話 2
片瀬結実 POV:
病院の白い天井を見上げながら, 私は数日間, ひたすら静養を続けていた.
隣にいる恭佑さんは, 献身的に私の世話を焼いてくれた.
入院手続きから日用品の準備まで, 全てを彼が手配してくれたのだ.
「旦那さんには, 連絡したんですか? 」恭佑さんが, 遠慮がちに尋ねた.
私の手は, スマホを握ったまま, ぴくりとも動かなかった.
数秒の沈黙の後, 私は震える声で答えた. 「いいえ. もう, 必要ないわ. 」
恭佑さんは, 驚いたように目を見開いた. 「え…? 」
「私, 離婚するわ. 」
私の口から出た言葉は, 想像以上に冷静で, しかし, 深い決意に満ちていた.
恭佑さんは, 一瞬, 返答に詰まった.
「ごめんなさい, こんな個人的な話を…」
「いえ, 大丈夫です. 結実さんが, そう決めたのなら…」
恭佑さんの優しい言葉が, 私の心にじんわりと染み渡る.
これまで, どれだけの冷たい言葉に耐えてきたのだろう.
夫は, 私が何か話しかけるたびに, あからさまに嫌悪の表情を浮かべた.
「君の声を聞くと, 頭が痛くなる. 」
「そんなくだらない話, どうでもいい. 」
彼の目には, 私という存在が, ただの邪魔なノイズに映っていたのだろう.
その時, スマホが震えた.
画面に表示されたのは, 彼の名前.
胸がざわつくのを感じながら, 私はメッセージを開いた.
そこに添付されていたのは, ひどく趣味の悪い, 茶色いストライプのウールマフラーの写真だった.
「結実, 誕生日おめでとう. 出張先で君に似合うと思って買ったんだ. 」
私の誕生日は, 昨日のこと.
彼が送ってきたメッセージは, どこか形式的で, そこに愛情は感じられない.
私は, すぐに星川桃子のSNSをチェックした.
案の定, そこには, 真新しい高級ブランドのバッグを抱えた桃子の写真がアップされていた.
キャプションには, 「勝弘さん, 最高のバースデープレゼントをありがとう! もうすっかり体調も回復したわ. 」
私の口元が, 皮肉な笑みを浮かべた.
このマフラーは, きっと, あのバッグのノベルティか, 桃子が気に入らなかった「おまけ」なのだろう.
私の心は, 凍り付くような怒りに支配された.
「おまけを, 私に…? 」
その侮辱に, 私は震えた.
私はすぐに彼に電話をかけた.
「ねえ, あなたが私に送ったあのマフラー. まさか, 桃子さんがいらないって言ったものじゃないでしょうね? 」
私の言葉に, 電話の向こうの彼は激昂した.
「なんてことを言うんだ! 君はいつもそうだ! 桃子のことを嫉妬して, 彼女を悪者にする! 彼女は僕のミューズなんだ! ソウルメイトなんだよ! 」
彼の言葉は, まるで私の耳元で爆発したように響いた.
「もし本当に僕と桃子の間に何かあったら, 君はこんなに楽に過ごせていると思うか! ? 」
彼の「楽」という言葉に, 私の目の前が真っ暗になった.
楽?
私がどれだけ苦しんできたか, 彼には想像もつかないのだろう.
大学時代, 彼は無名の建築学生だった.
裕福な実家を持つ桃子とは違い, 彼の家庭は決して裕福ではなかった.
私は, 彼の夢を叶えるため, アルバイトを掛け持ちし, 自分の学費を稼ぎながら彼の生活を支えた.
彼が独立して事務所を立ち上げた時も, 貯金を全て彼に渡し, フリーライターとして家計を支えた.
徹夜で彼の作品のプレゼン資料を作り, 時には彼の代わりに取引先との交渉に奔走した.
私の楽とは, 一体何なのだろう.
私は, 喉の奥からこみ上げてくる怒りを抑え, 冷静に反論した.
「ソウルメイト? ねえ, あの高潔なミューズ様は, 本当にそんなに汚れのない人なの? あなたの作品を理解できるのは, 世界中で彼女だけだとでも? 」
彼の言葉が, 一瞬, 詰まった.
電話の向こうから, 明らかに動揺する気配が伝わってくる.
「君は, 心胸が狭いんだ! 」彼は怒鳴りつけ, 電話を切った.
すぐに, またメッセージが届いた.
そこに添付されていたのは, 高級レストランの招待状.
「桃子の妊娠祝いパーティー」という文字が, 私の目に飛び込んできた.
私の口元が, 皮肉な笑みを浮かべた.
怒りを通り越し, もはや滑稽にすら感じる.
桃子が妊娠?
そして, その祝いのパーティーに, 私を招待する?
私は, 迷わず参加を決めた.
これは, 妻としての最後の役目だ.
そして, 私の人生の, 新たな章を開くための, 最後の儀式となるだろう.
