話 2
塚本美優 POV:
深い眠りから覚めると, 部屋はまだ薄暗かった. 体は鉛のように重く, 心は空っぽだった. 昨日からの出来事が, 夢だったかのように現実感がなかった. しかし, 胸の奥に残る痛みだけが, それが現実であったことを物語っていた.
携帯電話が震え, 枕元で光っていた. 母からの電話だ.
私は深呼吸をして, 震える声で出た.
「もしもし, お母さん」
「美優? どうしたの, 声が疲れているじゃない」
母の声は, いつも通り優しかった. その優しさが, 私の胸を締め付けた.
「ううん, 何でもないよ」
私は努めて明るい声を出そうとしたが, うまくいかなかった.
「今日, 慎和さんと籍を入れる日だったでしょう? これから手続き? 」
母の言葉が, 私の心に冷たい水をかけた.
「ううん, もう籍は入れない」
私の声は, ひどく掠れていた.
「え? 」
母が, 驚いた声を上げた.
「お母さん…私, 帰りたい…」
涙が, 止まらなかった.
私は, この7年間, 東京で一人, 慎和の事業を支えてきた. 有名老舗和菓子屋「塚本屋」の跡取り娘という出自を隠し, 彼の隣で, 彼の夢を追いかけてきた. 私の人生は, 彼のためにあった.
母は, 京都で「塚本屋」の女将を務めている. かつては, 私に和菓子職人としての才能を伸ばさせ, 将来は「塚本屋」を継がせたいと願っていた. しかし, 私が慎和を選んだ時, 母は何も言わず, 私の決断を静かに見守ってくれた.
「分かったわ」
母の声は, 穏やかだった.
「すぐに, 飛行機のチケットを手配するから」
「いつでも, 帰ってきていいのよ」
母の言葉が, 私の心を温かく包み込んだ.
電話を切ると, 私はゆっくりと立ち上がった. 部屋は, まるで私の心のように, 空っぽで寂しかった.
キッチンに向かい, 冷蔵庫を開けるが, 食欲は湧かない. 無理やり何かを食べようとしたが, 喉を通らなかった.
リビングに戻り, ソファに座ってテレビをつけた. バラエティ番組が, 騒がしい音を立てている. しかし, その音が, 私の耳には届かない.
ぼんやりと画面を眺めていると, ニュース速報が流れてきた.
「速報です. ITベンチャー企業『ネクサスラボ』の榊原慎和社長が, 本日未明, 秘書の甲斐麻耶さんとご結婚されました」
画面には, 慎和と麻耶が, 区役所の前で笑顔で手を取り合っている映像が流れていた. 麻耶は, 慎和の腕に嬉しそうに抱きつき, カメラに向かって手を振っている.
その隣で, 慎和が, 照れくさそうに微笑んでいる.
私の心臓が, 再び激しく痛んだ.
画面の隅には, 麻耶が自身のSNSに投稿した結婚報告の動画の切り抜きが表示されている.
「まさか, 私が榊原社長と結婚できるなんて…」
彼女の声が, 画面から聞こえてくる.
そのコメント欄には, 祝福の言葉が溢れていた.
「麻耶ちゃん, おめでとう! 」
「素敵な旦那様ですね! 」
「羨ましい! 」
その中には, 麻耶からの返信もあった.
「ありがとう! 」
「私, 本当に幸せ! 」
私は, テレビのリモコンを握りしめ, 画面を真っ暗にした.
食欲は, 完全に失せてしまった. 私は, テーブルの上のデリバリーのピザを, ゴミ箱に放り込んだ.
翌朝, 私は会社に出社した.
私のデスクには, まだ, 慎和との思い出が残っている.
私は, それらを一つ一つ, 丁寧に片付けていく.
その様子を, 後輩の福島沙織莉が, 心配そうに見つめている.
沙織莉は, 私が慎和の会社に就職した当初から, 私の直属の後輩だった. 彼女は, いつも私のことを慕ってくれていた.
「美優先輩…」
「本当に, 辞めちゃうんですか? 」
沙織莉の声が, 震えている.
私は, 彼女に微笑みかけた.
「うん, もう決めたから」
「沙織莉, あとはお願いね」
その時, エレベーターの扉が開いた.
慎和が, そこに立っていた.
彼の顔には, いつもの自信に満ちた笑顔が浮かんでいる.
