1

一通のメッセージ。 そこに添えられていたのは、六枚の写真だった。

乱れた下着、固く絡み合う指、皺の寄ったシーツを握りしめる手、そして、浴室の鏡にぼやけて映る二つの影……

温水妃都美がこうした挑発的なメッセージを受け取るのは、初めてではなかった。

肉に食い込むほど強く、女の手首を掴む大きな手。 結婚して四年になる夫、江戸川幸高のものだと、妃都美は一目で見抜いた。

写真の日付に視線を落とせば、それは二人の結婚記念日。

その前日、幸高は「夜は一緒に祝おう」と約束したばかりだった。 にもかかわらず、その後の三日間は連絡が途絶え、秘書から「急な出張」と素っ気ない伝言が届いただけ。

よほど急な用事だったのだろう。

そして、待ちきれなかったのだろう。

唇の端に冷たい笑みを浮かべ、彼女はトーク画面を閉じた。 連絡先リストをスクロールし、ある番号をタップする。

相手はすぐに応答した。

「妃都美……」

「先輩、クローズド研究の人選が決まりました」

「誰?」

「私です」電話の向こうが、死んだように静まり返る。やがて、鋭い叱責が飛んできた。

「ふざけないで。 ルールは分かっているでしょう?クローズド研究に参加すれば、終了まで外出も外部との連絡も一切禁止。 プロジェクトメンバーになれば、あなたは失踪扱いとなり、すべての個人情報が抹消され、身分も再登録されるのよ。 家も、江戸川幸高も、すべて捨てる気?」

温水妃都美は壁に掛かった結婚写真へと目を向けた。

写真の中の二人は、その瞳から幸福が溢れ出さんばかりに微笑んでいる。

男の誓いの言葉が、今も脳裏に鮮明に蘇る。 あの頃の甘やかな記憶は、今やひどく苦く、喉を焼くようだ。

「覚悟はできています。 明日、書類を提出しに行きます」

一方的にそう告げ、相手が言葉を返す間も与えずに通話を切る。

階下で車のブレーキ音がしたかと思うと、すらりとした長身がドアを開けて入ってきた。 夫の幸高だ。 彼は玉のように美しい指先で黒いネクタイを緩めながら、まっすぐ浴室へと向かっていく。

無造作にハンガーへ掛けられたジャケットから、ヴラ・ヴレクスートの最新コレクション、FIRE2の香りが微かに漂う。

情熱的で、烈火のような香り。

地味で面白みのない自分とは、あまりにも不釣り合いだ。

幸高は手早くシャワーを浴び、灰色のバスローブを羽織って姿を現した。

緩く結ばれた帯の間から、引き締まった胸筋と腹筋が覗く。 濡れた黒髪は無造作に乱れ、その瞳は水気を含んで、より一層深く、冷ややかに見えた。

江戸川家の長男にして、金融界の貴公子。 その容姿も財力も、江戸川幸高が人を惹きつけるには十分すぎた。

かつて心を奪われたのと同じ強さで、今の妃都美は吐き気を覚えていた。

「何を呆けてる?見惚れたか?」

気だるげに妃都美の腰を抱き寄せ、幸高が掠れた声で囁く。 「俺に会いたかったろ?」

言いながら、大きな手が腰のラインに沿って滑り落ちる。 触れられた肌が、粟立つような拒絶反応を示した。

妃都美は身を捩ってその手を振り払う。

幸高の手が宙で止まり、眉間に微かな皺が刻まれた。

「どうした?怒ってるのか?」

感情的に言い争うだけ無駄だ。

妃都美は胸を刺すような痛みを喉の奥に押し込めると、ベッドサイドの引き出しからパスワードロック付きの箱を取り出し、夫に差し出した。

「あなたへのプレゼントです」

中身は、彼女が署名を済ませた離婚届。 そして、これが彼に贈る最後の贈り物になるだろう。

「パスワード、当てないと開けられませんよ」

幸高はそれを一瞥したが、いつものご機嫌取りの小道具だろうと高をくくり、興味なさそうに受け取ってテーブルに置いた。 そして再び妃都美を腕の中に引き寄せると、その首筋に顎を乗せ、甘えるように擦り寄せる。

