話 2
異存がなければ、式が終わり次第、入籍しましょう」 星川理緒は、きっぱりとそう言い放った。
凛とした声が会場のどよめきを切り裂き、その場にいた誰もが息を呑む。 中には呆然としながらもスマートフォンを取り出し、この劇的な一幕を動画に収めようとする者まで現れた。
「星川さん、本気ですか。 私はこの通り、障害者です。 あなたが望むような未来は、私には与えられない」 男は自らの脚に視線を落とし、その身体的な欠陥を隠すことなく、誠実に再考を促した。
理緒の決意は、しかし揺るがなかった。
「ええ。 すべて覚悟の上です」
説得は無駄だと悟ったのだろう。 男――一之瀬悠介は短く名乗ると、彼女の手を取った。 「後悔しても、知りませんよ」
理緒は答えなかった。 後悔など、するはずがない。
かつて心から結婚を望んだ相手は、神宮寺涼介ただ一人。 だが、彼の心に自分の居場所はひとかけらもなかった。 ならばもう、添い遂げる相手が誰であろうと、同じことだ。
形式ばかりの式次第を早々に切り上げ、理緒と悠介は役所へ向かい、婚姻届を提出した。
真新しい戸籍謄本を手にし、理緒はようやく肩の荷が下りるのを感じた。
神宮寺涼介に、心は深く傷つけられた。 彼との未来は、もう二度とあり得ない。
では、星川健太の件は――神宮寺との縁談が駄目になった今、星川結愛がいる。
幼い頃から貪欲だった妹のことを、理緒は知り尽くしている。 あの子が神宮寺家の若奥様の座を虎視眈々と狙っていることも、涼介に気がないはずないことも。
だからこそ、この結婚は――あの息の詰まる実家から逃れるための、最善の策だった。
あの家だけは、もう二度と帰りたくない。
悠介は、理緒が戸籍謄本を手に物思いに耽っていることに気づき、声をかけた。 「何を考えている。 俺のような不具の男と結婚したことを、今更後悔しているのか?」
理緒は静かに首を振ると、悠介の背後に回り、車椅子を押し始めた。 「あなたとの結婚も、悪くないかもしれない、と」
悠介は口の端を歪めて笑った。 その瞳には、あからさまな軽蔑と不信が宿っている。
(障害者と好き好んで結婚する女などいるものか。 口からでまかせばかりの、嘘つきな女だ)
(その場しのぎの取り繕いなど、一生続くはずもない)
ちょうど悠介も、家の者の目を欺き、己の目的を遂げるために花嫁を必要としていた。
ならば好都合だ。 この女の狙いが何なのか、とことん付き合って見極めてやろう。
……
理緒は悠介を車に乗せ、彼の家へと向かった。
辿り着いたのは、壮大な邸宅だった。 広大な庭にはプールまで備えられ、玄関ではタキシードに身を包んだ佐々木と名乗る執事と、数人の使用人たちが出迎えた。
柔らかなウールの絨毯を踏みしめながら、理緒は自分がとんでもない相手と結婚してしまったのかもしれないと、今更ながらに気づかされた。
「悠介様、こちらが奥様でいらっしゃいますか」出迎えた佐々木が、恭しく頭を下げて尋ねる。
その恭しい態度と『悠介様』という呼び名に、理緒ははっと息を呑んだ。 (一之瀬家の……悠介様? まさか、あの『一之瀬の三男』――!?)
一之瀬家といえば、この地方で最も権勢を誇る一族だ。 中でも悠介は、同世代で群を抜く傑物だった。 若くして富豪番付に名を連ねるほどの商才の持ち主で、三男であることから、人々は畏敬の念を込めて彼を『一之瀬の三男』と呼んだ。
しかし一年前の交通事故で両足の自由を失って以来、その名は世間から次第に忘れ去られ、彼の輝かしい功績を記憶している者も少なくなっていた。
(私が結婚したのは、あの『一之瀬の三男』… … ?
でも、一之瀬家は西園寺家と政略結婚するはずじゃなかった? ということは、今日、式から逃げ出した花嫁は、西園寺家のご令嬢――! ) 理緒の頭は真っ白になった。
(一之瀬悠介。 その名前を聞いて、どうしてすぐにピンとこなかったんだろう。 それどころか、結婚してくださいだなんて……まるで押し込み強盗じゃない!)
悠介は黙ったまま、理緒の顔に浮かんだ純粋な驚きと狼狽の色を見逃さなかった。
彼は密かに眉をひそめる。 (まさか、本当に俺の素性を知らずに嫁いできたとでも言うのか?
