話 1
「この結婚式、本当に賑やかね。 聞いた?長谷川さんの幼なじみが、ホテルの屋上で自殺騒ぎを起こしてるんだって!」
ドアの外から聞こえてくるひそひそ話に、橘明音の胸に酸っぱいものがこみ上げてきた。
桜井静香が自殺騒ぎを起こすのは、これで九十九回目だ。
もう慣れたつもりでいた。
だが、今日は違った。
今日は、彼女と長谷川冬樹の結婚式なのだ。
静香がこんな騒ぎを起こせば、自分がまた一歩引かなければならないことは分かっていた。
彼女と冬樹が交際して五年、静香も五年騒ぎ続けてきた。
そのたびに、冬樹はいつも真っ先に彼女をなだめに行った。
明音は、この恋愛において、自分こそが人目を忍ぶ愛人なのではないかとさえ感じていた。
だが、冬樹が前回、自分を置いて静香のもとへ行ったとき、彼は彼女に約束した――あれが最後だと。
彼の「最後」を信じたからこそ、今日の結婚式があるのだ。
「死にたいなら死なせておけ!俺に電話してきてどうするんだ?」
明音ははっと顔を上げた。バルコニーのドアが完全に閉まっていなかったらしく、冬樹の低く冷たい声が部屋の中まで響いてきた――
「飛び降り? あいつにそんな度胸はない! 今まで何回自殺騒ぎを起こした? 一度でも血を見たことがあるか?」
最後に、冬樹が声を潜めて何かを指示する声が聞こえたが、あまりにも小さく、明音には聞き取れなかった。
冬樹が電話を切り、振り返ったとき、ちょうど明音と目が合った。
明音は心臓が激しく高鳴るのを感じた――彼が今回、静香のもとへ行かなかった……
つまり、彼は自分を騙していなかった?
本当に最後だったのだろうか?
「そんなに見てどうした? もうすぐ式が始まるぞ。 準備はいいか?」 冬樹の顔に表情はなかった。
それでも、明音はとても嬉しかった。
冬樹が生まれつき感情に乏しく、多くの場合、他人に共感できない人間であることは知っている。
だが、青春時代に抱いた淡い恋心から、今や真実の愛を捧げるまでに至り、自分はようやく報われたのだと感じていた。
自分は冬樹にとって、特別な存在であるはずだ。
でなければ、どうして彼は自分との結婚を承諾しただろうか?
明音は花が咲くような笑顔で彼の腕に絡みつき、目尻も口元も笑みに満ちていた。 「冬樹、私たち、ついに結婚するのね……」
冬樹は相変わらず無表情だった。 「ああ、分かっている」
控え室のドアが開いた――
「それでは、新郎新婦のご入場です」 司会者の朗々とした声が、瞬く間に会場全体を掌握した。
明音は幸福に満ちた顔で冬樹の腕に絡みつき、壇上へと歩き出した。
「お二人に、盛大な拍手を……」
司会者が言葉を言い終える前に、冬樹の携帯電話が突然鳴り響いた。
司会者の顔に気まずさがよぎり、会場からはどっと笑いが起こった。
明音の顔から笑みが消えた。 この着信音は、彼女にとって悪夢のようなものだ。 これは、静香専用の着信音だった。
冬樹は胸の内ポケットから携帯電話を取り出し、電話に出た。 『もしもし、またどうした?』
司会者は慌てて事態を収拾しようと、再び雰囲気を盛り上げようと試みた―― 長年司会者を務めてきた彼も、こんな事態は初めてだったに違いない。
だが、彼が口を開くよりも早く。
『すぐに行く』
冬樹はそう言い捨てると、大股で壇上を降りていった。
一瞬にして、会場全体が騒然となった。
「行かないで……」明音はウェディングドレスの裾をたくし上げ、彼を追いかけた。 その顔はほとんど懇願に満ちていた。 「最後だって言ったじゃない」
冬樹は眉をわずかにひそめ、冷徹に利害を天秤にかけているようだった。
