話 2
薫が急いで家に戻ると、リビングのソファに京子がぽつんと座り、茫然と宙を見つめていた。
目は赤く腫れ、泣いた痕がはっきりと残っている。
薫は周囲を見渡し、つい問いかけた。「京子おばさん、どうしたの?お父さんは?」
京子は津本健一の再婚相手だった。
薫の問いに、京子は抑えきれない怒りを込めて叫んだ。
「各務将人…あの恩知らず、なんて酷い奴なの!」
「何年も前、あの子がどん底だった時にあなたはずっと支えてあげたのよ。なのに今になって、持ち直した途端、あなたを切り捨てただけじゃない…お父さんを刑務所に送り込もうとしてるのよ!今、健一さんは拘置所にいるわ…」
……
薫は一瞬、言葉を失ったが、すぐに口を開いた。「京子おばさん、落ち着いて。私…将人に連絡してみる」
夫婦にはなれなかったけれど、それでも過去の情は残っているはず。各務将人が、そこまで非情な人間だとは思いたくなかった。
薫はスマホを手に取り、電話をかけた。相手はすぐに出た。
薫は声を落として懇願するように言った。「各務さん、私たちはもう終わったけど…お願い、父には怒りを向けないで」
受話器の向こうから、鼻で笑うような声が聞こえた。
「それだけの赤字、誰かが責任を取るしかないだろ」
薫は言葉を探しながら、なおも食い下がろうとした。
だが、将人の声色が一変した。「もう一つ方法がある。君がそれを選ぶかどうかだ」その声は冷たく、非情だった。「薫、五年間、俺の女になれ。そうすれば、津本おじさんの件は不問にする」
薫は言葉を失い、その場に固まった。
まさかここまで恥知らずな男だったとは…。各務将人は地位も未来も欲しがり、それだけでは飽き足らず、彼女の身体まで手に入れようとしているのだ。
怒りが全身を駆け巡り、薫の声は震えた。「…本当に最低。吐き気がするわ!」
彼は鼻で笑いながら答えた。「俺がどんな人間か、君はとっくにわかってただろ?」
薫は歯を食いしばり、声を絞り出す。「私は、あんたの愛人なんかにならない!絶対に!」
将人は冷ややかに笑いを漏らした。「じゃあ弁護士でも探すんだな。言っとくが、金額が金額だ。津本おじさんなら、十年は覚悟したほうがいい」
薫は冷たく笑った。「一番優秀な弁護士に頼むわ」
「鶴間尚輝のことか?」 将人は余裕の笑みを浮かべながら言った。「薫、お前、忘れたのか?彼は俺の未来の義兄だぞ。そんな相手が、お前のために俺と裁判で争うと思うか?」
その言葉に、薫の全身から血の気が引いた。頭の先からつま先まで、ぞくりと寒気が走る。
将人は一言、軽く言い捨てた。「薫――君が俺にすがるのを、楽しみにしてるよ」
……
電話を切った途端、京子が激しく怒鳴った。
「くそったれがっ!」
「夢でも見てるんじゃないの!?うちが全滅したって、あんな奴に薫を渡すもんですかっ!」
京子は怒りの中で、次第に涙をこぼし始めた。「でも…鶴間先生は、あの恩知らずの義兄なんでしょ?そんな人に、私たちが頼めるわけないじゃないの… 薫、何とかならないの?」
薫は黙って視線を落とした。
しばらくして、小さな声で口を開いた。「…鶴間先生とは、以前一度だけ会ったことがあるの。頼めるかどうか、やってみる」
京子は女の勘が鋭かった。
