話 1
夫、西園寺蓮と私、佳乃は、東京の誰もが羨む理想の夫婦だった。
でも、私たちの完璧な結婚生活は、すべて嘘で塗り固められていた。
彼が言うには、彼が持つ稀な遺伝子疾患のせいで、彼の子を宿した女性は必ず死に至るのだという。だから私たちに子供はいなかった。
そんなある日、死の淵にいる蓮の父親が、跡継ぎを産めと命令を下した。
すると蓮は、ある解決策を提案してきた。代理母だ。
彼が選んだ女、有栖亜里沙は、まるで若かりし頃の私をそのまま写し取ったかのような女だった。
突然、蓮はいつも忙しくなった。「辛い不妊治療の付き添い」だと言って、彼女を支えるために。
私の誕生日を忘れ、私たちの結婚記念日さえもすっぽかした。
私は彼を信じようとした。
パーティーで、彼の本音を盗み聞きするまでは。
友人たちに、彼はこう漏らしていた。
私への愛は「深い絆」だが、亜里沙との関係は「炎」であり、「 exhilarating( exhilarating)」だと。
彼は亜里沙と、イタリアのコモ湖で密かに結婚式を挙げる計画を立てていた。
私たちの記念日のために、と私に約束した、あのヴィラで。
彼は彼女に、結婚式を、家族を、そして人生のすべてを与えようとしていた。
私には決して与えられなかったすべてを。
致死性の遺伝子疾患という真っ赤な嘘を言い訳にして。
裏切りはあまりに完璧で、全身を殴られたかのような物理的な衝撃を感じた。
その夜、出張だと嘘をついて帰ってきた彼に、私は微笑み、愛情深い妻を演じた。
彼は私がすべてを聞いていたことを知らない。
彼が新しい人生を計画している間に、私がすでに、この地獄からの脱出計画を立てていたことも。
そしてもちろん、彼が知るはずもない。
私がたった今、ある特殊なサービスに電話をかけたことを。
そのサービスは、たった一つのことを専門にしている。
人を、この世から完全に「消す」ことを。
第1章
柏木佳乃と西園寺蓮。
東京中の誰もが羨望の眼差しを向ける夫婦だった。
すべてを手に入れていた。
東京タワーを見下ろす広大なペントハウス。
どんな扉でも開くその名前。
そして、名門私立で始まった、おとぎ話のようなラブストーリー。
彼らは完璧に見えた。
しかし、ミニマリストでアートに満ちたその家の閉ざされた扉の向こうには、ぽっかりと空いた穴があった。
静寂。
彼らに子供はいなかった。
佳乃が望まなかったわけではない。
蓮が拒んだのだ。
彼の母親は、彼を産むときに亡くなった。
稀な遺伝性の疾患だと彼は言った。
彼自身がその爆弾を抱えており、妊娠は愛する女性にとって死刑宣告に等しいのだと。
「君を失うわけにはいかないんだ、佳乃」
彼は苦しそうな声で、私の手を固く握りしめて言った。
「絶対にだ」
何年もの間、佳乃はそれを受け入れてきた。
家族を持ちたいという自分自身の深い願いを犠牲にするほど、彼を愛していた。
母性本能は、アートキュレーターとしての仕事に注ぎ込んだ。アーティストとその作品を育むことで、満たされない心を慰めていた。
そんなある日、最後通牒が突きつけられた。
西園寺コンツェルンの総帥である蓮の父親が、死の床についていた。
消毒液と古い金の匂いが混じり合う病室で、彼は最後の命令を下した。
「跡継ぎが必要だ、蓮。西園寺の血筋をお前で終わらせるわけにはいかない。やり遂げろ。さもなければ、会社は従兄弟に譲る」
そのプレッシャーがすべてを変えた。
その夜、蓮は佳乃にある提案を持ちかけた。
「代理母だ」
彼は慎重に、感情を排した声で言った。
「それしか方法がない」
長い間希望を捨てていた佳乃の心に、小さな火花が散った。
「代理母?本当に?」
「ああ」と彼は頷いた。
「完全に事務的な契約だ。僕たちの受精卵を、彼女の子宮に入れる。君は、あらゆる意味で母親だ。ただ、君へのリスクを回避するだけだ」
彼はすべて自分が手配すると請け負った。
一週間後、彼は有栖亜里沙という女を佳乃に紹介した。
