1

「どこへ行くの?」

荘厳な結婚式場に、星川理緒の悲痛な声が響く。 背を向けた神宮寺涼介の腕を掴むその瞳には、切なる願いが宿っていた。

祭壇の前では、両家の親族や友人が固唾を飲んで見守り、神父が新郎への誓いの言葉を問い終えたばかり。 だが、新郎である神宮寺涼介はそれを無視して電話に出ると、あろうことか、誓いの儀式の最中に踵を返したのだ。

「桜庭ひなたが、俺たちの結婚を知って鬱の発作を起こした。 今から飛び降りるかもしれない。 俺が行かなきゃ、あいつは……!」

涼介は隠そうともしない苛立ちを声に乗せ、理緒の腕を容赦なく振り払った。

突き放された勢いで理緒は足首を捻り、床に崩れ落ちる。 それでもなお、縋るように彼へと手を伸ばした。

「今日は私たちの結婚式なのよ!あなたが行ってしまったら、私はどうなるの?それに忘れたの?桜庭ひなたはあなたを裏切った女でしょう。 あれほど傷つけられたのに、まだ彼女に未練が?そこまでして、彼女の元へ行くというの?」

涼介の眼差しは、氷のように冷え切っていた。 「俺とひなたのことに、お前が口を挟むな。 たとえ彼女が過ちを犯して俺を傷つけたとしても、お前など彼女の足元にも及ばない」

涼介の言葉は氷の刃となって、理緒の胸を深く抉った。

やはり、神宮寺涼介は桜庭ひなたを忘れられない。 自分は永遠に、あの女の代わりにはなれないのだ。

「私が何をしたっていうの!どうしてこんな酷いことができるの!」

「お願い、せめて式が終わるまで……!指輪の交換さえ済めば、すぐに行ってもいいから!」

涼介はその手を煩わしげに避け、剥き出しの嫌悪を込めて言い放つ。 「人の命が懸かっているんだぞ。 お前が心配なのは自分の結婚式だけか。 星川理緒、お前は底知れず冷酷な女だな」

「結婚式は中止だ。 延期する」

彼は青ざめる理緒に一瞥もくれず、歩きながら胸元のブートニアを無造作に引き千切り、投げ捨てた。 周囲から突き刺さる奇異の視線など意にも介さず、ただひたすらに歩み去っていく。

主役を失った式場は、一瞬の静寂の後、大きな混乱に包まれた。

「嫌……行かないで、涼介!」

「あなたがいなくなったら、私は、どうすれば……!」

花嫁衣装のまま床に座り込む理緒の体は、屈辱に細かく震えていた。 丹精込めて施されたメイクの上を、大粒の涙が筋状に溶かしていく。

三年間、その愛を信じ続けた男は、彼女の尊厳も、二人の誓いも、何もかもを置き去りにして別の女を選んだ。

神宮寺涼介の脳裏に浮かぶのは、助けを求める桜庭ひなたの可憐な姿だけ。 今この瞬間、祭壇の前で独り晒し者にされている花嫁が、どれほど惨めで途方に暮れているかなど、想像すらしないのだろう。

無数の視線が、まるで鋭い針のように理緒の全身を突き刺す。 嘲笑、憐憫、そして他人の不幸を蜜の味とする好奇の目。

これほどの屈辱は、生まれて初めてだった。

そこへ、父の星川健太が足早にやってくる。 慰めの言葉を期待した理緒に、彼は怒りに目を吊り上げて怒鳴りつけた。 「男一人繋ぎ止められんとは!なぜ俺に、お前のような娘ができてしまったんだ!」

健太はよほど腹の虫が収まらなかったのか、罵詈雑言を二言三言吐き捨てると、妻の小林颯を伴い、振り返りもせずに去った。人混みの中から、妹の星川結愛が姿を現す。

その口元には、歪んだ笑みが浮かんでいた。 「お姉ちゃん、本当に役立たず!結婚式で花婿に逃げられるなんて、大勢の前で笑いものじゃない。 パパとママが怒るのも無理ないわ。 私も恥ずかしいもの!」

結愛もまた、そう言い捨てて背を向けた。

……

理緒の家族は、誰一人として彼女の味方にはならなかった。 花嫁姿で取り残された理緒を、遠巻きに見ていた新郎側の招待客たちが、ここぞとばかりに態度を変える。

「新郎が逃げたのに、親まで花嫁を置いていくのか。 あの花嫁自身に何か問題があるんじゃないか?涼介くんがああなるのも分かる気がするな」

「そうよね、まともな女なら、花婿に捨てられたりしないもの」 「浮気でもしてたのかしら?でなければ、あんな風に置き去りにされるはずがないわ!」

囁き声は次第に大きくなり、それはやがて、道化師を嘲るような罵声となって容赦なく理緒の耳に届いた。

その時、隣の式場から微かな喧騒が聞こえてきた。

虚ろな視線をそちらへ向けると、ぽつんと置かれた車椅子に座る一人の新郎の姿が目に映った。 そばでは司会らしき神父が、狼狽した様子で問いかけている。 「花嫁はまだ到着なさらんのですか?」