「お前こそが、俺への最高のプレゼントだ」

妃都美は無意識に身を引いた。 一瞬虚を突かれた男は、すぐに低く笑う。

「仕事が立て込んで記念日を祝えなかったから、拗ねてるのか?」

彼は妃都美の頬に唇を寄せると、すっと体を離し、ハンガーのジャケットから小さな箱を取り出した。 それを開けて、彼女の目の前に差し出す。

「気に入ったか?」

箱の中には、精緻な金の透かし彫りに翡翠をあしらった、古風な簪(かんざし)が横たわっていた。

「わざわざ競り落としたんだ。 お前、こういうのが好きだろう?着けてみろよ」

男の口調には、どこか高圧的で、それでいて甘やかすような響きがあった。

かつての温水妃都美は、いとも容易くその声に溺れた。

雲里市の誰もが、江戸川幸高は妻を命懸けで愛していると知っていたし、妃都美自身も、かつてはそう信じていた。

もし、あの写真さえなければ、これは胸を打つ贈り物だっただろう。 妃都美の脳裏に、一枚の画像が焼き付いていた。

二十歳ほどの異国の血を引く少女が、媚びるような眼差しで首を傾けている。 波打つ長い髪は、まさにその簪で無造作にまとめられ、剥き出しになったうなじには、生々しい鬱血の痕が散っていた。

