話 2
藤巻光恵 POV:
タクシーのシートに深く沈み込み, 私は即座にスマホを取り出した. 震える指で, 両親に電話をかける.
「お父さん, お母さん. 私, 正弘さんと別れることにした」
電話口の向こうで, 両親は驚き, 困惑しているのが分かった. 無理もない. 入籍日だというのに.
「実は, 笹本晴司さんのことを考えているの」
私の言葉に, 今度は両親が沈黙した. 晴司は, 私の幼馴染で, 昔から私を密かに想ってくれていたことを, 両親は知っていた. 私と正弘の交際が決まってからは, 彼も距離を置いていたけれど.
数時間後, 実家に着くと, 両親は心配そうな顔で私を出迎えた.
「みっちゃん, 本当にそれでいいのかい? 」
父が尋ねた.
「ええ. もう, 限界だった」
私はぽつりと言った.
母は私の手を握り, 静かに頷いてくれた.
「晴司さんの方には, 父さんが連絡してみるよ. 彼はきっと喜ぶだろうね」
母のその言葉に, 胸の奥が少し温かくなる.
晴司は, 今や急成長中のIT企業のCEOだ. 幼い頃から頭が良くて, いつも私を気遣ってくれた. 海外留学で数年日本を離れていたけれど, 帰国してからも時々連絡を取り合っていた. 私と正弘が婚約した時も, 彼は「おめでとう」とだけ言って, それ以上は何も言わなかった. 彼の気持ちを, 私は知っていたから, その優しさが胸に刺さった.
もう一度, 誰かを信じられるだろうか.
正弘との関係で, 私は自分が「都合のいい女」になっていたことに気づいた. 彼の言いなりになり, 彼の家族の言いなりになり, 自分の感情を押し殺してきた.
晴司からのメッセージが, 翌日, 私のスマホに届いた.
「みっちゃん, お父さんから聞いたよ. もしよかったら, 一度会えないかな? 」
私は, すぐに返信した.
「ええ, 喜んで」
正弘との関係は, もう完全に切り離す.
彼の私物は全て段ボールに詰め, きっちりガムテープで封をした. 彼の歯ブラシも, シャンプーも, 全てゴミ箱に捨てた. 彼の匂いが残っているもの全てを, 私の空間から排除したかった.
その数日後, 萌葉のSNSが更新されているのを, 共通の友人の投稿で知った.
新しいマンションのリビングで, 高価なシャンパンを片手に微笑む萌葉.
「お兄ちゃんと同棲♡」
そんなキャプションが付けられていた.
私が心血を注いでリノベーションした, あのタワーマンション.
私たちの新居として購入したばかりのあの場所だ.
正弘が萌葉に鍵を渡したのだろう.
「萌葉が怖がっているから一時避難させる」
そう言っていた彼の言葉を思い出す.
一時避難? まるで, 私が設計した夢の城が, 彼女の遊び場になったかのようだった.
私は怒りに震えた.
私の心は, ナイフで切り裂かれたように痛んだ.
「あんた, 私を馬鹿にしてるの? 」
私は正弘にメッセージを送った.
すぐに彼から返信があった.
「何のこと? ああ, 萌葉の部屋を使わせてやったんだ. ストーカー怖いって言うからさ. みっちゃん, そんなことくらいで怒るなよ. どうせ住むのは俺たちなんだから, 少しの間くらい我慢してくれよ」
彼の言葉は, まるで私の存在そのものを否定するかのようだった.
私の心は, 燃え盛る炎のように熱くなり, 同時に冷え切った氷のように硬くなった.
「我慢? 私がどれだけ我慢してきたか, あなたは知らないでしょう? 」
指が震え, 入力する文字が乱れる.
「そんな大げさな. たかがマンションだろ? いくらでも買うよ. それより, みっちゃんが変なこと言うから, 萌葉が勘違いしてるじゃないか」
彼の言葉は, まるで熱した鉄の棒で私の心を焼くようだった.
私は, もう彼に何も期待しない. 何も与えない.
私は彼に慰謝料を請求し, マンションの権利を放棄すると告げた. それが, 私に残された最後の尊厳だった.
そして, 彼との連絡を一切絶った.
正弘は最初, 私の要求を信じなかった.
「光恵がそんなことするはずがない」
そう思っていたのだろう.
彼は, 私がいつも彼の言うことを聞き, 彼の都合のいいように動くことを当然だと思っていた.
私は, もう彼には何の未練もない.
私の心は, 深い海の底に沈んだように静かだった.
彼への連絡を絶った後, 私の世界は再び動き出した.
友人たちは, 私の突然の破談に驚き, 心配してくれた.
「みっちゃん, 大丈夫? 」「何かあったの? 」
私はただ, 「色々とね」とだけ答えた.
具体的な出来事を話す気力もなかったし, 話せば話すほど, 自分が情けなくなる気がした.
世間体も, 周囲の評判も, もうどうでもいい.
私はこれまで, 「良い女」でいようと努めてきた.
正弘の家族にも尽くし, 彼の友人たちにも愛想よく振る舞った.
だが, その結果がこれだ.
自分の価値を, 他人に委ねてしまっていた.
晴司からの連絡は, 私の荒んだ心に, 一筋の光を差し込んだ.
私は, 今度こそ, 自分を大切にしてくれる人を選びたい.
自分を, 愛してくれる人.
もう, 「都合のいい女」にはならない.
私の人生は, 私のものだ.
