話 1
冷徹な若き総帥、陸沈が愛するのは妻の言嘉ただ一人――誰もがそう信じていた。
だが、結婚七周年の記念日。
夫は何者かに薬を盛られ、見知らぬ女と一夜を共にした。
言嘉が現場に駆けつけたとき、部屋には痴態の痕跡が生々しく、床には引き裂かれた下着が無残に散らばっていた。
陸沈は彼女の前に跪き、自らの胸を七度ナイフで突き刺し、永遠の忠誠を誓った。
その日を境に、陸沈は狂ったように彼女への償いを始めた。
だが、言嘉の心は分かっていた。二人の関係が、もう決して元には戻らないことを。
そして、一枚の写真が、言嘉に決定的な別離を決意させた。
1.
写真には、産婦人科の前で、陸沈が蘇暖という女の体を慈しむように支える姿が写っていた。
郵便受けには、一枚の封筒。
記されていたのは、海城に新しく造成された高級住宅地の住所だった。
選ばれた者だけが住まう、街の頂点に君臨するエリアだ。
かつて陸沈は、その1号棟を言嘉に贈ってくれた。
封筒の住所は、2号棟。
胸騒ぎに突き動かされるように、
言嘉は鍵を掴んで車を走らせた。目的地のドアには、鍵がかかっていなかった。
リビングにいた陸沈は、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。隣にいるのは、彼の親友の沈頌だ。
「……なるほど、噂に聞く『金屋』ってやつか。こんなものを用意して、言嘉さんに知られるのが怖くないのか」沈頌は不機嫌そうに室内を見回しながら言った。
立て続けの問いに、陸沈は眉間の皺を深くする。
「心配ない。嘉嘉は俺を愛している。万が一知られたところで、彼女は必ず俺を許す」
その言葉に、物陰に隠れていた言嘉は思わず冷たい笑いを漏らした。
「それに……暖暖が妊娠した。親父に言われたんだ。このまま跡継ぎが生まれなければ、あいつは嘉嘉を始末しかねない、と」
「だから、俺には跡継ぎが必要なんだ。この子を諦めるわけにはいかない」
「暖暖が産んだら、その子は俺と嘉嘉の子として育てる。あの子が、この一族の次期後継者だ」
「言嘉さんとの間に、子供は望めないのか? なぜ、わざわざ他の女に産ませる必要がある」陸沈頌が訝しげに問う。
陸沈は静かに首を振った。「嘉は……産めない体なんだ。だから、この子が必要だ」
「もし嘉嘉に産むことができたなら、俺だって薬の一件を自作自演までする必要はなかった。蘇暖は身元も綺麗で、代理母として申し分ない」
「それに、この数ヶ月で分かったが、蘇暖は存外に心根の優しい娘だ。このまま、この関係を続けるのも悪くない」
内側から聞こえてくるあまりに身勝手な計算に、言嘉の心は急速に凍てついていった。
身を引こうとした、その時。背後から甘い香りが漂い、
突き出された腹で、わざとらしく体当たりされた。蘇暖だった。
すべて、仕組まれていたのだ。蘇暖は、言嘉にこの現場を目撃させるために。
そして、今度こそ、彼女が陸沈を許さないことに賭けて。
言嘉は、静かに踵を返した。
背後から、蘇暖を気遣う陸沈の心配そうな声が聞こえてくる。
「妊娠しているんだぞ。そんなこと、アシスタントに任せればいいだろう」
その日の夕方、陸沈は珍しく自らキッチンに立ち、テーブルいっぱいの料理を並べた。
まるで主人のご機嫌をとるゴールデンレトリバーのように、その態度はあまりに献身的だった。
「嘉嘉、すまない。最近忙しくて、君との時間を作れなかった。……どうかな、腕は鈍っていないか」
言嘉は黙って料理を口に運びながら、心の中で自嘲した。
(これが、過ちを犯した男の、家庭への回帰という儀式なのだろうか)
