話 2
私は, 鏡の前で黒い喪服に袖を通していた. 葬儀に出席するためだ. 私の顔は青白く, 目の下には深い隈ができていた.
リビングに出ると, 子供が私を見て嫌悪感を露わにした.
「何よ, その格好. 気持ち悪い」
私は子供の言葉を無視し, 玄関に向かおうとした. その瞬間, 子供が私の喪服にジュースをわざと零した.
「ああ, ごめんなさい. 手が滑っちゃった」子供はわざとらしく笑い, 私の惨めな姿を嘲笑った.
私は怒りよりも先に, 深い悲しみに襲われた. かつては, この子も素直で優しい子供だった.
私がどんなに尽くしても, どんなに愛情を注いでも, 優奈の甘言と修也の無関心が, この子をこんなふうに変えてしまった.
「謝りなさい」私の声は, 低く, しかし明確だった.
子供は一瞬ひるんだが, すぐに反抗的な目を私に向けた. 「なんで私が謝るの? あんたが悪いんでしょ! 」
私の理性の糸が, ぷつりと切れる音がした. 私は子供の頬を, 思い切り平手打ちにした.
「っ…! 」子供は驚きに目を見開いた. 私に叩かれるのは, 初めてのことだったから.
「この母親が, お前に何を教えたか, よく覚えておけ」私の心は, 激しく痛んでいた.
「何をするんだ! 」修也が怒鳴りながら, リビングに駆け込んできた.
私は修也を冷たい目で見据えた. 「この子は, あなたと, あの女の犠牲者よ」
「黙れ! お前こそ, 母親失格だ! 」修也の言葉は, 私の心をもうこれ以上傷つけることはできなかった.
「もうすぐ, わかるわ」私は静かに言った. 「私が, 本当に失格かどうか」
修也は私の言葉の意味が分からず, 困惑した表情を浮かべた.
「早く行きましょう, もう時間がないわ」私は修也を促した.
車の中は, 重苦しい沈黙に包まれていた. 私は窓の外を流れる景色を, ただぼんやりと眺めていた.
修也は時折, 私の方に視線を向けた. 彼は私が怒っていることを察したようだった.
彼はかつて, 私が怒るとすぐに優しい言葉をかけたものだ. 私の感情を繊細に感じ取り, 慰めてくれた.
でも, それはもう, 遠い過去の話だった. 彼はもう, 私の感情に寄り添うことはない.
彼は助手席に置いてあった小さな箱を, 乱暴に私の膝に置いた.
「ほら, これ. お前の欲しいものだろう」
箱は私の膝から滑り落ち, 足元に転がった. 鈍い痛みが走った.
「いらないわ」私は冷たく言った. 彼の粗雑な態度に, もううんざりしていた.
「何だと? せっかく買ってやったのに! 」修也は苛立ちを隠せないようだった.
「あなたがくれたものは, いつも, あなたの都合で選ばれたものだったわ」私の声は, 震えていた.
「どういう意味だ? 俺はお前のために…! 」彼は反論しようとした.
私は彼の言葉を遮った. 「いいえ, あなたはいつも, 自分のために私を選んできた. 私のために, なんて一度もなかったわ」
修也は怒りに顔を真っ赤にした. 彼は私を睨みつけ, ハンドルを強く握った.
私は彼の怒りを冷静に観察していた. 彼の表情からは, いつもと変わらない自己中心的な感情が読み取れた.
ああ, この人は, 本当に何も変わらないのだ.
私は膝から落ちた箱を拾い上げた. 中には, 安物のネックレスが入っていた.
彼はこれを私への「愛の証」だと思っていたのだろうか. 私には, 彼の冷たい心が透けて見えた.
愛のない贈り物.
私はネックレスを箱に戻し, 助手席に投げ返した.
「私には, もう必要ないわ. あなたも, あなたの愛も」
その時, 修也の携帯が鳴った. 画面には「優奈」の文字が光っていた.
彼は一瞬ためらったが, すぐに電話に出た.