数秒後、彼は冷静に彼女に説明した。 「静香が本当に飛び降りた。 俺が行って様子を見てくる。 君はゲストをなだめていてくれ。すぐ戻る」
「冬樹!」明音は彼の腕を掴んで離さなかった。 「もしあなたが行くなら、私、結婚しないから!」
冬樹は彼女の手を振りほどいた。 「後悔するなよ」
明音は心が粉々に砕け散るのを感じ、涙がはらりとこぼれ落ちた。
冬樹は彼女の涙を見て、心臓がわずかに揺れたが、彼女が自分に妥協したのだと理解した。
いつものように。
彼女は自分を諦めきれないのだ。
彼は、明音がどれほど自分を好きかを知っていた。 箱入り娘のお嬢様でありながら、実家と縁を切ってまで、宮都で自分と共に苦労を重ねてきた。
何が起ころうと、彼女はいつも自分の後ろに立っていてくれた。
彼女の最大の願いは、自分と結婚することだった。
それに、これまで静香が何度も騒ぎを起こすたびに、彼女が後始末を手伝ってくれた。
だが、今回に限って「結婚しない」と脅してきたのは、明らかに本当に追い詰められている証拠だった。
ただ、静香の件は本当に緊急事態なのだ。
明音のわがままに付き合っている場合ではない。
冬樹は無意識に唇を動かしかけたが、ポケットの中の携帯電話が再び振動し、彼はすぐに電話に出て、外へと駆け出していった。
一瞬にして、ゲストたちは顔を見合わせた。
これは……どういう状況だ?
新郎が逃げ出した?
会場が混乱に陥るのを見て、明音は涙を拭い、気力を振り絞って、完全に呆然としている司会者からマイクを受け取った。 「皆様、申し訳ありません。 本日の結婚式は中止とさせていただきます… …」
会場はたちまち騒然となった。
だが、明音はもうそんなことを気にしている場合ではなかった。
今日を境に、自分は宮都一の笑い者になるだろう。
誰もが、明音が冬樹に夢中で、多くの優秀な男性の中からあえて貧しい彼を選び、苦労を共にしてきたことを知っている。 ようやく苦労が報われるかと思いきや、結婚式当日に冬樹に捨てられたのだ。
明音がホテルを追いかけると、ホテルの入り口は人でごった返していた。
少し離れた場所で、静香はすでに冬樹にエアマットから抱き下ろされていた。 彼女はウェディングドレスを着ており、目を真っ赤にして泣いていた。
「冬樹、 どうして私を一人にできるの? 私たち、 ずっと一緒にいるって約束したじゃない」
「騒ぐな」冬樹はわずかに眉をひそめたが、その顔に表情はなかった。
静香は彼の顔を両手で包み込み、漆黒の瞳を見つめた。 「嫌よ!」
明音は静香の行動を見て、冬樹が怒るだろうと反射的に思った。
彼女も若い頃、彼の顔を包み込んで見つめたことがあった。 だが、彼は冷たく彼女を見つめ、「俺は顔を触られるのが嫌いだ」と言い放った。
その声は冷たく、瞳には一片の感情もなかった。
だが、今の冬樹は何もせず、静香が鬱憤を晴らすかのように彼の端正な顔を揉みくちゃにするのを許し、 最後には彼女を泣き笑いにさせていた。
明音は、冬樹の感情の乏しさは誰に対しても冷たくよそよそしいものだと思っていた。 だが、今、彼が静香を抱きかかえて救急車に向かう姿を見て、自分がどれほど滑稽な存在だったかを悟った。
来る日も来る日も、来る年も来る年も、いつか自分の手で冬樹の冷たい心を温め、彼が自分を好きになり、あの冷たく美しい瞳が自分への喜びと寛容に満たされる日が来ると信じていた。
だが、結果は――
彼女はひどく裏切られた。
冬樹にも感情はあったのだ。 ただ、それが自分に向けられたものではなかったというだけだ。
明音は笑いながら涙を流した。
この五年。
自分は一体何だったのだろう?
