1

結婚一ヶ月後、夏煙は自分の結婚許可証が偽物であることを、偶然知ってしまった。

そして夫は、彼女を「本命」の身代わりとして扱っていたばかりか。

彼女に隠れて海外で二人目の妻を娶っていた。

真相を知った彼女は完全に打ちのめされ、この茶番じみた結婚生活を終わらせることを決意する。

だが、彼女が去った後になって、あの傲慢不遜だった男は初めて自分の本心に気づくのだった。

彼が後悔して振り返った時、愛した人はすでに遠く去っていた。

彼が夏煙を見つけ出した時には、すべてが手遅れだったのである。

……

夏煙は、自身がファンである配信者のライブ配信で、結婚してまだ一ヶ月の夫、凌佑安が、海外で結婚式を挙げている姿を目撃した。

「念薇、誓うよ。君とこの子を、一生涯守り抜くと」

凌佑安は目尻を赤らめ、声もわずかに震わせていた。彼はゆっくりと花嫁に口づけ、その眼差しは水のように優しい。

夏煙は呆然とスマートフォンを見つめていた。新郎の顔立ちは、彼女が七年間愛し続けた男のものに他ならなかった。

混乱の極みにあった彼女は、凌佑安の番号をタップする。だが、動画の中の男は眉をひそめて携帯を一瞥すると、即座に通話を切断した。

直後、凌佑安からメッセージが届く。

【ベイビー、まだ会議中なんだ。終わったら連絡する。愛してる!】

しかし配信画面の中の彼は、花嫁の手を取り、結婚指輪をはめている。夏煙はそれが、一ヶ月前に凌佑安が車の中に隠していた指輪だと、一目でわかった。

自分へのサプライズだと思っていた。まさか、それが別の女のために用意されたものだったとは。

「フォロワーのみんな、今日はある御曹司の結婚式を追ってるんだけど、本当に美男美女でお似合い!聞いた話だと、二人はお互いの初恋の相手で、しかも、できちゃった婚なんですって!」

配信者の最後の言葉を聞き、夏煙は奈落の底へ突き落とされたかのようだった。今朝、凌佑安は彼女の唇にキスをしながら、出張に行きたくない、君と離れたくないとあれほど言っていたのに。どうして一瞬のうちに、他の女と「できちゃった婚」などしているというのか。

夏煙は充血した目で、配信者にプライベートメッセージを送った。

【400万円送るわ。今すぐ配信を切って、新郎を徹底的に尾行して。彼の一挙手一投足すべてが知りたい】

一体全体、何が起きているのか。すべてをはっきりさせなければならなかった。

配信者は2秒後に送金を受け取ると、すぐに返信してきた。

【煙花様、喜んでお引き受けいたします】

十分後、彼女の元に一本の盗撮動画が送られてきた。

「佑安、沈念薇とのこと、夏煙は知ってるのか?」

話しているのは肖陽――凌佑安の無二の親友だ。夏煙も知っている顔である。彼までが結婚式の現場にいるのなら、自分が見間違えた可能性は完全になくなった。

「知るわけないだろ。あいつの性格だぞ?知ったら気が狂ったように騒ぎ立てるに決まってる」

凌佑安は苛立たしげに煙草を深く吸い込んだ。

肖陽は頷く。確かに夏煙は、彼に甘やかされすぎていた。

「いっそのこと、全部ぶちまけたらどうだ?当時、お前が彼女の猛アタックを受け入れたのだって、結局は沈念薇に似てたからだろ? 今や本物がこうしてお前の合法的な妻になったんだ。もう身代わりなんて必要ないじゃないか」

夏煙はそこで初めて気づいた。確かに、花嫁の顔立ちは自分と三割ほど似ている。

男は微かに笑った。

「沈念薇は国に戻らない。あの子は、海外で安静に養生すると約束してくれた。……夏煙のことにしたって、確かに身代わりではあるが、俺たちは七年も一緒にいたんだ。あいつが物分かりよく大人しくさえしていれば、面倒を見るつもりではいる」

