話 1
3年間, 再起不能の重傷を負った憧れの先輩に身を捧げてきた. 婚約者として, 彼の憎悪と冷たい沈黙に耐え, 献身的に支え続けた.
しかし, 彼が奇跡的に回復した日, 私に向けられたのは感謝ではなく, 初恋の相手「美海」への歓喜の笑顔だった. 「君が戻ってくるなんて信じられない. 会いたい」その言葉が, 私の3年間を無価値なものに変えた.
彼の回復を祝うパーティーで, 美海は彼の腕の中にいた. 妹は私に「あなたの役目はもう終わった」と囁き, 彼は私に美海の部屋を用意しろと命じる.
さらに, 彼らは私の唯一の形見である母の木製メトロノームを嘲笑い, 目の前で壊した. 「どうせガラクタだ」その一言で, 私の心は完全に砕け散った.
なぜ私の献身は踏みにじられなければならなかったのか? なぜ母の思い出まで奪われなければならなかったのか?
この日, 私は全てを捨て, 彼らに復讐を誓った. これは, 絶望の底から這い上がり, 私を裏切った者たちに裁きを下す物語.
第1章
真優 POV:
「お前は, この家にとって何の価値もない」その言葉が, 私の心臓を凍らせた.
坂口直樹先輩.
音楽大学の憧れの奨学生.
彼は, 私が唯一頼れる人だった.
その彼が, 公演中の事故で再起不能の重傷を負った時, 私は彼の父から巨額の契約金を提示され, 彼の専属ピアニスト兼婚約者として, 三年間, 身を捧げてきた.
彼の父からの契約は, 「直樹先輩の回復を献身的に支えること」だった.
私は, 彼がまたピアノを弾けるようになることを信じていた.
そのために, どんなことでも耐え忍んだ.
直樹先輩は, 事故の後, 私を憎んだ.
彼は私に「お前のような女が, 俺の人生に入り込むな」と叫んだ.
その声は, まだ耳に残っている.
私はただ, 彼のベッドサイドに座り, ただそこにいることだけが許された.
彼は私を無視した.
私が何をしても, 彼の視線は虚空を見つめ, 私を通り過ぎていった.
私が彼の食事を用意し, リハビリを手伝い, 夜中にうなされる彼を慰めても, 感謝の言葉は一度もなかった.
彼の冷たい沈黙は, 私の献身を嘲笑っているかのようだった.
三年の歳月が流れた.
奇跡が起きた.
直樹先輩の指が, 再び鍵盤に触れるようになった.
私は, その光景を見て, 胸が熱くなった.
私の努力が, 報われた瞬間だと思った.
しかし, その瞬間, 彼の顔に浮かんだのは私への感謝ではなかった.
彼の目は, 私の後ろにある携帯電話に向けられていた.
画面には, 「美海」という文字が光っていた.
彼は, 震える手でその電話を取り, 私の存在を忘れたかのように, 笑顔で話し始めた.
その笑顔は, この三年間, 一度も私に向けられたことのない, 太陽のような輝きだった.
私は, その日の夕食を準備していた台所で, その会話を耳にした.
彼の声は弾んでいた.
まるで, 長い冬の後に春が訪れたかのように, 喜びに満ち溢れていた.
「ミウ, 君が戻ってくるなんて信じられない. 会いたい, すぐにでも会いたい」
彼の言葉一つ一つが, 私の心臓を抉った.
私には, その声が, 私の耳元で囁かれる嘲笑のように聞こえた.
私は, 直樹先輩が柏原美海という女性をどれほど深く愛していたかを知っていた.
美海は世界的に有名なヴァイオリニストで, 直樹先輩の初恋の相手だった.
二人は大学時代からの恋人同士だったが, 美海はキャリアを追い求め, 直樹先輩の元を離れて海外へと渡った.
直樹先輩は, 美海が去った後も, ずっと彼女を忘れられずにいた.
私という存在は, 彼の心の隙間を埋めるための仮の存在に過ぎなかったのだ.
美海は, 自分の夢を追いかけるために直樹先輩を捨てた.
彼はそのことを知っていたが, それでも彼女を忘れられなかった.
彼女が海外で別の男性と結婚したというニュースを聞いた時, 直樹先輩は絶望の淵に突き落とされた.
その精神的な打撃が, 彼の事故の一因だったと, 後になって知った.
