話 2
どこまでも白い廊下を駆け抜ける、対照的な一つの黒い人影。
監視カメラのレンズが向けられるが、被写体となる“彼女”が気にする事ではない。少なくとも、あと二十分は。
仲間の一人が、遠隔でこの施設内のシステムコンピューターに侵入・操作している。監視カメラが姿を写しても映像記録には残らす、その他監視・警報システムも切られている。
それを知っていても、“彼女”は気を緩めず素早く動く。少しでも役に立ちたい一心、緊張で歯を食いしばっている。
彼女、この施設に忍び込む前、仲間から「アンジュ」と呼ばれた少女の脳内は、緊迫と使命感で埋められていた。
彼女の任務の一つは、可能な限りこの施設が持つ機密を盗み集める事。外側からハッキングしてくれる仲間が言うには、外部から侵入出来ない独自の回線や紙媒体によるものは調べられない、との事らしい。
“可能な限り”とは、この施設を破壊する予定があるからで、任務開始から三十分、コンピューターへの侵入が知られると予想される時間までがこの任務の終了時間であり、攻撃開始時間でもある。また、同時に攻撃し易くするためにも、この施設内に爆薬を設置する任務もある。
(流石ハンさんですね。お蔭で任務が捗ります)
監視システムがダウンしているとはいえ、内部の人員等に見つかれば意味がない。服装は動作によって生じる音を最小限に留める、身体にフィットする特殊な黒いボディスーツだが、透明でもカモフラージュでもない為、視認されるリスクが一番大きい。
それでも、彼女は運良く誰かに遭遇する事は無かった。というか誰も見当たらないのでむしろ不審に思った位だ。
(どうして誰も居ないのかしら? 少しぐらい歩いている人が居てもおかしくないのに……)
疑問に思ったまま十数分、彼女は数々のドアを出入りし、それっぽい情報媒体をかき集めてはウエストポーチに詰める。中には彼女が全く知らない物質の薬品らしき名前のある書類まであった。同時に、リュックサックからリモコン式爆弾を出して設置も忘れない。
生気を感じぬ純白の廊下、少女は不安を覚えながらも、仕事を確実に終わらせている。
(爆弾も順調ね。情報ももっと手に入れば良いんだけど……)
「お前に与える物は此処には無い」
「ひゃっ?!」
突如、少女の考えに対するように、背後からの声。短い悲鳴を上げ、飛び退く。
少女の頭一個半以上は大きく、横に広がる長めの茶髪と青い目、金属複合カーボン製のプレートアーマーを全身に纏い、存在感を見せつけるかの如く堂々と立っていた。
「若く経験が足りんな。何より出来が悪い」
(そんな、ちゃんと注意していたのに……)
腕時計は爆破まで残り十分を示していた。緊張と不安に震えた、華奢な身体で構える。
「無駄だ」
(こうなったら……)
すると、少女は耳にはめ込んでいるイヤホン型通信機に手を触れ、言った。
「リョウさん、ばれました! 爆破します!」
『おい、アンジュちゃ……』
早口で言い終え、スピーカーが返事終える前に、彼女は同時に取り出したリモコンのボタンを押し終えていた。
「なぬ……」
突如、廊下の奥から見える爆炎――施設内を轟音と振動が駆け巡る。
咄嗟に身を守るべく、男は姿勢を低くし、腕を胸の前で交差した。
爆風で体が揺さぶられ、爆炎がチリチリ熱を伝え、残った煙と粉塵が視界を塞ぐ。
塵に視界を奪われている中、男は見回していた。まるでそこにある物が見えているかのように。
「自爆と見せ掛け、『障壁』を広く展開し、爆発を防ぎ逃亡か。不意を突かれたとはいえ、考えも『能力』も中々だ。いや、突発的なアイデアだろうか」
粉塵の舞う中を男が感心する最中、施設内は遠くでの断続的な爆音と、侵入者の存在を告げる警報が響いていた。
『もうバレちまったのか?! やべえな……』
「ごめんなさい、不注意でした……」
耳に当てた通信機から聞こえる驚き声に少女は真っ先に謝った。
『今は気にすんな。でも爆弾は仕掛け終えたんだろ? じゃあ予定より少し早く脱出すりゃ良い』
「はい、ありがとうございます」
『そういやハンには言っておいたか?』
「あ、しまった!」
『オッケー、俺が伝えるぜ。帰ったら温かいコーヒーでも飲もうぜ』
少女は二度も感謝し、通信が切れると、急ぎ足をスピードアップさせた。
途中、施設内の人員やロボットに遭遇したが、彼女の前には無意味に等しかった。常人の目には捕らえられないスピードで走り、銃弾は当たらず、あるいは弾かれる。先程の彼女の気配を察知した男やそれと“同じ”人物に遭遇しない限り、順調に脱出して、外で待機している味方達がこの施設を思い切り攻撃出来る筈だ。
(絶対進めなきゃ!)