肖陽は腹を抱えて笑った。

「さすがは俺のダチだ、やることが違うぜ。国内では夏煙と偽の結婚許可証で夫婦面して、海外では沈念薇と本物の結婚か。考えただけでも刺激的だ」

凌佑安は、外にいる沈念薇に視線を送る。

「俺が本当に愛しているのは、ずっと念薇姉さんだけだ。だから当然、最高のものだけを彼女に捧げる」

肖陽は羨ましそうに言った。

「念薇姉さんが知ったら、嬉しくてたまらないだろうな。お前がこんなにも長い間、一途に彼女を想い続けていたなんて。 なんたって、凌佑安の愛だ。誰もが簡単に手に入れられるものじゃないからな」

凌佑安は笑いながら、手の中の煙草を揉み消した。

「ふざけるのはよせ。窓を開けて換気してくれ。念薇は煙草の匂いが嫌いなんだ」

……

スマートフォンが夏煙の手から滑り落ち、堰を切ったように涙が溢れ出した。

つまり、凌佑安はずっと自分を身代わりとして見ていたというのか。 彼が注いでくれた長年の愛も偽りなら、自分たちの結婚すら、すべてが嘘だったと?

夏煙は胸の奥に鈍い痛みを感じた。まるで誰かに力任せに殴りつけられたかのように、息もできないほど痛くて、嗚咽が漏れた。

だが、しばらくして。彼女は冷たく笑うと涙を拭った。心のどこかが妙にスッキリしている。……これは、きっと自分への報いなのだ。

結局のところ、彼女自身にとっても、凌佑安は、ただの別の男の「身代わり」に過ぎなかったのだから。

十八歳のあの年。夏煙の幼馴染であった呂銘澤が交通事故でこの世を去り、彼の角膜は、当時病を患っていた凌佑安へと提供された。

夏煙は父に泣きついて凌佑安のそばに行かせてもらった。彼女は、呂銘澤へ向かうはずだったすべての愛を、ただ凌佑安の身の上へと移し替えたのだ。

誰もが知っていた。凌佑安は裕福な家の御曹司で、クールで孤高の存在であると。彼に言い寄る女子生徒は後を絶たなかったが、彼はなぜか、転校生である夏煙にだけは違った態度を見せた。

他の女子が何度告白しても、彼はまるで聞こえないかのように無視し続けたが、夏煙がたった一度「好きだ」と言っただけで、彼女は彼の公認の恋人になった。

彼は毎朝必ず家で朝食を摂る習慣だったにもかかわらず、夏煙が持ってきたサンドイッチは、いつも綺麗に平らげてくれた。

高校の三年間、彼は自分の隣に誰かが座ることを決して許さなかったのに、夏煙は転校してくるなり、彼の隣の席の主となった。

彼は学年トップの秀才で、質問にかこつけて自分に近づこうとする人間を何より嫌っていたが、夏煙のためならば、彼は進んでノートのコピーを取り、一つの問題を何度でも飽きることなく教えてくれた……。

他の誰から見ても、彼が夏煙を溺愛しているのは明らかだった。夏煙自身も、凌佑安がこれほど自分を愛してくれることを、どれほど幸運なことかと感じていた。

いつしか彼女も、自分が愛しているのが呂銘澤なのか、それとも凌佑安なのか、区別がつかなくなっていくほどに。

二人は共に受験戦争を乗り越え、同じ大学に進み、七年の恋愛を経て、ついに結婚という門出を迎えた。

夏煙にとって、凌佑安は天が与えてくれた「埋め合わせ」のような存在だった。神は無慈悲に呂銘澤を奪っていったが、その代わりに、ほとんど完璧としか言いようのない凌佑安を彼女に送ってくれたのだと。

だが、まさか。それがすべて、ただの夢物語に過ぎなかったとは。

スマートフォンが震えた。凌佑安からの着信だった。

「もしもし? ベイビー、ごめん。さっきはちょっと取り込んでて。……どうしよう。まだ離れて一日しか経っていないのに、もう君に会いたくてたまらない」

電話の向こうの男は、いつものように、夏煙への想いを惜しげもなく表現してくる。

「会社の案件が少し厄介でね。早くても、帰国できるのは三日後になりそうだ。……ああ、今すぐにでも飛んで君のそばに帰りたいよ」

夏煙は冷笑した。問い詰める言葉が、喉元まで出かかった。

「大丈夫よ。仕事が一番大事なんだから」

彼女の声は泣き腫らしてひどく嗄れていた。以前の凌佑安ならば、必ず彼女の異変に気づいたはずだ。だが今日の彼は、よほど幸せなのだろう。夏煙の声がいつもと違うことにも、その口調に潜む突き放すような冷たさにも、微塵も気づく様子がない。

