話 1
夜。大雪が降りしきり、肌を刺すような寒風が山の上を吹き抜けていた。厚く積もった白い雪の上に立っているのは、雨宮涼子ただ一人だった。
腕時計に目を落とす。針は、とっくに三時間前を指し過ぎている。涼子はそっと睫毛を伏せ、胸の奥に広がる落胆を、いつものように押し込めた。——雨宮瑛人は来ない。そのことくらい、とっくに分かっていた。
ここへ来る前から、答えは出ていた。それでも、心のどこかに残ったほんのわずかな期待が、彼女をここまで連れてきた。せめて今日だけは思い出してくれるかもしれない。二人の、結婚記念日を。
ひび割れた唇の端が、かすかに引きつる。胸の中は痺れたように感覚が薄く、もう痛みさえもはっきりとは感じない。
そのとき、不意に頭上で大きな破裂音が鳴り響いた。
反射的に顔を上げる。夜空に、色とりどりの花火が次々と咲き誇っていた。
彼が来た!
花火の光が涼子の瞳を照らし、さっきまで沈んでいた頬に、かすかな色を戻していく。彼女は考えるより先に、山腹のリゾートヴィラへと駆け出していた。
庭のアイアンゲートを押し開けた瞬間、目に飛び込んできたのは——笑い声と怒鳴り声が入り交じる、賑やかな人の群れだった。
三角テントがいくつも張られ、中央には焚き火。飾りつけられたライトが雰囲気を盛り上げ、冬の夜に立ち上るバーベキューの煙が、いかにも温かそうだ。
そしてその中心で。彼女の夫、雨宮瑛人は、自分のコートを別の女に掛けてやり、身を寄せ合っていた。二人は至近距離で見つめ合い、その瞳の中には甘いもの以外、何ひとつ入り込む余地がない。
ドン!
再び大きな花火が頭上で弾ける。赤いバラをかたどった花火の中心に浮かび上がった文字――「楓、誕生日おめでとう!」
同時に、涼子の胸の奥でも何かが爆ぜ、粉々になって散っていく。
彼はまだ覚えているだろうか。まだ若かった頃、ここを「二人だけの秘密の庭だ」と笑ったことを。 これから先、二人の大事な日は全部、ここで一緒に祝おう――そう約束してくれたことを。
細かい痛みが心臓の周りをびっしりと覆い尽くしていく。
「雨宮涼子!なんであいつが来たんだ?」 庭の誰かがようやく彼女に気づき、あからさまな嫌悪と軽蔑を滲ませて声を上げた。
瑛人が素早く視線を向ける。涼子は、込み上げてくる涙を必死に押し戻し、その目を見返した。そこにあったのは、冷え切った無関心だけだった。
伊藤楓は、その反応を横目で確認すると、にこりと笑って前へ出る。「涼子さんも、私の誕生日をお祝いしに来てくれたの?」
涼子はようやく瑛人から視線を外し、楓を見た。
白いニットにデニムパンツ。すらりとした体のラインを控えめに強調するその服装は、気負いがないのにどこか華やかだ。酒のせいか白い頬がうっすらと紅を差したように色づいていて、視線を集めずにはいられない。
対して、自分は......乱れた髪に、形の崩れた大きなダウンコート。鏡を見なくても分かる。疲れ切った主婦そのものだ。
楓は彼女の様子など気にする風もなく、三段重ねの豪華なケーキから自ら一切れを取り分けて差し出した。「来るって知らなかったから、もうご飯はほとんど終わっちゃっててさ。よかったら、ケーキどう?」
ケーキの上に飾られた「愛」の文字が、涼子の目には刺のように痛かった。
「呼ばれてもないのに来てさ、相手にする必要あるの?」楓の友人が、あからさまな敵意を込めて涼子を睨みつける。
「そんな言い方しないでよ。彼女だって、一応は瑛人さんの奥さんなんだから」 楓がたしなめる。
言葉だけは「奥さん」と立てながら、声色はどう聞いても、自分こそが本妻だと言わんばかりだった。
「冗談じゃないよ。あの時、あいつの兄が“手の怪我”で脅して無理やり結婚なんかさせなかったら、今頃、楓と瑛人さんの間に子どもがいてもおかしくないのに」 友人たちは、瑛人と楓の肩を持つように笑い飛ばす。
