話 1
結婚5周年記念の夜, 演出用のドローンが墜落し, 私は顔と腕から血を流していた.
しかし夫の純紀は, かすり傷一つない元恋人の泉実を抱きしめ, 私にこう言い放った.
「そこに立っているな. 泉実が驚くだろう. 裏口から帰ってくれ」
私は柏木リゾートの広報部長として, そして「理想の妻」として, 夫のために全てを捧げてきた.
義母に強要される過酷な不妊治療に耐え, 夫の経営を裏で支え続けてきたのだ.
それなのに, 夫のスーツケースから出てきたのは, 泉実がパーティーでつけていたダイヤモンドのピアスだった.
私が血を流して痛みに耐えている間も, 純紀は泉実の元へと走り去った.
私という存在は, 彼にとってただの「便利な道具」でしかなかったのだ.
冷え切った心が, 私にある決断をさせた.
私は震える手でスマートフォンを取り出し, ニューヨーク行きの片道チケットを予約した.
机の上に離婚届と辞職届, そしてあのピアスを残して.
私はもう, 誰のためでもない, 私自身の人生を生きる.
第1章
結婚5周年記念の夜, 私は夫が元恋人のために開いた船上パーティーで, 演出用のドローンが墜落し, 顔と腕に傷を負った. しかし夫は, 血を流す私を裏口から追い出した.
純紀が私に「そこに立っているな. 泉実が驚くだろう」と言い放った時, 私の心臓は氷に覆われたようだった. 豪華客船のデッキは, 煌びやかな光と音楽, そして純紀と泉実の笑い声で満ちていた. 私たちが夫婦になって丸五年. その夜は, 私にとって特別な意味を持つはずだった. 純紀はいつも私を「理想の妻」と呼び, 会社の広報部長としても私の手腕を評価していた. 私はその言葉を信じ, 彼の隣で, 彼の夢のために尽くしてきた.
純紀が泉実をホテルのイメージキャラクターに起用すると言い出した時, 私は戸惑いを隠せなかった. 泉実はかつての恋人だ. しかし純紀は, これも仕事だと, ホテルのブランディングのためだと私を説得した. 私は彼の言うことを信じ, 泉実のプロモーション戦略も練り上げた. この船上パーティーも, 私が裏方として細部にまで気を配り, 成功へと導いたものだった.
しかし, その完璧な演出は突如として崩れ去った. 夜空を彩るはずだったドローンが, 突然コントロールを失い, 私の頭上へと落下してきたのだ. 鋭い金属の破片が私の顔を裂き, 腕に深い傷を負わせた. 痛みよりも先に, 理解できない現実が私を襲った.
純紀は, 私の元へ駆け寄ることはしなかった. 彼は, 私よりも先に, 泉実を抱きしめた. 「驚いただろう, 大丈夫か? 」泉実の顔にかすり傷一つないことを確認すると, 純紀は安堵のため息をついた. その光景が, 鮮明な映像として私の網膜に焼き付いた. 私は今も, あの時の純紀の表情を忘れることができない. 彼が私を見たのは, その後のことだ.
私の腕から流れ出す血は, ドレスの白い生地を赤く染め, 船の豪華なカーペットにもシミを作っていた. 純紀は私を見下ろし, 眉をひそめた. 「川森, 君の顔はどうしたんだ? 客が動揺する. 裏口から帰ってくれ」彼は私の名前を呼んだ. 普段私を「蘭子」と呼ぶ彼が, 公の場で私を呼ぶ時の呼称だった.
私の視界は, 痛みとショックでぼやけていた. しかし, 純紀の言葉だけは, 鮮明に私の耳に届いた. 裏口から帰れ. 私はただの障害物, 邪魔な存在なのだと, 彼は言っているのだ. 私は何も言わず, 純紀の視線から逃れるように, 船の影に身を潜めた.
船員の一人が心配そうに私に駆け寄ってきた. 「奥様, お怪我を…」彼は私の腕を支え, 救急箱を探しに走ろうとした. しかし私は, 首を横に振った. この場で騒ぎを起こすわけにはいかない. 純紀の言葉が, 私の行動を支配していた. 私は, 裏口へと向かう長い通路を, よろめきながら歩いた. 一歩ごとに, 足元から冷たい水が私の心臓に染み渡っていくのを感じた.
