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レオが水面にうつぶして、そこに映る者たちと話している時、不意に覗《のぞ》き込んできた一人の人間。

「お姉さんも、みんなのことが見えるの?」

彼女のことを無視して、みんなと語らいを続けていたが、水面に映るそのお姉さんのむごいほど優しげな面差《おもざ》しに、つい話しかけたくなってしまった。

「うん、見える。ボクがどんな世界を見ているのか、私にも分かるよ。」

「はじめてだ。この子たちのことが見える人間を見たの。」

光の破片《はへん》、流浪《るろう》する泡、暗く濁《にご》る渦巻き。水面に映った森を漂《ただよ》う、この世ならざる者たち。

「ええ、見えるわ。この子たちは、タマユラと言うの。」

「名前がついてるんだ。初めて知った。幽霊だと思ってだけど、違うの?」

「幽霊も中にはいる。だけど彼らの由来は人間霊よりもっと古いの。彼らは私たち人間が生まれる遥《はる》か昔からこの地球に住んでいるの。」

ねえ、ボク。水面から顔をあげて、私のことを直接見てくれない?

やっぱりだ。君の目はとても澄んでいる。

君の眼球は宝石よりも価値がある。

いっそそこから抜き取ってしまって、ポケットに入れていつも持ち歩きたいぐらいだね。

「さあ、私についてきて。」

差し出された手のひらに引かれるがまま、森の奥へと踏み出した。

「君には、この世界の本当のことを教えてあげよう。」

ーーーーーそれから数年ーーーーー

ノンシュガーのビスケットを袋から取り出す。一枚一枚。二つに割っては皿に入れ、皿にいれ。最後の一枚が終わるまで。あとは注《そそ》がれる牛乳。浸《ひた》したビスケットを大振りのスプーンで掬《すく》って、丁寧に口に運び続ける。こぼすことがないように。付け合わせのポテトサラダを時折フォークで突っつきながら。最後のミニトマトを串刺しにして、奥歯で噛み潰す。皿を洗って片付けると、手についた水をシンクで払った。そしてふすまを開ける。隣部屋の暗がりへと。畳部屋。黒いカーテンを閉じ切って、ガムテープで目張《めば》までした。暗い。ホコリ臭い部屋に吊った電灯のひもの宙ぶらん。引っ張ると点灯する、蛍光灯の明かり。畳の上に置くには不自然すぎるドラム缶が真ん中に。そこには痩《や》せ干せた女性が縛《しば》りつけられている。口をガムテープで塞《ふさ》がれ、怯《おび》えたような、怒ったような顔でレオを見上げていた。見られた方はにっこりと微笑む。

「梅雨が明けた。しばらくはいい天気が続くみたいだね。今日も清々しい青空だよ。って、この部屋からじゃ見えなかったね、母さん。」

母さんと、うえから声をかけられた彼女、そこで特別目を見開いた。いつから食物を摂《と》ってないのだろうか?骨の形が分かるほど痩せ細った肉。そのうえを乾いた皮膚が這《は》って、生きた骸骨のよう。髪は長い。ボロボロになって、多くが頭から抜け落ちている。まだ水気のある血走った眼球、その痙攣《けいれん》した眼差し。息子は穏やかな微笑み。そこにしゃがみこんで、透明なチューブは枯れた鼻腔に差しっぱなし。取り出したのは注射器。それを使って、ゆっくりと生理食塩水を注入する。

「そんなに怒らないでよ、母さん。たかが命を失うだけじゃないか。もう母さんにも見え始めているはずだよ。この部屋にだって彼らは漂っている。《タマユラ》。彼らは死際の幻覚でもなければこの世ならざるものでもない。むしろこの世界に初めから存在していた。死ねば母さんも彼らと同じになる。死はあの世とこの世と分けるものではなく、むしろこの世とあの世を分け隔てなくするんだ。生きてる間に味わった幸福も不幸もどうでもいいことになって、全て《タマユラ》の群れに掻《か》き消える。それは人間が生きているよりも自然な、当たり前の姿だと思うだろ?さて、今日のご飯はこれでおしまい。じゃあ、学校に行ってくるよ。電気は消していくね。その体じゃ、あかりを見てるだけで疲れるだろうから。」

暖かな日差しに濡れたブロック塀|伝《づた》いの路。今日も空は青い。それはなんという奇跡か。空を見上げるたびにこみ上げる、この青さに震撼《しんかん》する気持ち。そんな忘れてはいけない気持ちを今日も思い出せている。それだけで今日がとても上手くいくような気がする。学校指定の手提げカバンを肩に掛けながら暖かい路をとぼとぼと。そんな後ろ姿を突《つつ》く、ちょっとだけ重い感覚。誰かが背中を押したのだ。