涼子は、何ひとつ言い返さなかった。ただ、瑛人を見ていた。彼が、自分が連れてきた友人たちに、妻を好き勝手に貶させるのを黙って見ている、その顔を。
冷たく整った横顔。「雨宮家を脅し」という言葉にわずかに眉をひそめただけで、その唇は終始固く結ばれたまま、一言も発しようとはしなかった。
張り裂けそうだった胸の痛みも、無くなって消えた。
「出て行け」涼子は声を張った。女主人としての威勢で。
「誰に言ってるの?ここ、瑛人さんの別荘よ。 まだ自分が、あの“神楽家のお嬢様”だとでも思ってるわけ?」楓の友人がすぐさま噛みつく。
「全員、ここから出て行って。さもないと、本当にここを燃やすわよ」 涼子は楓の友人とやり合うつもりはなかった。その言葉は、まっすぐ瑛人に向けられている。
瑛人の眉が、わずかに寄る。
「私が本気だって、あなたが一番よく知ってるでしょ?」静かな声で、さらに追い打ちをかける。
「奥さん……」瑛人の友人が慌ててなだめようと口を開いた。かつてこのお嬢様がどれほど横暴だったか、骨身に染みて知っているからだ。
「彼女の言う通りにしろ」その言葉を、瑛人があっさり遮った。
「瑛人?」楓は意外そうに彼を見た。
「高橋に、先に送って行かせる」瑛人は楓の顔の高さまで身を屈め、低く柔らかい声で告げた。けれど、その口調に逆らえる余地はない。
「……分かった。じゃあ、涼子さんとはちゃんと話してね。喧嘩は、しないで」
楓は素直に頷き、いつもの「良い女」を演じて念を押す。まるで、ここで感情を荒らげているのが涼子のほうだと言わんばかりに。
涼子は黙ってヴィラの中へ入った。自分が時間をかけて整えた室内のインテリアは、跡形もなく荒らされている。床に散らばるゴミや空き缶を掻き分けるようにして進み、ソファに腰を下ろした。
少し遅れて瑛人が入ってくる。壁にもたれ、煙草に火をつけると、紫煙の向こうから涼子を見下ろした。「雨宮涼子。こんな真似をして、楽しいか?」
いつものように取り乱すことはしなかった。泣き叫ぶことも、責め立てることもなく、涼子はただ静かに彼を見返す。そして、淡々と口を開いた。「雨宮瑛人。 私たち、離婚しましょう」
話 2
瑛人は眉根を寄せた。今の一言が、聞き間違いであってほしいと一瞬だけ思う。
「何て言った?」
「離婚だ」涼子は、彼を真っ直ぐ見据えたまま、はっきりと繰り返した。
空気が、その場で固まったように動かなくなる。 瑛人は、涼子の瞳をじっと覗き込んだ。かつては優しさを宿していたはずのその目は、今は静かで、波ひとつ立っていない。――駄々をこねているわけじゃない。
ようやく、その事実だけは理解した。得体の知れない焦りが、予告もなく胸の奥にぶつかってくる。瑛人はその感情を煙で誤魔化すように、ゆっくりと煙草をくわえ、火を点けた。そして、唇の端をわざと皮肉げに歪める。「よくもまぁ、そんなことを思いついたな」
三年分、いやそれ以上に積もり積もった痛みが、再び心臓のまわりにびっしり絡みつく。涼子は静かに言った。「あなたの望み通りだと思っただけよ」
瑛人はとうとう抑えきれず、煙草を床に叩きつけ、靴で踏み消した。「雨宮涼子、忘れたのか? この結婚は、お前の兄が片腕と引き換えに手に入れたものだってことを」
涼子の指先がわずかに震え、ぎゅっと丸くなる。それでも声は揺れなかった。「忘れたことなどない!」
――あの日のことは、嫌というほど焼き付いている。当時、恋人同士だったはずの瑛人が、伊藤楓と二人きりで寄り添う姿を撮られた。 妹のためにと兄の神楽空良が瑛人に詰め寄り、そのもみ合いの中で右手を傷めたのだ。