)(足が不自由なことは、周知の事実のはずだが)
「星川理緒。 俺の妻だ。 これからは彼女がこの家の女主人になる」
悠介は理緒を一瞥し、佐々木に向かって言い放った。 「西園寺美咲は逃げた。 こいつが、足が不自由な俺でも構わないと、嫁ぎたいと言ってくれた」
「西園寺美咲様が、逃げられたと……?」
佐々木は絶句した。 かつて西園寺家は、恥を忍んでまで一之瀬家との縁談を望み、悠介様にどうか美咲様を娶ってほしいと懇願してきたはず。
それが、式の当日に花嫁が逃亡するとは。 これは悠介様に対する、あまりにも意図的な侮辱ではないか。
佐々木は胸を痛め、主を慰めた。 「悠介様、災い転じて福となす、と申します。 西園寺様は、悠介様の伴侶にふさわしいお方ではなかったのでしょう。 あるいは、こちらの奥様こそが、悠介様の真の『縁』なのかもしれません」
悠介の障害をものともせず、自ら嫁いできたという一点だけで、佐々木は理緒に深い好感を抱いていた。
話 3
星川理緒は一之瀬悠介の脚に視線を落とし、胸がきゅっと締め付けられるような痛みを感じた。
かつての彼の輝かしい姿を知るだけに、今の静まり返った姿が痛々しい。
ただ足が不自由だという、それだけの理由で、西園寺家の令嬢は満座の面前で式を放棄し、悠介のプライドを無残にも踏みにじったのだ。
あの場で、自分以上に心を痛めていたのは、きっと彼自身だっただろう。
理緒は悠介の正面に回り込むと、その冷たい手を取り、まっすぐな瞳で告げた。 「安心してください。 私たちはもう夫婦です。 私が、一生あなたをお世話します」
悠介の表情が、微かに強張った。
(一生、世話をするだと?よくもまあ、そんな白々しい台詞が言えたものだ)
(同情を引こうという、見え透いた芝居か)
悠介は無言で車椅子を反転させると、一階の書斎へと姿を消した。
残された理緒に、佐々木執事が慌てて言葉を継いだ。 「申し訳ございません、奥様。 旦那様は事故に遭われて以来、少々気難しくなられておりまして……」
理緒は静かに首を横に振った。 「いいえ、お気になさらず。 彼の気持ちは、わかりますから」
あのような絶望を経験すれば、誰だって心を閉ざしもするだろう。
理緒は佐々木執事に案内され、二階の自室で休むことにした。
――
「若」
書斎には、スキンヘッドの男が控えていた。 体に張り付くような黒い衣服が、力を込めずとも隆起する筋肉の輪郭を際立たせている。
佐藤翔はライターの火を灯し、恭しく悠介が銜えた葉巻の先端を炙った。
「西園寺美咲は国外へ逃亡。 西園寺側は、若への落とし前をつけられぬ状況にあります」
「俺の6億円とA級案件を五つ平らげた挙句、西園寺が返すのがその答えか?」
悠介は紫煙をゆっくりと吐き出し、指先で葉巻を弄びながら、気だるげな声で命じた。 「一度きつく灸を据えてやらねば、どいつもこいつも俺を嘗め始める。 西園寺のシマを少しばかり荒らしてこい」
佐藤翔は頷き、報告を続けた。 「西園寺美咲の件、連れ戻しますか? それと、奥様の件ですが……我々の仲間内にご紹介を?」
「必要ない」
悠介は葉巻を銜え直すと、デスクの書類を無造作に掴み、――すっくと、立ち上がった。 そして、窓辺へと歩みを進める。
書斎の隅に追いやられた車椅子が、まるで無用の長物のように静まり返っている。 その足取りにふらつきはなく、一歩、また一歩と踏みしめる様は、揺るぎなく安定していた。
手元の書類には、星川理緒の生い立ちから現在に至るまでの経歴、果ては大学時代の神宮寺涼介との交際記録までが、淡々と記されている。
彼は数ページをぱらぱらと機械的にめくり、億劫そうに呟いた。 「平凡な女だ。 俺との結婚も、どうせ金目当てだろう」
かつて一之瀬家は、悠介の妻を探していると公表した。 表向きは、足が不自由になれど、跡継ぎは残したいという名目で。
情報が流れると、名家で娘を嫁がせようとする家は一軒もなかったが、娘を売って財を成してきた西園寺家だけが、欲深く手を挙げた。
西園寺家の目的は単純明快。 資源と金さえ積めば、娘を十人差し出すことすら厭わないだろう。
佐藤翔にも、金銭以外の理由で理緒が悠介に嫁ぐとは到底思えなかった。
だが……
「今日、彼女が本来嫁ぐはずだった相手は、神宮寺家の涼介です」
「神宮寺……。 近頃、勢いを増しているあの新興勢力か」悠介が片眉を上げる。
「はっ。 ですが新郎は、式の最中に電話一本で元カノの元へ駆けつけたとか」
佐藤翔はしばし黙考し、推論を述べた。 「奥様は恐らく、神宮寺涼介への当てつけとして、若との結婚を選ばれたのでは」
書類をめくっていた指が、ぴたりと止まる。 悠介は顔を上げ、まるで子供を諭すかのように翔を一瞥した。
「短絡的だな、翔。 俺と夫婦になれば、より大きな実利が手に入る。 それこそが、俺のような『足の不自由な男』に嫁いだ、あの女の魂胆だろう」
今はまだ、あの女が本性を隠しているに過ぎない。
悠介とて、理緒の打算を拒むつもりはない。
一之瀬家の人間を黙らせるには、妻という存在が必要だった。 もし彼女が本当に利益だけを求めて嫁いできたのであれば、将来手切れとなる際も、後腐れがない。
――
理緒はベッドサイドに腰を下ろし、手持ち無沙汰にSNSを開く。 すると、トレンドの上位を独占するハッシュタグが目に飛び込んできた。
「#結婚式場、御曹司が白月光を追って逃亡」
「#新郎逃婚、新婦は怒りのあまり別人と結婚!」
コメント欄をざっと流し見れば、二人の突飛な行動に困惑する声がほとんどだったが、この騒動のおかげで、図らずも彼女自身の名も世に知れ渡ることになった。
彼女がとある音楽団のヴァイオリニストであること、過去の演奏動画までもが掘り起こされ、拡散されている。
理緒は吸い込まれるように自身の演奏動画に見入った。 懐かしさが胸に込み上げてきた、まさにその時――神宮寺涼介から着信があった。
「理緒、今どこにいるんだ?会って話そう」