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暖かな日差しに濡れたブロック塀づたいの路。今日も空は青い。なんという奇跡か。空を見上げるたびにこみ上げる、この青さに震撼《しんかん》する気持ち。そんな忘れてはいけない気持ちを今日も思い出せている。それだけで今日がとても上手く始まった気がする。学校指定の手提げカバンを肩に掛けながら暖かい路をとぼとぼと。そんな後ろ姿を突く、ちょっとだけ重い感覚。誰かが背中を押したのだ。

「また空見上げたまま歩いてる。いつも空ばかり見上げて。見えちゃいけないもんでも見てるわけじゃあるまいし。たまにはちゃんと前向いて歩きなさいよ。」

「ははは、手きびしいな、アキ。そんなに空を見上げてるつもりはないんだけどなあ。」

「私からしたらレオが空を見上げない時の方が珍しいよ。ちょっとはこっちを見なさいよ。」

「アキのことはいつも気にかけているよ。だって僕たちは小さいころから一緒だったし。」

「いつもながらよくそんなこと臆面もなく言えるよね。私たちももう高校生よ。」

「そうだけどさ。それはたったの二ヶ月前からだ。急に高校生になったって言われてもなんかイマイチピンとこないよ。」

「いつまで経ってもすっとぼけだもんね、レオは。でもせっかく高校生になったんだからさあ。今度の土日、二人でちょっと遠くまで出かけようよ。」

「外出かあ。行きたいのはヤマヤマだけど、ちょっと予定が。」

「ひょっとしてもう先約がいたりして、クラスの娘?」

「ううん。そういうわけじゃないんだ。なんて言うのかなあ・・・、ああ、そうだ!今度の土曜、アキも僕の家においでよ!」

「誰か私の他にいるの?」

「センセイと母さんがいる。でももちろん母さんはやってこないよ。センセイのこと、アキには何度も話したことあるよね。」

「うん・・・だけど、それって本当にいた人なんだ。」

「なんだよ、それ。本当にいるに決まってるじゃないか。俺がそんなことで嘘つくわけないだろ。俺の一番大切なひとだ。」

「大切な人ね・・・。」

「だからちゃんとアキにも紹介しておきたい。だってアキは僕にとって、とても大切な人だからね。」

「ホントいつまでたってもレオはスットボケね。」

と、アキという少女はレオと行く路の先に手を振った。その先にアキと同じ制服を着た女の子たちの姿。同じ学校の友達。並んでいたレオには何も告げず、彼女達のもとへと駆けてった。ぼんやりと、離れていった幼馴染を見て小首を傾げるレオ。

するとアキを交えた彼女達の一人がこちらに手を振った。

おはよー!レオくん!

と、その声につられてなんとなく手を挙げた。

するとそれを見てクスクスと彼女達は笑いあう。そのうちの一人がアキの背中を強く叩いて、アキが最後にこちらを見た。丁寧に梳《す》いたおかっぱボブに小作りな唇と鼻。唇は薄いがはっきりとした形をしていて、鼻筋はしっかりと通っていたが、鼻翼《びよく》はリスのように可愛らしい。ややはれぼったい目じりから聡《さと》そうな目元。まん丸な瞳。それを一瞬だけレオに向ける。そして彼女達はそのまま背を向けて去っていった。学校の方だ。レオもそのまま歩みをとめない。教室に到着する。席に着くと、すぐに何人かの女子に囲まれた。そのまま彼の方から始まる会話。