(明音、あなたは本当に純真で、本当に滑稽だ。)
この五年間は、ただの夢だったのだ。
今、夢は砕け散った。
彼女も、もう目を覚ますべきだった。
明音は控え室に戻り、ウェディングドレスを脱いで自分の服に着替えた。
結婚式の混乱がもたらした波紋はまだ強く、明音が法律事務所に戻ると、賑やかに議論していた同僚たちは途端に静まり返った。
だが、明音は気にも留めなかった。彼女は元来図太く、学生時代に法学部の秀才・冬樹を自ら追い回していた頃から、すでに学校中の笑い者だった。
彼女はただひたすらに勇敢で、猪突猛進だった。 今、ようやく頭を打ち砕かれて、冬樹が本当に自分を好きではなかったのだと理解した。
明音は自分の席に戻り、パソコンから辞職願を印刷し、自分の名前をサインすると、冬樹のオフィスにあるデスクの上に置いた。
それを置いた途端、携帯電話が振動した。
冬樹からの電話だった。
『結婚式をキャンセルしたと聞いたが? どうして事前に相談しなかった? 事務所の評判にどれだけ悪影響があるか分かっているのか?』
『キャンセルしなかったらどうするの?』明音は冷たく言い返した。 『あんなにたくさんのゲストをホテルに座らせて、あなたがヒロインを救って戻ってくるのを待たせるつもりだった?』
冬樹は数秒間沈黙した。 明音が自分に反論してくるとは予想外だったようだ。
二人が付き合い始めてからずっと、明音は太陽みたいに明るくて、彼の周りをいつも騒がしく駆け回っていた。活気に満ち、笑顔を絶やさない子だった。
彼に腹を立てたことなど一度もなかった。
『俺が悪かった』 冬樹はいつもこれほど理性的で冷静だった。 『俺の配慮が足りなかった』
明音は苦笑した。 自分は本当に怖いもの知らずだった。 生まれつき感情に乏しい人間が、自分を愛してくれるとどうして思えたのだろう?
明音はデスクの上の辞職願に目をやった。 『冬樹、私の辞……』
彼女が言い終える前に、受話器から甘ったるい声が聞こえてきた。 『冬樹、腰が痛いの。 早く来て揉んでちょうだい』
『今、忙しい。 また後で』
すぐに受話器から『ツーツー』という忙しい音が聞こえてきた。
話 2
橘明音は深く息を吸い込み、胸に込み上げる切なさを必死にこらえながら。 彼女は顔を上げ、窓の外に視線を向けた。
外は燦々と陽が降り注ぎ、通りには車が絶え間なく行き交っている。 壮麗な宮都の街並みが、その窓から一望できた。
ふと、彼女は思い出した。 今や宮都で名声を轟かせている冬明法律事務所も、最初はここ、この小さなオフィスから始まったのだと。
あのオフィスは、彼女が自分の名義で持っていた唯一の不動産を売却し、その金で長谷川冬樹のために契約したものだった。
そして今、このオフィスビルのワンフロア全体が、冬樹のものとなっている。
オフィスを借りたあの日も、今日と同じように晴れ渡っていた。
「事務所の名前、『明寒』はどうかな?」
「何でもいい」 冬樹は無表情に言った。 「君が決めればいい」
明音は興奮して彼の胸に飛び込んだが、彼は容赦なく彼女の頬をつまみ、自分から引き離した。 「人に抱きつかれるのは好きじゃない」
それでも明音は気にせず笑い、再び彼の胸に飛び込んだ。 「それでも抱きつくの」
彼女はかつて、意気揚々と笑いながら冬樹に告げた。 自分が彼を、宮都で最も優秀な弁護士にしてみせると。