その時、ダイニングの外を慌ただしい足音が横切った。
陸沈の秘書が、額に汗を滲ませ、困惑した表情で立っている。
「社長、奥様」恭しい声が響く。
「先ほど会長からご伝言が。今年の誕生祝賀会で、次期後継者を発表される、と」
陸沈は苛立ちを隠さずに応えた。
「分かっている」
陸沈の父――海城の経済の半ばを牛耳る絶対的な権力者。陸沈はその末子であったが、
後継者は長年正式には決まっていなかった。
だが、秘書はその場を動かない。意を決したように一歩踏み出し、喉を震わせながら言葉を絞り出した。「会長は……社長ご自身にお子がいなければ、後継者とは認めないと。 ……もし年内にご懐妊の兆しがなければ、分家から養子を迎えることもご検討される、と」
言嘉は内心でせせら笑った。
会長が誰よりも陸沈を溺愛していることなど、周知の事実。
一族の富を、みすみす他人に譲り渡すはずがない。
言嘉は、視線を彷徨わせる秘書の目を見つめ、静かに微笑んだ。
(茶番だわ。 私に見せるための、下手な芝居)
三年前、陸沈を庇って腰を強打した言嘉に、医師は告げた。子宮に深刻なダメージが残り、妊娠は常人の十倍以上のリスクを伴う、と。
それ以来、陸沈は「子供」という言葉を禁句にした。屋敷の使用人に至るまで、言嘉の前ではその話題に一切触れぬよう、固く命じていたはずだった。
案の定、陸沈は血相を変えて秘書を振り返った。その瞳の奥には、総帥としての冷酷な光が宿る。「……本当に、父の言葉か」
秘書が恐怖に身を竦ませるのを見ると、陸沈はふっと表情を和らげ、向き直って言嘉を強く抱きしめた。
「あんな話は気にするな」
顎を言嘉の頭頂部に乗せ、囁く。「一族の富など、俺はどうでもいい。いざとなれば、すべてを捨てて二人で生きよう。父上が何を言おうと、君を危険な目に遭わせるつもりはない。絶対に」
彼の腕の中で、言嘉は心を凍てつかせていた。
嘘だ。すべてが嘘。
彼は賭けているのだ。私が、彼の望む言葉を口にするのを――外の女に、子供を産ませてほしいと、私から切り出すのを。
予感は的中した。その夜、ベッドの中で後ろから抱きしめてきた陸沈が、不意に楽しそうに笑った。「……でも、考えてみれば、子供というのも悪くないかもしれないな」
言嘉の背筋が、凍りついた。
「君の目に似たら、きっと美しいだろう」
首筋に顔を埋め、甘えるように息を吹きかける。
言嘉は静かに尋ねた。「陸沈……あなたは、そんなにも子供が欲しいの」
一瞬、陸沈の体の動きが止まった。「いや……嘉嘉、そういう意味では……。なんでもない。もう、寝よう」
続く言葉は、もう言嘉の耳には届かなかった。
彼女は静かに夫に背を向け、
眠れない夜を明かした。
陸沈は、生まれたときから一族の後継者という宿命を背負っていた。巨大な富の前では、愛などという不確かなものは、あまりにも無価値だったのだろう。
この期に及んでも、彼は真実を打ち明けようとしない。
彼の言葉のすべてが、蘇暖が身籠った子供のための布石だった。
七年の愛。七年の歳月。そのすべてが、離婚という二文字に収斂していく。
話 2
案ずるまでもなく、ある日の早朝、陸沈は言嘉の前に跪いていた。
簡素な白いシャツの袖は腕までまくり上げられ、そこには消え残った幾筋かの浅い傷跡が覗いていた。
それはかつて、彼女を庇って刃物を受けた際にできたものだ。
言嘉は笑った。彼は過ちを犯すたびにこの傷を見せつけ、彼女の同情を引こうとするのだ。