「世界に一つだけだぞ。 気に入らないか?」

男の手が、彼女の柔らかな髪に伸びる。

薄い掌のたこが肌を掠め、官能的な空気が漂った。

妃都美は、堪忍袋の緒が切れるのを感じた。 この簪を掴み、そのまま男の心臓に突き立ててしまいたい衝動に駆られる。

彼女が顔を上げた。 その瞳には、普段の穏やかさはなく、氷のような光が宿っている。

「本当に、世界に一つだけ、なんですか?」

男の心臓が、不意に跳ねた。 目の前の女の様子がおかしい。 彼の眼差しが険しくなった、その時。 妃都美はふわりと微笑んだ。

「もし本当に一つだけなら、きっと気に入ります」

彼女は手を伸ばし、静かに箱を閉じた。

「今夜はまだ仕事が残っていますので、先に休んでください。 待たなくて結構ですから」

箱を握りしめ、妃都美は男の腕からすり抜けると、一度も振り返らずに部屋を出て行った。

はだけたバスローブの隙間から、微かな冷気が忍び込む。 江戸川幸高の胸に、言いようのない空虚感が広がった。

今夜の温水妃都美は、確かにおかしかった。

ふと、テーブルの上のパスワードロック付きの箱に目が留まり、彼の心はすぐに落ち着きを取り戻す。

この世で、温水妃都美がどれほど自分を愛しているか、自分以上に知る者はいない。 自分が何をしようと、あの女が自分から離れていくことなど、あり得ない。

絶対に。

バスローブのポケットで、携帯電話が立て続けに震えた。

取り出して画面に目を落とすと、そこに映し出された熱っぽく露骨な誘いに、喉が乾く。

ベッドに腰掛け、二言三言返信を打ち込んでから、メッセージを削除した。 スマホを放り投げ、そのままベッドに倒れ込む。

馴染みのある妻の淡い香りが神経を和らげ、彼はすぐに眠りに落ちた。

書斎で、温水妃都美は簪の写真を撮り、高級品買取業者に送信した。

「至急、現金化を希望します」

続けて、口座番号を打ち込む。

「振込先はこちらへ」

それは、研究所の共有口座だった。

こんな汚らわしい物でも、最後の役には立つだろう。

……

翌朝。

江戸川幸高が目を覚ました時、温水妃都美はすでに出かける支度を終えていた。

彼は肘で体を起こし、彼女に手招きする。

目覚めたばかりの低い声は、優しく、蠱惑的な響きを帯びていた。

「こっちへ来い。 抱きしめてやる」

ボタンを留める妃都美の手が止まる。 深く息を吸い、顔を上げた。 その瞳は、どこまでも澄んで穏やかだった。

「研究所で急用ができましたので、もう行きます。 朝食を作る時間がなかったので、ご自分でお願いします」

彼女はハンドバッグを手に取ると、昨夜と同じように、きっぱりと背を向けた。

男の手が、またも宙で固まる。 心にぽっかりと穴が開いたような感覚に襲われ、彼は思わず眉間を揉んだ。

いつもならば、どれほど多忙な朝でも、妃都美は必ず朝食を整え、それが一番美味しい温度になる頃合いを見計らって幸高を起こしに来たものだ。 腕の中に擦り寄り、おはようのキスをねだる素顔は、甘えん坊な子猫そのものだった。

今日は、一体どうしたというのだ?

「妃都美」

ドアを開けようとした瞬間、背後から声が掛かる。 妃都美の心臓を大きな手で鷲掴みにされたような、息が詰まるほどの痛みが走った。

彼女は振り返る。 その瞳は、もう平静を取り戻していた。

「何ですか?」

男は数秒間彼女を見つめたが、特に変わった様子は見当たらず、気のせいかと思い直した。

「忙しくても、食事はちゃんと摂れ。 夜更かしもするな。 錦奈プロジェクトで問題が起きて、俺も数日は忙しくなる。 毎晩待たなくていい」

「ええ」

温水妃都美は、彼に向かって微笑みかけた。

朝の光の中で、その澄んだ瞳と白い歯は、まるで初めて出会った頃の、息をのむほど美しかった少女の面影を宿していた。

男の心が微かに揺れ、口調がさらに優しくなる。

「この仕事が片付いたら、恵心島へ行こう。 遅れたが、ハネムーンの埋め合わせだ」

温水妃都美は、胸の傷口がさらに抉られ、血が滲むのを感じた。

かつて、結婚式の準備をしながら、彼女はたくさんの旅行プランを立て、彼と約束したのだ。 これからの人生、結婚記念日ごとに新しい場所で新婚旅行をしようと。 愛は永遠で、誰も心変わりなどしないのだと。

だが、ほんの数日前、江戸川幸高は別の女を連れて恵心島へ行き、ベッドで絡み合う二人の写真が、まだ彼女のスマホの中に生々しく残っている。

彼女は目を伏せ、か細い声で応えた。 「ええ、仕事が片付いたら」

そう言って、今度こそドアを開けて出て行った。

その瞳に、もはや一片の温情もなかった。

残念ね、江戸川幸高。 今回はもう、待ってあげない。

2

温水妃都美はありふれた黒のフォルクスワーゲンを運転し、六重研究所の敷地へ滑り込ませた。

オフィスビルへ足を踏み入れた途端、先輩の徳岡帆夏に腕を掴まれた。 「あんた、本当に書類を出しに来ただけ?一体何があったのよ、LINEしても既読無視だし。 これは遊びじゃないの。 本気だとしても、江戸川幸高とちゃんと話してからに決まってるでしょ」

妃都美の鼻の奥がツンと痛んだ。

彼女は何も言わずにスマホを取り出すと、LINEのトーク画面を開き、帆夏の前に差し出した。

挑発的なメッセージと画像は、一日や二日のものではない。 写真の内容に至っては、さらに目に余るものだった。

帆夏は数秒、画面を睨みつけるように目を通すと、スマホを妃都美に突き返し、勢いよく袖をまくり上げて怒りを爆発させた。

「あのクズ野郎……!あんたの特許がなきゃ、あいつのグループがここまで大きくなれたと思ってんの?浮気なんて芸当を覚えやがって。 行くわよ、お姉さんと一緒に戻って八つ裂きにしてやるから」