冬樹は、そんなことはどうでもいい、彼にとって一番大事なのは、明音の幸せだと。
彼女は約束を守った。
だが、彼は守らなかった。
……
明音の私物は、事務所に非常に多かった。
あまりに多く、半日かけても片付けきれないほどだった。
何しろ、事務所の設立以来、彼女は常に冬樹の陰に立ち、あらゆる雑務をこなしてきたのだ。
事務所は冬樹のものだが、そこには彼女の心血のすべてが注ぎ込まれていた。
周囲の社員たちは、明音が荷物をまとめる様子を、互いに顔を見合わせながら見守っていた。 どう声をかけていいか分からず、誰も近づこうとはしない。
結婚式で何が起こったのか、彼らも耳にしているようだった。
だが、冬樹は社長である。 仕事を失いたくなければ、彼の陰口を叩くことなどできるはずもなかった。
明音はすべての荷物をまとめ終え、引越し業者に連絡しようとしたその時、携帯電話が突然鳴り響いた。
電話は冬樹の母親からだった。
明音は唇を引き結び、通話ボタンを押した。
『もしもし、橘さんですか?』電話に出ると、家の家政婦の焦った声が聞こえてきた。
『冬樹さんの電話が通じなくて。 奥様が急に発作を起こして病院に運ばれたんです。 来ていただけませんか?』
『分かりました。 すぐに向かいます』
明音は病院に駆けつけると、冬樹の母親である梅子がベッドに腰掛け、家政婦が剥いてくれたリンゴを食べているところだった。
梅子は明音の姿を認めると、蒼白だった顔にたちまち焦りと怒りの色が浮かんだ。 彼女は顔をこわばらせ、明音を責め立てた。 「明音、 あなたと冬樹はどういうつもりなの? 結婚というのはどれほど重大なことだと思っているの? それを結婚式の当日にキャンセルするなんて、 こんなことが世間に知れたら、 うちの家の面目は丸つぶれじゃない!」
明音の額に、細かい汗が滲んだ。 梅子に人を責めるだけの気力があるのを見て、彼女の体調はさほど悪くないと察した。 おそらく、結婚式がキャンセルになったと聞いて、一時的に感情が高ぶって持病が再発したのだろう。
「おばさま、どうかお怒りにならないでください」
「怒らずにいられるわけがないでしょう!」梅子は眉をひそめた。 先ほど急いで話したせいか、胸が激しく上下している。 「冬樹は頑固で、自分のやりたいようにやって、結果を考えない子なの。 明音、どうしてあなたが彼を諫めないで、好き勝手させているの?」
明音は深く息を吸い込み、辛抱強く説明した。 「私たちが結婚式を挙げている最中に、桜井静香さんが飛び降り自殺を図ろうとしたんです」
「なんですって?」梅子の顔色が一変した。 「静香ちゃんは無事なの?」
「はい、無事です。 冬樹が病院に連れて行きました」
梅子は胸をなでおろし、安堵のため息をついた。 「ああ、びっくりした。 無事でよかった」
事の経緯を知り、梅子はようやく安心した。 彼女は明音に、結婚式キャンセルの後始末をしっかり行い、冬樹に迷惑をかけないよう、と口を酸っぱくして言い聞かせた。
この騒動で、彼女の弱った体は限界に達し、まもなく眠りに落ちた。
「橘さん、本当に申し訳ありません。 わざわざお越しいただいて。 ここはお任せください。 ご自分の用事に戻られてください」家政婦は申し訳なさそうに言った。
明音はベッドで眠る梅子に目をやり、家政婦に言った。 「今後、おばさまに何かあっても、もう私に電話しないでください。 私は……」 「橘さん、どうかお怒りにならないでください。
