話 2
瑛人は眉根を寄せた。今の一言が、聞き間違いであってほしいと一瞬だけ思う。
「何て言った?」
「離婚だ」涼子は、彼を真っ直ぐ見据えたまま、はっきりと繰り返した。
空気が、その場で固まったように動かなくなる。 瑛人は、涼子の瞳をじっと覗き込んだ。かつては優しさを宿していたはずのその目は、今は静かで、波ひとつ立っていない。――駄々をこねているわけじゃない。
ようやく、その事実だけは理解した。得体の知れない焦りが、予告もなく胸の奥にぶつかってくる。瑛人はその感情を煙で誤魔化すように、ゆっくりと煙草をくわえ、火を点けた。そして、唇の端をわざと皮肉げに歪める。「よくもまぁ、そんなことを思いついたな」
三年分、いやそれ以上に積もり積もった痛みが、再び心臓のまわりにびっしり絡みつく。涼子は静かに言った。「あなたの望み通りだと思っただけよ」
瑛人はとうとう抑えきれず、煙草を床に叩きつけ、靴で踏み消した。「雨宮涼子、忘れたのか? この結婚は、お前の兄が片腕と引き換えに手に入れたものだってことを」
涼子の指先がわずかに震え、ぎゅっと丸くなる。それでも声は揺れなかった。「忘れたことなどない!」
――あの日のことは、嫌というほど焼き付いている。当時、恋人同士だったはずの瑛人が、伊藤楓と二人きりで寄り添う姿を撮られた。 妹のためにと兄の神楽空良が瑛人に詰め寄り、そのもみ合いの中で右手を傷めたのだ。
空良は、医師として抜きん出た才能を持っていた。だが、その怪我ひとつで、将来をすべて断ち切られてしまった。
当時この一件は大騒ぎになり、相手の神楽家も名門だったため、面子を失いたくない雨宮家は、神楽家への「けじめ」として、瑛人に涼子との結婚を呑ませた。
涼子はそのときも、瑛人が自分を愛していると信じていた。神楽家にとっても必要な政略結婚。兄がどれほど理不尽な目に遭ったか分かっていながら、それでも彼女はその条件を受け入れた。
「これは、お前たち神楽家が、あれこれ手を尽くしても、求めてきた結婚だ。だったら運命を受け入れて、雨宮家で一生大人しくしてろ」 瑛人の声音は、淡々とした「忠告」の形を取りながら、実際は突き放すように冷たい。
つまり、結婚当初の、あの惜しみない気遣いも優しさも、全部「演技」だった。そのあと意図的に距離を置き、冷たくなっていったのが、本当の彼の感情。
「瑛人。楓のこと、考えたことある? 彼女を巻き込んで、こんな関係を続けるつもりなの」
二人の間に割り込んできた女の心配を、本気でしているわけじゃない。 ただ、もう疲れ切っているだけだ。この終わりの見えない泥沼から、誰よりも自分が抜け出したかった。
「当時、お前たち神楽家が俺に結婚を押し付けた時、楓に不公平だなんて、一度でも考えたか?」 瑛人は目を血走らせて彼女を睨んだ。
その視線には、はっきりとした憎しみと、拭いきれない悔しさが宿っていた。
――憎んでいる。何を? 自分が楓との仲を引き裂いたことを? でも、あの頃「愛している」と言ったのは、他でもないこの人だった。
結婚の時に、もう気持ちは別の人に向いていると一言でも言ってくれていたら――自分だって、彼と結婚するという選択はしなかったかもしれない。
涼子は、彼から視線をそらし、立ち上がった。ソファ横の引き出しを開け、一通の封筒を取り出す。 中から出てきたのは、何度も書き直した跡がある離婚協議書だ。ずっと前から準備だけはしていた。今日ようやく、踏み出す覚悟を決めた。
「離婚したいって言ったのは、思いつきじゃない。ずっと考えてきたこと。 こうして切り出した以上、あなたが同意するって確信もある」 涼子は書類を瑛人の前に差し出し、その手にそっと乗せた。「夫婦だった。だからこそ、せめて最後くらいはきれいに終わらせたいの。 泥仕合だけは、やめましょう」
瑛人は書類に目を落とす。「離婚協議書」という文字が、目に刺さるように映った。紙を握る手に力が入る。「雨宮涼子……さっき俺が言ったこと、全部聞き流したってわけか」
「おばあ様は、もう了承してくださってるわ。『瑛人のことは私が決める』って」涼子は、彼の怒りを真正面から受け止めながら告げる。
瑛人はすでに雨宮家を継ぎ、今や絶対的な権限を持つ当主だ。その彼を、かろうじて制御できる存在がいるとすれば――幼い頃から見てきた、あの一人の祖母だけ。
「よく考えろ。俺たちが結婚した時、財産分与の公正証書を作ったんだ。 離婚しても、お前は一銭も受け取れない。