理緒は涙を乱暴に拭うと、通りかかったスタッフを呼び止め、尋ねた。 「すみません、あちらの式ですが……花嫁さんは、どうされたのですか?」

スタッフは彼女の姿を値踏みするように一瞥し、ありのままを告げた。 「新婦様は、いらっしゃいませんでした。 お相手がご病気で足が不自由だと知り、耐えられずに逃げてしまわれた、と……」

「それで、あの方はここでずっと……?」

スタッフが頷くのを見て、理緒は小さく礼を言った。

車椅子の新郎は背を向けており、距離もあるため表情までは窺えない。 だが、最も大切な日に、最も信じた人間に見捨てられる痛みを、今の理緒は痛いほど理解できた。

私たちは、なんて似ているのだろう。 どちらも、捨てられた哀れな人間だ。

しばしの沈黙の後、絶望の底で、理緒の瞳に不意に強い光が宿った。

三年間愛したから何だというのだ。 神宮寺涼介が先に裏切った。 なぜ自分だけが貞節を守らなければならない?

私の世界の全てが、神宮寺涼介だったわけじゃない!

彼女がすっくと立ち上がった瞬間、嘲笑の囁きがぴたりと止んだ。

すべての視線が、彼女の一挙手一投足に吸い寄せられる。 理緒はドレスの裾を拾い上げると、迷いのない足取りで、まっすぐ隣の式場へと向かった。

純白のウェディングドレスをまとった花嫁がこちらへ歩いてくるのを見て、新郎側の賓客たちも息を飲む。

その気配に気づいたのか、男が車椅子をゆっくりと回転させ、振り返った。理緒は歩みを止め、目の前の、彫刻のように整った顔立ちの男をじっと見つめる。その瞳に一瞬驚きがよぎったが、すぐに彼女は手を差し伸べた。

「初めまして。 花嫁がおらず、お困りだと伺いました。 奇遇ですね、私の花婿も、たった今逃げたところなんです。 もしよろしければ……いっそ、私たち結婚しませんか?」

2

異存がなければ、式が終わり次第、入籍しましょう」 星川理緒は、きっぱりとそう言い放った。

凛とした声が会場のどよめきを切り裂き、その場にいた誰もが息を呑む。 中には呆然としながらもスマートフォンを取り出し、この劇的な一幕を動画に収めようとする者まで現れた。

「星川さん、本気ですか。 私はこの通り、障害者です。 あなたが望むような未来は、私には与えられない」 男は自らの脚に視線を落とし、その身体的な欠陥を隠すことなく、誠実に再考を促した。

理緒の決意は、しかし揺るがなかった。

「ええ。 すべて覚悟の上です」

説得は無駄だと悟ったのだろう。 男――一之瀬悠介は短く名乗ると、彼女の手を取った。 「後悔しても、知りませんよ」

理緒は答えなかった。 後悔など、するはずがない。

かつて心から結婚を望んだ相手は、神宮寺涼介ただ一人。 だが、彼の心に自分の居場所はひとかけらもなかった。 ならばもう、添い遂げる相手が誰であろうと、同じことだ。

形式ばかりの式次第を早々に切り上げ、理緒と悠介は役所へ向かい、婚姻届を提出した。

真新しい戸籍謄本を手にし、理緒はようやく肩の荷が下りるのを感じた。

神宮寺涼介に、心は深く傷つけられた。 彼との未来は、もう二度とあり得ない。

では、星川健太の件は――神宮寺との縁談が駄目になった今、星川結愛がいる。

幼い頃から貪欲だった妹のことを、理緒は知り尽くしている。 あの子が神宮寺家の若奥様の座を虎視眈々と狙っていることも、涼介に気がないはずないことも。

だからこそ、この結婚は――あの息の詰まる実家から逃れるための、最善の策だった。

あの家だけは、もう二度と帰りたくない。

悠介は、理緒が戸籍謄本を手に物思いに耽っていることに気づき、声をかけた。 「何を考えている。 俺のような不具の男と結婚したことを、今更後悔しているのか?」

理緒は静かに首を振ると、悠介の背後に回り、車椅子を押し始めた。 「あなたとの結婚も、悪くないかもしれない、と」

悠介は口の端を歪めて笑った。 その瞳には、あからさまな軽蔑と不信が宿っている。

(障害者と好き好んで結婚する女などいるものか。 口からでまかせばかりの、嘘つきな女だ)

