話 2
家の権力を取り戻すため、黒岩一真は渋々ながら祖父の命に従い、当時“刑務所帰り”と噂されていた榛名文祢と結婚するしかなかった。
この女に情はない。だが、この四年間、ひたむきに尽くし、分をわきまえ、黒岩家に一切の迷惑もかけず、何より身の回りの世話も悪くはなかった。それだけの働きを思えば、多少の金を多めに与えてやるくらい、黒岩一真としても惜しくはなかった。
まるで――気まぐれに馬を飼うのと同じことだった。楽しみのためには、相応の代償を払う。それだけの話。
男の長い人差し指が、契約書の一枚を静かに叩く。その指に四年間、一度たりとも外されたことのない、特別な意味を持つ指輪が光り――榛名文祢の目を、鋭く刺し貫いた。
「三日やる。考えるならその間にしろ。ただし、あまり引き延ばすなよ。俺の我慢は、そう長くは続かない」
「…必要ないわ」
榛名文祢は隣に置かれた黒のペンを手に取ると、ためらいも見せず、署名欄にしなやかな筆致で名前を書きつけた。風を切るような、鋭く、美しい一筆だった。
「自分の立場はわきまえてるわ。今日中に出ていくから、あなたたちの邪魔はしない」
黒岩一真は、なんの感情も見せずにうなずいた。「…OK」
たしかに認めざるを得ない――ここまで関係が冷え切った今でも、榛名文祢は相変わらず品位を失わず、察しがよく、彼の足を引っぱるような真似を一切しなかった。
正直に言えば、「黒岩家の妻」としての彼女は、名家の令嬢たちの中でも際立っていた。
けれど――感情だけは、どうしても理屈では動かせない。
黒岩一真が契約書をひっくり返し、口を開こうとしたその瞬間――「バンッ!」と扉が乱暴に押し開けられた。「兄さん!あの労働改造女と別れるって聞いたけど、あの限定フェラーリ、私にちょうだいよ!運転したい~!」
黒岩心温が遠慮なく部屋に飛び込むと、勢いそのままに叫んだ。振り返った榛名文祢と真正面から視線がぶつかると、心温はわざとらしく大きく目を剥き、軽蔑を隠そうともしない。
黒岩一真は眉間に皺を寄せた。「何度言ったらわかる。書斎で話してるときはノックしてから入れ。行儀もなにもあったもんじゃない。お前、本当に名家の娘らしさの欠片もないな」
心温は机に手をつき、子どものように身を乗り出して甘える。「わかったってば〜!だから早く鍵ちょうだいよ。今日、友達とドライブの約束してるんだからっ!」
昔から、わがままな妹には甘くて仕方ない黒岩一真は、顎で榛名文祢を指し示した。「心温に渡してやってくれ」
榛名文祢はまぶたを伏せ、静かに返した。「でも――この車、私のものになるって…言ったでしょう?」
声色はいつもと同じ、穏やかで柔らか。けれどその奥に、黒岩一真はどこかよそよそしい冷たさを感じ取って、眉をわずかにひそめた。
「は?何言ってんのよ!」短気な黒岩心温が声を荒げ、ずかずかと歩み寄ると、いきなり榛名文祢の肩を乱暴に押した。「『あなたの』でも『わたしの』でもないでしょ?ここは全部、兄さんの家なんだから!あんたに決める権利なんてないのよ! さっさと鍵を渡しなさいよ!」
話 3
黒岩家に嫁いでからの年月――榛名文祢は、黒岩心温に対してできる限りの誠意を尽くしてきたつもりだった。
トラブルを起こすのが得意で、いざ事が起これば「お母さま〜!」と泣きつくばかりの、絵に描いたような箱入り娘。それが心温だった。
かつて聖域会の五女に喧嘩を売り、結果としてその当主――三男・藤堂政丞に捕らえられ、市内で最も高いタワーに拘束された。もしもあのとき、自分がたったひとりで藤堂政丞と交渉に向かわなければ、心温はとうに塔の上から突き落とされ、今頃この世にいなかっただろう。
それでも、今の自分に向けられる言葉は「労働改造犯」ただそれだけだった。
「渡さないわ」
榛名文祢は迷いなく答え、まっすぐに黒岩一真を見据える。「この車は私がもらうって、あなたが言ったはずよね?『黒岩様』ともあろうお方が、たった一台の車を惜しむなんて――まさか、そんなことないでしょう?」
その顔立ちは相変わらず淡々としていて、物腰も穏やか。話す声にさえ、これまでと変わらない柔らかさしかない――なのに。黒岩一真は、目の前に立つこの女が、もはや以前のように黙って踏みにじられる榛名文祢ではないと、はっきりと悟った。
ひと呼吸おいて、彼は低く冷ややかな声で妹に告げた。「家には十数台のスーパーカーがある。欲しいなら、俺のガレージから好きなのを選べ」
けれど黒岩心温の意地はそう簡単に折れない。子どもの頃から箱入りで、何ひとつ我慢させられたことがなかった。藤堂政丞に痛い目を見せられた一件を除けば、誰も彼女に逆らわなかった。ましてや今、目の前にいるのは――かつて服役歴まで囁かれた女。その女に「いいえ」と言われた。
カッとなって、心温は手を振り上げ、榛名文祢に指を突きつける。「もう一度聞くわ。鍵、渡すの?渡さないの?」
「わたしは、渡さ――」
バチンッ!
乾いた音が部屋に響いた。振り抜かれた掌が、風を切って榛名文祢の頬に叩きつけられる。右の頬が、赤く腫れ始めていた。
「いい気になってんじゃないわよ、このクズが。私に楯突くなんて百年早いのよ!靴の紐ひとつ結ぶ価値もないくせに!」
一瞬、黒岩一真の目に鋭い光が走ったが、すぐにいつもの無感情な表情へと戻る。「心温、言葉には気をつけろ」
それだけ、淡々と口にした。頬を押さえながら、榛名文祢は静かに顔を上げ、横目で心温を見やった。「どうやら…本当に、ろくな教育を受けてこなかったのね」
その一言に、心温はますます得意げになり、顎をしゃくって見下ろすように挑発してくる。
「で?それがどうしたってのよ…ああっ!」
次の瞬間――榛名文祢の手が、窓辺の花瓶を素早く掴んだ。中に生けられていた花もろとも、水がなみなみと入ったそのままの状態で――容赦なく黒岩心温の頭めがけて叩きつけた。
「だったら…あなた親の代わりに、私がしつけてあげる」