少女は使命感に囚われていた。
『アンジュ、話は聞いたよ。予定より五分早める、それで大丈夫かい?』
「あ、大丈夫です! ハンさんありがとうございます」
感謝で返し、通信に合わせ腕時計のタイマーを五分早めた。
残り四分と僅か。
実質的に妨害は無く、出口への行き方もきちんと分かっている。
この少女は目的を達成しなければならない時、もしもその行為によって人命が失われるなら、彼女は間違いなく命を助ける行動を選択する。
だから、彼女は足を止めた。
今まさに目の前に気絶している誰かが横たわっている、それだけで彼女の疾走を止める理由には十分だった。
少年だ。
顔も名前も知らない。比較的小柄で、病人着のような服装。近くでは担架のような台車が、黒焦げになって倒れていた。爆発に巻き込まれたのだろう。
ここに居るのなら“敵”かもしれないが、彼女はそれすらも考えなかった。
「大丈夫?!」
傍に寄り、生きているかを確認する。心拍はあったが、脈打つペースが遅い。触っても体が冷たく反応が無い。腕はだらりとしており、呼吸も非常に浅い。
(助けなきゃ!)
所属など関係ない。人を助ける事に理由なんか要らない――無意識が彼女へと命令を下していた。
少女より少しだけ身長が高い程度の少年をおぶり、全速力で走る。
腕時計は残り四十秒を示していた。しかし、重荷を背負った今のペースでは、出口へ到達まで一分程掛かるだろう。
『アンジュちゃん大丈夫か?!』
「今、あとちょっと……」
仲間からの心配気味な通信。向こうは既に脱出完了らしい。自分を“ちゃん”付けされた事に反論せず、汗が額を流れている。
(早く!)
その時だった。
自分の意志ではない――体が進行方向へ急加速。体験した事もないスピードに驚きながらも、止まらない。
背中越しで見えないが、少年の身体が一瞬光ったような気がした。
(彼の力なの?)
自分でも驚くべきスピードを得た少女はそのまま施設の出口を飛び出し、慣性のまま大地を駆ける。腕時計は残り五秒を示していた。
「撃って下さい!」
通信機に叫び終わったのとほぼ同時、少女の正面に見える山から、大量の微弱なオレンジ色のフラッシュが瞬いた。
数十秒後、施設の外壁が爆発する。壁が剥がれ、破片が宙を舞う。しかし爆風は途轍もない速さの少女に追いつけなかった。
少女は走る事を止めず、振り向かない。爆音も聞こえなかった。
助ける、その一心のみ。
「本当にすみません!」
「大丈夫だよアンジュ。攻撃は成功した。君の設置した爆弾もあっての事だ。機密も持ってきたみたいだし。悪い事は何も無いさ」
背中まである灰髪を揺らしながら頭を下げる少女と、合わせて首を横に振る坊主頭を少し伸ばした程度の短髪の男性。
ようやく頭を上げた灰髪の少女の名は、アンジュリーナ・フジタ、一七歳。
肌は白く、目鼻立ちはスラヴ系に近いが、日系要素もあってか平均的な白人よりは鼻が低いし目つきも柔らかいだろう。
身長は百六十センチメートル強といったところか。日本人女性としては少し高めの身長だが、白人としては低めだ。
彼女は、“敵”の研究施設へ侵入をばらしてしまった事を悔やんでいたのだ。
目の前の男性は安心したように責めず、許すと言っている。それでも少女は重圧に押し潰されそうに眉をひそめている。
身長百七十五センチメートルもある、アジア風の男性の名前はハン・ヤンテイ、二十六歳。中国人と韓国人のハーフ。
スッキリした短髪と余裕のある優しげな表情が、堅実さと友好さを醸し出している。
「落ち着いてアンジュ、でも彼は無事なんだろう? それは紛れもなく君が助けたいと思ってした行動であり、彼を助ける事が出来た。君が望んでやった事が君の『人を助けたい』という願いを叶えたんだよ」