「必要ありません」妃都美は手を伸ばして制した。 「どういうこと?あんなにコケにされて、このまま黙って見てるつもり?」

「まさか」

妃都美はスマホをポケットにしまい、星を宿したような瞳が、今は刃のように冷たい光を放っていた。 「ただ騒ぐだけなんて、生温すぎます。 自分のしたことの代償は、きっちりと払わせますから」

帆夏は、この後輩をよく知っていた。

研究においては天才肌で、心根は純粋そのもの。 だが同時に、目に砂が入ることを決して許さず、一度その一線を越えられれば、必ず痛烈な反撃に出る人間だ。

帆夏はそれ以上何も言わず、二人は並んでオフィスへと戻った。

申請書の記入は滞りなく進み、いくつかの手続きと押印を済ませ、あとは最終審査を待つばかりとなった。

帰り際、妃都美は臨時の任務を言い渡された。 ある学術講演会に出席し、会議資料を持ち帰るというものだった。

午後三時半。

天沢ホテル。

妃都美は会議を終え、資料の入ったファイルを手にロビーを抜け、駐車場へ向かおうとした。 その時、不意に、聞き覚えのある低い笑い声が鼓膜を打った。

「こら、暴れるな。 いい子にしてろ」

全身が強張り、妃都美は反射的に斜め向かいへ視線を上げた。

江戸川幸高が、長い髪に細い腰の女を大きな手で抱き寄せ、ホテルの中へと消えていく。 女は舌足らずな中国語で、甘ったるい声を出す。 「会いたかった……すごく、会いたかったの……」

言い終えるが早いか、女は幸高の首に腕を絡め、吸い付くようにキスをした。 真紅の唇が、彼の耳たぶから喉仏へと滑っていく。

幸高はくぐもった声で笑い、その瞳はどこまでも甘やかすような色に満ちていた。 大きな手が女の腰を揉みしだき、焦れるように、そして熱烈に、己の胸へと引き寄せる。

その光景が、妃都美の目を焼くように痛めつけた。

やはり、あの女も来ていたのだ。 白昼堂々、二人して待ちきれないとばかりにホテルへ吸い込まれていく。

回転ドアのガラス越しに、幸高と妃都美の視線が、まるで運命の悪戯のように絡み合った。

一方は情欲に溺れ、黒く深く人を惹きつける。

もう一方は自嘲と冷笑を浮かべ、氷のように静まり返っていた。

空気が張り詰める。 幸高の腕に抱かれた女も妃都美の存在に気づき、赤い唇を歪めて笑うと、再び幸高の薄い唇に己のそれを重ねた。

見せつけるような、深く長いキスだった。

吐き気がこみ上げ、妃都美はそれ以上見るに堪えず、冷笑を浮かべて踵を返した。

車のドアを開けた瞬間、背後から伸びてきた腕がドアを強く押さえた。 追いついてきた幸高は、わずかに息を弾ませている。 その体からは、女の熱く燃えるような香水の匂いが立ち上り、吐き気を助長させた。

「離して!」

妃都美が渾身の力で押し返そうとするも、ドアはびくともしない。

次の瞬間、腰を抱えられて後部座席に押し込まれ、間髪入れずに幸高も乗り込んできた。 その冷徹な顔には焦りが浮かび、深い瞳の奥には火が宿っている。

「妃都美、説明させてくれ」

逃げ場を失い、妃都美はシートの端へ身を寄せた。 その声は、極限まで冷え切っている。

「その口紅……拭ってから話してください」

幸高の表情が強張り、無意識に手で口元を擦る。 瞳の動揺は一瞬でかき消された。

「錦奈プロジェクトでトラブルがあって、投資の件で頭を抱えてたんだ。 納葉財団に連絡したら、ベルがあそこの令嬢でね。 留学中の世話を頼まれたんだよ。 日本語も不慣れだし、さっきは酒も入っていたから、ホテルまで送っただけだ」

