話 1
「診断の結果ですが」
加藤医師の声が、やけに遠くで響いた。
凛は冷たいパイプ椅子に浅く腰掛け、ただ医師の唇が動くのを眺めていた。キーンという高い耳鳴りが頭の中で鳴り響き、現実の音を全て吸い込んでいく。
「ステージⅣの、胃がんです」
その言葉が鼓膜を揺らした瞬間、耳鳴りがぴたりと止んだ。代わりに、自分の心臓が喉元までせり上がってくるような、激しい動悸が始まる。
医師が、一枚の診断書を静かにデスクの上に滑らせた。凛はそれに視線を落とす。息を吸おうとしたが、肺がうまく動かない。指先から急速に温度が失われ、まるで氷水に浸されたかのように冷たくなっていく。
「根治は、極めて困難です。緩和ケアを中心に、今後の治療方針を……」
続く医師の説明は、もう凛の耳には届かなかった。視線はカルテに印刷された「悪性新生物」という無機質な文字に釘付けになり、目の前がゆっくりと暗転していく。
震える手で、診断書を掴んだ。紙の端が、くしゃりと情けない音を立てて曲がる。
「……ありがとうございます」
喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど穏やかだった。無理やり口角を上げて笑みを作ると、医師が少しだけ同情的な目を向けた。
立ち上がろうとして、足に力が入らない。膝が笑い、体がぐらりと傾く。咄嗟に机の角を掴み、必死に体を支えた。大丈夫です、と繰り返しながら、重い足を引きずるように診察室を出る。
重厚な扉を押し開けると、廊下に充満した消毒液の匂いが鋭く鼻腔を突いた。その瞬間、胃の奥から猛烈な吐き気が込み上げてくる。凛は壁に手をつき、浅い呼吸を繰り返した。
壁伝いにゆっくりと歩く。途中、大きなお腹を抱えた妊婦が、幸せそうな顔で夫と話しながらすれ違った。その光景が、かつて早産で失った自分の子供の、冷たくなった小さな顔を思い出させ、胸に鈍い痛みが走る。
ようやく病院の出口にたどり着き、自動ドアが開くと、冬の冷たい風が容赦なく顔に吹き付けた。
タクシー乗り場に並びながら、コートのポケットからスマートフォンを取り出す。画面に表示された「鷹司暁」という名を見つめる。夫の名前だ。
発信ボタンに親指を添える。だが、指が触れる寸前で、過去の冷たい拒絶の言葉がいくつも脳裏をよぎった。『またその話か』『うんざりだ』『お前の感傷に付き合う暇はない』。
親指が、空中でぴたりと止まった。
結局、電話をかけることなく画面を消し、順番が来たタクシーに乗り込む。運転手に行き先を告げた。鷹司家の、あの巨大な邸宅の住所を。
車窓から流れる東京のネオンを見つめる。街の光が眩しいほど、自分の未来は暗く感じられた。気づけば、一筋の涙が冷たい頬を伝っていた。
タクシーが鷹司家の巨大な鉄門の前に停まる。財布から千円札を取り出す手が微かに震え、小銭入れからチャリンと硬貨が数枚足元に転がり落ちた。
「お客さん、大丈夫かい?」
運転手の心配そうな声に、凛は力なく首を振る。大丈夫です、とだけ言って、逃げるように車を降りた。
重い玄関のドアを開け、明かりの消えたリビングへと歩を進める。誰もいない広大な空間の静寂が、耳に痛いほどだった。孤独感が、冷たい霧のように全身を包み込む。
ソファに深く沈み込み、ハンドバッグからくしゃくしゃになった診断書を取り出してテーブルの上に置いた。
離婚しよう。
そう決意を固め、深く息を吐き出した、その時だった。
ガチャリ、と玄関のドアが開く重厚な音が響いた。凛の肩が、驚きでビクッと跳ねる。視線を廊下に向けると、冷ややかな空気を纏った鷹司暁が立っていた。
凛はゆっくりと立ち上がる。彼の冷酷な瞳と、視線が真正面からぶつかった。
暁は無言でリビングに入ってくると、億劫そうにネクタイを緩めた。その瞬間、ふわりと、凛の知らない甘い香水の匂いが漂ってくる。その香りは、この家のどの化粧品とも違う、明らかに女性ものの香りだった。