「嘉嘉、俺が悪かった」彼は彼女を見上げ、その瞳には狼狽の色が浮かんでいた。「蘇暖が……蘇暖が妊娠した。父上が偶然そのことを知って、この子は絶対に産ませろ、と」
言嘉はただ、淡々と「そう」とだけ応えた。
陸沈は言嘉の手に触れようと手を伸ばしたが、途中でぴたりと止めた。「嘉嘉、君にとって酷な話だとは分かっている。だが……陸家の礎を、みすみす他人の手に渡すわけにはいかないんだ」 「君は身体が弱いから、俺は君に辛い思いをさせたくない。だから蘇暖に産ませるだけだ。子供が生まれたら、大金を持たせてすぐに追い出す。二度と俺たちの前に現れないように。 この子は……この子を、俺たちの子供として育てよう。駄目か?」
さらに彼は言葉を継いだ。「君が苦しんでいるのは分かっている。だが、俺だって同じなんだ。 信じてくれ、俺の心には君しかいない」
言嘉は床に跪く陸沈を見つめた。
裏社会でその名を轟かせ、誰もが恐れるこの男が、今は許しを乞う子供のようだ。
彼女は静かに微笑み、問いかけた。「陸沈、本気でそうするつもり?」
陸沈は一瞬戸惑い、不快そうに眉をひそめた。「嘉嘉、他に方法がないんだ。 あれは事故だった。薬でも盛られていなければ、俺が彼女と関係を持つはずがないだろう? それに、陸家の百年の歴史、父上が生涯をかけて築き上げたものを、みすみす他人に奪われるのを見過ごせと言うのか。 この状況を乗り切るには、この子が必要なんだ。 分かってくれるだろう……?」
「いいわ」 言嘉は彼の言葉を遮った。「産ませればいいじゃない」
陸沈は勢いよく顔を上げ、その目に驚きと喜びの色がよぎった。「嘉嘉、許してくれるのか?」
言嘉は彼に視線を合わせず、「ええ」とだけ呟き、くるりと背を向けて二階へと向かった。
陸沈は立ち上がり、彼女の後ろ姿を見つめて安堵の息を漏らすと、足早に追いかけてその身体を支えようとした。だが、その手はさりげなく避けられた。
彼は一瞬動きを止め、それ以上は近づかなかった。
自室に戻ると、言嘉はポケットからスマートフォンを取り出し、記憶に焼き付いていた番号をようやくダイヤルした。
三度目のコール音で電話は繋がり、受話器の向こうから弾んだ男の声が聞こえた。「嘉嘉か? 決心がついたんだな!」
言嘉の目頭が熱くなり、込み上げる涙を奥歯を噛み締めて必死にこらえた。
兄の声は喜びに満ちていたが、どこかこうなることを見越していたような響きがあった。
彼女は幼い頃に行方不明になり、兄に探し出された時には、すでに陸沈と籍を入れていた。
まだ、陸沈に自身の素性をどう打ち明けるか、考えがまとまっていなかった。
そんな矢先に、蘇暖の一件が起きたのだ。
今となっては、もう打ち明ける必要もない。
言嘉は深く息を吸い込んだ。「お兄様、決めたわ。私、家に帰る」
電話の向こうの言琛は一瞬言葉を失い、やがて感情を押し殺したような嗚咽が漏れた。「……帰ってくればいい。帰ってくれば、それでいいんだ……」
彼は少し間を置いてから、張り詰めた声で続けた。「陸沈に何かされたのか? 嘉嘉、兄さんに話してみろ」
ここ数日の苦しみと屈辱を、言嘉は努めて軽く、何でもないことのように語った。
受話器の向こうで、しばしの沈黙が流れた。
やがて、痛みをこらえるような言琛の声が聞こえた。「……分かった。お前の言う通りにしよう」
「だが、これだけは覚えておけ。お前は言家の娘だ。もし耐えられなくなっても、たとえ天が落ちてこようと、言家の人間がお前を見捨てることはない」
言嘉は鼻の奥がツンとなり、堪えきれなくなった涙がとうとう頬を伝った。「ええ、分かっているわ」