「あれ?サヤカちゃん、やっぱりシャンプー変えたよね?」

「うふふん、実はね、レオくん。ネットで買ったやつなんだけどさあ。」

「え、でもサヤついこの前もシャンプー変えたばっかじゃなかったっけ?」

「同じやつなんだけど、種類変えたの。やっぱり髪質的にモイストのほうがいいみたい。」

「レオくんは何使ってるんだっけ?」

「安いやつだよ。名前まではよく覚えてない。」

「えー、そうなの。でもレオくん髪質めっちゃいいじゃん。」

「こんなにサラサラでまとまりやすいし。」

「でも、サヤカちゃん髪も一緒に切ったんだ。」

「似合うよね。やっぱりそっちの方が。」

「あ、サエ帰ってきた。どうだった?」

「職員室にそれっぽいのがいた。担任と話してた。」

「この時期に転校生とか珍しくない?この前入学式やったばっかだよ?」

「他県から?」

「じゃないかなあ?」

と、ガラガラと、また教室の扉が開いた。

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「職員室にそれっぽいのがいた。担任と話してた。」

「この時期に転校生とか珍しくない?この前入学式やったばっかだよ?」

「他県から?」

「じゃないかなあ?」

と、ガラガラと、また教室の扉が開いた。沈黙。一斉にそちら側を見た誰しもが。知らない女の子が扉に立っていた。話題の転校生だ。だが制服も着ていない。私服だ。しかも紺色のワンピース。手には白犬のぬいぐるみを抱いているヤバイ感じ。顔立ちはいい。一見お人形のように可愛らしく見える顔は見れば見るほど鼻の高さや眉のバランス、その他諸々に精妙な均整を発見出来て、お人形を見ていたはずがアンティークのティーカップを見出したような気持ちになる。清楚な長い金髪をツインテールにした髪型。持っている白犬のぬいぐるみのせいで、独特なワールドを持っているような感じがするイタイ系。そして何より目つきがやたらと鋭い。可憐な顔立ちとイタイ服飾にはとても不釣り合いなその表情。朝起きてわざわざ登校するほどの価値を感じられない学校。なんでこんな奴のいうことを聞かなければいけないのかという程度でしかない先生。いつも夜遅くまでラインを飛ばしてくるめんどくさい友達づきあい。そんなうざったい全てのものにこんな正直に不機嫌な目つきができればどんなにいいだろうか。そんな顔つき。それで教室を征《ゆ》く転校生。

「え、転校生?」

「でも制服着てなくない。」

「まだ職員室にいるはずじゃないの?おかしくない?」

「どこらへんがおかしいんだよ?そんな遠くから話してないで具体的に言ってみろよ。」

遠巻きに話していたはずの生徒の一人が、最後に転校生の言葉に捕まった。

「あ、ごめん。聞こえてた?ごめん、こっちの話。別に直接言いたいことは何もないから。」

「あ、そう。お前声でかいな。そっからでいいから、そのでかい声で空いてる席を教えてくれよ。」

「え、私そんなに声大きかった?」

「え、そんなことないでしょ。」

「ていうか普通こっちの話に入ってくる?あそこで?」

と、また始まる聞こえるヒソヒソ話。転校生のことは無視している。

「じゃ、空いてる席に適当に座るわ。」

と転校生も彼女たちを無視して適当な空席に座った。たむろしているレオの隣の席だ。レオはいつもと変わらない朗らかな顔で話しかけた。

「ねえ、君。名前なんていうの?僕は野上レオっていうんだけど。」

「秋月マイカだ。」

「そう。じゃあ、マイカちゃんでいい?その席、実はもう埋まっちゃっててさ。代わりの空席を案内するから。ここよりも後ろで、先生から見えにくい、いい席だよ。」

「そうか。それはとても助かる。」

「よかった。窓際の席なんだけど。」

レオくんやさしい!と教室のどこかから、黄色い一人ごとが聞こえてきた。

案内した席の机の上には、いつもここで日向ぼっこをしている《タマユラ》がいた。そんなに悪いものではない。少なくとも、これより悪いものは他の席にいくらでもいる。転校生は早速腰掛ようとした。と、タマユラはその手のひらで潰された。潰れたタマユラはそのまま押し消える。本来なら触れることすらできないはずタマユラが潰された。驚いているレオを尻目に、そのまま着席する転校生。上目遣いでレオを見て、「お前喧嘩売ってんのか?」と一言。いわゆる幽霊が見える人間は他にも覚えがあった。だが、それらの正体が《タマユラ》だということを明確に知っている人間を、同年代で初めて見た。

「ごめん。でも、他に比べてそこまで悪い席じゃなかったからさ。」

「アッソ。でもなんでこの教室はこんなに嫌なタマユラにたかられてるんだ?」

「このクラスのある生徒に憑いたタマユラに引き寄せられてるんだ。今日はまだ登校してないみたいだけど。あ、でも来たみたい。あの子だよ。」

ちょっと小柄な大人しい顔立ちの可愛い女子生徒が入ってきた。女子の塊に混じっていく。レオの席でたむろしてる女子の塊だった。大人しい見た目だが、喋り方は他の娘と別に変わらずハキハキしている。そんな彼女の背中に、覆いかぶさるように乗っている、大きな胎児型のタマユラ。レオはヒソヒソ話でマイカに告げた。

「最近子供を堕したみたい。相手は隣のクラスにいるよ。そっちの方はもっと悪そうなのに憑かれてる。腕にしがみついたまま黙り込んでいるけど、ずっと何かを呼んでいるよ。二、三日もすればなんかヤバイのが呼ばれてくるかもしれないね。この学校まで入ってくるかどうかは分からないけど。」

学校についてわからないことがあったらなんでも聞いて、と最後に告げて、彼は例の女の子の塊に戻っていった。

その背中を目線で追って、マイカは流れで胎児のタマユラを眺めた。胎児のタマユラも彼女に見られていることに気がつく。目玉を細めたと思ったら、今度は近くにいたレオの頭をつかんだ。思い切り握りしめ、レオの頭を潰そうとしている。掴まれている彼は、いつもの朗らかな笑顔でクラスメイトと話し続けている。話題はマイカのことだったが、マイカ自身はどちらかというと、その胎児のことが気になった。後でもう片方も見に行こうか。

「まあ、いいか。」と口元で独りごちして窓辺を見た。

他にやることあるし。レオとかいったっけ。まあ色々探る必要はあるだろう。

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虚空の寄る辺

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