話 3
藤巻光恵 POV:
正弘との慰謝料とマンションの件は, 弁護士を立てて粛々と進めた. 彼からの電話やメッセージは全て着信拒否にし, 私の生活から完全に彼を排除した. まるで, 彼が存在しなかったかのように.
数週間後, 正弘から非通知で電話がかかってきた.
「みっちゃん, お願いだ. もう一度話してくれ. 萌葉が, 今度は本当に大変なんだ」
彼の声には焦りがにじんでいた.
「今度は何? 」
私の声は, 感情を一切含まない無機質なものだった.
「萌葉が, その, 妊娠したって言い出して. でも, 相手が誰だか分からないって... . 俺は, 彼女を放っておけないんだ」
彼の言葉に, 私の心は微塵も揺らがなかった. むしろ, 呆れと嫌悪感が込み上げた.
「それが, 私と何の関係があるの? 」
私は冷たく言い放った.
「みっちゃん, 頼む. 俺のそばにいてくれ. お前しかいないんだ」
彼の声は, 懇願に変わっていた.
「今更, そんなことを言われても困るわ. あなたは, いつも萌葉ちゃんを優先した. 私を, 何番目だと思っていたの? 」
私の言葉に, 正弘は何も言えなくなった.
「萌葉ちゃんは, あなたの妹でしょう? あなたが守ってあげたらいい. 私は, もうあなたとは関係ない」
私は一方的に電話を切った.
電話を切った後も, 彼の声が耳の奥でこだましていた.
「お前しかいない」?
そんな都合のいい言葉に, もう騙されない.
彼の言葉は, 私を捕まえるための甘い罠だ.
私は, もう二度と, その罠にはかからない.
私は, 正弘との思い出の品を全て処分し始めた.
彼がくれたブランドバッグ. 二人で選んだペアカップ.
全てが, 私の視界に入ると吐き気がした.
ゴミ袋に詰め込み, まとめて玄関の外に出した.
婚約指輪も, その一つだ.
キラキラと輝くダイヤモンドは, 私と正弘の「永遠の愛」を象徴していたはずだ.
だが, 今となっては, ただの重い石でしかない.
私はそれを, 躊躇なく引き出しの奥にしまい込んだ.
いつか, 質屋にでも持って行こう.
作業中, 身体に異変を感じた.
吐き気と, 激しい目眩.
無理もない. この数週間, 私はまともに食事も睡眠もとっていなかった.
正弘との決別は, 思った以上に私の心と身体を蝕んでいたようだ.
私は, 床にへたり込んだ.
「大丈夫, 大丈夫」
自分に言い聞かせたが, 震えが止まらない.
意識が遠のいていくのを感じた.
次に目を覚ました時, 私は病院のベッドにいた.
見慣れない天井. 点滴のチューブ.
「みっちゃん! 目が覚めたか! 」
隣にいたのは, 正弘だった.
どうして彼がここに? 意識が朦朧としていた私の頭は, 状況を理解できなかった.
「何で, あなたがここにいるの? 」
私の声は, 掠れていた.
「俺が救急車を呼んだんだ. 連絡が取れないから心配になって, 家に行ったんだよ. そしたら, お前が意識を失って倒れてて…」
彼の目は, 心底心配しているように見えた.
「大丈夫だよ. もう, 何も心配いらないから」
彼は私の手を握ろうとした.
私は, その手を強く振り払った.
「触らないで」
私の言葉に, 彼の顔から血の気が引いた.
「どうして, 私が倒れた時に, あなたは萌葉ちゃんのところにいたの? もし, 私があのまま死んでいたら, あなたは萌葉ちゃんのことを優先したままで, 私を見つけることさえなかったでしょう? 」
私の問いに, 彼は何も答えられなかった.
「俺は, ただ…」
彼は言葉を探しているようだった.
「言い訳はいらない. あなたが, どれだけ私を軽視していたか, よく分かったわ」
その時, 病室のドアが開き, 萌葉が顔を出した.
「お兄ちゃん, 遅いよー. 萌葉, 寂しかったんだから! 」
彼女は, 正弘の姿を見つけると, 甘えた声で駆け寄ってきた.
正弘は, 一瞬怯んだように見えたが, すぐに私の視線を避けて, 萌葉の方を向いた.
「萌葉, 心配かけたな. 大丈夫か? 」
彼は, 萌葉の頭を優しく撫でた.
その光景を見て, 私の心は完全に冷え切った.
もう, 何の感情も湧き上がってこない.
「正弘, 出て行って. あなたの顔なんて, 二度と見たくない」
私の言葉は, 病室に響き渡った.
正弘は, 驚いた顔で私を見た.
萌葉は, 勝利を確信したような表情で, 私のことを見下ろしている.
「みっちゃん, そんなこと言うなよ. 俺は, お前を心配して…」
「嘘つき. あなたは, 私のことなんて一度も心配したことない. あなたが心配するのは, いつも自分と, 萌葉ちゃんだけだ」
私は, 限界だった.
「お兄ちゃん, 早く行こうよ. 萌葉, お腹空いた」
萌葉が, 正弘の腕を引っ張る.
正弘は, 私に振り返ることなく, 萌葉と一緒に病室を出て行った.
彼の背中は, 私から遠ざかるほど, 小さく, そして情けなく見えた.
病室に一人残された私は, 深く息を吐いた.
苦しい.
しかし, これで本当に終わりだ.
もう, 二度と, 彼らのために私の感情を揺さぶられることはない.
私の心は, 完全に自由になった.