「優奈? ああ, 今向かってる」彼の声は, 私に向けられるそれとは全く違って, 甘く, 優しい響きを帯びていた.
私は内心で嘲笑った. この男は, 本当に私の目の前で, 平気で裏切りを繰り返すのだ.
修也は優奈と数分間話し, 電話を切った. 彼は私をちらりと見て, まるで何もなかったかのように言った.
「優奈が体調を崩したらしい. 先に優奈の家による」
私は彼の嘘を見抜いていた. 彼のネクタイは, 優奈が好きなブランドのもので, 今日初めてつけているものだった.
「そう」私は短く答えた. もう, 彼の嘘に振り回されるのはやめていた.
「そう, じゃないだろう. 心配じゃないのか? 」彼は私を睨みつけた.
「心配? 誰が? 」私は冷たく言い放った.
「…お前! 」彼は憤慨した様子だった.
「私の知ったことではないわ. 優奈さんのことなんて, 私には関係ないもの」
修也は私の言葉に, さらに顔を赤くした. 彼は急ブレーキを踏み, 車を路肩に寄せた.
「降りろ! 」彼は怒鳴った. 「お前とはもう, 一秒たりとも一緒にいたくない! 」
私は何も言わず, 静かに車のドアを開けた.
話 3
修也は私を車から降ろすと, 一言も謝らず, すぐに車を発進させた. 彼の車は, あっという間に遠ざかっていった.
私は一人, 人気のない道路に取り残された. 携帯が震えた. 優奈からのメッセージだった.
「今頃, どこで一人ぼっちかしら? 寂しい? 」メッセージには, 修也と優奈が親密そうに寄り添う写真が添付されていた.
私の胃が, キリキリと痛んだ. 優奈の挑発は, いつものことだった.
愛人契約を結ばされたあの頃から, 彼女は私を精神的に追い詰めるために, あらゆる手段を使ってきた.
でも, もう終わりだ. 私はもう, 彼女の思い通りにはならない.
私は優奈に返信した. 「ずいぶん楽しそうね, 優奈さん. でも, その幸せ, いつまで続くかしら? 」
「あなたの幸せは, 私の不幸の上に成り立っている. そんなもの, 長く続くはずがないわ」私の指は, メッセージを打ち込みながら震えていた.
「あなたは, 自分が何をしているのか, 本当にわかっているの? 」私はさらに送った. 「報いは, 必ず来るわ」
優奈からの返信は, すぐに来た. 「何よ, その言い方! あんたなんかに呪われる筋合いはないわ! 」
続けて, 別のメッセージが届いた. 「それより, あの子供, あんたのこと, すごく嫌ってるみたいよ? 『あの女, 早く消えればいいのに』って言ってたから, 心配しなくていいわ」
子供の言葉が, 私の心に深く突き刺さった. 私の体は, 微動だにせず, ただ凍りついたように立ち尽くした.
私は, もう子供との関係を修復しようとは思わなかった. この子も, 修也と優奈と同じ, 私を傷つける存在になってしまったのだから.
私は携帯の電源を切り, それを道の脇にある側溝に投げ捨てた.
パキ, という鈍い音がして, 水面に携帯が沈んでいく.
私はそこから, 歩き始めた. 葬儀場までは, かなりの距離があったが, もう引き返す気にはなれなかった.
雨が降り始めた. 冷たい雨が私の体を打ち付け, 喪服を重くした.
私は傘も差さずに歩き続けた. 雨水が私の頬を流れ落ち, 涙と混じり合った.
どれくらい歩いただろうか. ようやく葬儀場にたどり着いた時には, 私の体はすっかり冷え切っていた.
葬儀場の入り口で, 受付の男性が心配そうに私を見た.
「松尾さん, ずいぶん濡れていらっしゃいますね. 大丈夫ですか? 」
「ええ, 大丈夫です」私の声は, まだかすれていた.
私は小さな礼拝堂へと向かった. そこには, 私の恩師であるパティシエの師匠が眠っていた.
祭壇の上には, 師匠の遺影があった. 優しそうな笑顔が, 私を見つめていた.