しかし, その首元には, 見慣れないスカーフが巻かれている.
そして, 彼から漂ってくるのは, 柑橘系の香り.
麻耶が, いつもつけている香水だった.
私の心臓が, 冷たくなる.
彼は, 私がいることに気づいていないようだった.
話 3
塚本美優 POV:
「美優先輩, 行っちゃうんですか? 」
沙織莉の声が, エレベーターホールに響いた.
慎和が, その声に気づき, 私の方を振り向いた.
彼の顔から, 笑顔が消える.
「美優, どうしてここに? 」
彼は, 眉をひそめて私を見た.
私は, 手に持っていた辞職願を, 彼に差し出した.
「お渡しするものが, あります」
彼は, 辞職願を無言で受け取った.
その表情は, 険しい.
「これは…どういう意味だ? 」
彼の声が, 低く響く.
「そのままの意味です」
「私, 辞めます」
私の言葉に, 彼は顔色を変えた.
「何を言っているんだ? 」
「君が辞めるなんて, 冗談だろう? 」
彼は, 辞職願を乱暴にデスクに叩きつけた.
「冗談じゃありません」
「もう, 疲れました」
私は, 彼の目を真っ直ぐに見つめた.
彼の顔に, 困惑の色が浮かぶ.
「疲れた? 」
「籍を入れる日だったから, こんなことを言っているのか? 」
「少し休めば, 元に戻るだろう」
彼は, そう言って, 私の肩に手を置こうとした.
私は, その手を避けた.
「そういう問題じゃない」
「あなたが, 私を裏切ったからじゃない」
彼の顔が, 青ざめる.
「美優…」
「君は, そんなことを言う子じゃなかっただろう」
「どうしたんだ? 」
彼の言葉に, 私は怒りが込み上げてきた.
「私は, ずっと我慢してきた」
「あなたの裏切りも, 嘘も, 全て」
「でも, もう限界なの」
私の声が, 震える.
彼は, 何も言えずに, ただ私を見つめている.
その時, 麻耶が, 笑顔で慎和のオフィスから出てきた.
「社長, お疲れ様です」
麻耶は, そう言って, 慎和の腕に抱きついた.
慎和は, 咄嗟に麻耶を突き放した.
麻耶は, 驚いた顔で慎和を見上げている.
「社長…? 」
「ごめん, 麻耶」
「ちょっと, 美優と話があるんだ」
慎和は, そう言って, 麻耶をオフィスへと押し戻そうとした.
麻耶は, 慎和の腕を掴んだまま, 私の方を見た.
その目には, 挑戦的な光が宿っている.
「美優さん, ごめんなさい」
「社長, 私のこと, 奥さんって呼んでくれるんです」
彼女は, そう言って, 慎和の腕にさらに強く抱きついた.
慎和は, 顔を赤くして, 麻耶を突き放した.
「麻耶, 何を言っているんだ! 」
「美優, 違うんだ」
彼は, 私に弁解しようとする.
しかし, 私の心は, もう冷え切っていた.
私は, 左手の薬指にはめていた指輪を抜き取った.
慎和が, ハッとしたように目を見開く.
私は, その指輪を麻耶に差し出した.
「これ, あげるわ」
「あなたたちには, お似合いよ」
麻耶は, 指輪を受け取ると, 冷たい笑みを浮かべた.
「ありがとうございます, 美優さん」
「でも, 私には, もっと素敵な指輪があるんです」
彼女は, そう言って, 慎和からもらったばかりの婚約指輪を見せびらかした.
慎和は, 顔を真っ赤にして, 麻耶を叱りつけた.
「麻耶, いい加減にしろ! 」
彼は, 私の方を向くと, 必死な顔で言った.
「美優, 信じてくれ」
「これは, 偽装結婚なんだ」
「僕は, 君と結婚したいんだ」
彼の言葉が, 私の耳には届かない.
私は, 何も言わずに, 彼に背を向けて歩き出した.
「美優! 」
彼の呼び声が, 私の背中に突き刺さる.
しかし, 私は, 振り返らなかった.
エレベーターの扉が開き, 私は中に乗り込んだ.
扉が閉まる直前, 私は, 彼が, 私が差し出した指輪をゴミ箱に投げ捨てたのを見た.
そして, 麻耶が, その隣で, 満面の笑みを浮かべている.
私の心は, 砕け散った.