胸の奥を、鋭い針で刺されたような痛みが走った。
「……離婚、しましょう」
乾ききった唇から、ようやく言葉を紡ぎ出す。
暁のネクタイを緩める手が、ぴたりと止まった。室内の空気が、一瞬で凍りつく。
やがて彼は、鼻でフンと笑った。ゆっくりと凛に近づき、その顔を覗き込むようにして見下ろす。
「またか。同情を引くための三文芝居は、もう見飽きた」
冷酷な声が、凛の鼓膜を打った。
凛はテーブルの上の診断書を差し出そうと手を伸ばす。しかし、その手は暁によって無造作に払いのけられた。診断書は力なく宙を舞い、カーペットの上に虚しく落ちる。
「やめて……!」
「高橋の会社が傾いているそうだな。父親を救うための狂言か? 感心な娘だ」
暁が、強い力で凛の顎を掴んだ。嘲笑うようなその目に、絶望的な色が浮かぶ。
凛は最後の力を振り絞ってその手を振り払った。
「違う! 本当に、病気なの……!」
そう訴えた瞬間、胃の奥で再び激痛が走り、思わず腹部に手を当てる。
その時だった。
玄関の方から、パタパタという小さな足音が聞こえてきた。凛はハッと息を呑んで振り返る。暁の表情が、ほんの僅かに緩んだのを、凛は見逃さなかった。
「パパ!」
無邪気な子供の声が、リビングに響き渡る。
凛の全身から、血の気が引いていくのがわかった。呼吸が浅くなり、心臓が冷たい手で掴まれたように痛む。
リビングの入り口に、二人の子供が立っていた。そっくりな顔をした、双子の男の子と女の子。凛は目を見開いたまま、足が床に縫い付けられたように一歩も動けない。
そして、その双子の後ろから、まるで女王のように優雅な足取りで、佐藤花音が現れた。彼女は、凛の姿を認めると、憐れむような、それでいて勝利を確信したような笑みを浮かべた。
心臓が、破裂しそうなほど激しく波打つ。
花音はごく自然な仕草で暁の腕にそっと触れた。
「暁さん、遅くなってごめんなさい。この子たちが、どうしてもパパと一緒がいいって聞かなくて」
その完璧な妻のような微笑みを見て、凛は悟った。
この家に、もう自分の居場所は、どこにもないのだと。
子供たちが暁の足元に駆け寄り、その足に抱きつく。暁は、先程までの冷酷な表情が嘘のように、柔らかな笑みを浮かべて二人をひょいと抱き上げた。
その完璧な「家族」の光景を前にして、凛の精神は、音を立てて崩壊し始めた。
話 2
完璧な家族の絵。その中で、自分だけが異物だった。
凛は震える足で、一歩、また一歩と後ずさる。カサリ、と足元で乾いた音がした。床に落ちたままの診断書を、自分の足で踏みつけてしまっていた。その痛ましい音が、今の自分自身を象徴しているようだった。
「あら、凛さん」
花音が、わざとらしく驚いたような声を上げる。彼女は子供たちを促し、その小さな背中を優しく押した。
「ほら、あなたたち。お部屋に行きましょうね」
子供たちが、不思議そうな顔で凛を見上げる。その純粋な瞳が、今の凛にはあまりにも残酷だった。凛はとっさに目を逸らし、唇を強く噛みしめる。血の味が、口の中にじわりと広がった。
暁が子供たちを花音に預け、低い声で二階へ行くよう指示する。花音は「はい、暁さん」と甘く答え、凛にだけ見える角度で、勝ち誇ったような笑みを浮かべてリビングを去っていった。
再び、リビングには二人きりになった。先程よりもずっと重く、冷たい沈黙が支配する。
凛はゆっくりと屈み、床に落ちた診断書を拾い上げた。紙を握る手が、怒りと悲しみで関節が白くなるほど力が入る。
顔を上げた凛の瞳には、もう涙はなかった。ただ、底なしの絶望と、燃えるような怒りの炎が宿っている。
「これが、あなたの答えなのね」
静かな問いかけに、暁は答えなかった。代わりに、ゆったりとソファに深く腰掛け、足を組む。その仕草の一つ一つが、凛の神経を逆撫でした。