「ハンもそう言ってるし、いい加減立ち直れよアンジュちゃん。可愛い子には笑顔の方が似合うぜ」
横から馴れ馴れしい声が介入して来たのは不意だった。反射的に振り返り反論する少女。
「もう、何時になったら“ちゃん”付け止めるんですか?」
「死ぬまで、いいや死んでも言う。だって可愛いだろ?」
声の主、リョウ・フロイト・エドワーズ、二十八歳。日系の名前に似合わず、彫りの深い顔と赤系統に近い茶目茶髪が目立ち、茶髪は肩に掛かる程長い。
身長は少女より頭一個分高く、百八十七センチメートル。ボサボサな髪や顎髭は大雑把な性格に見合うものだ。
「酷いですう……」
アンジュリーナはわざと頬を膨らませた。一方でリョウは「待っていた」とばかりに満足げな笑顔を見せ返す。
彼女自身は「アンジュ」という愛称を気に入ってはいたが、子供扱いされるのが気に食わなかったのだ。かといって子供らしい行為をするのもどうか。
「すまんすまん。で、アンジュちゃんが連れて来た奴だが、見に行くか? ハンも来てくれよ」
軽薄な謝罪をよそに、日系人に連れられた二人は簡素な布のドームで覆われたテントの内部へ入る。やがて三人は、一人の小柄な体躯が横たわる粗末なベッドの前まで来ていた。
青がかった黒い髪、表情どころか動作すら垣間見せない顔。見ただけでは生きているのかどうかすら分からない。
色素を失ったような白い皮膚に触れても最小限の熱しか感じず、脈はあれど二秒に一回という非常に遅いペースだった。
「まるで人形だな。本当に生きてるのか?」
「リョウ、不吉な事は言わんでくれ……弱々しいが、生きているのは確かだ」
「大丈夫なんですか? チャックさん」
「詳しい事は言えないね。体内には生体活動を抑える薬があったが、中和し終えた。しかし、不思議にも数時間診ただけでは、昏睡状態からは良い方へも悪い方へも動かなかった。何かを待っているんだろうか、まるでこの少年は目を覚ます機会を窺っているみたいだ」
「待っている、ですか……」
アンジュリーナの質問に答えたのは、チャックと呼ばれた白衣を着ている中年男性。
名はチャック・ストーン。アイルランド系の顔付きで、西洋人としてはやや小柄で横に広い彼は、内科外科問わず、医師を“主な”生業としている。
髪と同色の茶髭を撫でながら、彼は更に付け加えた。
「それと、『チップ』が見つかった。早く摘出しなければ」
「それってこちらの居場所がばれてるって事じゃないですか?!」
少女が急にヒステリックに呼びかけたが、隣の中華系青年が穏やかに制する。
「慌てないで。『管理軍』の『チップ』は位置情報を伝えるけど、その為に向こうの施設を破壊したんだから。向こうが戦力を用意してもすぐには来れないよ」
「でももし今こちらの居場所がばれていて向こうに戦力が残っていたら……」
不安に押し潰されそうな少女の肩に、中年男性の手が置かれた。
「悲観的になるなアンジュ。まあ確実な事は言えないがね……手術はすぐ行うとするよ。ちょっとそこのメスと麻酔を……」
慌てるように、アンジュリーナは近くにあった、手術道具一式の入ったトレーを渡す。ハンの方は離れ、兵士達と何かを喋り始めた。残ったリョウはテントを出て、あてもなく何処かへと消えたのだった。
話 3
施設を襲った爆発は止み、兵士達が生存安否の報告をしている。
その傍ら、とある二人が臨時テントの内部で、贅沢に椅子に腰掛けながら会話を交わしていた。
「申し訳ありません、実力差で油断していた私の完全な誤算でした」
「そう謝るな。私にとってはどうでも良い事だ」