(その場しのぎの取り繕いなど、一生続くはずもない)

ちょうど悠介も、家の者の目を欺き、己の目的を遂げるために花嫁を必要としていた。

ならば好都合だ。 この女の狙いが何なのか、とことん付き合って見極めてやろう。

……

理緒は悠介を車に乗せ、彼の家へと向かった。

辿り着いたのは、壮大な邸宅だった。 広大な庭にはプールまで備えられ、玄関ではタキシードに身を包んだ佐々木と名乗る執事と、数人の使用人たちが出迎えた。

柔らかなウールの絨毯を踏みしめながら、理緒は自分がとんでもない相手と結婚してしまったのかもしれないと、今更ながらに気づかされた。

「悠介様、こちらが奥様でいらっしゃいますか」出迎えた佐々木が、恭しく頭を下げて尋ねる。

その恭しい態度と『悠介様』という呼び名に、理緒ははっと息を呑んだ。 (一之瀬家の……悠介様? まさか、あの『一之瀬の三男』――!?)

一之瀬家といえば、この地方で最も権勢を誇る一族だ。 中でも悠介は、同世代で群を抜く傑物だった。 若くして富豪番付に名を連ねるほどの商才の持ち主で、三男であることから、人々は畏敬の念を込めて彼を『一之瀬の三男』と呼んだ。

しかし一年前の交通事故で両足の自由を失って以来、その名は世間から次第に忘れ去られ、彼の輝かしい功績を記憶している者も少なくなっていた。

(私が結婚したのは、あの『一之瀬の三男』… … ?

でも、一之瀬家は西園寺家と政略結婚するはずじゃなかった? ということは、今日、式から逃げ出した花嫁は、西園寺家のご令嬢――! ) 理緒の頭は真っ白になった。

(一之瀬悠介。 その名前を聞いて、どうしてすぐにピンとこなかったんだろう。 それどころか、結婚してくださいだなんて……まるで押し込み強盗じゃない!)

悠介は黙ったまま、理緒の顔に浮かんだ純粋な驚きと狼狽の色を見逃さなかった。

彼は密かに眉をひそめる。 (まさか、本当に俺の素性を知らずに嫁いできたとでも言うのか?

)(足が不自由なことは、周知の事実のはずだが)

「星川理緒。 俺の妻だ。 これからは彼女がこの家の女主人になる」

悠介は理緒を一瞥し、佐々木に向かって言い放った。 「西園寺美咲は逃げた。 こいつが、足が不自由な俺でも構わないと、嫁ぎたいと言ってくれた」

「西園寺美咲様が、逃げられたと……?」

佐々木は絶句した。 かつて西園寺家は、恥を忍んでまで一之瀬家との縁談を望み、悠介様にどうか美咲様を娶ってほしいと懇願してきたはず。

それが、式の当日に花嫁が逃亡するとは。 これは悠介様に対する、あまりにも意図的な侮辱ではないか。

佐々木は胸を痛め、主を慰めた。 「悠介様、災い転じて福となす、と申します。 西園寺様は、悠介様の伴侶にふさわしいお方ではなかったのでしょう。 あるいは、こちらの奥様こそが、悠介様の真の『縁』なのかもしれません」

悠介の障害をものともせず、自ら嫁いできたという一点だけで、佐々木は理緒に深い好感を抱いていた。

3

星川理緒は一之瀬悠介の脚に視線を落とし、胸がきゅっと締め付けられるような痛みを感じた。

かつての彼の輝かしい姿を知るだけに、今の静まり返った姿が痛々しい。

ただ足が不自由だという、それだけの理由で、西園寺家の令嬢は満座の面前で式を放棄し、悠介のプライドを無残にも踏みにじったのだ。

あの場で、自分以上に心を痛めていたのは、きっと彼自身だっただろう。

理緒は悠介の正面に回り込むと、その冷たい手を取り、まっすぐな瞳で告げた。 「安心してください。 私たちはもう夫婦です。 私が、一生あなたをお世話します」

悠介の表情が、微かに強張った。

(一生、世話をするだと?よくもまあ、そんな白々しい台詞が言えたものだ)

(同情を引こうという、見え透いた芝居か)