その類似性は、一目でわかり、心をかき乱した。
亜里沙は佳乃と同じ、ウェーブのかかった黒髪、高い頬骨、そして同じ色のエメラルドグリーンの瞳を持っていた。
彼女は若かった。おそらく十歳は若い。
佳乃の洗練された優雅さとは対照的な、荒削りで磨かれていない美しさがあった。
「完璧だろう?」
蓮が、奇妙な光を目に宿して言った。
「代理店が、彼女のプロフィールは最高の適合だと」
亜里沙は物静かで、ほとんど臆病に見えた。
視線を伏せ、小声で返事をする。
彼女は、私たちの豪華なマンションにも、私たち自身にも、圧倒されているようだった。
「これは純粋なビジネス上の取り決めだ、佳乃」
その夜遅く、蓮は私を抱き寄せながら囁いた。
「彼女はただの器だ。目的を達成するための手段に過ぎない。君と僕が、親なんだ。これは、僕たちのためのものだ」
佳乃は夫の顔を見つめた。
人生の半分以上を愛してきた男。
私は彼を信じることを選んだ。
そうするしかなかった。
それが、ずっと夢見てきた家族を手に入れる唯一の方法だったからだ。
しかし、嘘はほとんどすぐに始まった。
「不妊治療の付き添い」のために、蓮はクリニックに行かなければならなかった。
彼は夕食に帰ってこなくなり、やがて一晩中帰らない日も出てきた。
「亜里沙を支えているだけだ」
彼は深夜までスマホをいじりながら言った。
「ホルモンのせいで彼女は情緒不安定なんだ。代理母が安心感を持つことが重要だと医者も言っている」
佳乃は理解しようと努めた。
食事を作り、蓮に持たせた。
亜里沙のために柔らかいブランケットや着心地の良い服を買い、契約という無機質な関係の溝を埋めようとした。
私の誕生日が来た。
蓮は葉山で二人きりの週末を過ごすと約束していた。
彼は土壇場でキャンセルした。
「亜里沙が薬の副作用で苦しんでいるんだ」
電話口の彼の声は早口だった。
「ここにいなくちゃならない。本当にごめん、佳乃。必ず埋め合わせはするから」
私は一人で誕生日を過ごした。
デパ地下で買ったケーキを一切れだけ食べながら。
ペントハウスの静寂が、耳を聾するほどだった。
結婚記念日はもっとひどかった。
彼は電話さえしてこなかった。
深夜を過ぎて、一本のメッセージが届いただけ。
『クリニックで緊急事態。先に寝てて』
佳乃は友人たちに、そして自分自身に、彼のための言い訳を並べ立てた。
赤ちゃんのため。
ストレスの多いプロセスだから。
彼も私と同じくらい必死なんだ。
私はその説明に、まるで命綱のようにしがみついた。
完璧な人生の縁をほころばせている真実から、目を背け続けた。
限界点が訪れたのは、冷たい雨が降る火曜日のことだった。
信号無視のタクシーが、私の車の側面に激突した。
衝撃は凄まじく、激しい揺れにめまいがして体が震えた。
私の最初の行動は、蓮に電話することだった。
呼び出し音が鳴り続け、やがて留守番電話に切り替わった。
「蓮、事故に遭ったの」
私の声は震えていた。
「私は大丈夫だと思うけど、車がめちゃくちゃなの。来て…来てくれない?」
私は待った。
一時間が過ぎた。
そして二時間。
親切な警察官がレッカー車の手配を手伝ってくれ、検査のために私を救急病院まで送ってくれた。
腕は捻挫し、体は痣だらけになっていた。
冷たく無機質な待合室で、私は黙ったままのスマホを握りしめて座っていた。
もう一度電話した。留守電。
もう一度。留守電。
結局、タクシーで家に帰った。
腕の鈍い痛みが、胸の痛みと比べ物にならなかった。
マンションは暗く、空っぽだった。
明かりをつけると、コーヒーテーブルの上に飲みかけのワイングラスが置いてあった。
縁には、かすかな口紅の跡。
私の色ではなかった。
私はそれを合理化しようとした。
彼の友人が立ち寄ったのかもしれない。
会議があったのかもしれない。
しかし、一度植え付けられた疑念の種は、今や私の心臓に絡みつく棘だらけの蔓となっていた。
その週の後半、蓮は都心の会員制クラブで、取引先や友人を招いた小さな集まりを主催していた。