空良は、医師として抜きん出た才能を持っていた。だが、その怪我ひとつで、将来をすべて断ち切られてしまった。
当時この一件は大騒ぎになり、相手の神楽家も名門だったため、面子を失いたくない雨宮家は、神楽家への「けじめ」として、瑛人に涼子との結婚を呑ませた。
涼子はそのときも、瑛人が自分を愛していると信じていた。神楽家にとっても必要な政略結婚。兄がどれほど理不尽な目に遭ったか分かっていながら、それでも彼女はその条件を受け入れた。
「これは、お前たち神楽家が、あれこれ手を尽くしても、求めてきた結婚だ。だったら運命を受け入れて、雨宮家で一生大人しくしてろ」 瑛人の声音は、淡々とした「忠告」の形を取りながら、実際は突き放すように冷たい。
つまり、結婚当初の、あの惜しみない気遣いも優しさも、全部「演技」だった。そのあと意図的に距離を置き、冷たくなっていったのが、本当の彼の感情。
「瑛人。楓のこと、考えたことある? 彼女を巻き込んで、こんな関係を続けるつもりなの」
二人の間に割り込んできた女の心配を、本気でしているわけじゃない。 ただ、もう疲れ切っているだけだ。この終わりの見えない泥沼から、誰よりも自分が抜け出したかった。
「当時、お前たち神楽家が俺に結婚を押し付けた時、楓に不公平だなんて、一度でも考えたか?」 瑛人は目を血走らせて彼女を睨んだ。
その視線には、はっきりとした憎しみと、拭いきれない悔しさが宿っていた。
――憎んでいる。何を? 自分が楓との仲を引き裂いたことを? でも、あの頃「愛している」と言ったのは、他でもないこの人だった。
結婚の時に、もう気持ちは別の人に向いていると一言でも言ってくれていたら――自分だって、彼と結婚するという選択はしなかったかもしれない。
涼子は、彼から視線をそらし、立ち上がった。ソファ横の引き出しを開け、一通の封筒を取り出す。 中から出てきたのは、何度も書き直した跡がある離婚協議書だ。ずっと前から準備だけはしていた。今日ようやく、踏み出す覚悟を決めた。
「離婚したいって言ったのは、思いつきじゃない。ずっと考えてきたこと。 こうして切り出した以上、あなたが同意するって確信もある」 涼子は書類を瑛人の前に差し出し、その手にそっと乗せた。「夫婦だった。だからこそ、せめて最後くらいはきれいに終わらせたいの。 泥仕合だけは、やめましょう」
瑛人は書類に目を落とす。「離婚協議書」という文字が、目に刺さるように映った。紙を握る手に力が入る。「雨宮涼子……さっき俺が言ったこと、全部聞き流したってわけか」
「おばあ様は、もう了承してくださってるわ。『瑛人のことは私が決める』って」涼子は、彼の怒りを真正面から受け止めながら告げる。
瑛人はすでに雨宮家を継ぎ、今や絶対的な権限を持つ当主だ。その彼を、かろうじて制御できる存在がいるとすれば――幼い頃から見てきた、あの一人の祖母だけ。
「よく考えろ。俺たちが結婚した時、財産分与の公正証書を作ったんだ。 離婚しても、お前は一銭も受け取れない。
それに、今の神楽家の状態は、お前が一番よく分かってるはずだ。昔みたいな力はもうない。雨宮家のコネにぶら下がって、なんとか延命してるだけだ。 ここで離婚したら、神楽家がどうなるか……お前にその責任が取れるのか?」
詰め寄るような口調。それなのに、その中に一瞬だけ「心配」の錯覚を覚え、涼子はわずかに戸惑った。
けれど、すぐに気付く。これは心配なんかじゃない、ただの脅しだ。
「神楽家の未来まで、雨宮社長に背負っていただくつもりはありません」涼子は、他人行儀な敬語で距離を取るように答えた。
瑛人の目が、完全に暗く沈む。やがてペンを掴み取ると、夫の署名欄に自分の名を勢いよく書き殴った。そして、書類を涼子の胸元めがけて叩きつける。