船を降りると, 私はタクシーを拾い, 自宅へと向かった. 車窓から流れる東京の夜景は, いつものように光り輝いていたが, 私にはその輝きが, 私の心を蝕む闇のように見えた. 自宅に着くと, 私は震える手で鍵を開けた. 部屋の明かりをつけると, 純紀と私の, 幸せだった頃の写真が目に入った. それは, まるで遠い昔の夢のようだった.
私はバスルームへ向かい, 鏡の前に立った. 左の頬から顎にかけて, そして右腕には, 深く切り裂かれたような傷が走っていた. 私はその傷を, ただじっと見つめた. 痛みはまだ残っていたが, それ以上に, 心に開いた穴の方が深かった. 私は傷口を消毒し, 丁寧にガーゼと絆創膏で覆った. その間, 私の顔には, 一切の感情が浮かんでいなかった.
リビングに戻ると, 純紀のスーツケースが目に入った. 明日からの出張のため, 彼が数日前にパッキングしていたものだ. 私は何の気なしに, そのスーツケースの横を通り過ぎようとした. しかし, ふと, スーツケースの隙間から, 何かがキラリと光るのが見えた. 私は足を止め, 屈み込んだ.
それは, 小さな, ダイヤモンドが散りばめられたピアスだった. 私はそれを拾い上げた. 泉実が, 今日のパーティーでつけていたピアスだ. 純紀の元恋人が, あの輝く舞台で身につけ, そして, 純紀の私物の中から見つかった. その事実が, 私の中で何かが決壊する音を立てた.
長年, 私は純紀のために尽くしてきた. 会社の広報部長として, 彼の経営能力を補い, 会社の顔として奔走した. 義母の静恵からは「跡取りを産め」と毎月のように不妊治療クリニックへの通院を強制された. 針を刺され, 薬を飲み, 体は常に疲弊していた. それでも私は, 純紀の妻として, 柏木リゾートの一員として, 自分の役割を全うしようと努力してきた.
しかし, このピアスは, 私の努力のすべてを, 一瞬にして無意味なものに変えた. 私はもはや, 純粋な愛や信頼でこの関係を続けることはできない. 私自身の尊厳が, それを許さなかった. 私は静かに, スマートフォンを取り出した. ニューヨーク行きの片道チケットを検索した.
画面に表示された航空券の情報を確認する. 日付け, 時間, 金額. 私は躊躇なく, 予約ボタンを押した. クレジットカード情報を入力し, 支払い完了の通知が画面に表示されると, 私の心は, 長い間重かった鎖から解き放たれたような, 奇妙な軽さに包まれた.
その時, 玄関のドアが開く音がした. 純紀が帰ってきたのだ. 時計を見ると, 午前3時を過ぎていた. 彼はいつもそうだ. 私が起きていても, 私が寝ていても, 彼の帰宅時間はいつも予測不可能だった. 今日の彼は, 普段よりも少し足元がおぼつかないように見えた.
純紀はリビングに入ると, 私を一瞥した. 「まだ起きていたのか」彼の声には, 僅かな苛立ちが混じっていた. 彼はネクタイを緩めながら, ソファに深く沈み込んだ. その顔には, 微かな酒の匂いがする.
「お風呂に入ったら? 」私は静かに言った. 私の声は, 私自身でも驚くほど穏やかだった.
純紀は私を見上げた. 「ああ, そうだな. しかし, その前に…」彼はテーブルの上のグラスに手を伸ばし, それを一気に飲み干した. 中身が水ではなく, 私が用意していたハーブティーであることに彼は気づいただろうか. 彼はグラスを置き, 私の顔をじっと見た. 「お前, まだ顔の傷, 痛むのか? 」
彼の問いに, 私は何も答えなかった. ただ, 彼の目を見つめ返した. 純紀は, 私が長い間彼のために用意していた, 彼のお気に入りのハーブティーを, まるで水のようにがぶ飲みしている. その光景は, 彼がどれほど私という存在を, そして私が提供するものを, 当たり前のものとして捉えているかを如実に物語っていた.