それに、今の神楽家の状態は、お前が一番よく分かってるはずだ。昔みたいな力はもうない。雨宮家のコネにぶら下がって、なんとか延命してるだけだ。 ここで離婚したら、神楽家がどうなるか……お前にその責任が取れるのか?」
詰め寄るような口調。それなのに、その中に一瞬だけ「心配」の錯覚を覚え、涼子はわずかに戸惑った。
けれど、すぐに気付く。これは心配なんかじゃない、ただの脅しだ。
「神楽家の未来まで、雨宮社長に背負っていただくつもりはありません」涼子は、他人行儀な敬語で距離を取るように答えた。
瑛人の目が、完全に暗く沈む。やがてペンを掴み取ると、夫の署名欄に自分の名を勢いよく書き殴った。そして、書類を涼子の胸元めがけて叩きつける。
「署名はした」 低く笑う。その声には、確信に満ちた嘲りが混じっていた。「だが、この離婚が成立することはない。 ……お前が助けを請いに来るのを、楽しみに待ってるよ」
話 3
瑛人は、冷たい言葉を一言残して去っていった。
涼子は書類を握りしめる。胸は痛むが、それよりも肩の荷が下りた安堵感の方が強かった。
外で車のエンジン音が遠ざかるのを聞き、ふと思い出したように携帯電話を取り出す。番号を押し、呼び出す。
その頃、秘書の佐藤大和は瑛人を乗せ、別荘地を静かに離れていた。
山道にはほとんど人の気配もなく、車内には穏やかな音楽が流れている。瑛人は後部座席で目を閉じ、仮眠をとっていた。
「雨宮社長、先ほど高橋様からお電話がありました。伊藤さんを無事にご自宅までお送りしたとのことです」佐藤が報告する。
「ああ」 返事はそれだけだった。
バックミラー越しに大和は後ろを覗く。表情までは分からないが、別荘を出た瑛人の纏う空気は氷のように冷たく、車内の雰囲気まで重く沈んでいる。
これ以上口を開くまいと思った矢先、スマホが鳴り響いた。
「雨宮社長、奥様からです」佐藤が発信者を見て報告する。
瑛人ははっと目を開けたが、沈黙したままだった。
着信音が鳴り続ける間、大和は迷い、そして意を決して応答した。「奥様?」
「佐藤秘書、雨宮瑛人に伝えて。 離婚協議書にサインしたら、明日、区役所に離婚届を出しに行くわ。 来ないなら、委任状をサインして送ってちょうだい」
(社長が離婚?!)
佐藤は驚き、さらに車内の冷気を強く感じた。
だが瑛人は何も言わないまま、大和はとりあえず応じるしかなかった。「かしこまりました、奥様」
……
瑛人が帰宅しないと分かっていても、涼子はその夜、山中の別荘で過ごした。 翌日も、わざと出勤時間を過ぎるまで待ち、それから自宅に戻り、荷物をまとめた。
かつて二人のために特別に用意された新居。涼子は三年間少しずつ飾り付けてきた家具や小物をすべて処分させ、ゴミ箱へ。持ち出したのは、数着の服と日用品だけだった。
嫁入り道具は、この数年、神楽グループの資金繰りのためにほとんど使い果たされていた。
雨宮家からの品は、持ち出す気になれなかった。
区役所に到着すると、、やはり大和の姿しかなく、瑛人は現れなかった。
「奥様、雨宮社長は本日大変お忙しく――」いつものように大和は言い訳を始めた。
だが涼子は手を上げ、遮った。
もう、こんな自己欺瞞の中で生きたくはなかった。
涼子は登記窓口に進み、用意した書類一式を渡す。
手続きは簡単で、数分で完了した。あとは役所での審査を待つだけだと告げられ、荷物をまとめてその場を後にした。
タクシーを降り、引いたスーツケースを転がしながら、一時的に借りた小さなアパートへ。
家具付きで入居可能だったため、布団を整え、少し休憩してから荷解きを始める。
服をハンガーに掛け、洗面用具を並べ、ソファにぬいぐるみを置き、窓辺に風鈴を吊るす。
その時、ドアチャイムが鳴った。
「どなた?」
ドアを開けると、コートを羽織った長身の若い男性が立っていた。――兄、神楽空良だった。
「お兄ちゃん!」
胸に罪悪感が押し寄せ、涼子は目を上げられずにいた。
しかし空良は気にする様子もなく、優しく彼女の頭を撫でる。「馬鹿な妹だ。辛いことがあったなら、どうして家に帰ってこなかったんだ?」
涼子の涙はもう止まらず、自ら兄の胸に飛び込む。「お兄ちゃん、私、離婚するの。ごめんなさい」
「やっとわかってくれたね。嬉しくてたまらないよ」 空良は変わらず温かく、穏やかに、無条件に彼女を受け入れた。
「でも、神楽家が……」涼子は顔を上げ、兄を見つめる。
瑛人の前ではきっぱりと言い切ったものの、心配がないわけではなかった。
「とっくに言っていたはず、神楽家は俺の責任だ。お前には関係ない」