2

案ずるまでもなく、ある日の早朝、陸沈は言嘉の前に跪いていた。

簡素な白いシャツの袖は腕までまくり上げられ、そこには消え残った幾筋かの浅い傷跡が覗いていた。

それはかつて、彼女を庇って刃物を受けた際にできたものだ。

言嘉は笑った。彼は過ちを犯すたびにこの傷を見せつけ、彼女の同情を引こうとするのだ。

「嘉嘉、俺が悪かった」彼は彼女を見上げ、その瞳には狼狽の色が浮かんでいた。「蘇暖が……蘇暖が妊娠した。父上が偶然そのことを知って、この子は絶対に産ませろ、と」

言嘉はただ、淡々と「そう」とだけ応えた。

陸沈は言嘉の手に触れようと手を伸ばしたが、途中でぴたりと止めた。「嘉嘉、君にとって酷な話だとは分かっている。だが……陸家の礎を、みすみす他人の手に渡すわけにはいかないんだ」 「君は身体が弱いから、俺は君に辛い思いをさせたくない。だから蘇暖に産ませるだけだ。子供が生まれたら、大金を持たせてすぐに追い出す。二度と俺たちの前に現れないように。 この子は……この子を、俺たちの子供として育てよう。駄目か?」

さらに彼は言葉を継いだ。「君が苦しんでいるのは分かっている。だが、俺だって同じなんだ。 信じてくれ、俺の心には君しかいない」

言嘉は床に跪く陸沈を見つめた。

裏社会でその名を轟かせ、誰もが恐れるこの男が、今は許しを乞う子供のようだ。

彼女は静かに微笑み、問いかけた。「陸沈、本気でそうするつもり?」

陸沈は一瞬戸惑い、不快そうに眉をひそめた。「嘉嘉、他に方法がないんだ。 あれは事故だった。薬でも盛られていなければ、俺が彼女と関係を持つはずがないだろう? それに、陸家の百年の歴史、父上が生涯をかけて築き上げたものを、みすみす他人に奪われるのを見過ごせと言うのか。 この状況を乗り切るには、この子が必要なんだ。 分かってくれるだろう……?」