「どうした, 蘭子. 何か言いたいことがあるのか? 」純紀の声に, 苛立ちの色が濃くなった. 彼はスマートフォンを取り出し, 画面をスクロールし始めた. 私のことなど, もう彼の関心の埒外なのだ.
私は, 彼の言葉の奥に隠された, 私への無関心と傲慢さを感じ取った. 彼は私が「当たり前の存在」として, いつもそこにいると信じ込んでいる. そして, 泉実を「守ってあげたい儚い存在」として都合よく使い分けているのだ.
純紀はスマートフォンを置くと, 再び不意に私を見た. 「お前, 最近, 顔色が悪いぞ. 不妊治療, そんなに疲れるものなのか? 」
彼の言葉は, まるで鋭い氷の破片が私の胸を突き刺すようだった. 私は純紀のために, どれほどの苦痛と羞恥に耐えてきたことだろう. 義母からの強要, 毎月の採卵, 誘発剤の副作用による吐き気やめまい. そして, 何度経験したか分からない, 妊娠検査薬の陰性反応. そのたびに, 私の心は深く抉られた.
私は唇を強く噛みしめた. 体中に, 拒絶反応のように寒気が走る. 傷口がズキズキと痛みだし, 私は反射的に顔を背けた. 純紀が, まだ私という存在を, 彼の妻という役割を, 子を産む道具としか見ていないことが, はっきりとわかった. 彼の言葉は, 私にとって最後の, そして最も決定的な裏切りだった. 私の心は, もう彼に何も与えないと決めた.
「純紀さん, あなたにとって私は一体何ですか? 」私はそう問いかけたかった. だが, 喉から出る声は, まるで凍りついたかのように, 言葉にならなかった. 私はただ, 純紀の顔を見つめていた. 彼の目は, 私ではなく, 自分のスマートフォンに向けられていた. 彼は, 私という存在そのものに, 何の興味も持っていない. 私が今, 何を考え, 何を感じているのか, 彼には微塵も伝わっていないのだ.
私の腕の傷が, また熱を持ち始めた. それは, 純紀の言葉が私に与えた, 深い精神的な傷と共鳴しているかのようだった. 私はもう, この場所にはいられない. この男の隣には, もういられない. 私の心は, 完全に決壊していた.
話 2
純紀は私の痛む腕を一瞥し, 軽く「ああ, 傷か」と言った. 彼の声には, まるでどうでもいいことのように響いた. 「自分で処置できるだろう? 君はそういうことに長けているからな」
私は一瞬, 息が止まるような感覚に陥った. 彼は私に, すべてを自分で解決することを求めている. 長年, 私が彼の妻として, 会社の広報部長として, 彼の抱えるあらゆる問題を解決してきたように. 私は彼の言葉に反論することなく, 静かにうなずいた. 私の心は, もう彼の言葉に動じないほど, 深く凍りついていた.
バスルームの鏡に映る自分の顔を見た. 左頬と右腕の傷は, 昨夜よりも鮮明に見えた. 絆創膏の下には, まだ血が滲んでいる. 私は静かに絆創膏を剥がし, 傷口を洗い流した. 冷たい水が傷口に触れるたび, ズキリとした痛みが走った. しかし, 私はその痛みを, まるで当然のことのように受け入れた.
傷の手当てを終え, 服を着替えていると, ふと腹部が目に入った. そこには, 数えきれないほどの注射痕が残っていた. 不妊治療の痕だ. 毎月, 毎月, 義母の静恵に言われるがまま, 私はクリニックに通い続けた. 純紀の跡継ぎを産むこと. それが, 私がこの柏木家に嫁いだ唯一の「価値」だと, 静恵は常々言っていた.
「蘭子さん, 今月も排卵日が近いわね. もう予約は入れたの? 」静恵の声が, 私の脳裏に蘇る. その声は, いつも私の心を締め付けた. 私は, 静恵の期待に応えようと, 必死だった.
私たちは, 数えきれないほどの不妊治療を経験してきた. 体外受精, 顕微授精. どんなに辛い治療も, 私は純紀のために, そして彼を愛するがゆえに耐え抜いてきた. しかし, 結果はいつも同じだった. 陰性. そのたびに, 私は自分の体は欠陥品なのではないかと, 深く絶望した.