「でも、俺は一瞬だって君のそばを離れたくない。ベイビー、愛してる。……香りの良い、柔らかい君を、この腕に抱きしめたい」

夏煙は、配信者から送られてきた次の動画を再生した。凌佑安は自分に対して最も甘い愛の言葉をささやきながら、その視線の先では、遠くに立つ純白の花嫁に向かって投げキスを送っている。彼女は、自分がどれほど惨めであるかを突きつけられた。

「私、疲れたから。あなたは仕事に戻って」

夏煙は胸に込み上げる酸っぱいものを必死にこらえ、電話を切った。凌佑安、もしあなたが正直に話してくれたなら、私は潔く身を引いたのに。

最初、彼のそばに行った時、ただ毎日あの「目」を見ていられるだけで満足だったはずなのだ。いつの間にか欲張りすぎた。自分のものではない愛を、盗んでしまっていた。

動画の中の凌佑安は、通話を切るやいなや、沈念薇を抱き上げて休憩室へと姿を消した。彼は内側から鍵をかけると、焦れたように女のウェディングドレスを剥ぎ取っていく。

「念薇、やっと君を妻にできた。俺がこの日を、どれだけ待ちわびたか……15年も待ったんだ、わかるか?」

女は笑いながら自らすべてを差し出し、自分の胸の中で狂おしく求める凌佑安を、得意げな目で見つめている。

「佑安……っ、もう少し優しくして。赤ちゃんに障ったら……」

夏煙は、すでに自分の手を強く噛みしめ、皮膚を破っていた。それでも涙は止まらなかった。

そうか。自分があの男に出会う八年も前から、彼の心にはすでに別の人間が住み着いていたのだ。自分が掴んだと思っていた幸運は、ただ、誰かが出て行った後の「隙間」にうまく入り込めたというだけのことだった。

彼女は無理やり動画を停止させると、婚姻登記処に勤める友人へ電話をかけた。

「ちょっと調べてほしいの。私と凌佑安が、先月の7日に登記した記録があるかどうか」

すぐに相手から返信があった。

【あなたと凌佑安の登記情報は見当たらない。……けど、彼が同じ日に、沈念薇っていう女性と登記した記録なら出てきたわ】

夏煙はぼんやりと思い出していた。登記の日。まさに捺印するという直前になって、凌佑安が「車に用意した結婚祝いのプレゼントを忘れてきた」と言って、自分に取りに行かせたことを。