電話を切った後、言嘉はスマートフォンの画面に映る陸沈とのツーショットを見つめた。
結婚三周年の記念に撮ったもので、彼が彼女を抱きしめている。
彼女は写真の中の彼の顔を指でなぞった。涙が、ぽつりと画面に落ちた。
夕食の時間。
温かな黄色の光が皿を照らし、ステーキが艶やかな光を放っている。
言嘉は牛肉を小さく切り分けて口に運んだが、まるで砂を噛んでいるようだった。
いつの間にか窓の外は暗くなり、やがて雨粒が床までのびる大きな窓を叩き始めた。
陸沈のスマートフォンが鳴った。
彼は画面を一瞥し、少し声を和らげて電話に出た。「もしもし?」
受話器の向こうから、すぐに途切れ途切れの、か細い女の泣き声が聞こえてきた。「陸沈さん……わ、私、お腹が痛くて……外はこんなに雨が降っていて、怖いの……」
陸沈は眉をひそめ、無意識に言嘉の方へ視線を向けた。その目には困惑の色が浮かんでいる。
言嘉は陸沈を見上げ、意外にも口の端に笑みを浮かべて言った。「行けばいいじゃない」
陸沈は一瞬呆気にとられたが、すぐに安堵の息をつき、立ち上がって彼女の額にキスをしようとした。
言嘉がわずかに顔を背けたため、そのキスは彼女の髪の上に落ちた。
陸沈の動きが一瞬固まる。彼は低い声で囁いた。「嘉嘉、すまない。用が済み次第、すぐに戻る」
話 3
「ええ」 言嘉は短く応えた。
別荘の重厚なドアが閉まり、車のエンジン音が雨音に溶けて遠ざかっていく。その音がかき消えるのを待っていたかのように、言嘉の顔から笑みがすっと消え、瞳の奥に底冷えするような光が宿った。
夜が更けても雨は降り止まず、陸沈は帰ってこなかった。
言嘉は、むしろ心の底から安堵していた。長年背負い続けた重荷を、ようやく下ろせたような解放感があった。
彼女は金庫を開ける。中には不動産や株式の権利証だけでなく、壁の半分を埋め尽くすほどの、陸沈がここ数年で贈ってきた宝飾品や骨董品が眠っていた。
言嘉は携帯電話を取り出し、懇意にしているオークションハウスの責任者に電話をかける。その声は凪いだ湖面のように静かだった。「王マネージャー、朝お送りした写真の品、すべてです。今すぐ時価でオークションに出してください。できる限り早く現金化し、指定の匿名口座へ。くれぐれも、迅速かつ内密にお願いします」
電話を切ると、彼女はもう一つのファイルを取り出した。陸沈がまだ若かった頃、半ば押し付けるように渡してきた陸氏グループの株式保有証明書だ。――この家の女主人へ、お小遣いだ。彼はそう言って笑った。
言嘉の指先が、「陸氏グループ」の文字の上でわずかに止まる。彼女はすぐさま、兄から紹介された金融マネージャーに電話をかけた。「以前お渡ししたリストの通り、陸会長の誕生日に、陸氏グループの株をすべて売却してください。それと、準備をお願いしていた空売りの件。可能な限り、最大規模で仕掛けてください」
電話の向こうで、マネージャーの声が驚きに裏返った。「言様?本気でございますか? 我々が動けば、陸家に反撃の術はありませんぞ」
「ええ、覚悟の上です」言嘉は彼の言葉を冷静に遮った。「後悔はしない」
電話を切り、言嘉は金庫に背を預けた。窓の外で降り続いていた雨が、次第に弱まっていく。
空が白み始めた頃、立て続けにメッセージが届いた。
オークションハウスから。【すべての宝飾品および骨董品の売却完了。現金送金済み】
金融マネージャーから。【空売りの準備、すべて整いました。あとはお嬢様のご指示を待つのみです】
携帯電話の画面に表示された数字の羅列を眺めながら、言嘉は、長年凍てついていた心の湖に、ようやく一筋の亀裂が走り、そこから光が差し込むのを感じていた。
