話 1
「お願い、電話に出て……」
震える指でスマートフォンの画面をなぞるが、ひび割れたガラスが指先を切り裂き、鋭い痛みが走る。血が滲むのも構わず、凛は夫である暁の短縮ダイヤルを必死に探した。
冷たい雨が容赦なくアスファルトを叩き、凛の全身から体温を奪っていく。数分前に起きた玉突き事故で、彼女の車は見るも無惨な姿になり、自身も額から流れる血で視界が赤く染まっていた。
雨粒が画面に落ち、誤作動を起こす。焦りが胸を締め付け、呼吸が浅くなる。三度目の操作で、ようやくコールが始まった。無機質な呼び出し音が、雨音に混じって耳に響く。一秒が永遠のように感じられた。
「はい、西園寺の秘書室、小林です」
ようやく繋がった電話から聞こえてきたのは、期待していた夫の声ではなく、彼の秘書である小林誠の冷徹な声だった。心臓が氷水に浸されたように冷たくなる。
「……私です、凛です。事故に、遭って……」
震える声でかろうじて伝えると、電話の向こうでわざとらしい溜め息が聞こえた。
「奥様。社長は今、大事な会食中です。そのようなことでお気を引こうとするのはおやめください」
「違う、本当に……」
「毎回毎回、同じような手は通用しませんよ」
小林は凛の言葉を冷たく遮り、侮蔑を隠そうともしない声で吐き捨てた。
「嘘はやめてください。迷惑です」
ブツリ、と一方的に通話が切られる。ツーツーという音が、降りしきる雨の音に溶けて消えていく。世界にたった一人取り残されたような、底なしの孤独が凛を突き落とした。
もう一度、と画面をタップしようとした瞬間、バッテリー切れで真っ暗になった。唯一の希望だった蜘蛛の糸が、目の前で断ち切られた。
「大丈夫ですか!しっかり!」
救急隊員が駆け寄り、凛の肩を支える。だが、凛の耳にはもう何も届いていなかった。夫は、来ない。その事実だけが、冷たい雨のように心に染み渡っていく。虚ろな目で、凛は小さく首を横に振った。
その時だった。
交差点の角に立つ巨大なビルの壁面、その大型ビジョンが、眩い光と共にニュース速報を映し出した。
『速報:西園寺グループCEO、西園寺暁氏が都内高級ホテルに……』
凛は思わず息を呑んだ。画面に映し出されたのは、ついさっきまで自分が必死に助けを求めていた夫の姿だった。
『本局の記者が以前からマークしていた都内高級ホテル前で、ついに決定的な瞬間を捉えました。お相手はかつて天才と謳われたジュエリーデザイナー……』というアナウンサーの興奮した声が、現場の喧騒を貫いて凛の耳に突き刺さる。事故現場からわずか数キロしか離れていないその場所で、彼は別の女と一緒にいたのだ。
高級ホテルのエントランスから現れた暁の腕には、一人の女性が寄り添っていた。見知らぬ女ではない。橘絢子。暁の初恋の相手であり、今もなお彼の心を掴んで離さない女。
フラッシュの嵐の中、暁は怯える絢子を庇うように強く抱きしめる。その光景に、凛の心臓が物理的に抉られるような激痛が走った。絢子は怯えたふりをして暁の胸に顔を埋め、暁はそんな彼女の頭を、慈しむように優しく撫でる。
ニュースのテロップが追い打ちをかける。『――初恋の相手と深夜の密会か』
その文字を見た瞬間、凛の瞳から、堪えていた涙が血と共に流れ落ちた。
血と泥にまみれた自分の姿と、華やかな光の中にいる二人。その残酷な対比が、凛の惨めさを際立たせる。膝から崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。
「こちらへ、救急車に!」
隊員が肩を支えようとするが、凛はその手を振り払った。これ以上、誰かに惨めな姿を見られたくなかった。唇を強く噛み締め、涙を乱暴に拭う。
もう、あのビジョンは見ない。
ふと、一台の空車のタクシーが目に留まった。凛は痛む腕を無理やり上げ、合図を送る。
水しぶきを上げて止まったタクシーの運転手は、血だらけの凛を見て、怪訝な顔で窓を閉めようとした。その隙間に、凛は財布から取り出した一万円札をねじ込んだ。
「お願いします」
無理やりドアを開けて後部座席に滑り込む。運転手は舌打ちをしながらも、アクセルを踏んだ。
「どちらまで?」
「……西園寺邸へ」
バックミラー越しに訝しげな視線が注がれる。凛は冷え切った目でそれを睨み返し、運転手を黙らせた。
窓ガラスに映る自分の、傷だらけで見るも無惨な顔。自嘲の笑みが浮かぶ。
七年間、この日のために生きてきたわけじゃない。でも、七年間の献身が、すべて無意味だったという事実は、もう揺るがない。
胸の奥で、何かが決定的に、音を立てて壊れた。
暁が絢子に向けた、あの優しい眼差し。それを思い出すたびに、爪が手のひらに食い込むほど、強く拳を握りしめた。