私が彼と出会ったのは, 彼が病院のベッドで荒れ狂っていた時だ.
彼は, 理学療法士にも医師にも心を許さず, 誰の手も借りようとしなかった.
彼の暴言は, 病室に響き渡った.
「俺の指は終わった! もう二度とピアノは弾けない! 」
彼の目は, 私を射殺すかのように鋭かった.
私は, 彼の父である坂口社長から依頼された.
看護師を目指していた私にとって, 彼の献身的な介護は, 学費を稼ぐための唯一の道だった.
社長は言った. 「直樹を支えてくれ. 君の学費は全て私が持つ」
私は, その申し出を受け入れた.
彼が, かつて私を奨学生として推薦してくれた恩人だったからだ.
彼の音楽に対する情熱に, 私もまた魅せられていた.
私が彼に近づく唯一の方法は, 彼の音楽への情熱を呼び覚ますことだった.
私は, 夜な夜な彼の部屋で, 幼い頃から弾いていたピアノを弾いた.
彼は最初, 私を追い出そうとしたが, 私の奏でる音楽に, 次第に耳を傾けるようになった.
私が彼を支えることで, 彼が, いつか私を見てくれるのではないかという淡い期待を抱いていた.
しかし, その期待は今日, 打ち砕かれた.
私は彼の言葉を聞いた時, 自分がどれほど愚かだったかを悟った.
彼は, 私を一度も愛していなかった.
私の献身は, 彼にとってただの便利な存在に過ぎなかったのだ.
「ミウ, 君の帰りを待っているよ. 空港で迎えに行く」
直樹先輩の声が, 私の背中に突き刺さる.
私は, 自分がこの家を出るべき時が来たことを知った.
私の心は, もう粉々に砕け散っていた.
涙も出ない.
ただ, 胸の奥が冷たく, 空虚な感覚に支配されていた.
私は, 静かに台所を後にした.
私の足音は, まるで, この三年間, 私が存在しなかったかのように, 虚しく響いた.
今日で, すべてが終わる.
話 2
真優 POV:
直樹先輩が美海を迎えに行く日, 坂口家では彼の回復を祝う盛大なパーティーが開催されることになっていた.
私は, パーティーの準備を手伝っていた.
テーブルに並べられた料理は豪華絢爛で, グラスはシャンパンの泡で満たされていた.
しかし, 私の心は, その華やかさとは裏腹に, 冷え切っていた.
坂口夫人が, 私の隣に立った.
彼女は, 私の手を握り, 優しい声で尋ねた.
「真優さん, 直樹のことは, 本当に諦めるの? 」
彼女の目は, 私を心配しているように見えた.
私は, ただ微笑むしかなかった.
「ええ, もう十分です. これ以上, 彼を縛る権利は私にはありません」
私の声は, 驚くほど冷静だった.
坂口夫人が, 少し悲しそうな顔をした.
「そう. でも, あなたがこの家を出ていくのは, 寂しいことだわ. あなたは, この三年間, 直樹にとって, そして私にとっても, かけがえのない存在だった」
彼女の言葉は, 私の心を揺さぶった.
私は, 彼女の優しさに, 少しだけ涙が出そうになった.
しかし, 私はすぐにその感情を抑え込んだ.
「私も, あなたと出会えてよかったと思っています」
私はそう言って, 彼女の目を見た.
彼女は, 私の目の中に, 何かを決意したような光を見たのだろうか.
彼女は, 私を抱きしめた.
その温かさは, この家で唯一, 私に向けられたものだった.
「これからは, 自分の人生を生きなさい. あなたは, まだ若い. あなたの未来は, きっと輝かしいものになるわ」
彼女の言葉は, 私の背中を押してくれた.
私は, この三年間の契約が終わることを, 彼女に告げた.
「私, 留学するつもりです. 医学を学び直したい」
彼女は, 驚いた顔をした.
「そう. あなたの夢だったものね. 応援するわ」
彼女は, 私の留学費用についても, 援助を申し出てくれた.
私は, その申し出を丁重に断った.
もう, この家から, 何も受け取るつもりはなかった.
私は, 自分の力で, 自分の人生を切り開いていくと決めていた.
リビングから, 直樹先輩の妹, 絵里香の声が聞こえてきた.