ある日, 純紀が珍しく私の体調を気遣ったことがあった. その時, 私は胸が張り裂けそうな思いで, 彼に治療の辛さを打ち明けた. 彼は私の手を握り, 「ごめん, 蘭子. 辛い思いをさせているな」と優しい言葉をかけてくれた. その瞬間, 私は彼の愛を信じ, この苦労も報われると心から思った.
しかし, その温かい言葉は, 長くは続かなかった. その夜, 純紀が私に寄り添おうとした時, 彼のスマートフォンが鳴った. 画面に表示されたのは「泉実」という文字. 純紀は一瞬躊躇したが, すぐに電話に出た.
「泉実, どうしたんだ? 」純紀の声は, 私に話しかける時とはまるで違う, 甘く, 優しい声だった. 電話の向こうから, 泉実の甘ったるい声が聞こえてくる. 「純紀さん, あのね, 今日の撮影, すごく大変だったの. 私, もう疲れちゃった…」泉実の声は, まるで子供が親に甘えるかのように, 純紀の心を掴んでいた.
純紀は私の隣に座っていたにもかかわらず, まるで私など存在しないかのように, 泉実の言葉に耳を傾けた. そして, 私の目をまっすぐに見つめながら, 言った. 「泉実, 今から行くからな. 大丈夫だ, 俺がそばにいる」その言葉は, 私に向けられることは決してなかった.
純紀は立ち上がると, 急いで部屋を出て行こうとした. 「純紀さん, どこへ…」私は思わず声を上げた. しかし, 純紀は振り返ることなく, 玄関のドアを開けた. 「泉実の様子がおかしい. 今夜は帰れないかもしれない」
その言葉が, 私の心に深く突き刺さった. 私の体は, 鉛のように重くなった. 私はただ, 純紀の背中が遠ざかるのを, 呆然と見つめるしかなかった. 彼は, 私という存在を, 本当に愛しているのだろうか? この結婚は, 私にとって一体何なのだろうか? 自問自答を繰り返す夜は, いつも途方もなく長かった.
翌朝, 私は純紀の命令で起こされた. 彼の声は, 電話越しでも冷酷だった. 「蘭子, 今すぐ出社しろ. お前しかできない仕事がある」
私はまだ身体の傷が癒えていない上, 心も疲弊しきっていた. しかし, 純紀の命令は絶対だ. 私は急いで支度を始めた. 昨夜のパーティーで負った傷がまだ痛む. 着替えの際, 右腕の傷口が服に擦れ, 思わず顔を歪めた. ヒールを履こうとした時, 足首に違和感. 昨夜, ドローン落下時にバランスを崩した際に捻ったのかもしれない.
私は痛みを堪えながら, 玄関に向かった. 純紀の車が, すでにエントランスに停まっている. 私は車に乗り込むと, 助手席に泉実が座っているのが見えた. 泉実は, 私を一瞥すると, すぐに純紀に甘えた声で言った. 「純紀さん, 蘭子さん, 遅いね. もうちょっと早く来られないのかな? 」
純紀は, 私の存在を無視するように, 泉実の髪を優しく撫でた. 「泉実, 大丈夫だ. 少し待とう」泉実が後ろを指差した. 「蘭子さん, 後ろの席, 空いてるよ」
私は何も言わず, 後部座席に座った. 私の存在は, 最初から彼の視界には入っていなかったのだ. 純紀は, 泉実のために, 保温ジャーに入れたスープを用意していた. 彼は, 泉実の口元にスプーンを運び, 優しく食べさせている.
「美味しい? 泉実. 蘭子が丹精込めて作ったんだ」純紀は, 泉実の顔を覗き込みながら, 得意げに言った.
私は, 息を飲むような苦しさを感じた. それは私が, 純紀のために, 彼の健康のために, 毎朝早く起きて作ったスープだ. それが今, 泉実の口へと運ばれている. 私の存在は, ただ食材を調達し, 準備するだけの「道具」でしかなかったのだ.
泉実は, 私が差し出したスープを美味しそうに食べながら, 純紀の腕に体を寄せた. 私は, 後部座席でただ, その光景を眺めていた. 私の心は, 完全に空っぽになっていた. この男は, 私を本当に愛してなどいない. 彼は, 私をただの便利な存在として, 彼の人生の一部として扱っているに過ぎない.