頭を下げるのは、アンジュリーナを捕え損ねた男。対する中佐と呼ばれた男性は興味無さそうに返事をした。
「施設の軍事能力は結構削られたが、襲撃で壊された研究成果はほんの一部に過ぎない。侵入者はこの施設の表層しか漁っていないらしい。しかし……」
中佐は一旦間を置いた。果たして話す事を少し整理する為なのか。
「しかしだ、侵入者は『アンダーソン』を盗み去った。アレクソン君、これがどういう事だと考えるか?」
中佐と呼ばれる男は静かに、見様では冷酷に責めるような口調で尋ねた。アレクソンと呼ばれた男はその態度に動じず、訊かれた事に答えるべく考え、余裕を見せる如く少し経って口を開いた。
「まさか奴らが“計画”に感づいているのでしょうか? しかし、あの研究の記録は外部に漏れ出ない、極秘媒体を使っている筈……」
「その通り、直通回線で侵入された訳でもあるまい。しかし、"お前達"の中にはきっとステルス能力が使える者も居るかも知れない」
「それでも『エネリオン』の存在に変化は無いですから"私達"が気付くでしょう」
「……この話は一旦置こう。結論が出ない、本題に入ろう」
手にするコップの中の水を半分程飲んだ中佐は訝しげな表情を見せるなり、別の話題を持ち掛けた。
「ところで、お前は『アンダーソン』についてどこまで知っている?」
「……奴が最初の“成功例”だという事位でしょうか。しかし、何故元の「能力値」が低い者を実験に選んだのですか?」
「知っての通り『トランセンド・マン』は何故か複製の困難さがあり、分化し終えた細胞からでは万能幹細胞が作れない。被験者が持つ卵子や精子を直接操作する、という原始的な方法でしか増殖が出来ない。細胞分裂開始から胎児へ成長させる段階でも、何故かしら異変が起きてしまう」
中佐は一旦休み、一呼吸置いて再び話し出した。中佐の口調は抑揚が無い。
「お前の言う通り『アンダーソン』は最初の成功例であり、成功要因を調べたい。それに薬で昏睡状態にしているとはいえ、これ以上“計画”に関与した事を知られたら不味い。ポール・アレクソン、お前に命じる。今から『アンダーソン』を奪還もしくは破壊せよ。手段は問わん。向こうの位置は『アンダーソン』に埋め込んだ『チップ』から分かっている筈だ。指揮は任せた。上層部には私から報告しておこう」
「了解、泥棒達を皆殺しにして来ますよ」
中佐の長話とは反対に、短く返事したアレクソンと呼ばれる男は、何故か笑いながら振り向き、指をポキポキ鳴らして何処かへ歩き去った。
一方、中佐はハアー、とため息をつき、コップに入った残りの水を全部飲み切る。そして、額に流れていた汗を指で拭き取った。
「そうか分かったぞ!」
医療テント内に大声が拡散した。何事か、と周辺に居た他の軍医達の注目が集まる。
「ストーン先生、ちょっと静かに……」
「すまんすまん。ところで、外で待たせているリョウ達を呼んで来てくれんか? 凄いぞ」
「わ、分かりました」
チャックは表面では部下に謝っていても、自分が発見した事に驚いたままで、注意など知らぬ顔。
部下に命じた通り、三人の若者はすぐに来た。中年男性は楽しさの隠し切れていない顔で出迎える。
「チャックさん、大声出してどうしたんですか? 彼は無事なんですか?」
一番最初に部屋に入ってきたアンジュリーナが、他二人を代表して尋ねた。
「勿論手術は成功したとも。摘出成功だ。電源も切れた」
医師が指し示した、先の台の上にあった金属トレーの上には、体液が付いた手術道具、そしてマイクロチップ。
安堵の息を吐いた少女。残りの青年二人も表情を和らげた。
「だが面白い事が分かったのだ。何だと思う?」