彼の声はいつものように甘く響き、体を寄せてくる。

「フォンテ国の人間がオープンなのは知ってるだろ?約束する、これからは気をつけるから。 な、機嫌直してくれよ……ほら、キスしていい」

妃都美は顔を上げた。 秋風のように温度のない瞳で幸高を見据え、その口調は凪いだ水面のように穏やかだった。

「そこまで密着してお世話しないと、投資は受けられないのですか?」

騒ぎもせず、ヒステリックに詰問することもない。

目の前の妃都美は、まるで柔らかな綿のようでありながら、その冷たい一言は、幸高の弁明を空虚な戯言へと変えてしまった。

あの底なしの空虚感が再び彼を襲い、幸高は苛立たしげにネクタイを緩めた。

「妃都美、俺は仕事のためにやってるんだ。 そういうわがままは、やめてくれないか」

妃都美は、ただ滑稽だと思った。

自分は、騒いでもいないのに。

スマートフォンに収められた、人には見せられない写真の数々を叩きつけてこそ、初めて「騒ぐ」というのだろう。

長年育んだ情愛は、今や心の先端を灼く、真っ赤な刃と化していた。

「江戸川幸高さん。 もし今の生活に飽きたのなら、はっきりそう言ってください。 離婚します。 未練がましく縋ったりはしませんから」

なぜ、私を馬鹿みたいに騙し続けるの?

彼女が言い終わるか終わらないかのうちに、肩を強く掴まれた。

幸高の瞳は、恐ろしいほど冷たく沈んでいる。 「離婚なんて口にするな。 約束したはずだ、何かあればその都度解決する、と。 離婚の二文字だけは、絶対に許さない」

解決?

浮気をして他の女と寝ておいて、一体どう解決するというのだろう。

妃都美は、自分が茨の檻に閉じ込められているように感じた。 少しでも身じろぎすれば、全身が傷だらけになる。

唐突な着信音が静寂を破り、幸高は冷たい顔でスマホを取り出すと、一瞥してすぐに通話を切った。

だが、妃都美の目には着信画面の表示が映ってしまっていた。 「ハニー猫ちゃん」。

スマホをしまう間もなく、画面が再び点灯する。

LINEの通知がポップアップした。 表示名は「ファイヤーベイビー」。

「ダーリン、怪我しちゃった。 すごく痛い」

「あなたがいなきゃダメなの。 早く来て」

「血が出てる……私、死んじゃうの?」

立て続けに三件。 すべてフォンテ語だった。

3

彼女に読まれることなど意にも介さない様子で、江戸川幸高は「至急」とだけ素っ気なく返信し、そのまま画面を暗転させた。

「妃都美、急用だ。 役立たずなら騒ぐな、鬱陶しい。 いい子にしてろ」

温もりを帯びた大きな手が、まるで子供をあやすように妃都美の頭を撫でた。 足早に去っていく江戸川幸高の背中を、彼女は引き止めなかった。

胸を繰り返し引き裂くような痛覚は、とうに麻痺していた。

感情のない機械のように資料を研究所へ戻し、保管手続きを済ませると、彼女は自宅へと車を走らせた。

それから三日、江戸川幸高は帰らなかった。

妃都美もまた、彼に連絡することはなかった。

審査を待つ空虚な時間、彼女はひたすら物品の整理に費やした。

物置には、長年の歳月が積み上げた思い出が眠っている。

初めての告白を綴ったラブレター、初デートで作った不格好な陶芸品、山で流星群を見上げた夜に拾ったハート型の石、そして、分厚いアルバムが六冊……

ポラロイドカメラも、初期モデルから最新機種までがずらりと棚に並んでいた。

妃都美は記憶を形にして残すのが好きだった。 いつか白髪になった時、二人で共に過ごした日々を語り合う、そんな未来を夢見ていた。

だが今となっては、そのすべてが滑稽な戯言に過ぎない。 妃都美はそれらを一つ残らず暖炉に投げ込み、燃え尽きて灰に変わるのを静かに見つめた。

高価な贈り物も――ダイヤモンド、時計、ネックレス、そして結婚指輪さえも、すべて写真に収めて高級品買取店のオーナーに送り、売却を依頼した。

ジュエリーボックスが空になった時、妃都美は悟った。 千金に値すると信じた愛情も、裏切りの前では、愛こそが最も安価なのだと。

五日後、申請が受理された。

隔離研究が始まるまで、残り十日。

妃都美は服を着替え、必需品を揃えるためにショッピングモールへ向かった。 買い物袋を提げてエスカレーターを降りたその時、一階のジュエリーカウンターで、ある光景が目に突き刺さった。

