話 2
翌朝、私は村上修平の法律事務所の革張りのソファに深く沈み込んでいた。
「本当に、これでいいんだね?」
デスクの向こうで、村上先輩——いや、今は私の代理人である村上弁護士が、黒縁メガネの奥から射抜くような視線を向けてくる。
彼は単なる隆成の会社の顧問弁護士とは違う。大学時代の法学部の先輩であり、この孤独な戦いにおいて数少ない、信頼できる味方だ。
「ええ。一刻も早く」
私は迷いなく答えた。声に震えはなかった。
「財産分与、慰謝料、すべて徹底的に請求します。彼が私をどう扱い、何を奪ってきたか……その代償は、きっちりと払ってもらいます」
村上は短く、力強く頷くと、手元の書類の束を几帳面に整えた。
「安藤は、君が法的な知識を持っていることを忘れている。あるいは、家庭に入った君を『無害な主婦』だと侮っている。そこが奴の最大の弱点であり、我々の最大の武器だ」
その通りだ。
隆成にとって私は、家計を管理し、彼の個人資産の運用を手伝うだけの「便利な家政婦」でしかない。私がかつて法曹を目指していたことなど、彼の記憶の彼方だろう。
「作戦はこうだ。今夜、彼にいくつかの書類にサインさせる。会社の役員変更に関する同意書、不動産の管理委託書……どれも彼が『面倒だがサインしなければならない』類のものだ」
村上は冷徹な策士の顔で、指を組んだ。
「そして、その束の中に、離婚協議書を紛れ込ませる。彼は中身を読まない。特に、君が渡す書類なんて、読む価値もないと思っているからな」
夜、私はいつものように書斎ではなく、リビングでその時を待った。
隆成は今日も、雫を連れて帰宅していた。
「隆成、少しだけ時間をいただけるかしら」
私はソファでくつろぐ二人の前に進み出ると、ローテーブルの上に書類の束を置いた。極力、事務的な手つきで。
「お義母様の遺産管理の件で、いくつか急ぎの署名が必要なの。税理士の先生が、明日までにどうしてもと仰っていて」
「チッ、面倒だな」
隆成は露骨に舌打ちをし、不機嫌そうにワイングラスを置いた。
隣では雫が、彼の胸板に白磁のような指を這わせている。甘ったるい香水の匂いが、リビングに充満していた。
「早く済ませてよ、隆成さん。映画、いいところなんだから」
「ああ、分かってる。さっさとよこせ」
隆成は私の手からモンブランの万年筆を奪い取ると、私がめくるページに次々とサインをしていく。
一枚、また一枚。
インクが紙に染み込む音だけが、私の耳に響く。
彼の目は書類を見ていない。テレビの画面と、雫の胸元の谷間を交互に見ているだけだ。私の存在など、そこにはないも同然だった。
「それから、最後にもう一箇所……ここにも、署名をお願い」
私は呼吸を止め、指先の震えを必死に抑えながら、核心のページを開いた。
表紙はない。一見すると、ただの契約書の一部に見える。
だが、そこには明確に「離婚」の二文字と、彼が支払うべき莫大な慰謝料の金額、そして過酷な財産分与の条件が印字されている。
隆成の手が、ふと止まった。
心臓が早鐘を打つ。全身の血液が逆流するような感覚。
気づかれたか?