やがてタクシーは、重厚な鉄の門の前に停まった。凛は残りの紙幣を運転席に投げ渡し、よろめきながら車を降りる。足元がふらつき、水たまりに膝をついた。泥が、さらに彼女を汚していく。
見上げた屋敷からは、温かい光が漏れていた。でも、もうあそこは、自分の居場所ではない。
凛の瞳から、最後の光が消えた。
ゆっくりと立ち上がり、感情をすべて捨て去った冷たい足取りで、凛は決別のために、その門をくぐった。
話 2
重いオーク材の扉を押し開けると、玄関ホールに立っていた家政婦の鈴木千代が、凛の姿を見て短い悲鳴を上げた。
「奥様!まあ、なんてお姿に……!」
千代は慌てて駆け寄り、清潔なタオルで凛の額の血を拭おうとする。しかし凛は、力なく首を振ってそれを拒んだ。
「旦那様に、すぐに連絡を……!」
電話へ向かおうとする千代を、凛は冷たい声で制止した。
「……必要ありません」
「しかし!」
心配のあまり、千代は凛の制止を振り切って固定電話の受話器を取り上げた。奇跡的に、その電話は暁に繋がった。
涙声で凛の怪我の状況を訴える千代。電話の向こうで、一瞬の沈黙が流れた。壁に寄りかかりながら、凛は無表情のまま、暁が何を言うかに耳を澄ませていた。
やがて、受話器からくぐもった声が漏れ聞こえてくる。
「……大袈裟に騒ぐな。今、帰る」
その低く吐き捨てるような声に、凛の心はさらに凍てついていく。
千代が安堵して救急箱を取りに走る隙に、凛は濡れた靴を脱ぎ捨て、冷たい大理石の廊下を歩き始めた。一歩踏み出すごとに、事故の衝撃を受けた全身の筋肉が悲鳴を上げる。特に額の傷口は脈打つように痛み、視界がぐらりと揺れた。それでも凛は壁に手をつき、歯を食いしばってリビングのソファに深く沈み込む。豪奢だが、生活感のない部屋。この家に嫁いで七年、改めてここが自分のいるべき場所ではないと痛感した。
その時、玄関のドアが乱暴に開く音がした。
苛立った足取りでリビングに現れたのは、西園寺暁だった。彼の視線が、血に濡れた凛を一瞥する。だが、そこに心配の色はなく、むしろ迷惑だと言わんばかりに眉がひそめられた。
『どうせいつもの気を引くための狂言だろう。少し顔を出して、適当に宥めたらすぐに絢子の元へ戻ろう』。暁の苛立たしい歩調からは、そんな身勝手な本音が透けて見えた。実際に血にまみれた凛の姿を見ても、彼は『ここまで巧妙に偽装して俺を縛り付けようとするのか』と、捻じ曲がった解釈しかできないようだった。
「お父さん!」
暁の背後から、六歳になる娘の桜子が飛び出してきた。不満げな顔で、父親の足に抱きつく。
桜子はソファに座る凛の姿を認めると、露骨に顔をしかめた。
「うわ、血が出てる。気持ち悪い」
その言葉が、凛の胸に突き刺さる。傷ついた心で、それでも娘に手を伸ばそうとした。
だが、桜子はその手を避けるように、さっと暁の背中に隠れた。
「お母さんの怪我のせいで、絢子おばちゃんと遊ぶ時間が短くなっちゃったじゃない!」
甲高い声が、リビングに響き渡る。伸ばした凛の手が、空中で虚しく震え、力なく落ちた。
暁は、そんな娘をたしなめることすらしなかった。
「我慢しなさい」
そう言い放っただけで、凛への配慮はひとかけらも感じられない。
「……あなたにとって、私は何なの」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど低く、冷たかった。
「疲れているんだ。話は後だ」
暁は会話を打ち切るように言った。
そこへ、千代が救急箱を持って戻ってくる。だが、リビングの険悪な空気に怯え、立ちすくんでしまった。
暁は千代の手から乱暴に救急箱をひったくると、大きなため息をつきながら、凛の前にドカッと腰を下ろした。
無言で消毒液の蓋を開ける。その手つきはどこまでも乱暴で、愛情など微塵も感じさせない、ただの義務だった。
消毒液を浸した綿が、傷口に押し当てられようとした、その瞬間。
「……触らないで」
凛は、暁の手を冷たく払い除けた。初めて見せる、明確な拒絶だった。
「なっ……!」
拒絶されたことに驚きと怒りを滲ませ、暁が目を丸くする。
「いい加減にしろ!素直に手当てを受けろ!」
威圧的な怒鳴り声が、凛の頭上で炸裂した。
その声に便乗するように、桜子が叫ぶ。
「お母さん、わがまま!絢子おばちゃんはもっと優しいのに!」
娘からの、決定的な裏切りの言葉。
その一言で、凛の瞳から光が完全に消え失せた。そこにはもう、何の感情も映らない。ただ、漆黒の虚無が広がっているだけだった。
ゆっくりと、凛は立ち上がった。立ち上がる瞬間、目眩が襲い、膝から崩れ落ちそうになったが、彼女は驚異的な精神力で両足を踏ん張った。
