話 1
結婚5周年の記念日、夫は私の手料理には目もくれず、愛人を連れて帰宅した。
「腹が減ってる。何か作れ。雫も腹が減ってるんだ」
彼は私を妻ではなく、ただの便利な家政婦として扱った。
5年間の献身が、音を立てて崩れ落ちた瞬間だった。
私は泣き叫ぶことも、怒鳴ることもしなかった。
ただ静かに、用意していた「ある書類」を他の契約書の束に紛れ込ませた。
「お義母様の遺産管理の件で、急ぎの署名が必要なの」
夫は愛人の胸元に夢中で、書類の中身など見ようともしない。
彼が面倒くさそうにサインしたその紙は、多額の慰謝料と財産分与を記した離婚協議書だった。
翌朝、二日酔いで目覚めた彼は、空っぽになった家と、凍結された銀行口座を前に立ち尽くすことになる。
「嘘だろ……資産の半分を持っていかれてるじゃない!」
愛人の悲鳴が響く頃、私は新しい空の下で、自由の空気を吸っていた。
これは、都合のいい妻を演じていた私が、傲慢な夫に引導を渡すまでの物語。
第1章
壁にかかった時計の針が、無機質に深夜12時を回った。
結婚5周年の記念日は、たった今、音もなく終わった。
テーブルの上には、脂が白く浮き始めた和牛のステーキと、とっくに泡の消えたシャンパン。
私はその完璧な「愛の死骸」のような食卓を見つめ、静かに、肺の底に溜まった重い息を吐いた。
ガチャリ。
重厚な金属音が、家の中の静寂を鋭利に切り裂く。
「ただいま」
聞き慣れた、安藤隆成の声だ。
しかし、続く足音は一人分ではなかった。ヒールの、硬質で乾いた音が、大理石の床を叩く。
カツ、カツ、カツ。
私は立ち上がり、幽霊のように玄関へと向かう。
そこで見た光景に、私の心臓は凍りつくどころか、まるで他人事のように奇妙なほど冷静に鼓動を打ち続けた。
隆成が立っている。
その腕には、私の知らない女性が蛇のように絡みついていた。
「あら、奥様? まだ起きていらしたの?」
女性が砂糖菓子のように甘ったるい声で言う。雨宮雫。彼の秘書だ。
彼女は隆成のジャケットを肩に羽織り、まるでここが自分の城であるかのように傲慢に振る舞っている。
「隆成、今日は……」
「ああ、記念日だったか」
隆成は私の言葉を吐き捨てるように遮り、靴を脱ぎ捨てる。
私を見る目は、道端の石を見るそれと同じ――いや、古びた家具を見るような無関心さだった。
「仕事が長引いてね。雫に送ってもらったんだ。腹が減ってる。何かあるか?」
彼は雫の腰に手を回したまま、リビングへと歩き出す。
私の存在など、最初から視界の端にも入っていないかのように。
5年間の献身。
毎朝のネクタイ選び。
彼の好みに合わせた味付け。
深夜の帰宅を待つ、永遠のように長い時間。
それらすべてが、今、私の目の前で音を立ててゴミ箱に放り込まれた気がした。
「奥様、お料理冷めちゃってますね。作り直した方がいいんじゃないですか?」
雫がテーブルの上の料理を指差し、鼻で笑うように言った。
「隆成さん、冷たいお肉なんて嫌いですものね」
隆成はソファに深々と座り込み、乱暴にネクタイを緩める。
「星奈、聞こえなかったか? 何か作れと言ってるんだ。雫も腹が減ってる」
私の全身の血が、逆流する。
怒りではない。
悲しみでもない。
それは、すべてが焼け野原になった後に訪れる、完全なる「無」だった。
私は彼を愛していた。
自分の人生を削ってでも、彼を支えようとした。
だが、彼は私を妻ではなく、ただの便利な家政婦、あるいはそれ以下の所有物として見ていたのだ。
「……分かりました」
私の口から出た言葉は、自分でも驚くほど平坦で、感情の色が抜け落ちていた。
「すぐにご用意します」
私はキッチンには向かわなかった。
踵を返し、廊下の奥にある書房へと歩き出す。