彼女が車から戻ってくると、凌佑安はもう手続きを終えたと言って、一冊の真っ赤な結婚許可証を彼女に手渡した。

あれは、わざと自分を席から外させるための口実だったのだ。偽物の結婚許可証を偽造するために。

偽の許可証の写真の中で、この上なく幸せそうに笑っている自分を見て、この女はなんて哀れなんだろう、と他人事のように思った。

夏煙はノートパソコンを開き、一通のメールを送った。Y国のある写真スタジオからの招待に、同意する返事だった。

「天才カメラマン」と呼ばれた夏煙は、18歳の時点で、すでに海外の多くの大学から入学許可を得ていた。だが、彼女は凌佑安のために、そのすべてを放棄したのだ。

幸いなことに、これまでの年月も、写真界との繋がりだけは細々と保ち続けていた。そうでなければ、今頃、彼女の手には本当に何も残っていなかっただろう。

始まりが互いに打算を抱えてのものだったのであれば。そして、自分が凌佑安に一度も愛されていなかったというのなら。もう、この関係に執着する理由は何もない。

三十分後、相手から返信が届いた。

【夏煙さんのご参加を心より歓迎いたします。一週間後、スタジオでお待ちしております】

夏煙はパソコンを閉じた。一週間後、私はここを去る。

凌佑安、もうあなたは、必死になって嘘を重ねる必要もなくなる。

2

夏煙は朝一番で勤務先の広告代理店へ行き、辞表を提出した。

「夏煙、どうして辞めるんだ? ああ、わかったぞ。凌社長があれだけ君を可愛がってるんだ、結婚したらもう働かせたくないんだろう?」

上司の林偉がからかうように言うと、夏煙は苦い笑みを浮かべた。

「いえ、私自身が少し休みたいと思っただけです」

林偉はわかったような顔で笑った。

「それなら子供を作る算段だな。それもそうか、凌社長のご両親はずっと早く孫の顔が見たいと言っていたし、君たちも急がないとな」

夏煙の胸がずきりと痛んだ。凌佑安にもうすぐ子供ができるのは事実だ。残念ながら、それは彼女――夏煙が生む子ではないが。

林偉と凌佑安は友人同士だ。彼も夏煙という有能な人材を手放すのは惜しかったが、断腸の思いで、素早く「同意」の二文字を書き入れた。

夏煙が会社を出た途端、義妹の凌歆然から電話がかかってきた。

「お義姉さん、今日が私の誕生日だって忘れてないよね? 夜、お店を予約したから、一緒に来て!」

夏煙の目元が和んだ。凌歆然は大学三年生になったばかりで、まだ悩みなどない無邪気な少女だ。凌家の人間の中で、凌佑安を除けば、彼女が一番好きな相手だった。

「あなたの誕生日を忘れるわけないじゃない。夜、必ず行くわ」

だが、夏煙が予想もしなかったことに、凌佑安までがそこにいた。

「ベイビー、驚いた? 君に会いたすぎて、予定を早めて帰国したんだ」

凌佑安は笑いながら夏煙を抱きしめ、身をかがめて彼女の唇を奪おうとした。夏煙はさりげなくその腕から身をすり抜ける。

「明後日、帰国するんじゃなかったの?」

夏煙の口調は普段通りだったが、心は刃物で切り刻まれるようだった。彼は昨日海外で結婚式を挙げたというのに、今日は帰国して自分をなだめに来たのだ。ご苦労なことである。

「どうした? 早く帰ってきたのが不満なのか?」

凌佑安は顔を曇らせた。以前なら、彼女が自分からのキスを拒むことなど決してなかった。今日の夏煙は、どこか見知らぬ他人のように感じられた。その時、ドアが開き、沈念薇が笑みを浮かべて入ってきた。

「念薇姉さん?いつ帰国したの?」

「お義姉さん、紹介するね。この人は沈念薇さん。お兄ちゃんの幼馴染で、高校の時に海外に行って、もう何年も帰ってきてなかったんだ」

「あのね、私、初めてお義姉さんに会った時、どこかで見たことあるって思ったんだけど、この前やっと気づいたの。お義姉さんと念薇姉さん、そっくりなんだよね」

凌歆然は、凌佑安と夏煙の気まずい表情には気づかず、一人で沈念薇を紹介し続けている。

夏煙は、少し慌てた様子の凌佑安を一瞥した。彼が沈念薇の帰国を知らなかったのは明らかだったが、同時に、彼の瞳が喜びに満ちあふれていることにもはっきりと気づいてしまった。

「ゲームしましょうよ。負けた人が飲むルールで」

最初のゲームで、沈念薇が負けた。彼女は笑いながら自分のお腹を撫で、視線は凌佑安に向けられた。

「佑安、私、お酒はちょっと都合が悪いの。代わりに夏煙さんに飲んでもらえないかしら?」

彼女は挑発的な視線を夏煙にちらりと送った。凌佑安は一つ咳払いをした。彼は当然、夏煙がアルコールアレルギーだと知っていたが、拒否はしなかった。

「なあ、この酒はほとんど度数がないんだ。念薇姉さんの代わりに飲んでやれ」

夏煙は冷たい顔で凌佑安を見つめた。以前、彼らと出かけた時、彼はいつも自分を庇い、一滴たりとも酒に触れさせなかった。彼は、彼女がアレルギーを起こした姿を見たことがあるからだ。

それなのに今、沈念薇の一言のために、自分に危険を冒せと強要するのか?