目的地に着くと, 純紀は泉実を抱きかかえるようにして車から降りた. 私はまだ, 後部座席に座ったままだった. 純紀はちらりと私を見て, 「蘭子, 少しここで待っていてくれ」と言い残し, 泉実と共に建物の中へと消えていった.
私は一人, 車の中に残された. 窓の外では, 太陽が眩しく輝いていた. しかし, 私の心の中は, 深い闇に覆われていた. 私の身体は, 痛みに蝕まれ, 私の心は, 絶望に打ちひしがれていた. 私はもう, 純紀に何も期待しない. 何も求めない. 私はただ, この場所から, この関係から, 逃げ出したかった.
話 3
車内に一人取り残された私は, 窓の外の光景をぼんやりと眺めていた. 純紀と泉実が消えた建物は, 柏木リゾートの別館だ. 私は, この別館の広報戦略も担当していた. しかし, 今の私には, そのすべてが遠い世界のことのように感じられた. 車のドアはロックされ, 窓も固く閉ざされている. まるで, 私がこの車内に閉じ込められているかのように.
時間が経つにつれ, 車内の空気は重く, 息苦しくなっていった. 私の体は, まだ完全に回復していない. 左頬の傷, 右腕の痛み, そして足首の捻挫. これらの痛みが, 密閉された空間でさらに増幅されるようだった. 私は浅い呼吸を繰り返したが, 酸素が足りないような感覚に陥った. 視界がかすみ, 頭がくらくらする. 私は, 意識が遠のいていくような感覚に襲われた.
その時, 突然, 車のドアが勢いよく開いた. 冷たい外気が, 私の顔を撫でるように吹き込んできた. 私は大きく息を吸い込み, 途切れていた意識を必死で繋ぎ止めた. 目の前には, 純紀と泉実が立っていた. 彼らの顔からは, 楽しげな雰囲気が漂っていた.
「蘭子, 待たせて悪かったな」純紀はそう言ったが, その声には何の悪気も感じられなかった. 泉実は, 純紀の腕にぶら下がるようにして, 私をちらりと見た. 彼女の手には, 私がさっきまで後部座席で見ていた, 保温ジャーが握られていた.
泉実は, 純紀の口元にスプーンを運び, 残りのスープを食べさせている. 「純紀さん, 本当に美味しいね, このスープ. 蘭子さん, 料理上手だもんね」泉実は, 私に聞こえるように, わざとらしくそう言った.
純紀は泉実の言葉に満足げに頷き, 「ああ, 蘭子はそういうところは優秀だからな」と私を見下ろすように言った. 私の心臓は, またしても凍りついた. 彼は, 私をただの料理人としてしか見ていない. 私の努力も, 愛情も, 彼にとっては「便利」な才能でしかなかったのだ.
車は再び走り出した. 目的地は, ホテル本館のエントランスだった. 純紀は車が停まると, 私の方に振り返った. 彼の視線は, 冷たく, そして命令的だった. 「蘭子, ここから先は, 君は入らない方がいい」
私は彼の言葉に, 何も反応できなかった. 純紀は続けた. 「君の顔の傷, まだ完全に治っていないだろう. こんな姿で本館のエントランスに立つのは, ホテルのイメージに良くない. 客に不安を与える」彼はそう言って, 私の顔を指差した. 「今日, 本館では海外のVIPを招いた重要なレセプションがある. 君は別館の非常口から入って, エレベーターで直接, 広報部のあるフロアに向かってくれ」
彼の言葉は, 私を公の場から排除する命令だった. それは, 私を柏木リゾートの人間ではないと, 妻ではないと, 宣言しているかのようだった. 純紀は, 私という存在が, 彼にとって, 柏木リゾートにとって, 邪魔でしかないのだと, はっきりと私に伝えた.
私は一言も発することなく, 車から降りた. 純紀は, 泉実を抱きかかえるようにして, ホテルの正面玄関へと向かっていった. 私は, 彼らの背中が見えなくなるまで, ただじっと立っていた.
