話 2
中瀬麻世 POV:
怒りで震える心を抑え込み, 私はこれ以上無意味な言い争いを続ける気にもなれなかった. 目の前の彼らに, 言葉は通じない.
「そこのテーブルにある, あのチョコレートケーキを私にください. 」私は, 彼らが談笑していたテーブルの上の, 豪華なフルーツとチョコレートで飾られたケーキを指差した.
その瞬間, 部屋の空気は凍りつき, まるで時間が止まったかのように, 全員が固まった. 彼らは, まさか私がそんなことを言うとは思わなかったのだろう.
次の瞬間, 彼らは爆笑した. 一人の女が, 腹を抱えて涙を流しながら私を指差した. 「何様だと思ってるの? これ, 社長夫人のためのものよ! あんたなんかに手が届くわけないじゃない! 」
彼女はそう言いながら, ケーキの乗ったテーブルを私からさらに遠ざけた. そして, エントランスの「清野夫人を歓迎いたします」と書かれた看板を指差した. 「私たちはね, 社長夫人をお待ちしているの! あんたみたいな, 落ちぶれた女じゃない! 」
私は内心で冷笑した. ここにいる誰もが, この看板が指す「清野夫人」が, まさに私自身だとは, 微塵も疑っていない. 彼らの言葉は, まるで自分たちを嘲笑っているかのようだった.
「あんたみたいな女が, 社長夫人になれるわけないでしょう? 靴磨きでもさせてあげても, まだ足りないくらいよ! 」別の女が, 高慢な声で吐き捨てるように言った.
「そうよ. キヨノ・グループの社長は, 奥様を世界で一番大切にしているわ. 奥様のために, 何億円もするピンクダイヤの指輪をオークションで落札したんですって. そんな素晴らしい奥様が, あんたみたいな薄汚い女に, どうしてなれるのよ? 」
彼らの言葉を聞きながら, 私の口元が微かに緩んだ. 賢太は本当に, 私の愛する夫だ. 彼らの口から語られる賢太の「愛妻家」ぶりは, 私にとって何よりも温かい響きを持っていた. 彼らは, 賢太がどんなに私を大切にしているかを知らずに, 私を褒め称えている.
「あのピンクダイヤの指輪, 本当に美しかったわよね. ああ, そうだ, あの指輪は…! 」その女が, 突然, 私の指に視線を向けた. そして, ハッと息を呑むような声を上げた.
その声に, 周りの視線が一斉に私の指に集まった. 彼らは, 息をひそめるようにして, 私の左手の薬指に輝く指輪を見つめている.
涼介が, 私の腕を掴んだ. 彼の指が, 私の指輪を乱暴に触れる. その手つきに, 私は体がこわばった.
「なんだ, これ... 」涼介は, その指輪をじっと見つめ, 冷たい笑みを浮かべた. 「精巧な偽物だな. こんなものまで用意するとは, お前も随分と見栄を張るようになったんだな. 」
私は彼の腕を振り払い, そっと指輪を撫でた. この指輪は, 賢太が初めてのバレンタインデーに, 私にプロポーズしてくれた時に贈ってくれたものだ. 彼にとって, そして私にとって, 何よりも大切な, 唯一無二の宝物. 彼らが想像するような, 物質的な価値だけでは測れない, 深い愛情と絆の象徴なのだ.
私が反論しないのを見て, 涼介はさらに確信したように, 私の指輪を無理やり引き抜いた. 「やはり偽物か. お前には, こんな高価な本物は似合わない. 」
私は咄嗟のことで, 抵抗することができなかった. 指輪は彼の手に握られ, 私から奪われた.