「妻の座にしがみつくお前の姿は、滑稽を通り越して哀れだな」
嘲笑が、刃物のように突き刺さる。
その瞬間、凛の胸の奥で、忘れていたはずの記憶が鮮明にフラッシュバックした。
――早産で、冷たくなってしまった自分の赤ん坊の顔。抱くことさえ許されなかった、小さな、小さな命。
息が、詰まる。心臓が握り潰されるような痛みに、立っていることさえ困難になる。
だが、ここで崩れるわけにはいかない。
凛はハンドバッグから、予め用意していたもう一枚の書類を取り出した。そして、それをテーブルの上に置いた。
離婚協議書。
暁の眉が、微かに動く。
凛はペンを握ると、一切の迷いなく、自分の名前を書き込んだ。紙が、強すぎる筆圧で僅かに裂ける。
書き終えた協議書を、暁の方へ押しやる。
暁は協議書を一瞥すると、喉の奥でくつくつと笑い声を上げた。
「妻の座にしがみつくのをやめたと思えば、今度はあっさりサインか。本当に底の浅い女だ」
侮蔑の言葉が、容赦なく浴びせられる。
その言葉に、凛の中で張り詰めていた糸が弾け、絶望が怒りへと変わった。
「……なら、せめて父の治療費と私の命の値段として、一千万円払いなさい!」
声が震えそうになるのを、奥歯を噛み締めて必死に抑え込んだ。これは治療費だ。そして、父を救うための金だ。自分にそう言い聞かせる。
暁は、その要求を聞いて鼻で笑った。
「一千万? 高橋の借金返済の足しにでもするつもりか。浅ましい」
凛が何か反論しようとした、その時。胃の底から、錐で抉られるような鋭い痛みが突き上げた。
「うっ……!」
思わず腹部を押さえ、その場にうずくまりそうになる。冷や汗が、額に滲んだ。
暁は、その様子を冷ややかに見下ろしていた。
「まだ続けるのか。大根役者め」
その一言が、凛の心に決定的な亀裂を入れた。ああ、もう、終わりなんだ。何もかも。
暁が胸ポケットから、愛用のモンブランの万年筆を取り出す。キャップを外す時の、カチリ、という金属の冷たい音が、やけに大きく室内に響いた。
彼は流れるような筆跡で、鷹司暁、とサインをする。
そして、書き終えた協議書を、まるでゴミでも捨てるかのように、凛の顔めがけて投げつけた。
紙の端が、凛の頬を掠めて床に落ちる。ヒリヒリとした小さな痛みが、屈辱をさらに際立たせた。
「一千万程度で、お前との腐れ縁が切れるなら安いものだ」
冷酷な言葉が、凛の自尊心を粉々に砕け散らせた。
涙が溢れそうになるのを、必死に堪える。凛は床に這いつくばるようにして、その一枚の紙切れを拾い上げた。
ゆっくりと立ち上がり、暁に背を向ける。この家から出ていく。一刻も早く。
リビングから寝室へと続く、長い廊下を歩く。壁には、二人の結婚式の写真が飾られていた。幸せそうに微笑む、過去の自分。凛は無言でその写真に手を伸ばし、額縁ごと壁に伏せた。
寝室のドアを開ける。かつて二人が過ごした空間は、暖房が効いているはずなのに、骨身に染みるほど冷たく感じられた。
クローゼットの奥から、スーツケースを引き出す。
最低限の衣類だけを、乱暴に詰め込んでいく。暁が買ってくれた高価なドレスや宝飾品には、一切触れなかった。それは、凛の最後の意地であり、決別の意志表示だった。
荷造りを終えた凛は、スーツケースを引きずりながら夜の街へと逃げ出した。冷たい雨の中、タクシーを拾い、安宿の小さな部屋に逃げ込む。眠れない夜を明かし、翌日の昼下がり。スマートフォンを取り出し、連絡先をスクロールする。ふと、「小林大輔」という大学の先輩の名前に目が止まった。実家が大きな医療グループを経営している彼なら……。しかし、数年疎遠だった彼に金の無心などできるはずもなく、親指は画面の上で虚しく止まった。
その時だった。
ブブブ……と、スマートフォンが震えた。画面には、病院のスタッフである中村結衣の名前が表示されている。
嫌な予感が、背筋を走った。
凛は震える手で電話に出る。