「いいわ」 言嘉は彼の言葉を遮った。「産ませればいいじゃない」

陸沈は勢いよく顔を上げ、その目に驚きと喜びの色がよぎった。「嘉嘉、許してくれるのか?」

言嘉は彼に視線を合わせず、「ええ」とだけ呟き、くるりと背を向けて二階へと向かった。

陸沈は立ち上がり、彼女の後ろ姿を見つめて安堵の息を漏らすと、足早に追いかけてその身体を支えようとした。だが、その手はさりげなく避けられた。

彼は一瞬動きを止め、それ以上は近づかなかった。

自室に戻ると、言嘉はポケットからスマートフォンを取り出し、記憶に焼き付いていた番号をようやくダイヤルした。

三度目のコール音で電話は繋がり、受話器の向こうから弾んだ男の声が聞こえた。「嘉嘉か? 決心がついたんだな!」

言嘉の目頭が熱くなり、込み上げる涙を奥歯を噛み締めて必死にこらえた。

兄の声は喜びに満ちていたが、どこかこうなることを見越していたような響きがあった。

彼女は幼い頃に行方不明になり、兄に探し出された時には、すでに陸沈と籍を入れていた。

まだ、陸沈に自身の素性をどう打ち明けるか、考えがまとまっていなかった。

そんな矢先に、蘇暖の一件が起きたのだ。

今となっては、もう打ち明ける必要もない。

言嘉は深く息を吸い込んだ。「お兄様、決めたわ。私、家に帰る」

電話の向こうの言琛は一瞬言葉を失い、やがて感情を押し殺したような嗚咽が漏れた。「……帰ってくればいい。帰ってくれば、それでいいんだ……」

彼は少し間を置いてから、張り詰めた声で続けた。「陸沈に何かされたのか? 嘉嘉、兄さんに話してみろ」

ここ数日の苦しみと屈辱を、言嘉は努めて軽く、何でもないことのように語った。

受話器の向こうで、しばしの沈黙が流れた。

やがて、痛みをこらえるような言琛の声が聞こえた。「……分かった。お前の言う通りにしよう」

「だが、これだけは覚えておけ。お前は言家の娘だ。もし耐えられなくなっても、たとえ天が落ちてこようと、言家の人間がお前を見捨てることはない」

言嘉は鼻の奥がツンとなり、堪えきれなくなった涙がとうとう頬を伝った。「ええ、分かっているわ」

電話を切った後、言嘉はスマートフォンの画面に映る陸沈とのツーショットを見つめた。

結婚三周年の記念に撮ったもので、彼が彼女を抱きしめている。

彼女は写真の中の彼の顔を指でなぞった。涙が、ぽつりと画面に落ちた。

夕食の時間。

温かな黄色の光が皿を照らし、ステーキが艶やかな光を放っている。

言嘉は牛肉を小さく切り分けて口に運んだが、まるで砂を噛んでいるようだった。

いつの間にか窓の外は暗くなり、やがて雨粒が床までのびる大きな窓を叩き始めた。

陸沈のスマートフォンが鳴った。

彼は画面を一瞥し、少し声を和らげて電話に出た。「もしもし?」

受話器の向こうから、すぐに途切れ途切れの、か細い女の泣き声が聞こえてきた。「陸沈さん……わ、私、お腹が痛くて……外はこんなに雨が降っていて、怖いの……」

陸沈は眉をひそめ、無意識に言嘉の方へ視線を向けた。その目には困惑の色が浮かんでいる。

言嘉は陸沈を見上げ、意外にも口の端に笑みを浮かべて言った。「行けばいいじゃない」

陸沈は一瞬呆気にとられたが、すぐに安堵の息をつき、立ち上がって彼女の額にキスをしようとした。

言嘉がわずかに顔を背けたため、そのキスは彼女の髪の上に落ちた。

陸沈の動きが一瞬固まる。彼は低い声で囁いた。「嘉嘉、すまない。用が済み次第、すぐに戻る」

3

「ええ」 言嘉は短く応えた。

別荘の重厚なドアが閉まり、車のエンジン音が雨音に溶けて遠ざかっていく。その音がかき消えるのを待っていたかのように、言嘉の顔から笑みがすっと消え、瞳の奥に底冷えするような光が宿った。

夜が更けても雨は降り止まず、陸沈は帰ってこなかった。

言嘉は、むしろ心の底から安堵していた。長年背負い続けた重荷を、ようやく下ろせたような解放感があった。

彼女は金庫を開ける。中には不動産や株式の権利証だけでなく、壁の半分を埋め尽くすほどの、陸沈がここ数年で贈ってきた宝飾品や骨董品が眠っていた。

言嘉は携帯電話を取り出し、懇意にしているオークションハウスの責任者に電話をかける。その声は凪いだ湖面のように静かだった。「王マネージャー、朝お送りした写真の品、すべてです。今すぐ時価でオークションに出してください。できる限り早く現金化し、指定の匿名口座へ。くれぐれも、迅速かつ内密にお願いします」

電話を切ると、彼女はもう一つのファイルを取り出した。陸沈がまだ若かった頃、半ば押し付けるように渡してきた陸氏グループの株式保有証明書だ。――この家の女主人へ、お小遣いだ。彼はそう言って笑った。

言嘉の指先が、「陸氏グループ」の文字の上でわずかに止まる。彼女はすぐさま、兄から紹介された金融マネージャーに電話をかけた。「以前お渡ししたリストの通り、陸会長の誕生日に、陸氏グループの株をすべて売却してください。それと、準備をお願いしていた空売りの件。可能な限り、最大規模で仕掛けてください」