涼介の取り巻きの女が, 指輪を受け取った. 彼女はそれを軽蔑するように眺め, 鼻で笑った. 「ふん, 確かに精巧な作りね. でも, 所詮は偽物よ. 私はこんな安っぽいものはつけないわ. 身だしなみってもんがあるから. 」
彼女は指輪を弄びながら, 私に嘲るように言った. 「ねえ, もしかして, あんたが噂の社長夫人なの? まさか, そんなことあるわけないでしょ! 」
周りの人々が, また下品な笑い声を上げた. 「清野社長ほどの御方が, こんな落ちぶれた女を奥様にするはずないわ! 」「そうよ, あんたじゃ, 社長夫人の足元にも及ばないわ! 」
「まあ, あんたが欲しがるなら, 特別に倍の値段で買い取ってあげてもいいわよ? 」その女は, 私に指輪を突きつけ, 嘲るように言った.
私は, 指輪が傷つけられるのが怖かった. 私の大切な指輪.
「返して! それは私のものよ! 」私は思わず叫んだ. 私の声は, ひどく震えていた.
その瞬間, 涼介が私の顔を思い切り殴りつけた. 衝撃で頭が揺れ, 口の中が血の味で満たされた.
「ふざけるな! 」涼介は, 私の襟元を掴んで怒鳴った. 「お前が勝手に清野社長の名前を出して, 俺を陥れようとしてるんだろう? そうやって, 俺の人生を台無しにするつもりか! 」
彼の部下たちが, 私を憎悪の目で睨みつけた. まるで私が, 彼らのキャリアを破壊しようとしている悪女であるかのように. 「あんたのせいで, 大島さんのチャンスが潰れるかもしれないだろう! 」「社長夫人なんて嘘ばっかりついて, 恥を知れ! 」
私は, 血の滲んだ口元を拭い, 涼介の目を見据えた. 彼の瞳の奥に, 一瞬の動揺がよぎった.
その動揺を見逃すまいと, 涼介の取り巻きの女が甲高い声で叫んだ. 「また始まったわ! あんたはいつもそうやって, 男を騙してばかり! 大島さんを裏切った裏切り者よ! 」
私は, 全身の血が逆流するような感覚に襲われた. 三年前の悪夢が, 鮮やかに蘇る. あの時も, 彼らは私を悪者に仕立て上げ, 涼介はそれに乗じて私を非難した.
「お前は本当に嫉妬深い女だな. 」涼介は, 冷たい目で私を見下ろした. そして, 自分の財布からクレジットカードを取り出し, 私の顔に投げつけた. 「これで, まともな服でも買って着替えろ. こんなみすぼらしい格好では, 俺の恥だ. 」
「もしベビーシッターが嫌なら, 俺のコネでお前にもっとましな仕事を探してやってもいいぞ? これくらい, 俺にとってははした金だ. 」彼はそう言って, 鼻で笑った.
私は, 床に落ちたクレジットカードを蹴り飛ばし, 涼介の手から自分の指輪を奪い返した. 私の指輪は, 傷一つなく輝いていた.
「あなたのカードなんていらないわ. 」私は冷たい声で言った. 「そんなにお金が余っているなら, 貧しい子供たちに寄付したらどう? 」
話 3
中瀬麻世 POV:
涼介の真っ赤になった顔を無視して, 私は踵を返した. もう一秒たりとも, 彼らのそばにいたくなかった.
しかし, 彼は私の腕を掴み, 乱暴に引き止めた. 「どこへ行くつもりだ? お前は俺の女だ! 俺がお前の欲しいものを一番よく知っている! 」彼の声は, 怒りに震えていた.
私は彼の目を真っ直ぐに見返した. 「三年前, 私たちは終わったの. もう, 二度と私に触れないで. 」私の言葉は, 氷のように冷たかった.
賢太は, 私の些細な好みを全て記憶している. 毎朝, 私のために摘みたてのバラを用意し, 私の好きな少し甘めのコーヒーを淹れてくれる. 私が少しでも寒がれば, すぐにブランケットを持ってきてくれる. 彼の細やかな気遣いは, 私の心を常に温かく満たしてくれる.