私が向かうべきは, 別館の非常口. そこから入り, エレベーターで広報部に直行しろ, と純紀は言った. しかし, 別館のエレベーターは, 特定のセキュリティカードがなければ, 広報部のあるフロアには停止しない. そして, そのカードは, 私の手元にはない. 私のカードは, 数ヶ月前に「セキュリティ強化のため」という名目で回収され, 新しいカードは泉実に渡されていた. 泉実には, 私の広報部での業務のすべてが引き継がれていたのだ.
「泉実には, 私の仕事のすべてを教え込んでくれ. 君は優秀だからな」純紀は以前, そう私に言った. 私は彼の言葉を信じ, 泉実に広報部での業務のすべてを教え込んだ. 契約交渉のノウハウ, 危機管理マニュアル, 国内外のVIPリスト…私の持つすべての知識と経験を, 惜しみなく彼女に伝授した. しかし, 彼女は私の知識を吸収するどころか, ただそれを「自分の手柄」として純紀に報告するだけだった.
私は別館の非常口の前に立った. 重い鉄製のドアを開け, 薄暗い階段を上り始めた. 一歩, また一歩. 私の足首の痛みは, 階段を上るたびに増していく. ヒールの踵が, 階段の石段にカツン, カツンと響く. その音は, 私の心臓の鼓動と重なり, 私をさらに苦しめた.
「蘭子, 大丈夫? 」不意に, 背後から優しい声が聞こえた. 私は振り返った. そこに立っていたのは, 広報部の若手社員, 田中だった. 彼は心配そうに私の顔を見つめている.
「田中くん…どうしてここに? 」
田中は, 私の腕の傷と, 顔の傷に目を向けた. 「蘭子さんの怪我, 大丈夫ですか? 純紀社長から, 蘭子さんは今日, 別館の非常口から入るように言われたと聞きました. でも, 蘭子さんのセキュリティカードが使えないことを知っていたので…」彼はそう言って, 自分のセキュリティカードを差し出した. 「これを使ってください. 僕が広報部のフロアまでご案内します」
私は田中の優しさに, 思わず涙が出そうになった. しかし, 私は感情を押し殺し, 彼のカードを受け取った. 「ありがとう, 田中くん. 助かるわ」
田中はエレベーターのボタンを押し, 広報部のあるフロアへと向かうエレベーターに私を案内してくれた. エレベーターが目的のフロアに着くと, 私は田中にお礼を言い, 一人で広報部のオフィスへと向かった.
オフィスに入ると, すでに数人の社員が慌ただしく動いていた. 彼らは私の顔を見ると, 驚いた表情を浮かべた. その中の一人が, 私に駆け寄ってきた. 「蘭子部長! 一体どうされたんですか, その怪我…」
私は彼らの心配そうな顔を見て, 胸が締め付けられるような思いがした. 私は彼らに, 純紀の「客が動揺するから裏口から帰れ」という言葉を伝えることはできなかった. 私はただ, 笑顔を作り, 「大丈夫よ. 少し転んだだけだから」と答えた.
その時, オフィスのドアが開いた. そこに立っていたのは, 純紀と泉実だった. 泉実は, 純紀の腕に寄り添い, 満面の笑みを浮かべていた. 彼女は, 私を見るなり, わざとらしく目を見開いた. 「あら, 蘭子さん! もう出社していたのね! 顔の傷, 大丈夫? でも, 今日のレセプションは, 私が純紀さんと一緒に頑張るから, 蘭子さんはゆっくり休んでてね! 」
泉実の言葉は, 私の心を深く切り裂いた. 彼女は, 私が今日のレセプションの準備にどれほどの労力を費やしたかを知っているはずだ. しかし, 彼女は, 私の努力のすべてを, 自分の手柄として横取りしようとしている. そして, 純紀は, その光景をただ黙って見ているだけだった.
「泉実, 今日のレセプションでは, 君がメインだ. 蘭子は裏方に回って, サポートに徹してくれ」純紀は, 私にそう言った. 彼の声は, 冷たく, そして命令的だった. 彼は, 私という存在を, もはや彼の妻としてではなく, ただの「裏方」としてしか見ていない. 私の心は, 完全に砕け散った.
私は, 何も言わずに純紀と泉実の背中を見つめていた. 彼らは, まるで新婚夫婦のように, 楽しそうにレセプション会場へと向かっていった. 私は, その場に立ち尽くし, 私の心に残された, 最後の希望の光が消えていくのを感じていた.