薫の身体に残る酒の匂いと、肩にかけられていた男性物のジャケット――それだけで、何があったか察していた。
けれど、それについては何も言わなかった。
*
薫が鶴間尚輝に会うのは、そう簡単なことではなかった。
EK法律事務所のロビーで、受付嬢が丁寧ながらもよそよそしい声で言った。「申し訳ありません、お客様。ご予約がない方はご案内できません」
薫は、昨夜あの名刺を受け取っておかなかったことを後悔した。
「今ここで予約したら、鶴間先生に会えるのはいつになりますか?」
受付嬢が端末を確認しながら答える。「最短でも…半月後ですね」
薫の胸に焦りが広がった、そのときだった。
ロビーの隅にあるエレベーターが開き、中から男女が一組、姿を現した。
男は、鶴間尚輝その人だった。
黒と白のクラシックなスーツを纏い、隙のない身なり。洗練されたエリートの風格をまといながら、彼はゆっくりとこちらへ歩いてくる。
女の客は、豊満な曲線を持つ三十代前半のセレブ風美女だった。
鶴間はエレベーターを出た瞬間、薫の姿に気づいた。だが彼は、一切の表情を動かさず、まるで見知らぬ人のように振る舞い、そのまま女性客を玄関口まで送り届けた。
距離感を見極めながら、彼は淑やかに彼女と握手を交わす。
「鶴間先生、今回は本当にありがとう。あなたがいなかったら、スムーズに離婚できて、財産まで手に入れるなんて絶対無理だったわ。あの人、新しい女ができてから、どれだけケチになったか…想像もつかないでしょ?」女は甘ったるくも色気を含んだ声でそう言った。
尚輝は、控えめに微笑んだだけだった。「当然のことをしたまでです」
彼女は、隙を突くように誘いをかけた。「鶴間先生、今夜…一杯だけどう?」
薫の視線が、思わずその女性に向けられる。引き締まった腰に、長く滑らかな脚。あれだけのプロポーションなら、普通の男なら断れるわけがない。
けれど、鶴間尚輝は“普通の男”ではなかった。
彼は袖口から腕時計をのぞき込むと、穏やかな口調でやんわりと断った。「残念ですが、今夜は予定が入っているんです」
女もそれ以上は食い下がらなかった。――この弁護士が、自分に興味を持っていないことくらい、さすがに察していた。
艶っぽく微笑んで別れを告げると、颯爽と車に乗り込み、その場をあとにした。
尚輝は彼女を見送ったあと、なぜか受付の前でふと立ち止まる。
そして、じっと薫を見つめた。「気が変わったのか?」
話 3
薫は、ふと動きを止めた。
手に持っていた紙袋を慌てて持ち上げながら言う。「鶴間先生の上着をお返しに来たんです」
尚輝はその手から袋を受け取ると、控えめに頷いた。
「わざわざどうも」 それだけ言うと、無駄な言葉は一切なく、そのままエレベーターに向かって歩き出した。
薫は焦って彼のあとを追いかけた。「鶴間先生、お願いがあるんです…!」
尚輝がエレベーターのボタンを押すと、すぐにドアが開く。薫は恥を忍んでその中へと滑り込んだ。
彼は彼女を横目でちらりと見やった。
そして鏡を見ながらシャツの襟を整え、淡々と言った。「君の案件は引き受けないよ」
薫の手足は冷たくなっていた。
――やっぱり、鶴間尚輝は津本家のことをもう知っている…!