師匠は, 私がパティシエを目指していた頃, 誰よりも私を応援してくれた人だった.
「理子, お前のお菓子には, 人を幸せにする力がある」
そう言って, いつも私を励ましてくれた.
私は師匠の遺影の前で, 静かに膝を折った.
「師匠…ごめんなさい. 私, パティシエの夢を, 諦めてしまいました」
私は, 修也の会社を救うために, 長谷川廉と愛人契約を結んだことを, 師匠にだけは打ち明けたかった.
その契約のせいで, 私の声は出にくくなり, パティシエとしての道も閉ざされた.
「でも, 師匠. 私, もう一度, 頑張ってみます」私は心の中で誓った.
師匠は, 私が愛人契約を結ばされた時, 唯一, 私を心配してくれた人だった.
「理子, 本当にそれでいいのか? お前らしくないぞ」
師匠の言葉が, 今でも耳に残っている.
修也は, 私が長谷川との契約を受け入れた後, まるで私が汚れたもののように扱った.
「お前は, この家のために身を削ったんだ. 感謝しろ」そう言って, 彼は私を蔑むように見た.
優奈は, 私が長谷川と会うたびに, 私を貶めるようなメッセージを送ってきた.
「どうだった? お金持ちの相手は? 気持ちよかった? 」
私は, 師匠が亡くなる数ヶ月前, 修也との関係が一時的に改善されかけたことがあった.
彼が, 私のパティシエとしての才能を認めようとしてくれた, ほんの短い期間だった.
「師匠, 私, もう修也を許すことはできないわ. でも, あなたのことは, ずっと忘れない」私は師匠の遺影に語りかけた.
私は, 心から彼らのことを憎んでいた. 私から, 大切なものを全て奪い去った彼らを.
「私はもう, あなたの人生には関わらない. だから, どうか安らかに眠ってください」私は静かに手を合わせた.
私の目から, 涙が止めどなく溢れ落ちた. それは, 師匠への悲しみと, 私自身の人生への絶望の涙だった.
私はどれだけそうしていただろうか. 気づけば, 礼拝堂には私一人しか残っていなかった.
受付の男性が, 心配そうに私の部屋を覗き込んだ.
「松尾さん, もうお帰りにならないと. 体が冷え切ってしまいますよ」
私はふらつく足で立ち上がった.
「ええ, もう行きます」
男性は私を食堂へと案内してくれた. 温かいお茶と, 簡単な食事が用意されていた.
私は男性に感謝の言葉を述べ, 静かに食事を終えた.
再び, 雨が降り始めていた. 私は来た時と同じように, 傘も差さずに歩き出した.
冷たい雨が, 容赦なく私の体を打ち付けた. 私は震える手で, 服のポケットを探った.
携帯は, もうなかった. 側溝に投げ捨てたことを思い出した.
「どうしよう…」私は途方に暮れた. こんな雨の中, どうやって家に帰ればいいのか.
私は震える腕で, 公衆電話を探した. だが, こんな田舎道に, 公衆電話などあるはずもなかった.
私は, もう誰も頼る人がいないことを, 改めて痛感した.
私は, 誰かに助けを求めようとしたが, 私の声は, かすれてうまく言葉にならなかった.
私の体は, 限界だった. 私は歩道に膝をつき, 震える体で空を見上げた.
その時, 一台の車がゆっくりと私の横を通り過ぎた.
車の中には, 修也と優奈, そして子供がいた.
彼らは楽しそうに笑い合っていた. 私の存在に, 気づくこともなく.
「ああ…そうか」私は悟った. 私は, 本当に, 彼らにとってどうでもいい存在なのだ.
私は震える手で, 壊れた携帯を拾い上げた. もう一度, 修也に電話をかけようとした.
だが, 私の携帯は, すでに電源が入らなかった.
私は, 壊れた携帯を, 再び雨の中に落とした.
私は, ただ一人, 雨の中で立ち尽くしていた.
「もう, 何もかも, 終わりだ」私の心は, 完全に絶望に沈んでいた.