話 1
私は、番いの儀式の祭壇に立っていた。隣には、この群れのベータである蓮(れん)がいる。そして、絶対的権力者であるアルファの王、大雅(たいが)様が、私たちを見据えている。
しかし、儀式が始まろうとしたその瞬間、蓮は私を祭壇に置き去りにした。彼が保護したという、か弱い野良の女、真理奈(まりな)のために、森へと走り去ってしまったのだ。
私はたった一人、屈辱に耐えるしかなかった。その時、幹部用の公的な思念会話チャンネルを通じて、全ての者の耳にメッセージが届いた。蓮からだった。真理奈が自殺を図り、そばを離れられない、と。
それどころか彼は、この「騒ぎ」について、私の口からアルファの王に謝罪しろと命じてきたのだ。
六年間愛し、昨夜も永遠を誓ってくれた男が、嘘のために私の誇りを売り渡した。大陸中の笑いものにされたのだ。
その夜、すすきののバーで悲しみに溺れていた私は、アルファの王その人と鉢合わせした。ウイスキーと失恋に煽られ、私は無謀な提案をした。
「彼はもう、私をいらないって。……アルファ様、今夜、私が欲しいですか?」
驚いたことに、彼は頷いた。そして彼の腕の中で、私は衝撃的な真実を知る。アルファの王、元婚約者の叔父こそが、私の「運命の番」だったのだ。私の復讐が、今、始まった。
第1章
絵里奈(えりな)視点:
儀式用のドレスが、ずしりと肩に重い。銀糸の一本一本が、私を縛る鎖のようだ。
私は白川(しらかわ)パックの聖域に、満月の監視下で立っていた。今夜、私はこの群れのベータである蓮の番になるはずだった。私たちの結びつきは、自分たちの群れだけでなく、絶対的な支配者である月詠(つくよみ)パックも見届ける、盛大な儀式になるはずだった。
月詠パックのアルファの王、大雅様が、広場の端に置かれた彫刻の玉座に腰掛けている。その存在感は静かでありながら圧倒的で、空気さえも重く張り詰めていた。
蓮は私の隣に立っていたが、心はここにあらずだった。彼の目はどこか遠くを見つめ、焦点が合っていない。人狼なら誰もが持つテレパシー能力、思念会話のかすかな響きを感じる。それは頭の中に響くプライベートな回線、月の女神からの贈り物。彼は誰かと話している。それは、私ではなかった。
「蓮」
私はささやいた。かろうじて木の葉が擦れる程度の声で。
「長老がもう始めるわ。女神様に敬意を払って」
彼はびくりと肩を揺らし、ようやく私に視線を向けた。そこに愛はなく、ただ焦りだけがあった。そして、彼の声が冷たく、切羽詰まった響きで私の頭の中に流れ込んできた。
(真理奈が危ない。行かなきゃ。三十分だけ時間をくれ)
血の気が引いた。真理奈。彼が拾ってきた、か弱い野良の人狼。彼を崇拝するような大きな瞳で見つめる、あの女。
私が状況を理解する前に、彼は動き出していた。
「ベータ、蓮!どこへ行く!」
長老の一人が、非難を込めた鋭い声で叫んだ。
「行かねばなりません!」
蓮の声は大きく、張り詰めていた。彼は私を見ず、誰の顔も見ず、ただ広場の向こうの暗い森だけを見つめていた。
「蓮、やめて!」
私は彼の腕を掴もうと手を伸ばしたが、彼はもう行ってしまった。
唸り声と嗚咽が混じったような音と共に、彼は狼の姿に変わった。骨が砕け、再構築されるおぞましい音が、恐怖に静まり返った広場に響き渡る。ほんの数秒で、婚約者がいた場所には大きな茶色の狼が立っていた。彼は罪悪感に満ちた視線を一度だけ私に向けると、木々の間へと消えていった。
彼は、もういない。
二つの群れの目の前で、アルファの王の目の前で、私をたった一人、番いの儀式の祭壇に置き去りにして。
心臓が肋骨を激しく打ちつける。何年も育んできた、私たちだけのプライベートな思念会話で彼に呼びかけた。
(蓮?どこにいるの?何があったの?)
沈黙。彼はそれを断ち切った。私を完全に締め出したのだ。
絶望的な考えが、心をかきむしる。彼は、他の女のために、皆の前で私に恥をかかせた。
彼が求めた三十分は、永遠のように感じられた。群衆のささやき声は次第に大きくなり、憐れみと軽蔑の波が私を飲み込もうとしていた。ついに、新たなメッセージが私の頭の中に響いた。蓮からだったが、それはプライベートな回線ではなかった。彼が送ってきたのは、群れの幹部だけが使える公用の思念会話チャンネル。私が彼の婚約者だからという理由だけで参加を許されていたチャンネル。そして、アルファの王も間違いなくそのチャンネルに参加している。
彼の声は冷たく、無機質で、そして、この上なく屈辱的だった。
(真理奈が自らの命を絶とうとした。私は彼女のそばを離れられない。絵里奈、長老たちとアルファの王に、この騒ぎについて私の代わりに謝罪しておけ)
彼の代わりに謝罪しろって?この屈辱の、代弁を?