先ほどの奥様の言葉は、どうかお気になさらないで。 あの方はああいうお気性なんです。 桜井静香さんは、何しろ小さい頃から見ている子ですから、どうしても肩入れしてしまうんです。 でも、奥様は本当にあなたのこともお好きなんですよ……」
明音の口元に、苦い笑みが浮かんだ。 家政婦でさえ、梅子が桜井静香の方をより好んでいることを見抜いているのだ。
「おばさんに怒っているわけではありません。 ただ、私と冬樹はもう別れました。 今後、彼のことは私には関係ありません。 おばさまの件は、直接冬樹に連絡してください」
明音はそう言うと背を向け、後ろで家政婦が驚きのあまり言葉を失っている表情には目もくれなかった。
しかし、顔を上げた途端、冬樹と桜井静香がすぐ近くに立っているのが見えた……
明音の視線と、冬樹の視線がぶつかった。 彼のその整った顔は、何度見ても完璧で非の打ち所がないと彼女は思った。
それもそうだ。
この顔でなければ、どうして自分はあんなにも夢中になり、抜け出せなくなってしまったのだろう。
「なぜ結婚式キャンセルの騒ぎを、 なぜ早く処理しない? 問い合わせの電話が私のところまで来ている」 冬樹は眉をひそめて問い詰めた。
明音は、胸の奥が締め付けられるような痛みに襲われた。 冬樹は、本当に自分を愛してなどいなかったのだ。
彼が求めていたのは、身の回りの全てを処理する都合のいい“お世話係”でしかなかった。
それなのに、自分は愚かにも彼に尽くし、そのすべてを彼が自分を好きだという証拠だと信じ込んでいた。
だが、二人の間には確かに美しい思い出もあった。
その一つ一つの思い出は、明音にとって最も大切な宝物であり、彼女がこれまで耐え忍んできた支えでもあった。
だが、今――すべてを終わらせる時が来たのだ。
「明音お姉ちゃん、今日は本当にごめんなさい。 あなたと冬樹さんの結婚式を台無しにしてしまって。 謝るわ」
隣にいた静香は、誠意のかけらもない口調でそのセリフを棒読みすると、冬樹の腕に絡みつき、甘ったるい声で囁いた。 「冬樹、ほら、私もう謝ったんだから、怒らないで……」
「ああ」 冬樹は無表情に頷いた。
静香の顔に、たちまち得意げな笑みが浮かび、明音を横目で睨みつけた。
明音は、冷ややかに静香を見つめた。
こんな安っぽい手口は、静香が昔からよく使っていたものだ。
昔の自分なら、きっと静香と口論になっていただろう。
だが、今の彼女には、そんな気力も体力も残っていなかった。
明音は視線を外し、言った。 「会社に戻って荷物の整理を続けなければならないので、これで失礼します」
彼女が冬樹とすれ違おうとした瞬間、手首を掴まれた。
明音は振り返ると、冬樹の深く漆黒の瞳と視線が合った。
「話が……」
だが、彼が言い終わる前に、隣にいた静香が突然ぐったりと冬樹にもたれかかった。
冬樹は素早く彼女を支え、緊張した面持ちで尋ねた。 「どうした?」
「私……ひどくめまいがするの。 きっと、しばらく輸血していないからだわ……」
「輸血」という言葉を聞いた瞬間、明音の体は思わずこわばった。
静香は先天性の造血機能障害を患っており、定期的に輸血を受けなければならない。 さらに厄介なことに、彼女は極めて稀なRh陰性という血液型だった……
そのRhマイナスの血液を、明音もまた持っていたのだ。