いつも妃都美を見下していた義母の江戸川桂子が、真珠という女と親しげに腕を組み、満面の笑みを浮かべている。

そして、五日も家を空けていた夫が、慈しみに満ちた眼差しで、彼女が豪奢なダイヤモンドのブレスレットを着けるのを手伝っていた。

三人は、まるで本当の家族であるかのような親密さで寄り添っていた。

試着した品がよほど気に入ったのか、江戸川桂子は真珠のセンスを褒めそやし、ブラックカードを取り出して気前よく支払いをしようとしている。

温水妃都美の胸に、冷たい皮肉が込み上げた。

そのカードは、彼女のものだったからだ。

中には十分な金額がチャージしてあり、このブランドのディレクターと妃都美が親友であるため、最低価格での購入や、新作の優先的な確保が可能だった。

本来は、嫁姑の関係を和らげるきっかけになればと、江戸川桂子に贈るはずだったものだ。 それが今、義母と夫が愛人を喜ばせるために使われようとしている。

妃都美はためらうことなく真っ直ぐに彼らへと歩み寄り、店員の指からそのカードを抜き取った。

「申し訳ありませんが、このカードは使えません」

店員は呆気にとられた顔で妃都美を見た。

「お客様、こちらは当ブランドの至尊ドラゴンカードでございます。 無効になったり、期限が切れたりすることはございません」

「そう?」

温水妃都美はカードをパキリと音を立てて二つに折り、傍らのゴミ箱へ投げ捨てた。 「これで無効になったかしら?」

江戸川桂子は怒りに顔を歪ませ、振り上げた手で妃都美の頬を力任せに打ち据えた。

「パンッ」という乾いた音と共に、重い一撃が温水妃都美の頬を抉る。 「何てことをするの!少しは場を弁えたらどうなの!本当に育ちの悪い、家の恥よ!」

江戸川家は名門だ。

そして江戸川幸高は、金融界の天才と謳われる、気品に満ちた御曹司。

交際当初から、会うたびに江戸川桂子は妃都美に冷たく当たり、結婚してからはそれが更に酷くなった。 どれだけ尽くしても、どれだけ機嫌を取ろうとしても、笑顔一つ見せてはくれなかった。