「お兄ちゃん, まだ戻ってこないの? 美海さんとの再会, 楽しみにしてるのに! 」
その声は, 私に, 自分がこの家では「外様」であることを改めて突きつけた.
私は, この家にとって, 直樹先輩の回復のための道具に過ぎなかったのだ.
彼の回復が, 私の存在の終わりを意味する.
パーティー会場のドアが開いた.
そこに立っていたのは, 腕を組んだ直樹先輩と美海だった.
美海は, 直樹先輩の隣で, 眩しいほどの笑顔を浮かべていた.
彼女の顔は, 雑誌の表紙から飛び出してきたかのように完璧だった.
直樹先輩は, 美海に優しく微笑みかけている.
その視線は, この部屋の誰をも映していなかった.
私の心臓が, 冷たい氷でできた塊になった.
私は, 彼がこれまで私に向けたことのない表情を見せたことに, 深く傷ついた.
周囲のざわめきが聞こえる.
「あれが, 坂口直樹の初恋の相手, 柏原美海よ」
「やっぱり, お似合いね. あの黒田真優って子, どうするのかしら? 」
絵里香が, 私のそばにやってきた.
彼女は, 私の耳元で囁いた.
「ねえ, 黒田さん. あなたの役目は, もう終わったんじゃない? そろそろ, この家から出て行ってもらえないかしら」
彼女の言葉は, 私の心を深く抉った.
私は, 彼女の言葉に, 何も言い返せなかった.
私の心は, もう何も感じなくなっていた.
私は, この家に留まる理由がなくなったことを悟った.
私の心は, 空っぽだった.
私は, この場所には, もう私の居場所がないことを知っていた.
私は, 静かにパーティー会場を後にした.
私の心は, 冷たく, そして強くなっていた.
私は, もう二度と, この場所に戻ることはないだろう.
話 3
真優 POV:
直樹先輩は, 満面の笑みで美海を坂口夫人の元へと連れて行った.
「母さん, 美海だよ. 覚えてるかい? 」
彼の声は, 喜びと期待に満ちていた.
美海は, 上品に微笑みながら, 坂口夫人に頭を下げた.
「お久しぶりでございます, 奥様. ご無沙汰しております」
坂口夫人は, 美海をじっと見つめた.
そして, 彼女の顔に, わずかな困惑の色が浮かんだ.
「美海さん, あなた, 結婚したと聞いていたけれど…」
その言葉に, 部屋の空気が一瞬で凍り付いた.
直樹先輩の顔から, 笑顔が消えた.
美海は, すぐに悲しげな表情を浮かべた.
「ええ, そうだったんです. でも, もう離婚しました. 彼は, 私の音楽活動を理解してくれなかったんです. 私を一番理解してくれるのは, 直樹さんだけだと, 改めて気づきました」
彼女の声は, か細く, 今にも泣き出しそうだった.
その言葉に, 直樹先輩は美海を抱きしめた.
「母さん! 美海を責めないでくれ! 彼女は, 俺にとって, かけがえのない存在なんだ! 」
直樹先輩は, 美海を庇うように叫んだ.
坂口夫人は, 何も言わずに, ただため息をついた.
そして, 無言でその場を立ち去った.
彼女の背中には, 諦めと, わずかな怒りが滲んでいた.
直樹先輩と美海, そして絵里香の視線が, 私に注がれた.
直樹先輩は, 私を指さし, 冷たい声で言った.
「真優, 美海が今日からこの家で暮らすことになった. 彼女の部屋を用意してやってくれ」
私の心臓が, 凍り付いた.
美海が, この家に?
私の顔は, 驚きで固まった.
「あの…美海さんがこの家に? 」
私の声は, 震えていた.
直樹先輩は, 私の言葉に苛立ちを覚えたように, 眉をひそめた.
「何か問題でもあるのか? 彼女は, 俺の, 俺たちのゲストだ」
絵里香が, 横から口を挟んだ.
「あら, 黒田さん. まさか, まだこの家に居座るつもりじゃないでしょうね? 自分の立場をわきまえなさいよ」
彼女の言葉は, 私の心を深く抉った.
私は, 直樹先輩が私に「この家は, 君の家だ」と言ってくれた時の言葉を思い出した.
その言葉は, まるで泡のように, 儚く消え去った.
私の心の中で, 何かが音を立てて崩れ落ちていくのを感じた.
美海は, 直樹先輩の腕の中で, 私を見てにこやかに微笑んだ.