まだ幼く無知だった頃、彼女が初めて静香への輸血に同意したのは、静香が冬樹の従妹だと信じ込み、自ら助けを申し出たからだった。
だが、それ以降、彼女が何度も献血を繰り返したのは、ただ冬樹を喜ばせたい一心からだった。
当時の彼女は愚かにも、愛する人が大切にしている人を、自分もまた大切にしなければならないと思い込んでいた。 静香のために、一体何度輸血したのか、自分でも覚えていない……
冬樹は無意識に明音の方を向き、言った。 「明音、準備してくれ。 すぐに静香に輸血する」
この瞬間、明音は笑い出したくなった。
冬樹が自分と一緒にいたのは、厄介事を処理してくれる手伝いを探していただけでなく、静香のためにいつでも使える移動式の血液バンクを確保したかっただけなのではないかとさえ疑った。
「絶対にイヤよ!」彼女はきっぱりと拒絶した。
冬樹は思わず眉をひそめた。 「静香の容態は特殊なんだ。 すぐに輸血しなければ、彼女は死んでしまう」
「それなら、死なせてしまえばいいじゃない」
話 3
長谷川冬樹は思わず呆然とした。
まさか橘明音の口から、これほどまでに冷たく突き放すような言葉が出るとは思ってもみなかった。 彼女はいつも自分に言いなりで、従順だった。
彼女が注射をひどく怖がっていることは知っていた。 針を刺されるたびに震えが止まらず、落ち着くまでに長い時間がかかる……
それでも彼女は、自分のために桜井静香に何度も輸血をしてくれた。
冬樹はためらいがちに目を上げ、明音を見た。 「それなら……」
「明音……」しかし、彼が言い終える前に、隣にいた静香が突然口を挟んだ。 言葉を発する前から涙をこぼし、「な……どういう意味?私が死ねって呪ってるの?」
明音は冷ややかに彼女を見つめた。 この女の悪意と執着、そして演技力は一流だ。 いつも冬樹を手のひらで転がしている。
あるいは……彼は喜んで騙されているのかもしれない。
明音は唇の端に冷笑を浮かべた。 「輸血したい人がすればいい。 私はもうあなたに輸血しない!」
静香は顔を背け、冬樹の腕に絡みついた。その声には、いっぱいの不満と悲しみが滲んでいた。 「冬樹、見てよ。 彼女、私が死ねって呪ってるのよ。 私が集中治療室に運ばれて、お母さんと一緒に寝たきりになったら嬉しいって思ってるの?」
静香の母親は、かつて冬樹を救うために集中治療室で五年もの間、意識不明のまま横たわっている。
そのことが、冬樹に静香への負い目を感じさせ、彼女を特別に目をかける理由となっていた。
しかし静香はその負い目を利用し、何か騒ぎを起こすたびに母親のことを持ち出すのだった。
そして冬樹も、いつもそれを大目に見る。
ただ、今回はいつもと少し違った。 冬樹は静香が母親のことを口にしたのを聞き、わずかに眉をひそめた。
彼は五年前のことを決して忘れない。 暴走したトラックが突っ込んできた瞬間、麻子さんが彼を突き飛ばし、自らが車輪の下敷きになった。 その下には、血の海が広がっていた……
しかし、明音は……
彼が長い間黙っているのを見て、明音の心に一筋の希望が芽生えた。
一度でいい。
冬樹が自分の味方になってくれるなら。
そうすれば、これまでの自分の努力が報われたと思えるだろう。
彼は自分を嫌いなわけではなく、ただ好きになれないだけなのだと。
