話 2
夢歌菜がオーケストラに入団し, 健司の目に初めて宿ったあの輝きは, 忘れもしない.
それは, 私が疾風と初めて出会った時の, あの透明な光と酷似していた.
その一瞬, 私は目の前の健司の顔が, 疾風の顔と重なって見えた.
私は一瞬, 息をするのを忘れた.
脳裏をよぎる, 疾風との出会い.
彼の瞳にも, 健司と同じ, いや, それ以上の情熱の輝きがあった.
彼にとって, 夢歌菜はまさに一目惚れなのだろう.
私の心は, 冷え切っていた.
夢歌菜が会社に入ってから, 健司の口から彼女の名前が出ない日はなくなった.
食卓で, 車の中で, 寝室でさえ.
「牧田さんて, 本当に聡明だよね」.
彼は私の隣で, 夢歌菜を褒め続けた.
「晴菜も若い頃はあんな感じだったのかな? 」.
彼は私をちらりと見て, にこにこと尋ねた.
その言葉に含まれる, 若さへの渇望と, 私への失望を, 私は見抜いていた.
「もう少し早く晴菜に出会えてたら, もっと違った人生だったろうな」.
彼は夢見るような目で, そう呟いた.
私の顔に, 感情は一切浮かばなかった.
ただ静かに, 彼のその愚かな笑顔を見つめていた.
健司は私の視線に気づくと, 少し気まずそうに笑顔を引っ込めた.
それ以来, 彼は私に夢歌菜の名前を出すのをやめた.
それは, 彼が夢歌菜への興味を失ったからではない.
むしろ, 私たちの関係をより深く, 秘密裏に進めるための, 彼なりの配慮だった.
私の知らないところで, 健司と夢歌菜の関係は, より親密さを増していった.
健司は家にいる時も, どこか心ここにあらず, といった様子だった.
食事中も, うわの空.
食事を摂る手が, 時折止まる.
息子, 翔の宿題を見てやる時も, 頻繁に携帯をチェックし, 席を立つ.
「すぐ戻るから, 待っててね」.
彼はそう言って, 部屋を出て行ったきり, なかなか戻ってこなかった.
翔は五歳になる, 愛らしい男の子だ.
健司は戸籍上の父親だが, 血の繋がりはない.
健司が翔のそばにつかない時, 彼は夢歌菜が抱える問題を解決するために動いていた.
ある日, 彼の携帯が鳴った.
健司は慌てて画面を伏せたが, 私が見ていないとわかると, すぐに通話ボタンを押した.
「ああ, うん, わかった. それは俺に任せろ」.
彼の声は, いつになく優しかった.
私が「誰と話していたの? 」と尋ねると.
彼はすぐに顔色を変え, 「ああ, 仕事の取引先だよ」とそっけなく答えた.
私は何も知らないふりをして, 「そう」とだけ返した.
翔の誕生日が近づいていた.
「パパ, 誕生日には一緒に遊んでくれる? 」と翔が健司に尋ねた.
健司は翔の頭を撫で, 「もちろんだよ. パパ, 仕事が忙しいけど, 必ず時間を作るよ」と優しい声で答えた.
彼はいつもそう言う.
健司は翔のために, 必ず時間を作ると約束した.
その約束が, 私には虚しく響いた.
話 3
健司の車が, 玄関を出て行くのを, 私は窓から見ていた.
彼の姿が見えなくなると, 翔が小さな体で私の足にしがみつき, 寂しそうに顔を埋めた.
彼の肩が, かすかに震えているのがわかった.
その小さな背中を見つめながら, 私の心の中で, 久しく蓋をしていた記憶が, 再びよみがえる.
もし疾風が生きていたら, 翔はこんな悲しい顔をする必要はなかっただろう.
疾風は, どんな時も翔のそばにいてくれたはずだ.
その思いが, 私を締め付けた.
秘書が持ってきた写真が, デスクの上に置かれた.
それは, 健司と夢歌菜が, ホテルの一室で抱き合っている姿だった.
あまりにも生々しい写真.
私の心は, 何一つ揺れなかった.
「理事, どうされますか」.
秘書の声が, 静かに響いた.
私はしばらく考え, そして答えた.
「全ての家族資産を, 翔に譲渡する手続きを進めて」.
健司が夢歌菜と関係を持つこと自体は, 私にとってはどうでもいいことだった.
ただの遊びなら, いくらでも黙認する.
しかし, 私には決して許せないことが一つだけあった.
「私生児だけは, 絶対に許さない」.
私の声は, ひどく冷たかった.
健司の血を分けた子供など, この世に生まれる価値もない.
あの男と同じように, 穢れた存在だ.
それから一ヶ月, 何も変わらない日々が続いた.
健司は約束通り, 翔を遊園地に連れて行った.
私は彼らの後ろを, 少し離れて歩いていた.
健全な家族の姿を装って.
その時, 健司が突然立ち止まった.
視線の先に, 夢歌菜がいた.
彼女は姪を連れて, 私と健司と同じ遊園地にいる.
健司は笑顔で夢歌菜に手を振った.
夢歌菜は, 健司の隣に私がいることに気づくと, 一瞬顔をこわばらせた.
しかし, すぐに営業用の笑顔を貼り付けた.
最初は, 健司の愛人である夢歌菜が, 私の前で挑発するような真似はしないだろう, と思っていた.
しかし, 遊園地で三度も鉢合わせした後, 私の考えは変わった.
彼女は, 私と健司の目の前で, 健司に甘えるような視線を送り続けている.
この刺激を, 楽しんでいる.
やはり, この女は愚かだ.
私は完璧な笑顔を浮かべ, 夢歌菜に声をかけた.
「もしよかったら, ご一緒にいかがですか? 」.
夢歌菜は一瞬躊躇したが, 「まあ, いいんですか? 私, 遊園地なんて久しぶりで」と, 嬉しそうに答えた.
その瞳には, 健司への依存と, 私への敵意が入り混じっていた.
健司の顔から, さっきまでの笑顔が消え失せていた.
私は何も言わず, わずかに口角を上げただけで, 彼の様子を観察した.
夢歌菜の姪が「アイスクリーム食べたい! 」と騒ぎ出した.
健司はすぐに「僕が買ってこようか」と立ち上がった.
彼は夢歌菜のために, 家族との時間を犠牲にすることに何の躊躇もなかった.
健司がアイスクリームを買いに行くと, 私は夢歌菜と二人, パラソルの下で座った.
「健司さんって, 本当に優しいですね. 他人の子供にもあんなに親切にしてくれるなんて」.
夢歌菜は健司の優しさを自慢げに語った.
私はサングラス越しに, 彼女の愚かな顔を見つめた.
「健司はね, 可哀想な人には放っておけない性分なの」.
私の言葉に, 夢歌菜の顔が硬直した.
健司がアイスクリームを手に, こちらに駆け寄ってくる姿が, 私にはひどく滑稽に見えた.