「ごめんなさい。私、アルコールアレルギーなの」

彼女はグラスを押しやり、冷たく言い放った。

「チェッ、いっつもアンタって一番しらけさせるよね。本当にアレルギーなのか、ただのかまってちゃんなのか」

「そうよ。佑安も彼女を甘やかしすぎよ。念薇姉さんの顔まで潰すなんて」

「夏煙、ちょっとは空気を読みなさいよ。 何よ、高尚ぶっちゃって」

……

周囲の囃し立てに、凌佑安の表情が一瞬で険しくなった。彼はグラスを夏煙の前に突き出す。

「おい、俺の顔を立てろ」

その口調は硬く、夏煙に拒否を許さなかった。

彼女が拒もうと口を開いた瞬間、凌佑安に無理やり酒を流し込まれ、むせて涙が溢れた。

周囲は歓声を上げて囃し立て、沈念薇は得意げに微笑む。

凌佑安は夏煙の無様な姿に目もくれず、むしろ皆と一緒になって笑っていた。

夏煙は喉が焼けるように痛むのを感じ、呼吸が乱れ、体も痒くなり赤く染まってきた。

「佑安……苦しい、病院に……連れてって」

彼女は苦し紛れに凌佑安に掴みかかろうとしたが、その時、沈念薇が「うっ」と声を漏らした。

「お腹がちょっと痛いわ……佑安、病院に連れて行ってくれる?」

凌佑安は勢いよく立ち上がった。夏煙はかろうじて彼の服の裾に触れることしかできない。

彼は沈念薇を抱きかかえると、ドアに向かって駆け出した。凌歆然は夏煙の苦しそうな様子を見て、慌てて兄を呼び止めた。

「お兄ちゃん!お義姉さん、本当にアレルギーなのよ!先にお義姉さんを病院に連れて行ってあげて!」

凌佑安は足を止め、一度だけ夏煙を振り返った。

「おい、たった一口飲んだだけじゃないか。アレルギーの薬でも飲んでおけ。いい子だから、家で待ってろ」

彼は沈念薇を抱いたまま、今度は振り返りもせずに走り去った。夏煙の顔に惨めな笑みが浮かぶ。愛しているかといないかで、態度はこれほどまでに露骨に変わるものなのか。

彼女は凌歆然の誕生日パーティを台無しにしたくなくて、一人、よろめきながら部屋を出た。だが、トイレの前を通りかかった時、中から喘ぎ声が聞こえてきた。

男が情に溺れるその声に、夏煙は聞き覚えがありすぎた。

「ん……念薇、なぜ帰国したんだ?」

「あなたに会いたかったからに決まってるじゃない!佑安、一瞬だってあなたと離れたくないの。私を追い返さないで、お願い」

「あぁ……わかった。君の言うことは何でも聞こう」

「じゃあ、いつになったら夏煙に私たちのことを話してくれるの?」

「もうすぐだ。あいつは七年も俺についてきたんだ。少しは時間をくれ。 ……ただ、これからは、子供をダシに俺を脅すのはやめろ。さもないと、今日よりきつい罰を与えるぞ」

二人が体を重ねる音が、夏煙の両耳を激しく突き刺した。彼女は壁に手をつき、ゆっくりとしゃがみ込むと、声を殺して泣き続けた。

(凌佑安、私たち、本当に終わったのね)

3

夏煙はアルコールアレルギーで昏睡状態に陥り、目を覚ました時には、すでに翌日の夜であった。

凌歆然が、真っ赤に目を腫らしてベッドの前に立っていた。昨日、化粧室の外で夏煙を見つけた時、彼女はすでに意識を失っていたのだ。もし病院への搬送が少しでも遅れていたら、どうなっていたか分からない。