「明音、 もう一度だけ静香に輸血してくれないか? 最後にするから!」 冬樹は彼女を見上げた。 漆黒の瞳に、 彼女の顔が映り込んでいる。
芽生えた希望は、瞬く間に完全に冷え切った。
明音は自嘲気味に笑った――自分は本当に愚かだ。
まだ彼に希望を抱いていたなんて。
結局、彼が下す選択はいつも同じなのだ。
そして、自分はいつも彼が利害を天秤にかけた末に切り捨てる存在……
静香は密かに安堵のため息をつき、明音に向き直ると、その目元には得意げな色が浮かんでいた。 「明音、今回も輸血をお願いしなきゃいけないみたい。 本当にありがとう!」
明音は横目で彼女を一瞥した。
――冬樹は、本当に彼女に優しい……
以前は、冬樹も少しずつ人を愛することを学んだのだと、勝手に思い込んでいた。
しかし彼は今、いつもの冷たく淡々とした態度で自分に告げている――この先、一生自分を好きになることはない、と。
明音は視線を戻し、冬樹を淡々と見つめた。 「言ったはずよ。 私は彼女に輸血しない」
冬樹はわずかに眉をひそめた。 明音の瞳に宿る視線はあまりにも淡々としていて、彼の心をざわつかせた。
初めて明音に出会った日のことを、冬樹は今でも覚えている。 夏の陽光が爛々と降り注ぐ中、彼女の笑顔は太陽よりも輝いていた。
ただ、いつからだろう。 彼女は笑わなくなった。
「どうしよう? 明音が輸血してくれなかったら、 私、 死んじゃう!」 静香は顔面蒼白で叫んだ。 「冬樹、 お母さんに約束したでしょ。 私の面倒を見るって……」
冬樹は冷たい声で言った。 「今すぐ他のドナーを探す。お前を死なせはしない!」
静香は目を見開き、信じられないといった表情で冬樹を見つめた。 「もし見つからなかったらどうするの?明音は何度も輸血してくれて、血液型も合うし、拒絶反応もないのに、どうして他の人に変えるの?」
冬樹は何も言わなかった。
静香の瞳はすぐに涙でいっぱいになった。 「わかったわよ。 あなたが私を構わないなら、私は梅子叔母さんのところに行く!」
そう言うと、彼女は泣きながら病室に駆け込んでいった。
間もなく、長谷川梅子が静香に連れられて出てきた。
梅子は、少し前に寝たばかりだったようで、顔にはまだ疲労の色が残っていた。
彼女も静香から何を聞いたのか、明音を見るその目には、わずかな非難の色が浮かんでいた。
「冬樹、いつも静香ちゃんをいじめるのはやめなさい。 あの子のお母さんはあなたを救うために植物状態になったのよ。 今、明音に少し輸血してもらうだけじゃない。 大したことじゃないわ。それに、もう何度も輸血してるんだから、大丈夫よ。 でも、静香ちゃんがすぐに輸血しなかったら、死んでしまうのよ!」
冬樹は唇を引き結び、眉をひそめた。 「母さん、すぐに人を探すと言っただろう。 それに、血液銀行にも血はある。 明音から無理に取る必要はない」
「梅子叔母さん、見てよ。 この人、明音のことばかり気にして、私のことは少しも気にかけてくれない!」静香の一言で、明音まで巻き込まれた。
梅子は頭痛を覚えるように眉をひそめた。 しかし、冬樹は今、無表情で、その瞳は冷たく鋭く、人を寄せ付けない。 この息子の決めたことは、誰にも変えられないことを彼女は知っている。
仕方なく、 彼女は明音に顔を向けた。 「明音、 静香ちゃんに少し輸血してあげてくれない? お願いよ」
明音は笑った。
こうなることは分かっていた!