恐る恐る、彼女は尋ねた。「各務将人が…先生に何か言ったんですか?」
尚輝は鏡越しに彼女と目を合わせ、ふっと薄く笑った。「彼に、そこまでの力はないよ。津本さん、僕はただ、公私をきっちり分ける主義なんだ」
その一言で、薫は彼の意図を悟った。――遊びなら歓迎。でも、仕事の話なら別だと。
思わず顔がこわばる。恥ずかしさと悔しさで、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
だが尚輝は、それ以上何も強要してこなかった。
たとえ薫が、彼の好みに合う顔立ちであったとしても――それだけで尚輝が例外を認めるほど、甘くはない。 ましてや、真っ昼間から色気を出すような気分でもなかった。
そんな温度のないやり取りを交わしているうちに、エレベーターは静かに28階へと到着した。
ドアが開くと、鶴間の秘書がすでに出迎えていた。彼女は薫の姿を見て一瞬驚いたが、長年の訓練がその表情の乱れを許さない。穏やかな声で言う。「鶴間先生、群馬様がお見えです」
尚輝は無造作に紙袋を彼女へ放り投げると、ひと言だけ告げた。「クリーニングに出して」
秘書はすぐに空気を読み取り、静かにその場を離れていった。
尚輝はスマートフォンの画面を見下ろしながら、気のない口調で言った。「他の弁護士を探したら?」 そして、ふと付け加える。「…それと、女性のベルトは、もう少ししっかり締めたほうがいい」
その言葉を残し、彼はさっさとエレベーターを降りていった。
――なんて男なの…!薫は心の中で叫んだ。偽善者で、内に火を抱えた男。あれが鶴間尚輝の正体だ。
……
鶴間尚輝に断られた薫は、その後あらゆる手を尽くしても、彼に会うことすら叶わなかった。
家では京子がますます焦りを募らせ、不満の声を絶え間なくぶつけてくる。薫の心はすっかりすり減っていた。耐えきれなくなった彼女は、大学時代の友人――島崎彩乃と会う約束を取りつけた。
島崎彩乃は、大学を卒業してすぐに結婚した。B市でも名の知れた資産家の御曹司と結ばれ、社交界にも顔が広い。
薫は、そんな彩乃に助けを求めた。
ふたりはカフェで待ち合わせ、薫はこれまでの事情を一通り話した。
話を聞き終えた彩乃は、怒りを爆発させたように各務将人を罵倒した。ひとしきり怒鳴ったあと、ふいに目を細めて意地悪く笑う。「で?あの夜、本当に鶴間と…ギリギリだったってわけ?」
薫は顔を赤らめ、カップの中のコーヒーを静かにかき混ぜる。
彩乃は声を潜めてささやく。「いやあ、さすがだね薫!鶴間尚輝って、あの界隈でも目が肥えてるって有名だし、浮いた噂もほとんど聞かないのに…!」
薫は苦笑を浮かべた。「もう、どうしようもなかったのよ。自分一人じゃ、どうにもならなくて…彩乃を頼るしかなかったの」
彼女もわかっていた。鶴間尚輝は、あの業界では一目置かれる存在。手を貸すということは、彩乃にとっても簡単なことではない。下手をすれば、敵をつくることになるのだから。
島崎彩乃は義理堅い性格で、少しばかりの人脈を使って鶴間尚輝のスケジュールを入手してくれた。
*
土曜日の午後3時、鶴間尚輝はクラブでゴルフの約束があるらしい。
薫は島崎夫妻と一緒にクラブへ向かい、そこで思いがけず各務将人の姿を目にした。
その瞬間、彼女は動きを止めた。
彩乃が夫の腕をきつくつねりながら、不満げに言った。「ちゃんと確認してくれなきゃ。各務がいるなんて、薫がリラックスできるわけないでしょ」
「ごめん、俺の確認不足だ。薫ちゃん、本当にすまん!」夫が真剣な顔で謝るのを見て、薫が口を開こうとしたその時――
尚輝が彼女たちに気づいた。
白のカジュアルウェアに身を包んだ尚輝は、すらりとした体躯と端正な顔立ちで、まるで人波の中の王者のような存在感を放っていた。
事務所の時と同じ、彼はまるで薫のことなど知らないかのように振る舞い、島崎の夫にだけ軽く挨拶を交わした。
その瞬間、島崎の夫はまるで夢でも見ているかのように、恐縮しながら笑みを浮かべた。
そのときになって、尚輝はようやく薫の存在に気づいたかのように目を向けた。
もともと肌が綺麗な薫だったが、今日はひときわ涼しげな装いをしていた。
白のゆったりとしたTシャツに、淡いグレーのスポーツショートパンツ。
茶色がかったゆるい巻き髪は高めにまとめたお団子ヘアで、爽やかさのなかにほのかな色気が漂っていた。
尚輝の視線が、薫の白くすらりと伸びた脚をさっとかすめる。そして、何気ない口調で言った。「…この方は、初めてお見かけするね」