いつか陸沈は言ったではないか。
――陸家の財産なんてどうでもいい。最悪、二人で貧乏暮らしをするだけさ。
あの言葉を、今でも笑って口にできるだろうか。雲の上の暮らしから突き落とされ、本物の貧しさをその身で味わった後でも。
携帯電話を仕舞った、その時だった。別荘のドアが、乱暴に開けられた。
玄関に、陸沈が立っていた。その後ろには蘇暖、そして彼女によく似た目元をした、十四、五歳ほどの少女が寄り添うように立っている。
蘇暖は陸沈のジャケットを羽織っていた。まだ膨らみの目立たない腹部、蒼白な顔。彼女は言嘉の姿を認めると、怯えたように陸沈の背後へ身を隠した。
「嘉嘉、昨夜帰れなかったのは……。 蘇暖が、その……妊娠初期で体調が優れなくて。少し雨に濡れたせいもあって、何かあってはと心配で、一晩そばにいたんだ。 彼女一人では心許ないし、妹さんの面倒を見る人もいないから、ひとまず家政婦が見つかるまで、数日だけここで預かろうと思って……」
陸沈が言い終える前に、少女が蘇暖の手を振り払って言嘉の前へ飛び出した。幼い顔を懸命に上げて言嘉を睨みつけ、甲高い声で叫ぶ。 「この家はお姉ちゃんの家なのに、なんであんたがいるの!出ていけ、悪い女!」
叫ぶと同時に、その小さな手で、力任せに言嘉の体を突き飛ばした。
言嘉は避けなかった。腕を押されるがまま、無抵抗にその力みを受け止める。
彼女は少女を見下ろし、その細い腕を掴むと、まるで不要な物を捨てるかのように、蘇暖の足元へと放り投げた。
少女は体勢を崩して床に尻餅をつき、わっと泣き声を上げた。
蘇暖は慌てて駆け寄り、妹を抱きかかえながら、涙目で言嘉を見上げた。「奥様、申し訳ありません! この子はまだ幼くて……」
言嘉の視線は蘇暖を通り越し、陸沈に突き刺さった。「人の家に厄介になるのなら、連れてきたペットの躾くらい、きちんとなさることね。 それができないなら、初めから敷居を跨がせないでいただきたいわ」
陸沈が表情を険しくした。「嘉嘉、言い過ぎだぞ!」
言嘉は、ふっと冷ややかに笑った。「陸沈。どちらが『言い過ぎ』なのかしらね」
彼女は一拍置いてから、視線を蘇暖へと移した。「選択肢は二つ。今すぐその女たちを連れて出ていくか。 あるいは、この家のルールに従い、私の気に障るような真似は二度としないか」
その日の夕食は、ここ数日とは比べものにならないほど重苦しい空気に満ちていた。
食卓に並んだのは、陸沈が厨房に命じて作らせた、妊婦である蘇暖を気遣った薄味の料理ばかりだった。
言嘉は、主人の席に座っている。
陸沈の隣に座る蘇暖の視線が、言嘉の目の前にある一皿の点心――水晶のような海老蒸し餃子――に注がれていた。
それは、最近胃の不調を訴えていた言嘉のために、料理長が特別に山芋の餡を使ってこしらえた、胃に優しい一品だ。
蘇暖は、あどけなさを装ってその餃子を一つつまみ上げ、舌足らずな声で言った。
「わあ、美味しそう。一ついただいてもいいかしら」
スープをよそっていた陸沈は、その様子を見て穏やかに笑った。「食べたければ厨房にまた作らせればいい。嘉嘉のものを横取りするんじゃない」
言葉とは裏腹に、その声色に咎める響きは微塵もなかった。
言嘉は、視線を上げることもない。
この茶番がどこまで続くのか、ただ静かに見定めていた。
果たして、ものの数分も経たないうちに、蘇暖が突然腹を押さえて椅子から崩れ落ちた。顔は見る間に真っ青になる。「陸沈……お腹が……痛い、すごく痛いの……!」