「もしもし……」
『凛さん!? 大変! 正彦さんが……!』
中村の焦りきった声が、耳に飛び込んできた。
『お父様が、心臓発作で……! 今、病院に運ばれて……!』
凛の頭の中が、真っ白になった。スマートフォンを取り落としそうになるのを、必死で握りしめる。呼吸が荒くなり、心臓が嫌な音を立てて脈打つ。
「……すぐ、行きます!」
叫ぶように言うと、スーツケースをその場に放置して安宿の部屋を飛び出した。
外は、いつの間にか雨がポツポツと降り始めていた。
凛は濡れるのも構わず、大通りに向かって走り、必死に手を振る。
ようやく一台のタクシーが停まり、それに乗り込む。
「病院まで、急いでください!」
運転手に叫ぶ。窓ガラスに映った自分の顔は、青ざめて、まるで死人のようだった。絶望の淵に立たされていることを、凛ははっきりと自覚した。
話 3
タクシーのタイヤがアスファルトを削る音が、やけに大きく聞こえた。
病院の救急入口に車が着くやいなや、凛は転がるようにして降り、廊下を全力で走った。息が切れ、肺が張り裂けそうだったが、足を止めることはできない。
ICUと書かれたランプの前で、ようやく足を止める。膝が笑い、その場に崩れ落ちそうになるのを、壁に手をついてなんとか堪えた。
「高橋さん!」
中から出てきたのは、凛の主治医でもある加藤医師だった。その深刻な顔つきを見ただけで、凛の心臓は氷水に浸されたように冷たくなる。
「父は……父の容態は……!」
すがりつくように問いかける凛に、医師は静かに首を横に振った。
「危険な状態です。緊急の心臓バイパス手術が必要です」
その言葉に、凛の顔から血の気が引いていく。壁に寄りかかり、ずるずるとその場に座り込んでしまいそうになるのを、必死でこらえた。
医師は、冷酷な現実を突きつける。
「最新の医療機器を使用するため、保険適用外となります。申し訳ありませんが、手術を開始するには、まず保証金として即金で五百万円が必要です」
五百万円。
凛の頭の中で、その数字が反響した。自分の銀行口座は、高橋家の破産手続きの影響で、ほぼ全ての資産が凍結されている。手元にある現金は、数万円だけ。
絶望で、目の前が再び暗くなった。
「こちらが手術の同意書です。お支払いの目処が立たなければ、我々も手術を始めることは……」
事務的に差し出された書類を、凛はただ見つめることしかできなかった。唇を強く噛み締めると、鉄の味が口の中に広がった。
他に、方法はない。
凛はふらつきながら立ち上がると、ポケットからスマートフォンを取り出した。プライドも、何もかも、かなぐり捨てるしかなかった。
震える指で、鷹司暁の携帯番号をダイヤルする。
プルルル……プルルル……
呼び出し音が、自分の心臓の鼓動のように大きく響く。一回、一回、鳴るたびに、希望が削られていく。
『……何の用だ』
電話が繋がり、耳に突き刺さってきたのは、不機嫌で冷たい声だった。
凛は、砕け散ったプライドの破片を飲み込んだ。
「……お願い、します。お金を、貸してください。父の、手術費用が……」
電話の向こうで、暁がフッと冷笑する気配がした。
『ほう。先ほど一千万円を要求したばかりの女が、舌の根も乾かぬうちに金の無心か』
「あれは、まだ受け取っていません! お願い、五百万でいいの。父の命がかかっているの……!」
涙声で訴える凛に、暁は追い打ちをかけるように、残酷な言葉を吐き捨てた。
『高橋正彦の命に、五百万円の価値があるとでも?』
その瞬間、凛の全身の血が、沸騰するような怒りで熱くなった。
「父を、見殺しにする気なの!?」
『自業自得だろう。因果応報という言葉を知らんのか』
冷酷な声が、凛の心に氷の刃のように突き刺さる。
『そもそも』と、暁は続けた。『高橋家の資金繰りが、なぜ急に悪化したか。偶然だとでも思っているのか?』
その言葉に、凛の瞳孔が驚きで見開かれた。