それでも妃都美が耐えたのは、江戸川幸高を困らせたくない一心からだった。 何をされても決して言い返さず、彼に告げ口することもなかった。

妃都美の忍耐は、すべて、ただあの男を愛しているという一点のみで支えられていた。

だが、もう限界だった。 一分一秒たりとも、耐えるつもりはなかった。

「パンッ!パンッ!」

立て続けに響いた乾いた音が、江戸川幸高の顔面を二度、激しく打った。

その場にいた誰もが息を呑み、口元を覆った。

経済誌で神の如く崇められる、あの江戸川幸高が。

衆人環視のなかで、女に、頬を打たれたのだ。

「温水妃都美!」

江戸川桂子は怒りで袖をまくり上げ、再び妃都美に殴りかかろうとする。

温水妃都美は僅かに顎を上げ、怯むことなく言い放った。

「私を一度殴るなら、この男を二度殴る。 試す?」

「なっ、あなた……」

江戸川桂子は憤りのあまり胸を押さえた。

「幸高、見なさいよ、この女のヒステリーを」

温水妃都美は冷ややかな笑みを浮かべ、幸高に向き直った。

「殴られて当然、そうでしょう?」

男は頬の内側を噛み締め、その顔には凄まじい怒気が立ち上っていた。 彼は妃都美の元へ歩み寄るとその腕を掴み、低く押し殺した声で言った。

「妃都美、気が済んだならもうやめろ。 いい加減にしろ」

その時、隣にいた曽我真珠が江戸川幸高の胸に飛び込み、彼の手を取って自分の腰に当てさせると、流暢なフォンテ語で温水妃都美の横暴さを訴え始めた。

一言ごとに「ダーリン」と呼びかけ、骨がないかのように男の体に絡みつく。

江戸川幸高もまた、フォンテ語で彼女をなだめ始めた。

二人の熱のこもったやり取りを耳にしながら、温水妃都美は思わず笑ってしまった。

突如、彼女の唇から、同じように滑らかなフォンテ語が溢れ出した。 その発音は、非の打ち所がないほど完璧だった。 「人の夫を寝取っておきながら、被害者ぶるのはやめたら?自分のしたことを認める度胸もないの?フォンテ語じゃ分が悪いなら、英語でもドイツ語でも日本語でもいいわ。 十六カ国語までなら対応できるから、好きなのを選んで。 口喧嘩で私に勝てたら、あなたの勝ちでいいわよ」

曽我真珠の顔が、瞬く間に朱に染まった。

まさか妃都美がフォンテ語を解するとは、夢にも思わなかったのだろう。

江戸川幸高は、彼女のことをただの平凡なOLだと言っていなかったか?

江戸川幸高の表情も険しくなり、声がこわばった。

「妃都美、いつフォンテ語を覚えたんだ」

その一言が、妃都美の心臓に突き刺さっていた刃を、さらに容赦なく抉った。

彼女は、この上なく皮肉な笑みを浮かべる。

「あなたって、本当に私のこと、愛してくれていたのね」

「ごゆっくりどうぞ。 お邪魔しました」

そう言い残し、妃都美はきっぱりと背を向けた。

江戸川幸高は慌てて後を追おうとしたが、江戸川桂子と曽我真珠に両腕を掴まれ、引き止められた。

「幸高、あんな下品な女とは離婚なさい。 よくもあなたの顔を殴ったわね!」

似たような言葉は聞き飽きるほど口にしてきたが、なぜか今日に限って、江戸川幸高の耳にはひどく不快に響いた。

「俺の問題だ」

幸高は二人の腕を振り払い、妃都美を追った。

駐車場で、車に乗り込もうとする彼女を、彼が呼び止める。

「妃都美」

手首に触れた熱が、まるで毒蛇の舌のように這い回り、妃都美は全身でそれを拒絶した。

彼女は忌々しげにその手を振り払う。

「江戸川社長。 可愛らしい子猫ちゃんとのお買い物はもうよろしいのですか?」

男の顔色が、みるみるうちに険悪なものへと変わっていく。

「曽我真珠は妹のようなものだ。 何を嫉妬している。 そんなに心の狭い女だったのか!大通りで、俺たちに恥をかかせたいのか?」

温水妃都美は呆れて笑ってしまった。

まるで、何もかも自分が悪いと言わんばかりの口ぶりだ。

「では江戸川社長のお考えでは、今後もしお二人の閨事を目撃したとしても、私は江戸川家の体面のために、慌ててカーテンを引いて差し上げるべきだと?」

江戸川幸高の手に、ぐっと力が籠る。 その瞳に宿る炎は、妃都美を焼き尽くさんばかりだった。

「言ったはずだ、彼女は妹だと!」

「ふふっ、妹、ね」

温水妃都美は彼を嘲るように見つめた。

突然、その瞳に、ふと妖艶な光が宿る。 「じゃあ私も素敵な『お兄さん』を見つけて、あなたがあの子としたこと、全部してあげる。 でも、嫉妬しないでね。 心が狭いなんて、言わないでくれる?――ねぇ、あなた」

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クズ元夫の浮気後、温水妃都美は“死亡”から頂点へ返り咲く!

第1話
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