悠介は無言で車椅子を反転させると、一階の書斎へと姿を消した。

残された理緒に、佐々木執事が慌てて言葉を継いだ。 「申し訳ございません、奥様。 旦那様は事故に遭われて以来、少々気難しくなられておりまして……」

理緒は静かに首を横に振った。 「いいえ、お気になさらず。 彼の気持ちは、わかりますから」

あのような絶望を経験すれば、誰だって心を閉ざしもするだろう。

理緒は佐々木執事に案内され、二階の自室で休むことにした。

――

「若」

書斎には、スキンヘッドの男が控えていた。 体に張り付くような黒い衣服が、力を込めずとも隆起する筋肉の輪郭を際立たせている。

佐藤翔はライターの火を灯し、恭しく悠介が銜えた葉巻の先端を炙った。

「西園寺美咲は国外へ逃亡。 西園寺側は、若への落とし前をつけられぬ状況にあります」

「俺の6億円とA級案件を五つ平らげた挙句、西園寺が返すのがその答えか?」

悠介は紫煙をゆっくりと吐き出し、指先で葉巻を弄びながら、気だるげな声で命じた。 「一度きつく灸を据えてやらねば、どいつもこいつも俺を嘗め始める。 西園寺のシマを少しばかり荒らしてこい」

佐藤翔は頷き、報告を続けた。 「西園寺美咲の件、連れ戻しますか? それと、奥様の件ですが……我々の仲間内にご紹介を?」

「必要ない」

悠介は葉巻を銜え直すと、デスクの書類を無造作に掴み、――すっくと、立ち上がった。 そして、窓辺へと歩みを進める。

書斎の隅に追いやられた車椅子が、まるで無用の長物のように静まり返っている。 その足取りにふらつきはなく、一歩、また一歩と踏みしめる様は、揺るぎなく安定していた。

手元の書類には、星川理緒の生い立ちから現在に至るまでの経歴、果ては大学時代の神宮寺涼介との交際記録までが、淡々と記されている。

彼は数ページをぱらぱらと機械的にめくり、億劫そうに呟いた。 「平凡な女だ。 俺との結婚も、どうせ金目当てだろう」

かつて一之瀬家は、悠介の妻を探していると公表した。 表向きは、足が不自由になれど、跡継ぎは残したいという名目で。

情報が流れると、名家で娘を嫁がせようとする家は一軒もなかったが、娘を売って財を成してきた西園寺家だけが、欲深く手を挙げた。

西園寺家の目的は単純明快。 資源と金さえ積めば、娘を十人差し出すことすら厭わないだろう。

佐藤翔にも、金銭以外の理由で理緒が悠介に嫁ぐとは到底思えなかった。

だが……

「今日、彼女が本来嫁ぐはずだった相手は、神宮寺家の涼介です」

「神宮寺……。 近頃、勢いを増しているあの新興勢力か」悠介が片眉を上げる。

「はっ。 ですが新郎は、式の最中に電話一本で元カノの元へ駆けつけたとか」

佐藤翔はしばし黙考し、推論を述べた。 「奥様は恐らく、神宮寺涼介への当てつけとして、若との結婚を選ばれたのでは」

書類をめくっていた指が、ぴたりと止まる。 悠介は顔を上げ、まるで子供を諭すかのように翔を一瞥した。

「短絡的だな、翔。 俺と夫婦になれば、より大きな実利が手に入る。 それこそが、俺のような『足の不自由な男』に嫁いだ、あの女の魂胆だろう」

今はまだ、あの女が本性を隠しているに過ぎない。

悠介とて、理緒の打算を拒むつもりはない。

一之瀬家の人間を黙らせるには、妻という存在が必要だった。 もし彼女が本当に利益だけを求めて嫁いできたのであれば、将来手切れとなる際も、後腐れがない。

――

理緒はベッドサイドに腰を下ろし、手持ち無沙汰にSNSを開く。 すると、トレンドの上位を独占するハッシュタグが目に飛び込んできた。

「#結婚式場、御曹司が白月光を追って逃亡」

「#新郎逃婚、新婦は怒りのあまり別人と結婚!」

コメント欄をざっと流し見れば、二人の突飛な行動に困惑する声がほとんどだったが、この騒動のおかげで、図らずも彼女自身の名も世に知れ渡ることになった。

彼女がとある音楽団のヴァイオリニストであること、過去の演奏動画までもが掘り起こされ、拡散されている。

理緒は吸い込まれるように自身の演奏動画に見入った。 懐かしさが胸に込み上げてきた、まさにその時――神宮寺涼介から着信があった。

「理緒、今どこにいるんだ?会って話そう」

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新婚初夜、車椅子の御曹司がいきなり立ち上がってキス!?

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