「……まさか。あなたなの? 父の会社を破産させたのは、あなたの仕業だったの……?」
暁は、その問いに明確には答えなかった。ただ、全てを肯定するかのような冷たい笑い声を残して、一方的に電話を切った。
ツーツー……
スマートフォンから響く無機質な音が、死の宣告のように聞こえた。
**凛はスマートフォンを握りしめたまま、その場にへたり込む。**堪えていた涙が、堰を切ったように溢れ出し、冷たい床を濡らした。
どれくらいそうしていただろうか。
凛は、乱暴に涙を拭い去ると、ゆっくりと立ち上がった。悲しみは、いつしか激しい憎悪へと姿を変えていた。
ICUのガラス越しに、たくさんの管に繋がれた父親の姿が見える。
――絶対に、死なせない。
凛はガラスに手をつき、強く、強く誓った。
他に、方法はない。 凛は、震える手で自分の持ち物をまさぐった。財布には、わずかな現金しかない。絶望的な気持ちで、ふと左手の薬指に視線を落とす。そこには、鈍い光を放つものがあった。鷹司暁から贈られた、巨大なダイヤモンドの婚約指輪。
(これだ……!) 一瞬、吐き気がこみ上げた。あの男との決別の証として、身につけていた高価な宝飾品は全て置いてきたはずだった。だが、この指輪だけは、長年肌身離さず着けていたせいで、まるで皮膚の一部のように指に食い込み、あの時も無理に外すことができなかったのだ。
凛は、その指輪を外そうとした。しかし、やはり簡単には抜けない。
「くっ……!」 構うものか。父の命がかかっているのだ。
無理やり引き抜くと、薬指の皮膚が赤く腫れ上がり、血が滲んだ。
指輪を、強く握りしめる。これを売れば、五百万になるかもしれない。いや、しなくてはならない。
迷いを断ち切り、凛は病院の出口へと向かった。
外は、すっかり日が落ちていた。冷たい夜風が、火照った頬を撫でていく。
タクシーを拾い、行き先を告げる。
「銀座まで、お願いします」
車内で、手のひらの指輪を見つめる。かつての甘いプロポーズの言葉が蘇る。『一生、君を守る』。その言葉は、今ではただの吐き気を催す記憶でしかなかった。
やがて、銀座の華やかな街並みが見えてくる。まばゆいネオンが、今の自分の惨めさを、より一層際立たせるようだった。凛は目を閉じ、胃の奥の痛みに耐えた。
タクシーを降り、高級ジュエリーショップの重厚なドアの前に立つ。ふと、店の前に見覚えのある黒いマイバッハが停まっているのが視界の端に映った。鷹司家の車だ。しかし、父の命を救うことで頭がいっぱいの凛は、その意味を深く考える余裕もなく、店内へと足を踏み入れた。
店内の眩しい照明に、一瞬目が眩む。店員の木村と名札をつけた女性が、雨で少し濡れた凛の姿を見て、いぶかしげな視線を向けた。
凛は構わずカウンターに近づき、握りしめていた指輪を差し出した。
「これを、買い取っていただきたいのですが」
声が、少しだけ震えた。
木村は指輪を受け取ると、ルーペで確認し、その価値に驚いたような表情を見せた。すぐに奥の支配人を呼びに行く。凛は焦燥感に駆られながら、その背中を見送った。
その時だった。
背後から、砂糖を煮詰めたような甘ったるい声が聞こえた。
「あら、凛さん? こんな所で、何をしていらっしゃるの? 私、暁さんとの婚約指輪を選びに来たのだけれど……奇遇ね」
その声に、凛の背筋が凍りついた。
ゆっくりと振り返る。そこには、高級なシルクのドレスに身を包んだ、佐藤花音が立っていた。彼女の口元には、全てを見透かしたような、嘲りの笑みが浮かんでいる。
花音は、凛の惨めな姿を上から下まで、舐め回すように見た。
「まあ、大変。もしかして、お金にお困り?」
わざとらしく同情する声色に、凛は吐き気を覚える。
無視してカウンターに向き直ろうとした凛の腕を、花音が掴んだ。
その時、店の入り口のベルが鳴り、長身の影が店内に入ってきた。
鷹司暁だった。