昨夜の記憶が蘇る。彼は私を強く抱きしめ、肌に約束を囁いた。「絵里奈、お前は俺の唯一のベータの女だ。永遠に」
嘘。全てが、嘘だった。
群衆の顔を見渡す。弱いオメガへの憐れみと、公然と捨てられた愚かな女への侮蔑が入り混じった表情。泣いてやるものか。彼らに満足感など与えない。
嵐のような心を鎮めることもできず、私は深く息を吸った。重いドレスの裾を集め、長老たちが立つ高い壇上へと一人で歩いていく。世界が崩れ落ちていく中でも、足取りだけは確かだった。
声は震えていたが、静まり返った広場にはっきりと、そして最後の言葉として響き渡った。
「ベータである蓮との婚約を、これにて破棄いたします」
話 2
絵里奈視点:
群衆から一斉に息を呑む音がした。長老たちが質問を叫び始めたが、その混沌としたざわめきは私の耳には届かなかった。私は儀式に、囁き声に、アルファの王の憐れむような視線に背を向け、歩き去った。
戻ってこいという呼びかけを無視して、聖域を後にした。群れのメンバーを近くの人間の街まで送迎するハイヤーを見つけて乗り込むと、私の心は痛みで真っ白になった。途中、冷たく硬い決意が腹の底に宿った。
「引き返してください」
私は運転手に言った。
「癒しの舎へ」
癒しの舎は群れの病院で、いつも乾燥した薬草と消毒液の匂いがする場所だ。私は正面玄関で止まらず、まっすぐ奥の個室へと向かった。心臓が猛烈なリズムを刻んでいた。
一番奥の部屋で、彼女を見つけた。真理奈。
彼女はベッドの端に腰掛け、儀式の後に私が着替えるはずだったものとよく似た、簡素な白いガウンを着ていた。片方の手首には分厚い包帯が巻かれていたが、血と治癒薬の甘ったるい匂いがまだ空中に漂っている。
彼女は私を見ると目を丸くし、その奥に恐怖、あるいは勝利の光がちらついた。彼女はすぐに蓮の後ろに隠れ、怯えた子供のように彼に腕にしがみついた。
蓮は最初、私に気づかなかった。彼は彼女の世話を焼き、ドアに背を向けていた。しかし、真理奈が身をすくめたとき、彼の頭が跳ね上がった。彼の体は硬直し、狼の本能が即座に表面化して、彼女を私から守ろうとした。低い唸り声が彼の胸で響いた。
「ここで何をしている?」
彼は唸った。
私は彼を無視した。私の視線は冷たく鋭く、真理奈に突き刺さっていた。
「死にかけてるって聞いたから。見に来てあげたの。野良は見た目よりタフみたいね」
真理奈の目に涙が浮かんだ。彼女の声は哀れで、震えるようなささやき声だった。
「ごめんなさい……蓮があなたを置いていくなんて、思ってもみなかった……ただ……彼を愛してるの」
言葉は謝罪だったが、その口調は純粋な勝利宣言だった。彼女は見せつけていた。彼が約束された番である私ではなく、流れ者の彼女を選んだことを。
私の中で、何かがぷつりと切れた。
完璧で従順なオメガとして、彼のためにプライドを飲み込んできた長年の日々が、怒りの炎の中で消え去った。私は前に飛び出した。私の手が彼女の頬を打つ。その乾いた音は、静かな部屋に響き渡った。
真理奈が悲鳴を上げた。
蓮が咆哮した。それは人間の声ではなかった。純粋で、抑制の効かない狼の怒りだった。
「気でも狂ったのか!」
彼は叫び、無慈悲な一突きで、私を部屋の向こうへと突き飛ばした。
話 3
絵里奈視点:
私の背中は、薬草の入ったガラス瓶が並ぶ重い木製の棚に叩きつけられた。背骨に沿って、鋭く、目もくらむような痛みが爆発する。オメガである私にとって、ベータの力は圧倒的だ。私は床に崩れ落ち、肺から空気が押し出された。
「狂ってるのはどっちよ?」
私は喘ぎながら、悲鳴を上げる体を無理やり起こした。
「あなたよ!正気を失ってるのはあなたの方じゃない!」
私の声はヒステリックな金切り声になった。
「あなたは月の女神の前で私に誓ったのよ!アルファの王と二つの群れの嘲笑を、か弱いオメガの私一人に受けさせて!」
「いつからそんなに物分かりが悪くなったんだ?」
蓮は怒りに顔を歪めて言い返した。
「お前はこんなじゃなかった!」
「公衆の面前で屈辱を味わわされたことなんてなかったからよ!」
私は叫んだ。
「儀式は延期すればいい!」
彼は、今や両手で顔を覆って泣きじゃくる真理奈を指差して、めちゃくちゃに身振り手振りしながら反論した。
「俺の名声なら、少しの遅れくらいどうにでもなる。だが彼女の命はそうはいかない!俺が来なければ、彼女は死んでいたんだぞ!」
私は苦々しく、壊れたような笑い声を上げた。それは絶望に満ちた、醜い音だった。野良の安っぽい芝居に、彼は完全にはまってしまった。彼は嘘のために、私の名誉を売り渡したのだ。
その瞬間、彼への愛の最後の欠片が死んだ。それは私の胸の中で枯れ果て、灰になった。自分の番の名誉さえ守れない男に、番を持つ資格などない。
奇妙な静けさが私を包んだ。私は背中のズキズキする痛みを無視して、まっすぐに立ち上がった。彼の目をまっすぐに見つめ、私の声は氷のように冷たく、平坦だった。
「蓮、私たちの婚約は、正式に破棄します」
私は振り返らずにドアに向かって歩いた。彼にこれ以上、私の人生の一秒たりとも与えるつもりはなかった。
戸口にたどり着いたとき、真理奈の甘ったるい声が聞こえた。
「蓮、彼女を追いかけた方が……」
そして、彼の返事が聞こえた。傲慢さと軽蔑に満ちた声だった。
「放っておけ。たかがオメガだ。数日もすれば泣きついてくるさ」