佳乃は、捻挫した腕と消えかけの痣を抱えながら、拭い去れない悪寒を感じていた。
ギャラリーでの打ち合わせが長引き、私は遅れて到着した。
個室に近づくと、低い話し声が聞こえてきた。
静かに入ろうと、ドアの前で足を止めた。
その時、彼の声が聞こえた。
クリアで、何の憂いもない声が、部屋から流れ出てきた。
「言っておくけど、こんな気持ちは初めてだ」
蓮が言っていた。
その口調は軽く、私が何年も聞いていなかった情熱に満ちていた。
「佳乃とは…深い愛だ。魂の繋がりだ。でも、亜里沙とは…炎なんだ。 exhilarating( exhilarating)なんだよ」
佳乃は凍りついた。
ドアノブにかけた手が宙で止まる。
血の気が引いていくのがわかった。
彼の友人である健太が、ためらいがちに言った。
「本当にいいのか、蓮?二股なんて。いつか破綻するぞ」
「しないさ」
蓮は、佳乃の胃をひっくり返すような傲慢さに満ちた声で言った。
「佳乃は自分の赤ん坊を手に入れて幸せになる。そして俺は亜里沙を手に入れる。二人とも、欲しいものをすべて与えてやれるんだ」
足元の床が傾くのを感じた。
壁に寄りかかると、冷たい木材が、火照った肌とは対照的だった。
そして、最後の一撃が、私を殺した。
「子供が生まれたら、ヨーロッパで亜里沙のために結婚式を挙げる計画なんだ」
蓮は声を潜め、共犯者のように囁いた。
「秘密の結婚式だ。俺たちと、彼女の友人たちだけで。コモ湖のヴィラはもう数億円で予約金を入れた。彼女はそれに値する。彼女はすべてを手に入れる価値があるんだ」
私たちの十五周年の記念日に、私を連れて行くと約束した、あのヴィラだった。
吐き気の波が押し寄せてきた。
私はよろめき、廊下の飾り台にあった花瓶を倒してしまった。
花瓶は大理石の床に叩きつけられ、耳をつんざくような音を立てて砕け散った。
中の会話が止まった。
ドアが勢いよく開き、蓮がそこに立っていた。
私を見て、彼の顔はパニックに歪んだ。
「佳乃!こんなところで何してるんだ?」
彼の友人たちが、憐れみと警戒の入り混じった顔で、彼の後ろから覗き込んでいる。
佳乃は背筋を伸ばした。
衝撃は、自分が持っているとは知らなかった氷のような冷静さに変わっていた。
私は夫を見た。
私の代理母と秘密の結婚式を計画している男。
私は無理やり微笑んだ。
「今、着いたところよ」
私の声は、震えていなかった。
「ちょうど入ろうとしてたの」
蓮の友人たちは、株価の話を大声で無理やり始めることで、場を取り繕おうとした。
蓮は私のそばに駆け寄り、私の腕に手を置いた。
「大丈夫か?顔色が悪いぞ」
彼の感触は、焼きごてのようだった。
私は腕を振り払った。
「疲れてるだけ」
私は虚ろな目で言った。
「長い一日だったから」
私は彼の向こう、部屋の中を見つめた。
「今夜は…亜里沙さんも来てるの?」
その質問はテストだった。
一片の誠実さを求める、最後の、必死の叫びだった。
蓮の顔がこわばった。
「亜里沙?まさか。なんで彼女がここにいるんだ?彼女はただの代理母だ、佳乃。道具だよ。忘れたのか?」
彼は「道具」という言葉を、あまりに軽々しく、見下すように口にしたので、私は息が詰まった。
これが彼の愛。
これが彼の炎。
私はゆっくりと頷いた。
「そうね。道具」
私は振り返った。
彼の友人たちの驚いた顔も、彼の必死の心配そうな顔も見なかった。
「気分が悪いから」
私は肩越しに言った。
「先に帰るわ」
私はクラブを出た。
足取りは、計算され、意図的だった。
氷のような冷静さが血管を駆け巡り、痛みを凍らせ、硬く鋭い何かに変えていった。
アッパーイーストサイドへ向かうタクシーの中で、蓮が後部座席に置き忘れたタブレットの画面が光った。
亜里沙からのメッセージだった。
『着いたよ、レンくん スイート最高! 早くこっちに来て、この服脱がしてほしいな。お買い物、すごかったね…本当にあんなに使ってくれたの?』