この医師はまるで生徒に対する口調で訊き返した。三人は突然の問いに不審がり、それぞれ首を振って否定の言葉を述べた。それを確認したチャックは、待ちきれずに口を開く。
「彼は、まるで生まれたての胎児なんだ」
言葉の意味が分からず、黙って首を傾げたままの三人。
「じゃあこいつは一体妊娠何年目なんだ? こいつを生んだ母親は大変だろうなあ。ずっと優先席座れて便利だっただろうけど」
一番早く言葉を返したのはリョウ。口元が緩んでいた。
「全く、冗談の絶えない奴だな」
「でも一体どういう事なんです? 彼はこれだけ、少なくとも十数年間は胎盤の中に居たという事ですか?」
リョウの疑問を改めてハンが代わりに問う。チャックは考える間もなく質問に答えた。
「色々調べてみたのだが、彼の細胞分裂回数を示すテロメアは、少なくとも十五年分だけ細胞分裂を続けて来た事は判明している。しかし、成長している筈なのに身体的な老化が全く無いのだ。それに、彼の消化器官中に入っていた液体が、羊水と同じ物質で出来ていた。更に、液体には未知の有機物まで確認された。私が思うに、彼は体外受精によって誕生し、人工子宮か何らかの設備によって促成培養されたのだと思う」
長い説明に三人は思わず黙り、説明が終わっても暫くは黙ったままだった。唯一の少女に至っては口をぽかんと開いていた。
「うへえ、『管理軍』は何を考えてるのかサッパリだな……」
「こんな話聞いた事も無い。もしこれが極秘研究の一部だとすれば……アンジュ、これは思わぬ収穫かも知れない」
「ええっ、本当ですか?」
リョウが呟く中、ハンの嬉しそうな声に釣られ、アンジュリーナも声を上げる。ただしアジア人の方は緊張気味だったが。
「まあ今は何とも言えないが……彼のゲノムはどこまで調べていますか?」
「まだ詳しい事は分からん、ここには良い設備が無いからな。本部の奴は機材をケチりおって……帰ってから更に分析を進める事にするよ」
「分かりました」
医師は愚痴混じりに答え、今度は少女へ次なる質問を投下するハン。
「アンジュ、彼について何か変わった所は無かったか?」
「へっ?……」
少女らしい高く抜けた声が聞こえた直後、短い沈黙が流れる。再び動いたのは三秒後だった。
「……私が脱出しようとした時、彼が光ったように見えました。そしたら私、自分じゃ出せない速さで走れて……ひょっとすると彼は『トランセンド・マン』なのかもしれません」
「成程、そうか……参考になった」
ハンは感謝の念を表すと、その場で少しの間考え込みながら歩きだした。そこへ日系アメリカ人が雰囲気を壊す如き発言。
「ハン、外出ようぜ」
「そうだな、後でじっくり考える事にしよう。アンジュはどうするんだい?」
「あっ、私はまだここに居ます」
「そうか。今夜はしっかり休んでおいてくれ」
上司として少女へハンが部下に優しく声を掛けていた最中、リョウは既にテントから姿を消していた。
時計に目をやると既に深夜二時を過ぎていた。ハンはテントから出るとすぐに友人の姿を見つけ、小走りで寄る。
「あーあ、やっと寝れる。酒も飲みてえし」
「気を抜くなよリョウ。『管理軍』の力は底知れない。この場所がばれて攻め込まれるかも知れないから油断するな」
「分かってるぜ」
親指を立ててみせたリョウは笑っていたが、目つきは真剣だった。
風が吹いた。
リョウ達の正面を何かが横切ったのが確かに見えた。その存在は、目の前を通り過ぎなければ分からなかっただろう。
「ん? どうしたトレバー」
既に数メートル離れている今、顔は見えないが、黒髪と全身を覆う黒い伸縮素材の服装を視界に捉えた。大柄な身体だというのに、存在感が夜に隠されている。