電話の向こうで、マネージャーの声が驚きに裏返った。「言様?本気でございますか? 我々が動けば、陸家に反撃の術はありませんぞ」

「ええ、覚悟の上です」言嘉は彼の言葉を冷静に遮った。「後悔はしない」

電話を切り、言嘉は金庫に背を預けた。窓の外で降り続いていた雨が、次第に弱まっていく。

空が白み始めた頃、立て続けにメッセージが届いた。

オークションハウスから。【すべての宝飾品および骨董品の売却完了。現金送金済み】

金融マネージャーから。【空売りの準備、すべて整いました。あとはお嬢様のご指示を待つのみです】

携帯電話の画面に表示された数字の羅列を眺めながら、言嘉は、長年凍てついていた心の湖に、ようやく一筋の亀裂が走り、そこから光が差し込むのを感じていた。

いつか陸沈は言ったではないか。

――陸家の財産なんてどうでもいい。最悪、二人で貧乏暮らしをするだけさ。

あの言葉を、今でも笑って口にできるだろうか。雲の上の暮らしから突き落とされ、本物の貧しさをその身で味わった後でも。

携帯電話を仕舞った、その時だった。別荘のドアが、乱暴に開けられた。

玄関に、陸沈が立っていた。その後ろには蘇暖、そして彼女によく似た目元をした、十四、五歳ほどの少女が寄り添うように立っている。

蘇暖は陸沈のジャケットを羽織っていた。まだ膨らみの目立たない腹部、蒼白な顔。彼女は言嘉の姿を認めると、怯えたように陸沈の背後へ身を隠した。

「嘉嘉、昨夜帰れなかったのは……。 蘇暖が、その……妊娠初期で体調が優れなくて。少し雨に濡れたせいもあって、何かあってはと心配で、一晩そばにいたんだ。 彼女一人では心許ないし、妹さんの面倒を見る人もいないから、ひとまず家政婦が見つかるまで、数日だけここで預かろうと思って……」

陸沈が言い終える前に、少女が蘇暖の手を振り払って言嘉の前へ飛び出した。幼い顔を懸命に上げて言嘉を睨みつけ、甲高い声で叫ぶ。 「この家はお姉ちゃんの家なのに、なんであんたがいるの!出ていけ、悪い女!」

叫ぶと同時に、その小さな手で、力任せに言嘉の体を突き飛ばした。

言嘉は避けなかった。腕を押されるがまま、無抵抗にその力みを受け止める。

彼女は少女を見下ろし、その細い腕を掴むと、まるで不要な物を捨てるかのように、蘇暖の足元へと放り投げた。

少女は体勢を崩して床に尻餅をつき、わっと泣き声を上げた。

蘇暖は慌てて駆け寄り、妹を抱きかかえながら、涙目で言嘉を見上げた。「奥様、申し訳ありません! この子はまだ幼くて……」

言嘉の視線は蘇暖を通り越し、陸沈に突き刺さった。「人の家に厄介になるのなら、連れてきたペットの躾くらい、きちんとなさることね。 それができないなら、初めから敷居を跨がせないでいただきたいわ」

陸沈が表情を険しくした。「嘉嘉、言い過ぎだぞ!」

言嘉は、ふっと冷ややかに笑った。「陸沈。どちらが『言い過ぎ』なのかしらね」

彼女は一拍置いてから、視線を蘇暖へと移した。「選択肢は二つ。今すぐその女たちを連れて出ていくか。 あるいは、この家のルールに従い、私の気に障るような真似は二度としないか」

その日の夕食は、ここ数日とは比べものにならないほど重苦しい空気に満ちていた。

食卓に並んだのは、陸沈が厨房に命じて作らせた、妊婦である蘇暖を気遣った薄味の料理ばかりだった。

言嘉は、主人の席に座っている。

陸沈の隣に座る蘇暖の視線が、言嘉の目の前にある一皿の点心――水晶のような海老蒸し餃子――に注がれていた。

それは、最近胃の不調を訴えていた言嘉のために、料理長が特別に山芋の餡を使ってこしらえた、胃に優しい一品だ。

蘇暖は、あどけなさを装ってその餃子を一つつまみ上げ、舌足らずな声で言った。

「わあ、美味しそう。一ついただいてもいいかしら」

スープをよそっていた陸沈は、その様子を見て穏やかに笑った。「食べたければ厨房にまた作らせればいい。嘉嘉のものを横取りするんじゃない」

言葉とは裏腹に、その声色に咎める響きは微塵もなかった。

言嘉は、視線を上げることもない。

この茶番がどこまで続くのか、ただ静かに見定めていた。

果たして、ものの数分も経たないうちに、蘇暖が突然腹を押さえて椅子から崩れ落ちた。顔は見る間に真っ青になる。「陸沈……お腹が……痛い、すごく痛いの……!」

今すぐ全編を読む
作者の『Moboreader』を応援して、素晴らしい物語の続きを楽しみましょう!
全話ロック解除

もう戻れない、私たちの七年目

第2話
エピソード
カスタマイズ
次の章