蓮は私に、二日間の出張で大阪に行くと言っていた。
佳乃はそのメッセージを見つめた。
決して流すまいと決めた涙の膜を通して、文字が滲んで見えた。
彼は大阪にはいない。
彼は亜里A里沙のもとへ向かっている。
私は家に帰らなかった。
タクシーに別の住所を告げた。
丸の内にある、洗練された目立たないオフィスビル。
ドアの看板はシンプルだった。
「黒木興信所」
私は中に入った。
背筋を伸ばし、決意を固めて。
私が知っていた人生は終わった。
それを消し去る時が来たのだ。
話 2
一週間後、黒木興信所から確認のメールが届いた。
『第一段階、完了。新しい身分証明書の作成手続きに入りました。完了予定:4~6週間』
安堵の波が、まるで物理的な解放のように、佳乃の全身を駆け巡った。
私はもはや単なる被害者ではない。
自分自身の脱出を設計する建築家なのだ。
パリ。
その言葉が心の中で響いた。
蓮と知っていたパリではない。五つ星ホテルとミシュランの星付きレストランのパリではない。
これは私のパリになる。
ル・マレ地区の小さなアパート、静かな生活、小さな個人経営のアートギャラリーでの仕事。
誰も「西園寺」という名前を知らない生活。
私はゆっくりと、痛みを伴う人生の解体作業を始めた。
幽霊のようにペントハウスを動き回り、十五年分の共有された思い出を整理していく。
クローゼットの奥のベルベットの箱にしまわれていたのは、結婚式の日に蓮がくれたダイヤモンドのネックレス。西園寺家に伝わる家宝だった。
「これは僕の祖母のものだったんだ」
彼は誠実な目で言った。
「僕たちの家族の未来を象徴している。これからは君のものだ、永遠に」
永遠。
その言葉は苦い冗談だった。
私は冷たく輝く石を見つめた。
これらは未来の象徴ではない。
私の沈黙の代償であり、私自身の失恋に加担したことへの支払いだった。
私は近くのチャリティーオークションハウスへ行き、匿名でそれを寄付した。
寄付の承諾書は、ネックレスそのものよりも重く感じられた。
他のものは、手放せなかった。
笑顔の、偽りの思い出で満たされたフォトアルバム。
初期の、幸せだった旅行で買ったくだらないお土産。
彼が私の枕元に残してくれた手書きのメモ。
その夜、私はそれらをリビングルームの大きな暖炉に持っていった。
一枚一枚、炎に食べさせていく。
偽りの幸福の瞬間に捉えられた私たちの顔が、丸まり、黒ずみ、灰に変わっていくのを見つめた。
炎は私たちの過去を飲み込んだ。
嘘だった愛のための、火葬の炎だった。
蓮は翌日、「出張」から帰ってきた。
私の知らない曲を口ずさみながら。
彼は、マントルピースの上から私たちの結婚式の写真がなくなっていることに気づいた。
「僕たちの写真はどこだ、佳乃?」
彼は少し困惑したように眉をひそめて尋ねた。
「額を新しくしてもらうために出したの」
私は滑らかに嘘をついた。
「ガラスにひびが入っていたから」
彼は何の疑いもなくその説明を受け入れた。
彼はあまりに上の空で、秘密の生活で頭がいっぱいだった。
彼からは、私のものではない、ほのかな花の香水の匂いがした。
カシミアのコートの襟に、一本の長い黒髪を見つけた。
証拠は至る所にあったのに、彼はすべてがうまくいっていると信じている男の至福の無知さで、私たちの家を動き回っていた。
「君にサプライズがあるんだ」
数日後、彼は私の腰に腕を回しながら言った。
「パーティーだ。君の誕生日のためだよ。僕がいなかった埋め合わせに。みんな招待した」
私の本当の誕生日は何週間も前だった。
一人で過ごした、あの誕生日。
このパーティーは私のためのものではない。
彼のためのものだ。
私たちの社交界に向けたパフォーマンスであり、完璧なカップルの見せかけを維持するための手段だった。
「それは…思いやりがあるわね」
私は感情のこもっていない声で言った。
私はシンプルな黒いドレスでパーティーに出席した。