静香が癇癪を起こすたびに、譲歩するのはいつも自分だ。
そして未来の義母である梅子も、毎回決まって明音に我慢を強いる。
それもそうだろう。
最初から、自分から好意を寄せていたのは自分なのだから。
梅子と初めて会ったのは、五年前の冬休みだったことを彼女は覚えている。
当時、彼女はまだ大学に入ったばかりだった。
ある夜、学校に戻るのが遅くなり、酒に酔った男に暗い路地へ引きずり込まれた。 絶体絶命のその時、背が高く痩せた男が彼女を救ってくれた。 相手の顔は見えなかったが、男の胸を暴漢がナイフで切り裂くのを見た。
その後、退院した彼女は、冬樹の体にその時の傷跡を見つけた。
もともと彼に一目惚れしていた彼女は、彼が自分を救ってくれた人だと知り、喜びでいっぱいになった。
彼が自分に冷たく淡々としていても、彼女はますます夢中になっていった。
当時、彼女は法学部のマドンナだったが、プライドを捨てて彼を追いかけ、我を忘れるほどだった。
その後の冬休み、一ヶ月もの長い休みが耐えられず、家族に内緒で彼の家行きの列車チケットを買い、彼に会いに行った。
彼女は幼い頃から都会で育ち、裕福な家庭で、苦労というものをほとんど知らなかった。
道行く人に尋ねながら冬樹の家を探し当てた時、彼は地面に押さえつけられているところだった。
「この子はなんて言うことを聞かないんだ!山には狼がいるって言っただろう。 孫おばさんが噛まれたのを見なかったのか?今から山に人を探しに行くなんて、死にに行くようなものだ!」
「お前の母親も狼に会ったのかもしれない。 もう警察には連絡した。 警察が来てから山に入るんだ。 衝動的なことはやめろ」
村人たちが口々に言った。
冬樹は地面に押さえつけられ、顔は土で汚れ、体には草屑がついていた。
しかし、彼はただ山をじっと見つめている。 顔に表情はなかったが、その眼差しは、今にも狂い出しそうな獣のようだった。
「彼を放して!」明音はまっすぐに駆け寄り、どこから湧いたのか分からない力で、冬樹を押さえつけていた二人の男を突き飛ばした。
「どこから来た小娘だ? 邪魔をするな! 俺たちは彼のためを思ってやってるんだ。 もうすぐ日が暮れる。 こんな時に山に入ったら、狼の餌食になるだけだ!」
冬樹は黙って地面に座り込み、長い指を握りしめていたが、やはり一言も発しなかった。
「こんなに大勢いるじゃない!日が暮れないうちに、みんなで山を探しに行きましょうよ。 ここで突っ立って何もしないよりずっといい!」
人々は思わず顔を見合わせたが、誰も応じなかった。
もし本当に狼に出会ったら、命に関わることだ!
「手伝わないなら、彼を止めないで!」明音は冬樹の手を握った。 「行くわよ。 私が一緒に山へおばさんを探しに行く!」
冬樹は地面に座ったまま、彼女を見上げた。
「行きましょう!」
明音は彼を立ち上がらせ、その手を引いて山へと向かった。
この時、空はすでに暗くなっていた。
「冬樹、心配しないで。 私がおばさんを見つけるから!」 明音は深く息を吸い込んだ。 恐怖で心臓が喉から飛び出しそうだったが、暗く危険な前方を見つめ、自分を奮い立たせようとしていた。
「おばさんを見つけたら、一緒に格闘技やテコンドーを習いに行きましょう。 そうすれば、もう誰もあなたがやりたいことを止められなくなる!」
先ほど冬樹が地面に押さえつけられ、みじめな姿をしていた光景が、明音の心に深く刻み込まれていた。
その時、彼女は初めて知った。 いつも孤高で優秀な冬樹にも、あんなに無力で絶望的な瞬間があるのだと。
彼があんな姿になるのを見たくなかった。
彼は輝きを放ち、誰もがその優秀さに憧れる存在であるべきだ。
幸運にも、天は彼らを見捨てなかった。
空が完全に暗くなる直前、彼らは幸運にも、失血多量で意識を失いかけていた長谷川梅子(旧姓:田中)を発見した。
彼女は狼には出会わず、ただ転んでしまい、木の枝がふくらはぎに刺さって大量の血を流していただけだった。
冬樹はすぐに彼女を背負い、山を下り始めた。
明音は、その時梅子が自分に何度も感謝し、冬樹に、こんなに良い子を裏切るなと繰り返し言っていたことを覚えている。
しかし、今となっては――
時は流れ、
人も変わってしまった。
今の梅子は、自分に他の誰かのために輸血してくれと頼んでいる。