話 2
そうして安澄は、十年前のあの時、古杉尚行にどうしようもなく恋に落ちた。
彼が海外へ留学すると聞けば猛勉強の末に同じ大学の門を叩き、
優秀であればあるほど、 彼との距離が縮まるはずだと信じて疑わなかった。
やがて、 尚行の方からプロポーズされた時、 安澄は彼の氷のように冷たい心が、
ついに自分という存在によって溶かされたのだと、 そう信じ込んだ。
だが、それらすべてが、ただの思い上がりだった。
尚行の心は、今も昔も、ずっと上野佳奈のもの。
自分は、いてもいなくても変わらない、空っぽの身代わりに過ぎなかったのだ。
安澄は深く息を吸い込み、胸の内で荒れ狂う感情を必死に鎮めようとした。
妊娠している今、医師からは感情を大きく揺さぶらぬよう固く言われている。
お腹の子のためにも、強くならなければ。
涙をぐっとこらえ、立ち上がって寝室へ戻る。
しかし、尚行は彼女に心を落ち着かせる時間など与えるつもりはなかった。
「佳奈が帰ってきた。 離婚しよう」安澄が寝室に入るやいなや、彼は何の躊躇もなく唇を開いた。
離婚、という二文字が、音もなく安澄の胸に突き刺さる。 呼吸さえ奪うほどの鈍痛が、じわじわと全身を蝕んでいった。
その言葉が明確な輪郭を持って響くまで、 心のどこかでまだ淡い希望を抱いていた自分に、 安澄は気づかされた。
しばらくの沈黙の後、 彼女はようやく掠れた声を絞り出す。
「彼女が帰ってきたから、私を捨てるんですか?」
必死に平静を装った声は、それでもなお、抑えきれないほど微かに震えていた。
尚行は眉根を寄せ、不機嫌を隠そうともせずに彼女を見返す。
「結婚した時に言ったはずだ。 分不相応なものを望むなと。 欲しいものがあるなら、金で埋め合わせる」
そうだ、新婚初夜に彼はそう言った。
自分との結婚は、取締役会のやかましい連中を黙らせるためだけの道具だと。
本物の愛情など、決して与えられないと。
それでも安澄は、自らその胸に飛び込み、いつか彼が自分に心を動かしてくれる日を夢見ていたのだ。
安澄は顔を上げ、答えを求めるように尚行の瞳をまっすぐに見据えた。
「この二年間、何度も抱かれました。 ……それも全部、上野佳奈の代わりだったんですか?」
核心を突く問いを投げかけられるとは思っていなかったのか、尚行は一瞬、虚を突かれたように押し黙る。
その沈黙を、安澄は肯定と受け取った。 ぱきり、と。 心にひびが入り、完全に砕け散る音がした。
尚行が自分を愛していないことなど、とうに知っていた。
だが、 この二年間の数えきれない夜が、
彼が自分を抱くことは受け入れの証なのだと、 愚かな幻想を抱かせていたのだ。
初めから終わりまで、 尚行の心に自分の居場所など、
ひとかけらも存在しなかった。
安澄は静かに目を閉じ、長く息を吐き出す。
「……わかりました。 離婚、します」
そう告げると、彼女は背を向け、必要最低限の荷物を手早くまとめると客間へと向かった。
その背中を、尚行は眉根を寄せたまま見送る。 胸の奥から、わけのわからない苛立ちがせり上がってきた。
安澄がそばを通り過ぎようとしたその時、彼は衝動的に彼女の腕を掴み、何かを言いかけた。
だが、まさにその瞬間、上野佳奈からの電話が鳴り響いた。
尚行が電話に出るため腕を緩めた一瞬の隙に、安澄は彼とすれ違い、客間へとその姿を消した。
話 3
『もしもし、佳奈?』
『ああ、大丈夫だよ……』
その後の言葉は、もう安澄の耳には届かなかった。
ただ、電話口から漏れ聞こえた信じられないほど優しい声色だけが、彼女の心を容赦なく打ちのめす。
客間のドアを閉め、力なくベッドに崩れ落ちると、嗚咽が漏れないよう必死に口元を両手で覆った。
離婚という事実は受け入れたはずなのに、尚行の自分に対する氷のような非情さと、上野佳奈に向ける蜂蜜のような優しさの落差が、鋭利な刃となって心を抉り続ける。
どうすればいいのだろう。
この子は、どうすれば。
安澄にはもう、何もわからなかった。
ただひどく疲れ、ひどく痛み、このすべてから逃げ出してしまいたいと、それだけを思った。
浴室から、ざあざあと絶え間なく水の音が響く。 安澄はまるで人形のように機械的な仕草で服を脱ぎ、シャワーの下に身を置いた。
熱い湯が肌を打つが、心の芯まで凍てつかせた寒気は一向に和らがない。
やがて彼女は堪えきれずにその場にしゃがみ込み、膝に顔を埋めた。 降り注ぐシャワーの音を隠れ蓑に、抑え殺していた嗚咽を解き放つ。
なぜ。
なぜ、これほどまで非情な仕打ちができるのか。
泣き疲れた安澄が、 服を着ようとふらりと立ち上がった、 その時だった。
濡れた床に足を取られ、 体勢を崩してしまう。
「きゃっ!」
下腹部に走る激しい痛みに、安澄の口から苦悶の呻きが漏れた。 か細い手で、無意識に打ち付けた箇所を庇う。
主寝室にいた尚行は、その悲鳴を耳にするなり、弾かれたように駆けつけた。
浴室のドアは開いたままで、床に倒れ込む安澄の姿が目に飛び込んでくる。
彼女は顔を青白くさせ、冷や汗を滲ませ、衣服は乱れ、小さな手で必死に下腹部を押さえていた。
どこかを強く打ち付けたのは明らかだった。
尚行の心臓が、理由もなくきゅっと鷲掴みにされたように痛んだ。
彼は飛ぶように安澄のそばへ駆け寄ると、その華奢な体をためらうことなく抱き上げる。
「どうした!? どこを打ったんだ!」
その声には、本人さえ気づかぬほどの焦燥が滲んでいた。
安澄はまだ衝撃で頭がぼうっとしており、目の前の男をただ茫然と見つめ、しばらくしてようやく我に返った。
「……大丈夫」
彼女は尚行の腕から逃れようともがいたが、鋼のような腕はそれを許さず、むしろさらに強く彼女を抱きしめた。
「動くな!」
尚行の厳しい叱責に、安澄はびくりと身を硬くする。
「他に怪我がないか確認する」
尚行はそう言うと、彼女をベッドまで運び、その上にそっと降ろした。
そして身を屈め、まるで壊れ物にでも触れるように、安澄の体に他に傷がないか慎重に検め始める。
その心配そうな眼差し、真剣な横顔に、安澄の心に再び愚かな妄念が芽生えてしまう。
彼女は衝動的に尚行の手を掴み、しわがれた声で問いかけた。 「古杉尚行……もし、私が妊娠していると言ったら、それでも離婚するつもりですか?」
もし、この子のことを考えて、離婚しないと言ってくれたなら――。
安澄は、祈るような思いで尚行の答えを待った。
だが、尚行は一瞬動きを止めただけだった。 やがて、氷のように冷たい声が、無慈悲に彼女を突き放す。
「避妊はしていた。 妊娠などありえない」 そして、こう付け加えた。
「万が一、できていたとしても――堕ろせ」