他の女性たちのきらびやかなガウンとは対照的だった。
まるで自分の処刑を見守る傍観者のような気分だった。
ペントハウスは花で埋め尽くされ、シャンパンが惜しげもなく注がれ、隅では弦楽四重奏が演奏されていた。
それは豪華さと幸福の完璧な絵だった。
そして、私は彼女を見た。
有栖亜里沙。
グランドピアノの近くに立ち、少し小さすぎる鮮やかな赤いドレスを着て、場違いな様子で途方に暮れていた。
年配の女性客が、ダイヤモンドをじゃらじゃらさせながら佳乃のそばを通り過ぎた。
「あなた、今夜は素敵ね」
その女性は、亜里沙に目を固定しながら言った。
「その赤は、あなたにしては大胆な選択ね!」
女性は佳乃の腕を軽く叩き、去っていった。
佳乃は凍りついた。
彼らは亜里沙を私だと思っている。
代替品はあまりに露骨で、あまりに明白で、人々はコピーをオリジナルと混同していた。
亜里沙は怯えているように見えた。
小さなハンドバッグを盾のように胸に抱きしめ、目は大きく見開かれ、部屋中をせわしなく見回していた。
彼女は、自分が理解できない世界で着せ替えごっこをしている子供だった。
蓮は、彼女の苦悩を見て、すぐに会話を中断し、彼女のそばへ移動した。
彼は彼女の腰に庇うように手を置き、耳元で何かを囁いた。
彼女の頬に、かすかな赤みが差した。
佳乃は彼らのもとへ歩いて行った。
足取りが重く、まるで水中を歩いているかのようだった。
「蓮」
私は低く、平坦な声で言った。
「彼女がどうしてここにいるの?」
蓮はびくっとしたが、すぐに回復した。
彼は魅力的な笑顔を貼り付けた。
「佳乃、ダーリン!亜里沙にきちんと会ってほしかったんだ。僕たちの子供を身ごもっているんだから、家族の一員のように感じてほしいと思ってね」
彼は、小さな光景に気づき始めた群衆に向き直った。
「皆さん」
彼は偽りの陽気さで声を張り上げた。
「こちらは有栖亜里沙さんです。佳乃と私の家族作りを快く手伝ってくれる、家族の大切な友人です。佳乃の…妹みたいなものだと思ってください」
妹みたいなもの。
その言葉は、公の場での降格宣告だった。
私はもはや妻ではなく、パワーカップルの片割れでもない。
私は、この若く、より妊娠しやすい女性を、親切に私たちの生活に受け入れる、慈悲深い姉になったのだ。
屈辱は物理的なもので、胸から顔へと広がる熱い紅潮だった。
蓮の注意はすでに亜里沙に戻っていた。
彼は彼女を群衆の中に導き、有力な友人たちに紹介した。
彼の手は決して彼女の背中から離れなかった。
佳乃は彼らを見ていた。
自分たちの太陽の周りを回る一対の惑星。
私を冷たい、外側の暗闇に残して。
彼が笑うのを見た。
何年も見ていなかった、本物の、無理のない笑い。
彼が亜里沙の耳の後ろに、はらりと落ちた髪をかけてやるのを見た。
あまりに親密で優しいその仕草に、私自身の心臓が締め付けられた。
私は無理やり人々と交流し、微笑み、「捻挫した腕」へのお見舞いの言葉や、「素敵なパーティー」へのお世辞を受け入れた。
しかし、私の目は彼らに引き戻されてしまう。
美術館の理事会で一緒の二人の女性の友人が、シャンパングラスの後ろで囁き合っていた。
「信じられる?あの神経」
一人が言った。
「妻の誕生日パーティーに愛人を連れてくるなんて」
「私、見たのよ」
もう一人が、目を丸くして囁き返した。
「先週、広尾の江藤先生の不妊治療クリニックで。待合室で手をつないでたわ。みんな見てた」
江藤先生。
都内で最も高級で、最も高額な不妊治療の専門医。
蓮が「予約を取るのは不可能だ」と言っていた、あのクリニック。
パズルのピースがカチッとはまり、息をのむほど広大で巧妙な裏切りの絵が完成した。
これは最近の浮気ではない。
これは長期的で、計算された欺瞞だ。
白日の下に晒された二重生活。
私の完璧な結婚は、ひびが入っていただけではなかった。
最初から、空っぽの殻だったのだ。
話 3
佳乃の顔に浮かんだ微笑みは、端からひび割れていく石膏の仮面のようだった。