トレバーと呼ばれた人物は訊かれても答えず、何処かへ走り去るだけだ。
「行ってみようぜ。あいつが考えも無く動く筈がない」
「賛成だ」
リョウ達が走って追い付く中、トレバーと呼ばれた人物がちらと後ろを見た。そして言葉を発する。
「助かる」
「良いって事よ、でもどうしたんだ?」
「後だ」
最小限の低いで返事し、突然停止。
背中のリュックから何か金属製の物体を次々と取り出した。どれも形が違っていて、一見何なのかは分からない。
だがトレバーは慣れた手つきで物体達を動かし、早回しの如く組み立てていく。何時の間にか彼が握っていたのは、銃身の長いライフル型の銃だった。
「まさか敵襲か?!」
「確信は持てん」
ハンの台詞にきちんと返事はするものの、当人は前を向いたままスコープから目を離さない。夜の僅かな明かりでも分かる、彫りの深さと無精髭が特徴的な男性だった。
トレバー=マホメット=イマーム、三十一歳。名前からでも分かる通りイスラム系の混血。リョウよりも少し大柄で、身長百九十センチメートルにまで迫る。
引き金に掛けられた指が動く――だが何故か、火薬の音も発光も、空薬莢も反動もない。更に人差し指が数回動いた。
恐らく、いや確実に“普通の人間”からは何もしていないように見えるだろう。しかし、この場に居合わせたリョウとハンからは、銃口から細長い針状の“銃弾”が発射されたのを“感じ”取っていた。
“銃弾”は斜め上へ飛び、三秒後、
ピカッ――遠くの上空で数回何かが光った。オレンジの発光に照らされ爆発塵が見える。
「ナイス!」
「早く知らせるぞ!」
遅れて微かな轟音が耳に入る。リョウが親指を上げ、ハンが敵襲である事を知らせに行った。トレバーは依然としてその場に立ったまま。
「敵は約二十キロメートル先だ。すぐに砲戦は無駄だと悟られて来る」
振り向かず二人にそう言い残すと、引き金を更に何度も引く。その度に空中で爆発が起こった。
「チャックさん、彼はあとどれ位で目を覚ますんでしょうか」
そう訊いたアンジュリーナの顔は未だに申し訳なさそうな表情だった。訊かれたチャックはそんな事は気にせず、落ち着かせようとマイペースに話す。
「分からん。死ぬ事はないだろうが、昏睡状態が覚めるのは分からんよ。一日後かもしれんし、一年後かもしれん……そう暗い顔になるな」
「はい。でも……」
「それ以上言うな。物事は明るく考えろ」
すると、遮るように遮蔽布の奥から呼ぶ声がする。
「先生、こちらを手伝ってくれませんか?」
「今行く。アンジュ、少し待っとれよ」
答えたチャックはそう言い残し、遮蔽布の向こう側へ去った。
アンジュリーナが椅子に座る正面には、彼女が助けた少年が横たわっている。その顔は表情すらなく、冷酷さが感じられた。
「戦争には勝ちたい……でも誰も傷つけたくない……だから貴方を助けたの……」
少年に呼びかけるように呟くが、当然彼は全く動じない。それでも喋るのを止めなかった。
「もう人が死ぬのは嫌……敵も、味方も、皆打ち解け合えれば良いのに……」
それが不可能な事は彼女自身が分かっている事だ。それでも少女はただ訴え続ける。少年はまるで話を無視するかの如く、冷たく眠り続けている。
ドゴン!――遠くからの爆発音が確かに聞こえた。
ビーッ!
こちらは敵襲を伝える警報音だ。
続いてバタバタと多数の足音、ガチャガチャと武器を準備する音、呼び掛けを行う大声……
(きっと彼を狙って来たんだわ! 待ってて!)
使命感に突き動かされ、少女は医療テントから勢い良く飛び出した。周囲では兵士達が隊列を組んでおり、混雑しているベースキャンプの中を進んでいく。