「ねえ、この女優のドレス、私に似合うと思わない?」
その時、雫がテレビを指差し、甘えた声を上げた。
隆成は書類から視線を上げ、ふっと緩んだ笑みを彼女に向けた。
「ああ、君の方が似合うさ。今度買ってやる」
彼は視線を書類に戻すことなく、手元の感覚だけでサラサラと名前を書き殴った。
安藤隆成。
その黒い文字が書き終わった瞬間、私の中で張り詰めていた何かが、ぷつりと、しかし完全に断ち切られた音がした。
「……ありがとう。これで全部よ」
私は書類を素早く回収し、胸に抱いた。まるで、生まれたばかりの赤子を守るように。
「じゃあ、下がっていいぞ。邪魔だ」
隆成はシッシッと手を振り、私を追い払う。
私は深く、静かに一礼した。
それは妻としての最後の挨拶ではない。赤の他人としての、最初の挨拶だった。
「……失礼いたします」
書斎を出て、廊下の陰に入った瞬間、私は震える手でスマートフォンを取り出し、村上にメッセージを送った。
『完了しました』
送信ボタンを押した指先が、熱く、激しく脈打っていた。
話 3
三日後。
頭を割るようなひどい頭痛と共に、俺は重い瞼を持ち上げた。
昨夜は雫と浴びるように飲みすぎたせいだ。
「おい、星奈。水だ」
俺はベッドから掠れた声を張り上げた。
いつもなら、即座に冷えたミネラルウォーターと鎮痛剤が運ばれてくるはずだ。
だが、返事がない。
「星奈!」
こみ上げる苛立ちと共に起き上がり、リビングへと向かう。
家の中が、妙に静かだ。
カーテンは閉め切られ、朝の光が入ってこない淀んだ空気が漂っている。
キッチンにも、誰の気配もない。
「チッ……どこへ行きやがった、あの女」
俺は舌打ちをし、ダイニングテーブルに目をやった。
そこには、冷ややかな光を放つプラチナの結婚指輪と、一枚の紙きれが置かれていた。
指輪?
俺は眉をひそめ、その紙を手に取る。
『離婚届は受理されました。共有財産の分与手続きも完了しています。荷物はすべて運び出しました。二度と探さないでください』
は?
俺は言葉の意味を理解できず、その場に立ち尽くした。
離婚? 誰が? 俺たちが?
「何よ、朝っぱらから大声出して」
寝室から雫が起きてきた。シルクのパジャマ姿で、気怠げにあくびをしている。
「隆成さん、どうしたの?」
俺は震える手で、その紙を握りしめていた。
「星奈が……出て行った」
「はあ? 家出? いい歳して?」
「いや、離婚だ。……俺のサインがある」
俺はテーブルの上の控えを見た。
確かに、俺の字だ。
いつ書いた?
あの夜か? 泥酔していた時か? それとも、膨大な決裁書類の山に紛れ込ませていたのか?
「ちょっと、それ貸して」
雫の顔色がさっと変わった。
彼女は俺の手から書類をひったくり、血眼になって内容を目で追う。
そして、信じられないものを見るような目で俺を見た。
「嘘……あんた、資産の半分を持っていかれてるじゃない!」
「な、なんだって?」
「それに、この慰謝料の額! 何これ、あんた破産する気?」
雫の声がヒステリックな金切り声に変わる。
「おい、冗談だろ」
俺は慌ててスマホを取り出し、銀行アプリを起動して口座を確認する。
残高が、激減していた。
共有財産として管理していた口座も、すでに凍結されている。
「あいつ……!」
怒りが沸騰すると同時に、背筋を凍らせるような悪寒が俺を襲った。
星奈は、本気だったんだ。
あの従順で、影の薄い女が、俺を完全に嵌めたんだ。
「ふざけないでよ!」
パァン!
乾いた破裂音が響き、俺の左頬が熱を持った。
雫が俺を平手打ちしていた。
「あんたなんて、金持ちだから付き合ってあげてたのに! 金のないバツイチ男なんて、こっちから願い下げよ!」
「雫、待て、これは何かの間違いで……」
「触らないで! 最低!」
雫は寝室に戻り、乱暴に自分の荷物をバッグに詰め込み始めた。
俺はリビングに取り残された。
広すぎる部屋。
冷たい空気。
この空間のどこにも、星奈の気配はおろか、匂いひとつ残っていなかった。
「くそっ……くそっ!」
俺はテーブルの上の指輪を壁に投げつけた。
だが、胸の奥に広がる黒い穴は、怒りでは埋まらなかった。
それは、底知れぬ恐怖だった。
俺は今、本当の意味で一人になったのだ。