冷や汗が額に滲み、パーティー客のおしゃべりは鈍い轟音へと変わっていった。
逃げ出さなければ。
私は言い訳を呟き、化粧室へと逃げ込んだ。
金箔の壁紙が、私に迫ってくるようだった。
華美な鏡に映る自分を見つめた。
顔は青白く、目は怯えていた。
これは、誰もが知る自信に満ちた、落ち着いた柏木佳乃ではない。
これは見知らぬ他人、悲しみによって空っぽにされた女だった。
冷たい水を顔にかけ、喉の奥から込み上げてくる吐き気を抑えようとした。
胸の痛みは物理的な重みとなり、呼吸を困難にするほどの圧迫感だった。
まるで心臓が文字通り壊れていくようだった。
顔を拭いていると、隣の応接室から微かな音が聞こえた。
パーティー中はめったに使われない部屋だ。
くすくすという笑い声、それに続く低い囁き声。
心臓が止まった。
私はその囁き声を知っていた。
ドアを少しだけ押し開けた。
応接室は薄暗かったが、彼らの姿ははっきりと見えた。
蓮が亜里沙を本棚に押し付け、彼女の口を貪るように塞いでいた。
それは優しいキスではなかった。
飢えた、独占欲に満ちたものだった。
亜里沙の甘い喘ぎ声が小さな空間に満ちた。
「蓮さん」
彼女は彼の髪に指を絡ませながら、息を切らした。
「誰かに見られちゃう」
「見せつけてやればいい」
彼は彼女の唇に唸るように言った。
彼の手は彼女の背中を滑り降り、赤いシルクのドレス越しに彼女の尻を掴んだ。
彼は少し身を引くと、私が何年も向けられていない欲望に満ちた暗い目で彼女を見つめた。
「佳乃とは、すべてが精神的なもの、魂の繋がりだ。だが、お前とは…これだ」
彼は押し付け合った互いの体を指差した。
「これが、リアルなんだ」
その言葉は佳乃を切り裂いた。
私の最も深い恐怖が、最後の、残酷な形で確認された。
私はただ取って代わられただけではない。
価値を下げられ、私の愛と友情は、理性的で情熱のないものとして退けられたのだ。
「今夜はいい子でいるんだぞ」
蓮は彼女の顎のラインを唇でなぞりながら囁いた。
「そうしたら、お前が欲しがっていたカルティエのブレスレットを買ってやる」
「はい、蓮さん」
亜里沙は喉を鳴らし、服従するように頭を後ろに傾けた。
彼は彼女に最後にもう一度、激しいキスをし、そして彼らはドアに向かった。
佳乃は化粧室に慌てて戻り、心臓が肋骨を叩きつけていた。
彼が亜里沙の腰に独占欲たっぷりに腕を回して去っていくのを見つめていると、あまりに深く、物理的な苦痛の波が押し寄せてきた。
私は私たち自身の親密さを思い出した。
それがいつもいかに慎重で、抑制され、ほとんど敬虔でさえあったかを。
彼はいつも、私を傷つけること、私を殺しかねない妊娠につながるかもしれない情熱を恐れているからだと主張していた。
それは嘘だった。
彼は情熱を恐れていなかった。
ただ、私に対してそれを感じていなかっただけだ。
彼はそれを他の誰かのために取っておいたのだ。
私に似ていてファンタジーになるほどだが、逃避先になるほどには違う、若くて従順な少女のために。
冷たく、苦い理解の波が押し寄せた。
もちろん彼は亜里沙に夢中だ。
彼女は私がなれない唯一のものだったから。
若く、重荷がなく、そして彼の心の中では、妊娠可能。
西園寺家のトラウマから解放され、彼自身の未来を書き込める白紙の石版。
痛みは私の中で生き物のように蠢き、内臓を引っ掻いていた。
私はどうにか自分を取り繕い、きらびやかなパーティーへと戻っていった。
完璧なホステスの仮面が、再び所定の位置に滑り落ちる。
部屋の向こうに亜里沙が見えた。
頬には勝ち誇ったような紅潮が差している。
ドレスの襟のすぐ上に、小さな黒い跡、キスマークが見えた。
その光景は、新たな苦痛だった。
亜里沙が私の視線に気づき、驚いたことに、こちらへ向かってきた。
彼女は緊張しているようで、シャンパングラスを握りしめていた。
「西園寺夫人」
彼女は少し震える声で始めた。
