話 2
坂野麻衣子 POV:
「石上先生? 」
久しぶりにかけた恩師の電話口で, 私の声は微かに震えていた. オーケストラへの復帰の可能性を尋ねる私の言葉に, 恩師は少しの沈黙の後, 静かに言った. 「麻衣子. 君がキャリアを捨て, 彼について行くと決めた時, 私は君の才能が惜しくてならなかった」
先生の言葉は, 私の過去の選択の愚かさを改めて突きつけた. だが, 先生の言葉には, どこか温かい響きがあった. 恩師は続けた. 「だが, 復帰を望むのなら, 条件がある. 来月, 私のオーケストラがオーディションを行う. そこを突破してみせろ」
私は迷わず「はい」と答えた. それは, 私にとって新たな人生への挑戦状だった. その夜, 春彦のいない寝室で, 私は久しぶりに安らかな眠りについた. 朝, 目覚めた時の清々しさは, 何年も忘れていた感覚だった. 希望に満ちた朝だ.
だが, その希望は, あっけなく打ち砕かれる. その日の午後, 春彦が予想外に帰宅したのだ. 彼の顔には疲労の色が濃く, どこかやつれているようだった. 彼は私に, 記念日の贈り物だと言って, 小さな紙袋を差し出した.
彼の口から, 箱根でのことやSNSの投稿についての説明や謝罪は一切なかった. 私は紙袋の中を見た. 中には, 可愛らしいラッコのぬいぐるみが一つ. そして, 値札のようなタグがついていた. どうやら, どこかのゲームセンターの景品らしい.
私の心は, 完全に冷え切っていた. これまでの怒りも悲しみも, すべてが凍りついた. 私は静かに言った. 「いらない」
春彦は一瞬戸惑ったが, すぐに苛立ちを露わにした. 「なんだよ, 麻衣子. せっかくお土産買ってきたのに. 千里とのことは, ただの友達だ. 仕事の付き合いで仕方なく行ったんだ. お前こそ, 俺を疑って, わがままばっかり言うなよ」
私は黙って, 腕の中のぬいぐるみをなぞった. ラッコ. そういえば, 私が一番好きな動物だ. 水族館に行きたいと何度も言ったのに, 彼はいつも「時間がない」と断っていた. だが, 千里のためなら, 彼はすべてを放り出して箱根まで行ったのだ. 私の心に, チクチクと痛みが広がった.
私が黙り込むと, 春彦は私が折れたと誤解したらしい. 彼は私の髪を撫で, いつものように言った. 「腹減った. 何か作ってくれ」
その言葉を聞いた瞬間, 私の心の中で何かが弾けた. 彼の言葉は, これまでの私の日常が, いかに偽りだったかを突きつけた. 私は冷たく言った. 「作らない」
春彦の顔が完全にこわばった. 彼は眉間に深いしわを寄せた. 彼は私を抱き寄せ, 無理やりキスをしてきた. 彼のキスは, 私を支配しようとするかのように荒々しかった. 彼は私の弱みを知っている. 私が彼に依存していたことを. 彼がベッドで仲直りすれば, すべて水に流せると思っているのだ.
私は彼を強く突き放した. 私の心はもう冷え切っている. 彼のキスでは, 私の体はもう燃え上がらない. 私は黙って, テーブルの引き出しから離婚届を取り出した. それを春彦の目の前に差し出し, 言った. 「これに署名して」
春彦の顔は, 完全に怒りに歪んだ. 「麻衣子, お前, 何を言ってるんだ? 千里が言ってた通り, お前は本当に幼稚な女だな! これを脅しだと思っているのか? 望むなら, いつでも受けて立つぞ! 」
彼は乱暴にペンを奪い取り, 署名した. そして, 誰かに電話をかけ, 「ああ, 離婚届の証人になってほしい. 頼む」と告げた. 彼は私を冷たい目で見つめ, 言った. 「どうせ後で後悔するさ」
春彦は客用寝室へと入っていった. その直後, 千里のSNSが更新された. 「春彦さん, お仕事お疲れ様でした. 私, ずっと応援してるよ! 」
私は鏡を見た. 憔悴しきった自分の顔が映っている. 千里よりも, 私は若い. だが, 春彦は千里を「若い子」と呼んでいた. 愛とは, こんなにも残酷なものなのだろうか. 私は知っていた. この関係は, もうすぐ終わる.
春彦は私との冷戦を始めた. 帰宅は遅くなり, 私たちはほとんど会話を交わさなくなった. だが, 私はもう折れない. 千里のSNSには, 毎日春彦との親密な様子が投稿された. 一線を越えたとしか思えないような曖昧な内容ばかりだ. だが, 不思議と, 以前のような苦痛は感じなかった.
私はスマートフォンをそっと閉じ, 勉強に集中した. 春彦を中心に回らなくなったことで, 私には時間ができた. 勉強の傍ら, 私は街を散策した. かつて春彦と行きたいと話していたレストランを予約した. そこから見える夜景は, きっと素晴らしいだろう.
私は一人でその景色を楽しむことを想像した. 春彦はいつも忙しかった. この街に来てから, 彼と行きたい場所, したいことのリストがたくさんあったのに, 一つも叶えられなかった. だが, もういい. 私は一人で, このリストを消化する.