「あら, 真優さん. ご迷惑でなければ, 私, ゲストルームでも構わないのよ? 」
その声は, 甘く, しかし, 私の心を嘲笑っているかのようだった.
直樹先輩は, すぐに美海の言葉を遮った.
「何を言ってるんだ, 美海. 君はゲストじゃない. 俺の, 大切な人だ」
彼は, 美海を抱きしめ, 私を睨みつけた.
「真優, さっさと準備しろ! 」
彼の声は, 命令的だった.
私は, ただ, その場に立ち尽くしていた.
私の口元に, 自嘲的な笑みが浮かんだ.
「かしこまりました」
私はそう言って, その場を後にした.
私の心は, 完全に死んでいた.
この家は, もう私の家ではない.
私は, この場所には, もう何も残っていないことを悟った.
自分の部屋に戻り, キャリーケースを取り出した.
私の持ち物は, 驚くほど少なかった.
この三年間の生活は, 私の存在そのものが希薄だったことを物語っているようだった.
衣類を詰め, 本を数冊.
そして, あのメトロノーム.
母の形見である, 希少な木材で作られたメトロノームだけは, 絶対に手放せない.
私は, それをキャリーケースの奥深くにしまい込んだ.
これからの人生は, 誰にも邪魔されることなく, 自分の足で歩いていく.
私は, そう心に誓った.
私の心は, 不思議と軽くなっていた.
もう, 何も失うものはない.
ホテルで一泊し, 翌日, 海外行きの航空券を予約した.
翌日, 私は, インターネットで直樹先輩と美海が親密に寄り添う姿を写した動画を見つけた.
それは, パーティーで撮影されたもので, 二人の間には, 私が入る隙など, どこにもなかった.
私は, その動画をすぐに閉じた.
もう, 何も見たくなかった.
私の心は, もう彼らとは無関係の場所にあった.
夜遅く, 直樹先輩と美海が, 酔って帰宅した.
直樹先輩は, 私の部屋のドアを開け, 私のキャリーケースを見つけた.
「真優, お前, もう美海の部屋を用意したのか? 俺の言うことを聞くのは, 早いじゃないか」
彼の言葉には, 嫌味な響きがあった.
彼は, 私に近づき, 私の腕に触れようとした.
私は, 彼の手に触れる前に, 体をそっと引いた.
彼の指が, 私の肌に触れることはなかった.
直樹先輩は, 私の行動に少し戸惑ったようだった.
「どうした, 真優. 何があったんだ? 」
彼の声は, いつもより少しだけ, 優しく聞こえた.
しかし, その優しさは, 私にとって, 何の価値もなかった.
「別に, 何も」
私は, 冷たく答えた.
「美海さんがこの家にいるのは, 直樹先輩の都合でしょう? 私には, 関係ありません」
私の言葉に, 直樹先輩の顔が歪んだ.
彼は, 私の目を見て, 何かを言いたそうだった.
しかし, 彼は何も言わなかった.
美海が, 直樹先輩の腕に抱きつき, 甘えた声を出した.
「直樹さん, どうかしたの? 早く, 部屋に行きましょう」
彼女の言葉に, 直樹先輩は, 私から目を離した.
私は, 一枚の紙を彼に手渡した.
「これ, サインしてください」
直樹先輩は, その紙を見て, 眉をひそめた.
「これは, 何だ? 」
彼の声には, 不審な響きがあった.
私は, 何も言わなかった.
彼は, 紙を広げ, 内容をざっと読み始めた.
彼の顔に, 困惑の色が浮かんだ.
しかし, 彼はすぐに, その困惑を消し去った.
「ああ, これは, 例の契約解除の書類か. 早めに済ませておきたかったんだろ? 」
彼は, そう言って, ペンを取り, サインをした.
彼は, 内容を詳しく確認することはなかった.
彼の軽率な行動に, 私の心は, 何の感情も抱かなかった.
私は, その紙を手に取り, 静かに部屋を後にした.
彼のサインが, 私の人生の新たな始まりを告げていた.
この三年間の献身は, 何の感謝も得られなかった.
しかし, もうそれでいい.
これからは, 私のための人生だ.
私は, そう心に言い聞かせた.
私の心は, 安堵と, かすかな喜びで震えていた.
もう, 誰も私を傷つけることはできない.