「シャンパン…私には少し強すぎるみたいで。お水を…お水をいただけますか?」
その厚かましさには息を呑んだ。
愛人が、夫との密会の直後に、妻に飲み物を持ってこいと頼んでいる。
佳乃の内側は、きつく、怒りに満ちた結び目になった。
捻挫した腕を持つ手が、震えた。
そして、悲劇が起きた。
亜里沙は、おそらく佳乃の態度の変化を察知して、緊張した面持ちで一歩後ずさった。
彼女は、パーティーの centerpiece( centerpiece)である、高く積み上げられたシャンパンフルートのタワーにぶつかった。
タワーは危うげにぐらついた。
恐ろしい一瞬、それは空中に浮いているように見え、そして、耳をつんざくようなガラスの割れる音と泡立つシャンパンの滝となって崩れ落ちた。
佳乃はその直撃コースにいた。
私は無事な方の腕を上げて顔を庇ったが、無駄だった。
鋭いガラスの破片が雨のように降り注ぎ、私の腕や肩を切り裂いた。
大きな破片の一つが額に当たり、温かい血が顔を伝って流れ落ちた。
私は叫び声を上げ、後ろによろめき、大理石の床に激しく倒れた。
耳鳴り сквозь、私は蓮を見た。
彼は走っていた。
その顔は恐怖の仮面だった。
一瞬、愚かにも、彼は私のもとへ走ってきているのだと思った。
しかし、彼は私のすぐそばを走り抜けた。
彼は亜里沙のもとへ行った。
彼女はシャンパンを浴びただけで、他には無傷だった。
彼は彼女を腕の中に引き寄せ、まるで彼女こそが危険に晒されているかのように、自分の体で彼女を庇った。
「亜里沙!大丈夫か?怪我はないか?赤ちゃんは!」
彼は叫び、必死に彼女の体を確かめた。
彼は佳乃を完全に無視した。
私は床に倒れ、血を流し、打ちひしがれているのに、彼には見えていなかった。
彼は一度だけ私を見下ろした。
その目は冷たく、苛立っていた。
まるで私が単なる邪魔者、片付けられるべき厄介者であるかのように。
そして彼は私に背を向け、彼の全神経は亜里沙に注がれ、彼女の髪に優しい安堵の言葉を囁いていた。
佳乃は冷たい、シャンパン浸しの床に横たわり、ガラスの破片が肌に食い込んでいた。
私はシャンパンタワーの残骸を見た。
私の粉々になった人生の完璧なメタファー。
切り傷の痛みは鋭かったが、それは、如此にも完全に、徹底的に見捨てられた苦痛に比べれば、何でもなかった。
私はどうにか体を起こした。
黒いドレスは今や血で汚れていた。
私はパーティーを後にした。
真っ白な大理理石の上に、血まみれの足跡を残して。
誰も私を止めなかった。
誰も私が去ったことにさえ気づいていないようだった。
私は最寄りの救急病院へタクシーで行った。
ほんの一週間前に来たばかりの、あの病院へ。
「お一人ですか、奥様?」
triage( triage)の看護師が、佳乃の額の切り傷を見て、職業的な同情に満ちた目で尋ねた。
「はい」
佳乃は虚ろな囁き声で言った。
「一人で大丈夫です」
カーテンで仕切られた診察室から、彼らが見えた。
蓮は亜里沙を同じ病院の、廊下の向こうにある個室に連れてきていた。
彼は彼女の世話を焼き、肩に毛布をかけ、その顔は優しい気遣いに満ちていた。
彼は亜里沙の頬を撫で、親指で存在しない涙を優しく拭った。
「何も心配するな」
彼の囁き声が、静かな廊下に響いた。
「俺がすべて何とかする」
それは、彼がかつて私に言った言葉の痛々しいこだまだった。
フロアの看護師たちは囁き合い、彼がいかに献身的か、いかに愛情深いパートナーに見えるかを噂していた。
佳乃は彼らを見ていた。
本来なら自分のものだったはずの人生の、観客として。
私は今の彼の本当の姿を見た。
彼はただ代替品を欲しがっていただけではない。
彼はすでに私を置き換えていたのだ。
彼の心の中で、彼の人生の中で、私はすでにいなくなっていた。
そして、その冷たく、無機質な病室で、佳乃はそれを公式なものにしなければならないと悟った。
私は消えなければならない。
永久に。