を裏切らない人たちだ。この状況でもまだそんな白々しいことが言えるなんて!)
咲月の目の奥に恨みがよぎったが、母の腕から身を起こした時には、また意地っ張りで可哀想な娘の顔に戻っていた。
「悪いのは私です。今すぐ荷物をまとめて江川家を出ていきます。これから先、お父さんもお母さんも、私のことなんて放っておけばいいんです。お姉さんが許してくれるなら、それでいいんです」
その言葉に、母の怒りはたちまち掻き立てられた。彼女は目を吊り上げたまま朱里を睨みつけた。「あなたは、ここまで追い詰めないと気が済まないの? そもそも、あなたが咲月の立場を奪わなければ、あの子がこんな風に思い悩むことなんてなかったでしょう!」
(またその決まり文句。少しはひねりなさいよ)
朱里は鼻で笑った。「私は出ていくと言った以上、残るつもりはありません。ですから、これ以上ここで芝居を続けて責任を押しつけ合うのはやめてください。こんなガラクタを争う気はないので」
江川家の三人の顔色がみるみる悪くなった。誰がガラクタだというのか。
咲月は奥歯を噛みしめ、今にも砕けそうなほど力を込めた。
(この女、どこからそんな余裕が出てくるのよ!偽物の令嬢のくせに、本当なら泣いて許しを乞い、この家に置いてくださいって縋るべきでしょう!)
朱里はショルダーバッグを手に、そのまま立ち去ろうとした。
江川夫妻は一瞬、呆気に取られた。
(あれだけの荷物で出ていくつもりなのか。服すら持たずに? どうせ引き留めてもらうための、見せかけに決まっている。 ふん、たかが養女の分際で、これ以上わがままを許すわけにはいかない!)
咲月もまた、朱里が本気でこのまま出ていくなどとはとても思えなかった。
(あのバッグの中に、きっとまだ何か隠してるに決まってる!)
彼女はわざと一歩前へ出て、探るように言った。「お姉さん、それだけしか持たずに出ていくなんて。お父さんとお母さんに可哀想だと思わせたいんですか?」
そう言いながら、朱里の手にあるバッグへ手を伸ばし、ぐいっと引っぱった。
ビリッ――!
バッグのファスナーが勢いよく開いた。中から、見慣れないカードが何枚もばらばらと床に散らばった。
それだけではない。一緒に転がり出たジュエリーボックスの中からは、青いダイヤがいくつも嵌め込まれたブレスレットまで現れた。
話 3
江川咲月の目が輝いた。
そのアクセサリーに見覚えがあった。それはあの有名なRIマスターのデビュー作で、当時の販売価格は1億円だった。
今ではプレミアムがついて2億円の値がついている。
まさか、それが江川朱里の手にあるとは。
その様子を見て、咲月は思わず驚きの声を上げた。「お姉さん、それはRIマスターの作品よ!2億円の価値があるものを、どうして断りもなく勝手に持ち出すの?」
朱里は素早く床に落ちたブレスレットを拾い上げた。
ダイヤモンドのファイアがきらきらと輝き、朱里の白く滑らかな指先でひときわ絢爛に映えた。
江川夫婦の目に、途端に貪欲な光が宿った。
彼らが知っているのは、このブレスレットがかつておばあ様が臨終の際に朱里に与えたものだということだけだった。これほど高価な品だとは思いもしなかったのだ。
母はすぐに朱里を叱りつけた。「その通りよ!偽物の令嬢のあんたに、これを持つ資格なんてないんだから! これは元々、おばあ様が本当の孫娘のために遺したものよ。今すぐ本来の持ち主に返しなさい!」
江川家の父も、価値が2億円もするジュエリーを、こんな“養女”に持って行かれるのが惜しく、顔をしかめて言った。「朱里、お前がそれを持ち出すべきではないのは確かだ」
この家族の恥知らずぶりは、朱里の認識を何度も塗り替えていく。
彼女は顔を上げ、冷たく言い放った。「誰がこれを、おばあ様があなたのために遺したと言ったの?」
このブレスレットのデザインのインスピレーションは、確かにおばあ様から得たものだ。
江川家で彼女が感じた唯一の温もりは、おばあ様からのものだった。だからこそ、おばあ様のために『守護星』と名付けたこのブレスレットをデザインしたのだ。
おばあ様が亡くなった後、このブレスレットは自然と彼女の手に戻ってきた。
朱里に再三問い詰められ、咲月の表情がこわばった。
「お姉さんが返したくないのなら仕方ないけど、私、帰ってくるのが遅くて、おばあ様にお会いできなかったのが心残りで……」
「おばあ様はいつ亡くなったの?」
朱里は不意打ちに問い返した。
咲月は喉を締め付けられたように言葉に詰まった。彼女は本当に知らなかったのだ。
江川夫婦の顔色もこわばった。
ふと、彼らは思い出した。おばあ様が病死したのは5年前。その頃、RIマスターはすでにジュエリーデザイン界で引く手あまたのスーパースターだった。
一方、江川家はまだ駆け出しの頃で、当時の販売価格1億円どころか、2千万円ですら江川家の命取りになりかねなかった。
言い換えれば、おばあ様がこのブレスレットを買って朱里に与える金など、あるはずもなかったのだ。
咲月は諦めきれず、唇を噛んで反論した。「たとえおばあ様からの贈り物じゃなくても、江川家のお金で買ったものに決まってるわ!」
朱里は鼻で笑った。その精緻な顔立ちは、かえって一層鮮やかに人の心を惹きつける。
咲月の胸中に、妬みの炎が静かに燃え上がった。もし自分が幼い頃からこの家で裕福に育てられていれば、こんな風に輝かしいお嬢様になれたはずなのに!
彼女は不満げに両親の方に目を向けたが、二人の表情がどこか微妙に引きつり、気まずそうな色を浮かべていることに気づいた。
「あんたみたいな馬鹿と話してると、こっちまでバカになりそう」
朱里は冷ややかにそう言い捨てると、あっさりと江川家の門をくぐり抜けた。
咲月は後を追おうとしたが、江川夫婦に引き止められた。
(そのブレスレット、本物のはずがないわ!)
母は嫌悪感を露わに唇を歪めた。「どうせあの子、見栄を張って偽物を手に入れたのよ。構わないわ。お母さんがこれから、もっと素敵で高価な宝石をいっぱい買ってあげるから」
咲月は少しがっかりした。
(偽物だったの?でも、すごく精巧にできてたのに。 でも、今の私は江川家唯一のお嬢様。これからどんな高級宝石だって手に入るんだから!)
ゴゴゴゴゴ――!
その時、窓の外から不意に大きな音が響き、三人は驚いて外を見ると、数機のヘリコプターが編隊を組んで飛び去る後ろ姿を目撃した。
一体どこの桁外れの金持ちなの?
朱里は小さなバッグを肩にかけ、山を下りていた。
頭上で轟音を立てるヘリコプターに注意を引かれた。
ヘリコプターが、どうやら自分を目がけてまっすぐ飛んでくるようだったからだ。
ローターが巻き起こす強風の中、ヘリコプターは少し離れた芝生の上に見事に着陸した。
朱里はわずかに目を見開いた。
立派なスーツを身にまとった男が、これ見よがしにヘリコプターの列の中から現れた。
男は彼女に近づくなり言った。「妹よ、俺を待っていたのか?」