「おい、どこへ行くんだ?」
隆成の苛立った声が背中に突き刺さる。
「ワインを取ってくるの?」
雫のクスクスという下品な笑い声。
私は答えなかった。
書房に入り、重厚なデスクの引き出しを開ける。
そこには、ずっと前に準備し、何度も破り捨てようと迷っていた書類が、静かに時を待っていた。
離婚届。
私の署名は、すでに済んでいる。
震える指先は、もうどこにもなかった。
私はその紙切れを遺書のように手に取り、リビングへと戻る。
私の5年間が終わる音が、乾いた紙のこすれる音と共に、はっきりと聞こえた。
話 2
翌朝、私は村上修平の法律事務所の革張りのソファに深く沈み込んでいた。
「本当に、これでいいんだね?」
デスクの向こうで、村上先輩——いや、今は私の代理人である村上弁護士が、黒縁メガネの奥から射抜くような視線を向けてくる。
彼は単なる隆成の会社の顧問弁護士とは違う。大学時代の法学部の先輩であり、この孤独な戦いにおいて数少ない、信頼できる味方だ。
「ええ。一刻も早く」
私は迷いなく答えた。声に震えはなかった。
「財産分与、慰謝料、すべて徹底的に請求します。彼が私をどう扱い、何を奪ってきたか……その代償は、きっちりと払ってもらいます」
村上は短く、力強く頷くと、手元の書類の束を几帳面に整えた。
「安藤は、君が法的な知識を持っていることを忘れている。あるいは、家庭に入った君を『無害な主婦』だと侮っている。そこが奴の最大の弱点であり、我々の最大の武器だ」
その通りだ。
隆成にとって私は、家計を管理し、彼の個人資産の運用を手伝うだけの「便利な家政婦」でしかない。私がかつて法曹を目指していたことなど、彼の記憶の彼方だろう。
「作戦はこうだ。今夜、彼にいくつかの書類にサインさせる。会社の役員変更に関する同意書、不動産の管理委託書……どれも彼が『面倒だがサインしなければならない』類のものだ」
村上は冷徹な策士の顔で、指を組んだ。
「そして、その束の中に、離婚協議書を紛れ込ませる。彼は中身を読まない。特に、君が渡す書類なんて、読む価値もないと思っているからな」
夜、私はいつものように書斎ではなく、リビングでその時を待った。
隆成は今日も、雫を連れて帰宅していた。
「隆成、少しだけ時間をいただけるかしら」
私はソファでくつろぐ二人の前に進み出ると、ローテーブルの上に書類の束を置いた。極力、事務的な手つきで。
「お義母様の遺産管理の件で、いくつか急ぎの署名が必要なの。税理士の先生が、明日までにどうしてもと仰っていて」
「チッ、面倒だな」
隆成は露骨に舌打ちをし、不機嫌そうにワイングラスを置いた。
隣では雫が、彼の胸板に白磁のような指を這わせている。甘ったるい香水の匂いが、リビングに充満していた。
「早く済ませてよ、隆成さん。映画、いいところなんだから」
「ああ、分かってる。さっさとよこせ」
隆成は私の手からモンブランの万年筆を奪い取ると、私がめくるページに次々とサインをしていく。
一枚、また一枚。
インクが紙に染み込む音だけが、私の耳に響く。
彼の目は書類を見ていない。テレビの画面と、雫の胸元の谷間を交互に見ているだけだ。私の存在など、そこにはないも同然だった。
「それから、最後にもう一箇所……ここにも、署名をお願い」
私は呼吸を止め、指先の震えを必死に抑えながら、核心のページを開いた。
表紙はない。一見すると、ただの契約書の一部に見える。
だが、そこには明確に「離婚」の二文字と、彼が支払うべき莫大な慰謝料の金額、そして過酷な財産分与の条件が印字されている。
隆成の手が、ふと止まった。
心臓が早鐘を打つ。全身の血液が逆流するような感覚。
気づかれたか?