話 3
片瀬結実 POV:
「結実, 桃子さんの出版記念パーティーがあるんだ. 君も来ないか? 」
彼の言葉は, 問いかけではなく, 命令だった.
「忙しいから…」と私が言いかける前に, 彼は私の言葉を遮った.
「桃子さんも君のことを気にかけているんだ. 君が体調を崩したと聞いて, すごく心配していた. 君が来てくれたら, きっと喜ぶだろう. 」
彼は, そう言って, 私に拒否する隙を与えなかった.
「パーティーでは, 僕の新作も発表される. 君に, そこで僕のサポートをしてほしいんだ. 」
「分かったわ. 」と, 私は冷たく答えた.
私の心は, すでに氷のように冷え切っていた.
私はすでに離婚弁護士に相談し, 準備を進めていた.
もう, 誰も私を傷つけることはできない.
そう, 確信していた.
会場である高級ホテルのバンケットルームに足を踏み入れると, 華やかなシャンデリアの光が目に飛び込んできた.
たくさんの人が集まり, 賑やかな笑い声が響いている.
主役である星川桃子は, 白いドレスに身を包み, まるで女神のように人々から注目を集めていた.
彼女の顔は, メイクで完璧に整えられ, 輝くばかりの笑顔を振りまいている.
一方, 私は, 数日間の入院で憔悴しきっていた.
薄いメイクで, 顔色は悪い.
ドレスアップする気力もなく, 地味なワンピースを着ていた.
周囲の人間が, 桃子を称賛する声が聞こえてくる.
「桃子さんのデザインは本当に素晴らしいわ. 才能に溢れている. 」
「しかも, こんなに美しいのに, 中身も高潔なのよ. シングルマザーの道を選ぶなんて, 並大抵の覚悟じゃないわ. 」
「それに引き換え, 片瀬さんは…ねえ. 旦那さんの稼ぎで暮らす専業主婦でしょ? 何の取り柄もないのに, よくあんな才能ある人を独り占めしようとするわよね. 」
彼らの軽蔑の視線が, 私に突き刺さる.
私は, まるで透明人間のように扱われた.
桃子は, そんな私を一瞥すると, にこやかに微笑んだ.
「皆さん, 今日は私が奢りますから, たくさん飲んでくださいね! 」
彼女は, シャンパンボトルを手に, グラスに注ぎ始めた.
誰かが, 「せっかくだから, ゲームでもしませんか? 」と声を上げた.
桃子は, 楽しそうに頷いた.
最初に罰ゲームの対象になったのは, 桃子だった.
彼女は口を尖らせ, 「何でも聞いていいわよ」と甘えた声を出した.
桃子の友人が, 悪意に満ちた笑みを浮かべながら尋ねた.
「ねえ桃子, もし赤ちゃんが生まれたら, 勝弘さんのことをパパって呼ばせるの? 」
桃子は, ゆっくりとお腹を撫でながら, 私の方を見て微笑んだ.
その笑顔は, 私への明確な挑発だった.
「結実さん, 心配しないで. 私は, 勝弘さんとの関係を壊すつもりはないわ. 」
彼女は, わざとらしく優しい声で言った.
「でも, もし私が本気になったら, 結実さんには勝弘さんを奪い返すチャンスなんてないわよ. 」
そして, さらに言葉を続けた.
「それに, もし結実さんがもう子供を産めなくても, 私の子供が, 将来, あなたの面倒を見てあげるわ. 優しい子に育てるから, 安心してね. 」
周囲の人間は, 「桃子さん, なんて優しいの! 」と, 口々に称賛の声を上げた.
私の心臓は, 激しく脈打っていたが, 私は表情一つ変えなかった.
過去の私なら, きっとその場で泣き崩れていただろう.
あの頃の私は, 彼から「被害妄想だ」と責められ, 桃子からの陰湿な攻撃に一人で耐えていた.
しかし, 今の私は違う.
彼の友人が, 私の沈黙に満足したように頷いた. 「結実さんも, ようやく大人になったな. 」
彼の言葉は, 私への侮辱でしかなかった.
誰かが, 「結実さんも, 桃子さんに感謝の気持ちを込めて, 一杯どう? 」と, 私にグラスを差し出した.
それは, 度数の高いテキーラだった.
「ええ, 喜んで. 」と, 私は口元に笑みを浮かべた.
私は, グラスを受け取ると, ゆっくりと桃子の方に向き直った.
「ごめんなさい, 今日は体調が優れないので…」と, 私は断ろうとした.
しかし, 私の言葉が終わる前に, 彼は不機嫌そうに眉をひそめた.
「なんだ結実, せっかく桃子が君のために用意してくれたシャンパンだろ? 飲めよ. 」
彼は, 私の手からグラスを奪い取ると, 無理やり私の口元に押し付けた.
アルコールの匂いが, 私の胃を刺激する.
「やめて…! 」
私が抵抗すると, グラスは手から滑り落ち, 大きな音を立てて床に砕け散った.
その瞬間, 私の下腹部に, 激しい痛みが走った.