涼介が「俺がお前の欲しいものを一番よく知っている」と言ったことを, もし賢太が聞いたら, どんな顔をするだろう? 私は, 賢太の嫉妬深い顔を想像して, 思わず微笑んでしまった.
涼介は, 私の微笑みを勘違いしたようだ. 彼は私の顔をじっと見つめ, 周りの取り巻きたちに意味ありげな視線を送った. まるで「ほら見ろ, やはり俺に未練がある」とでも言いたげな顔だ.
「いいか, 麻世. 」涼介は, 高慢な口調で言った. 「三日後に, 清野グループの年次イベントがある. お前も来い. まさかとは思うが, こんなみすぼらしい格好で俺の隣に立つなよ? 俺の恥になる. 」
私は, 彼の誘いを即座に断った. 「行く必要はないわ. 」
涼介は, 歯ぎしりをするような顔で私を睨みつけた. 「お前は本当に愚かな女だな! このチャンスを逃せば, 一生後悔することになるぞ? もしお前が来ないなら, 俺は他の女を連れて行く! 」
涼介の取り巻きの女が, 目を輝かせた. 「大島さん! 私が喜んでご一緒させていただきます! 」彼女は, 涼介の腕に絡みつくように言った.
私は, そんな彼らに背を向けた. そして, 振り向かずに彼らに告げた. 「後悔するのは, あなたたちの方よ. 」
部屋を出ると, 胸の奥に広がっていた不快感が, 少しだけ和らいだような気がした.
あの日のこと. 私は涼介に懇願した. 形だけでもいいから, 結婚式を挙げようと. 両親には, 事後報告でも構わないからと. しかし, 彼はその場に, 私以外の女を連れてきたのだ.
彼は私に言った. 「麻世, 悪いが, 俺は彼女と結婚する. 彼女の父親は, 俺のキャリアにとって必要なんだ. お前には, 愛人として俺のそばで待っていてほしい. 」
彼がその女と手を取り合って会場に入っていく姿を見て, 私の心は完全に砕け散った. その夜, 私は祖母の縁談を受け入れた.
そして一ヶ月後, 私は清野賢太と結婚し, 日本を離れた. 一年後には息子を授かり, 今は第二子を妊娠している.
今回の帰国は, 両親に子供の顔を見せるためだった. まさか, 涼介と再会するとは. もしそうと分かっていたら, 私は決して日本に戻ることはなかっただろう. そして, 彼と二度と顔を合わせることもなかったはずだ.
三日後, 私はカジュアルな服装でイベント会場に到着した. 私を目にした涼介の目に, 得意げな光が宿った. 彼は私を見て, ニヤリと口角を上げた.
「ほら見ろ, 結局お前は俺のところにやってくるんだ. 口では何とでも言えるが, 身体は正直だな. 」涼介は, 私を見下すように言った. 「だが, その格好は何だ? 着替えてこいと言ったはずだぞ. 俺の顔に泥を塗るつもりか? 」
私は彼を無視し, 自分の席に向かおうとした. その視線の先には, 会場の中央, 最も上座に用意された金色の席があった.
しかし, 涼介が私の行く手を阻んだ. 「どこへ行くつもりだ? お前たちの白い席は, 入口のすぐそばだぞ. そんなところに座るつもりか? 」
私は彼の腕を振り払い, 冷たい声で言った. 「私の席は, ここじゃない. 」私は, 会場の中央にある, 最も豪華な金色の席を指差した.
涼介の顔から, 一瞬にして血の気が引いた. 彼は, 信じられないものを見るかのように, その席と私を交互に見た.
涼介の取り巻きの女が, 私を憎悪の目で睨みつけた. 「あんた, 何よ! そんな席に座れるわけないでしょう! 偽物の指輪をつけて, こんな場所に入り込んで, 一体何を企んでるのよ! 」
彼女の声は, 会場全体に響き渡った. その声に, 周りの人々の視線が一斉に私に集まった. 空気は一瞬にして張り詰め, 緊張が走った.