そして、自分を見下ろす夫と、自分を拒絶する娘を、見下ろし返した。
その唇に浮かんだのは、氷のような、冷たい笑み。
「……っ」
見慣れないその冷笑に、暁が一瞬たじろぐ。何かを言いかけたが、彼のプライドがそれを許さなかった。
「もう、結構です」
凛は静かにそう言い放つと、二人に背を向け、階段へと歩き出した。ズキズキと痛む頭を抱え、足元がふらつきながらも、決して彼らの前で倒れることだけはすまいと、手すりを強く握りしめた。
「お母さんなんか、大嫌い!」
背中に投げつけられた言葉にも、凛の足取りは一切揺るがない。
凛の姿が、二階の暗い廊下の奥へと消えていく。その背中を、暁は説明のつかない焦燥感と共に、ただ見送ることしかできなかった。
話 3
凛が寝室のドレッサーの前に座り、鏡に映る血の固まった額を無表情で見つめていると、背後でドアが乱暴に開かれた。
救急箱を持った暁が、苛立ちを隠さずに部屋へ入ってくる。
「意地を張るな」
命令口調で言いながら、暁は凛の肩を掴み、無理やり椅子に座らせ直した。凛は抵抗せず、まるで魂の抜けた人形のようにされるがままになる。
暁が、不器用に消毒液を含ませた綿を、躊躇なく傷口に押し当てた。
「……っ!」
焼けるような激しい痛みに、凛の身体がビクッと跳ねる。だが、声は一切出さなかった。ただ、鏡越しに映る暁の顔を、氷のように冷たい目で見つめ続ける。
凛の無反応さに、暁の苛立ちはさらに募った。
「なぜ何も言わない」
舌打ちをして、暁が手を止める。
その瞬間だった。
彼のポケットの中でスマートフォンが震え、寝室に特別な着信音が響き渡った。その音を聞いた途端、暁の険しい顔が瞬時に和らぐ。慌ててスマホを取り出す彼の目に、画面の『絢子』という文字が映った。
それを見た凛の唇の端が、微かに吊り上がった。自嘲の笑みが、静かに漏れる。
暁は凛から数歩離れて電話に出た。
「どうした、絢子」
先程までの彼とは別人のような、甘く優しい声。
電話の向こうで、絢子が泣きそうな声で訴えているのが聞こえる。「階段から転落してしまって……痛くて、動けないの。もしかしたら、骨折してるかもしれない……」
途端に、暁の顔色が変わった。
「すぐに行く。いいか、絶対に動くなよ」
緊迫した声でそう言うと、彼は電話を切った。血の滲む凛の額を一瞥するが、その躊躇いは一瞬で消え去る。
「絢子が怪我をした。手当ては千代にやらせろ」
そう言い放ち、暁は救急箱をテーブルに乱暴に放り投げた。ガシャン、と音を立てて落ちた救急箱から、白い包帯が床に転がり落ちる。暁は、それを拾おうともしなかった。
「……私の頭の傷より、彼女の骨折の疑いの方が、重傷なのですね」
凛が、淡々とした声で問い詰める。
図星を突かれた暁は顔をしかめ、理理不尽な言い訳を口にした。
「彼女は一人暮らしで心細いんだ。お前とは違う」
その時、ドアの隙間から桜子が顔を覗かせた。
「お父さん、絢子おばちゃんのとこ行くの?」
目を輝かせる娘に、暁が頷く。
「私も行く!早くおばちゃんを助けてあげて!」
桜子は父親の背中を押し、そして、振り返って凛に言った。
「お母さんは一人で大丈夫でしょ?」
無邪気な残酷さが、凛の心を抉る。
凛は床に転がった包帯を見つめたまま、感情のない声で答えた。
「ええ。大丈夫よ」
暁は桜子の手を引き、一度も振り返ることなく、足早に寝室から出て行った。
バタン、とドアが閉まる音が部屋に響き渡り、完全な静寂の中に、凛は一人取り残された。
ゆっくりとしゃがみ込み、床に落ちた包帯を拾い上げる。血で汚れた手で、それを強く、強く握り締めた。事故の後遺症か、吐き気が込み上げてきたが、凛はそれを無理やり飲み込む。肉体の痛みなど、もはやどうでもよかった。
鏡の中の自分と、目が合う。
かつて、天才デザイナーと呼ばれた自分。その見る影もない、惨めな姿。強い嫌悪感が込み上げてきた。
凛は洗面所へ向かうと、洗面器に冷たい水を張り、顔についた血と涙の痕を、ゴシゴシと洗い落とした。傷口が開いて再び血が流れるが、心の痛みに比べれば、もはや何も感じなかった。
タオルで顔を拭いた時、凛の瞳から、暁への未練も、桜子への期待も、すべてが完全に削ぎ落とされていた。
クローゼットを開け、暁が買い与えた高級な服を、一枚残らず床に引きずり下ろす。
そして、一番奥に隠してあった箱を取り出した。中に入っていたのは、大学時代に着ていた、安価だが着心地のいい、シンプルなカットソーとジーンズ。
凛はその服に着替えると、鏡の前に立った。
深く、息を吐き出す。
決別のための行動を、今、開始する。