「署名はした」 低く笑う。その声には、確信に満ちた嘲りが混じっていた。「だが、この離婚が成立することはない。 ……お前が助けを請いに来るのを、楽しみに待ってるよ」
話 3
瑛人は、冷たい言葉を一言残して去っていった。
涼子は書類を握りしめる。胸は痛むが、それよりも肩の荷が下りた安堵感の方が強かった。
外で車のエンジン音が遠ざかるのを聞き、ふと思い出したように携帯電話を取り出す。番号を押し、呼び出す。
その頃、秘書の佐藤大和は瑛人を乗せ、別荘地を静かに離れていた。
山道にはほとんど人の気配もなく、車内には穏やかな音楽が流れている。瑛人は後部座席で目を閉じ、仮眠をとっていた。
「雨宮社長、先ほど高橋様からお電話がありました。伊藤さんを無事にご自宅までお送りしたとのことです」佐藤が報告する。
「ああ」 返事はそれだけだった。
バックミラー越しに大和は後ろを覗く。表情までは分からないが、別荘を出た瑛人の纏う空気は氷のように冷たく、車内の雰囲気まで重く沈んでいる。
これ以上口を開くまいと思った矢先、スマホが鳴り響いた。
「雨宮社長、奥様からです」佐藤が発信者を見て報告する。
瑛人ははっと目を開けたが、沈黙したままだった。
着信音が鳴り続ける間、大和は迷い、そして意を決して応答した。「奥様?」
「佐藤秘書、雨宮瑛人に伝えて。 離婚協議書にサインしたら、明日、区役所に離婚届を出しに行くわ。 来ないなら、委任状をサインして送ってちょうだい」
(社長が離婚?!)
佐藤は驚き、さらに車内の冷気を強く感じた。
だが瑛人は何も言わないまま、大和はとりあえず応じるしかなかった。「かしこまりました、奥様」
……
瑛人が帰宅しないと分かっていても、涼子はその夜、山中の別荘で過ごした。 翌日も、わざと出勤時間を過ぎるまで待ち、それから自宅に戻り、荷物をまとめた。
かつて二人のために特別に用意された新居。涼子は三年間少しずつ飾り付けてきた家具や小物をすべて処分させ、ゴミ箱へ。持ち出したのは、数着の服と日用品だけだった。
嫁入り道具は、この数年、神楽グループの資金繰りのためにほとんど使い果たされていた。
雨宮家からの品は、持ち出す気になれなかった。
区役所に到着すると、、やはり大和の姿しかなく、瑛人は現れなかった。
「奥様、雨宮社長は本日大変お忙しく――」いつものように大和は言い訳を始めた。
だが涼子は手を上げ、遮った。
もう、こんな自己欺瞞の中で生きたくはなかった。
涼子は登記窓口に進み、用意した書類一式を渡す。
手続きは簡単で、数分で完了した。あとは役所での審査を待つだけだと告げられ、荷物をまとめてその場を後にした。
タクシーを降り、引いたスーツケースを転がしながら、一時的に借りた小さなアパートへ。
家具付きで入居可能だったため、布団を整え、少し休憩してから荷解きを始める。
服をハンガーに掛け、洗面用具を並べ、ソファにぬいぐるみを置き、窓辺に風鈴を吊るす。
その時、ドアチャイムが鳴った。
「どなた?」
ドアを開けると、コートを羽織った長身の若い男性が立っていた。――兄、神楽空良だった。
「お兄ちゃん!」
胸に罪悪感が押し寄せ、涼子は目を上げられずにいた。
しかし空良は気にする様子もなく、優しく彼女の頭を撫でる。「馬鹿な妹だ。辛いことがあったなら、どうして家に帰ってこなかったんだ?」
涼子の涙はもう止まらず、自ら兄の胸に飛び込む。「お兄ちゃん、私、離婚するの。ごめんなさい」
「やっとわかってくれたね。嬉しくてたまらないよ」 空良は変わらず温かく、穏やかに、無条件に彼女を受け入れた。
「でも、神楽家が……」涼子は顔を上げ、兄を見つめる。
瑛人の前ではきっぱりと言い切ったものの、心配がないわけではなかった。
「とっくに言っていたはず、神楽家は俺の責任だ。お前には関係ない」