ある日, 私は予約したレストランで, 最も会いたくない人物に遭遇した.
話 3
坂野麻衣子 POV:
私は予約したレストランの入り口で固まった. そこにいたのは, 栗田千里と星野春彦だった. 二人は窓際の席に座り, 楽しそうに談笑している. 春彦の後ろ姿からは, 私に向けられたことのないような優しさが滲み出ているように見えた. 彼は千里のために, 皿の上の魚を丁寧にほぐしている.
千里は自然にそれを受け入れ, 一口食べると, まるで世界一美味しいかのように目を輝かせた. 「うーん, やっぱり春彦さんの作ってくれるご飯が一番! ねえ, どう? 私の舌, 春彦さんの味を忘れられなくなっちゃったみたい」
春彦は少し照れたように笑い, 言った. 「どうかな? 俺の腕, 落ちた? 」
彼の背中が, 一瞬強張ったように見えた. 千里は唇を尖らせ, 少し不機嫌そうに言った. 「ねえ, ここって, 春彦さんが麻衣子ちゃんと来たかった場所なんでしょ? もしかして, あの女をまだ未練がましく引きずってるの? 」
千里の視線が, 私のほうを捉えた. 彼女は私に気づいたのだ. 彼女は優越感に満ちた口調で言った. 「麻衣子ちゃん, こんなところで何してるの? まさか, 春彦さんを尾行してるわけじゃないわよね? 」
春彦は即座に言った. 「千里, 何を言ってるんだ. 俺が麻衣子とこんな場所に来るわけないだろ」
私の手は無意識に, 強く握りしめられていた. そうか, 春彦はいつも「用事がある」と言っていたが, その実, 私をこんな高級レストランに連れて行く気など, 最初からなかったのだ. 私は, ずっと部外者だった.
千里は得意げな顔で私を見つめ, 言った. 「ねえ, 麻衣子ちゃん. 私たち, ただの友達だから, そんなに神経質にならなくていいんだよ? 春彦さんは, もう私のものなんだから」
彼女は春彦がほぐした魚を, 大きく一口で頬張った. そのわざとらしい仕草と, 私の神経を逆撫でするような言葉に, 私は苛立ちを感じた. 春彦はいつものように, 千里を子供扱いするように笑い, 彼女の要求に応じた.
千里は勝利者の笑みを浮かべ, 私に気づいたふりをした. 「あ, 麻衣子ちゃんじゃない! まさかこんなところで会えるなんて! 何か用事? 」
春彦は勢いよく振り返った. 彼の目に, 見たことのない緊張が走った. だが, その緊張はすぐに怒りへと変わる. 彼は私を指差し, 言った. 「麻衣子, お前, 何しに来たんだ? 俺のプライベートを詮索するストーカーか? こんな下劣な真似, やめろ! これ以上関係を悪化させたいのか? 」
彼の非難の言葉は, 私の赤くなった目元を見て, 一瞬止まった. 春彦は一瞬ためらい, 隣の空席を引いた. 彼の声のトーンが和らぐ. 「まあ, せっかくだから, 一緒に食事でもしていくか? 」
千里の得意げな笑みが凍りついた. だが, 私の心には, 彼への愛からくる悲しみはもうなかった. ただ, 過去の自分を不憫に思っただけだ. 私は静かに言った. 「ストーカーなんかじゃない. 食事に来ただけだ」
そして, 私は自分の予約席へと向かった. 春彦と千里をまっすぐ通り過ぎ, 窓際の席に座った. そこからは, 春彦の姿は見えなかった. ただ, 煌めく夜景が流れていく. 私は思った. ああ, 春彦のいない世界は, こんなにも素晴らしいのか.
その夜, 春彦は帰ってこなかった. だが, 夜中に珍しく彼からメッセージが届いた. 「食事会が終わった. 変なこと考えるなよ」
ぼんやりとメッセージを見つめる. かつて, こんな報告をどれほど求めていたことか. だが, 今, 私に喜びはなかった. ただ, 皮肉だけを感じた. スマートフォンの画面には, 千里から送られてきたばかりの動画が残っている.
開いてみると, そこには春彦と友人たちが「王様ゲーム」をしている様子が映っていた. 彼らは皆, 大学時代の共通の仲間たちだ. ゲームはなかなか決着がつかない. すると, 千里が突然春彦にキスをした.
キスは長く続いた. 千里は春彦を解放し, 勝利を宣言した. 「やったー! 私, 勝った! 」
千里は春彦の腕に絡みつき, 満面の笑みを浮かべた. そして友人たちに向かって言った. 「みんな, 見た? 私たちの友情は, こんなにも固いんだよ! 」
私は動画の中の春彦を見つめた. 彼はいつも冷静沈着で, 感情を表に出すことはほとんどなかった. こんなふうに緊張したり, 顔を赤らめたりする彼を, 私は見たことがなかった. 春彦にも, こんな激しい感情があったのだ. だが, それは私に向けられたものではなかった.
千里が自慢げに言っていたことを思い出す. 「春彦さんは, 私のために燃えるようなことをしてくれるのよ」
彼女は春彦を愛しているわけではない. なのに, なぜこんな挑発を? なぜ自分からキスまでするのだ? 私の心は, 混乱していた.