「お義姉さん、気分はどう? ……全部、兄さんのせいよ。アレルギーだって知ってるくせに無理やり飲ませて。本人はどこに消えたんだか、今も連絡がつかないの」

凌歆然は怒りに歯噛みする。夏煙は彼女を安心させるように微笑みかけた。今、心から自分のことを案じてくれるのは、この義理の妹だけである。

「大丈夫。あの人……たぶん、忙しいのよ」

その言葉が終わらないうちに、凌佑安が病室のドアの前に姿を現した。

「夏煙、すまない、遅くなった。入院してたなんて知らなかった。俺は本当に最低だ」

彼は心から痛ましげに夏煙の手を握った。夏煙はありったけの力でその手を振り払う。今の彼に少しでも触れられることさえ、吐き気を催させた。

「凌佑安、あなたには本当にがっかりしたわ」

夏煙はこの男のために泣く価値などないと自分に言い聞かせる。だが、涙は不甲斐なくも頬を伝った。

凌佑安は自分の手を見つめる。以前の夏煙が彼を拒むことなど決してなかった。

昨日はキスを拒まれ、今日は手を振り払われた。まさか、何かに気づいたのだろうか?

「なあ夏煙、俺は本当に間違っていた。自分のメンツのために、無理やり飲ませるなんて。医者が大事ないと言ってくれて、本当によかった」

夏煙は鼻で笑う。自分のメンツのためか、それともあの沈念薇のためか。それは彼自身にしか分からない。

凌佑安の携帯がメッセージの受信を告げる。一読した彼は、眉をきつく寄せた。

「夏煙、林偉から聞いたんだが、仕事、辞めたって?どうしてだ?」

あれほど写真が好きだったはずだ。 以前、凌佑安が専業主婦になるよう望んだ時はあれほど拒んでいたのに、なぜ突然辞職など。

「別に。ただやりたくなくなっただけ」

凌佑安は、まるであやすように彼女の頭を撫でる。

「やりたくないなら、辞めればいい。この俺が君を養ってやる」

恐らく、どんな女性でも一度は聞いてみたい甘い言葉だろう。だが、夏煙の心は一切動かなかった。

凌歆然は授業が残っていたため、凌佑安に夏煙を検査に連れて行くよう念を押して病室を出た。

夏煙が検査室に入る直前、再び凌佑安の電話が鳴るのが聞こえた。彼は即座に笑みを浮かべて通話ボタンを押す。

相手が誰かなど、推測するまでもない。間違いなく沈念薇である。

「佑安、お腹が空いたわ。でも、こっちのデリバリーの頼み方が分からなくて。それに、出前は赤ちゃんにも良くないし。あなたが来て、ご飯を作ってくれない?」

凌佑安は笑いながら頷くと、夏煙に視線を戻した。

「夏煙、先に検査を済ませておいてくれ。後で夕食を届けるから」

彼は夏煙の返事も待たず、慌ただしく立ち去る。夏煙はその背中を見送り、うつむいて自嘲の笑みを浮かべた。頼れるのは、もう自分しかいない。

検査結果に大きな問題はなく、医師は明日退院できると告げた。

深夜になっても、凌佑安が言った夕食は届かなかった。代わりに届いたのは、見知らぬアカウントからの友達申請。相手は、沈念薇である。

【夏煙、私、単刀直入に言うわね。回りくどいのは嫌いなの。凌佑安はもう、私の子の父親なのよ。あなたも早く諦めたら?】

続いて動画が送られてくる。ショッピングモールのベビー用品売り場で、例の男が熱心に商品を吟味し、時折、沈念薇に意見を求めている。その姿は、まるで仲睦まじい若夫婦そのものだ。

さらにもう一枚。凌佑安が彼女の膨らんだ腹に顔を寄せている写真。夏煙は目の奥が焼けるように痛んだが、涙は一滴も流れなかった。

【もうお分かりでしょうけど、あなたは所詮、私の『代用品』よ。凌佑安はあなたを愛したことなんて一度もないの。自分から身を引けば、まだ体面が保てるんじゃないかしら】

夏煙は乾いた笑いを漏らす。この関係において、自分に「体面」など、もはや残っているのだろうか。

【安心して。私は出ていくわ。でも、あなたのためじゃない】

(私自身が、前に進むために)

夏煙はそう一行だけ返信し、すぐに沈念薇をブロックした。

あの女から、これ以上凌佑安に関する情報を得たくなかった。それはただ、己をさらに苦しめるだけの行為だからだ。

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偽装婚の花嫁を失い、御曹司は愛を乞う

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