「ねえ、この女優のドレス、私に似合うと思わない?」
その時、雫がテレビを指差し、甘えた声を上げた。
隆成は書類から視線を上げ、ふっと緩んだ笑みを彼女に向けた。
「ああ、君の方が似合うさ。今度買ってやる」
彼は視線を書類に戻すことなく、手元の感覚だけでサラサラと名前を書き殴った。
安藤隆成。
その黒い文字が書き終わった瞬間、私の中で張り詰めていた何かが、ぷつりと、しかし完全に断ち切られた音がした。
「……ありがとう。これで全部よ」
私は書類を素早く回収し、胸に抱いた。まるで、生まれたばかりの赤子を守るように。
「じゃあ、下がっていいぞ。邪魔だ」
隆成はシッシッと手を振り、私を追い払う。
私は深く、静かに一礼した。
それは妻としての最後の挨拶ではない。赤の他人としての、最初の挨拶だった。
「……失礼いたします」
書斎を出て、廊下の陰に入った瞬間、私は震える手でスマートフォンを取り出し、村上にメッセージを送った。
『完了しました』
送信ボタンを押した指先が、熱く、激しく脈打っていた。
話 3
三日後。
頭を割るようなひどい頭痛と共に、俺は重い瞼を持ち上げた。
昨夜は雫と浴びるように飲みすぎたせいだ。
「おい、星奈。水だ」
俺はベッドから掠れた声を張り上げた。
いつもなら、即座に冷えたミネラルウォーターと鎮痛剤が運ばれてくるはずだ。
だが、返事がない。
「星奈!」
こみ上げる苛立ちと共に起き上がり、リビングへと向かう。
家の中が、妙に静かだ。
カーテンは閉め切られ、朝の光が入ってこない淀んだ空気が漂っている。
キッチンにも、誰の気配もない。
「チッ……どこへ行きやがった、あの女」
俺は舌打ちをし、ダイニングテーブルに目をやった。
そこには、冷ややかな光を放つプラチナの結婚指輪と、一枚の紙きれが置かれていた。
指輪?
俺は眉をひそめ、その紙を手に取る。
『離婚届は受理されました。共有財産の分与手続きも完了しています。荷物はすべて運び出しました。二度と探さないでください』
は?
俺は言葉の意味を理解できず、その場に立ち尽くした。
離婚? 誰が? 俺たちが?
「何よ、朝っぱらから大声出して」
寝室から雫が起きてきた。シルクのパジャマ姿で、気怠げにあくびをしている。
「隆成さん、どうしたの?」
俺は震える手で、その紙を握りしめていた。
「星奈が……出て行った」
「はあ? 家出? いい歳して?」
「いや、離婚だ。……俺のサインがある」
俺はテーブルの上の控えを見た。
確かに、俺の字だ。
いつ書いた?
あの夜か? 泥酔していた時か? それとも、膨大な決裁書類の山に紛れ込ませていたのか?
「ちょっと、それ貸して」
雫の顔色がさっと変わった。
彼女は俺の手から書類をひったくり、血眼になって内容を目で追う。
そして、信じられないものを見るような目で俺を見た。
「嘘……あんた、資産の半分を持っていかれてるじゃない!」
「な、なんだって?」
「それに、この慰謝料の額! 何これ、あんた破産する気?」
雫の声がヒステリックな金切り声に変わる。
「おい、冗談だろ」
俺は慌ててスマホを取り出し、銀行アプリを起動して口座を確認する。
残高が、激減していた。
共有財産として管理していた口座も、すでに凍結されている。
「あいつ……!」
怒りが沸騰すると同時に、背筋を凍らせるような悪寒が俺を襲った。
星奈は、本気だったんだ。
あの従順で、影の薄い女が、俺を完全に嵌めたんだ。
「ふざけないでよ!」
パァン!
乾いた破裂音が響き、俺の左頬が熱を持った。
雫が俺を平手打ちしていた。
「あんたなんて、金持ちだから付き合ってあげてたのに! 金のないバツイチ男なんて、こっちから願い下げよ!」
「雫、待て、これは何かの間違いで……」
「触らないで! 最低!」
雫は寝室に戻り、乱暴に自分の荷物をバッグに詰め込み始めた。
俺はリビングに取り残された。
広すぎる部屋。
冷たい空気。
この空間のどこにも、星奈の気配はおろか、匂いひとつ残っていなかった。
「くそっ……くそっ!」
俺はテーブルの上の指輪を壁に投げつけた。
だが、胸の奥に広がる黒い穴は、怒りでは埋まらなかった。
それは、底知れぬ恐怖だった。
俺は今、本当の意味で一人になったのだ。