話 1
夫の裏切りの代償として, 99個目のティーカップが届いた日. 私は妊娠していた.
その日, 私は夫・慎司が愛人の花梨を抱きしめているのを見てしまった.
彼はヒステリックに騒ぐ花梨を庇うため, 妊娠中の私を突き飛ばした.
私はお腹の子を失った. 彼は私を置き去りにし, 後日, 離婚届と慰謝料だけを送りつけてきた.
さらに花梨は, 私の夢だったパティシエの命である, 祖母のレシピノートを目の前でびしょ濡れにした.
愛も, 子も, 夢も, すべてを失った. 夫が裏切るたびに増えていった99個のカップは, もはや侮辱の証でしかなかった.
私は決意した. 裏切りの証である99個のティーカップをすべて叩き割り, 彼に別れの手紙を残した.
「さようなら, 私の過ち」と.
第1章
武藤乃々花 POV:
99個目のティーカップが届いた日, 私は夫・慎司が花梨を抱きしめているのを見てしまった.
病院の廊下, 薄いカーテンの隙間から見えたその光景は, 私の視界を凍り付かせた. 慎司の腕の中にいる花梨は, まるで壊れやすい宝物のように大切に扱われていた. 彼の眼差しには, 私がずっと求めていた, しかし決して得られなかった深い愛情が宿っていた.
慎司の優しさは花梨だけに向けられていた. まるで私という存在が, 最初から彼の世界にはいなかったかのように.
私がその場にいることに気づくと, 慎司の顔から一切の感情が消え去った. あの温かさは一瞬で氷点下へと変わった.
「どうしてここに? 」彼の声は, まるで私を咎めるかのように冷たかった.
「なぜって... 」私は言葉を探した. 探し求めた言葉は, 喉の奥で溶けて消えた.
彼の言葉は, まるで鋭い氷の刃のように私の心を切り裂いた. 「君には関係ないだろう. 用があるなら, 金で解決しろ. 」
彼の言葉が耳に突き刺さるたび, 銀行口座に振り込まれた巨額の金が頭をよぎった. それは私の夢のパティスリーを開くための資金. 慎司からの経済的支援. でも, この瞬間, その金は私への侮辱以外の何物でもなかった.
結婚とは, 愛とは, 夢とは, 一体何だったのだろう? 全ては幻だったのか.
「乃々花さん, ごめんなさい. 慎司さんがいないと, 私, 何もできなくて... . 」花梨が私に気づくと, 怯えた小動物のように慎司の腕にしがみつきながら, か細い声で謝ってきた. その言葉は, 私をさらに深淵へと突き落とした.
「乃々花さん, 体調は? 」花梨は, 私の膨らみ始めたお腹に視線を向けた. 「赤ちゃん, 順調? 」
花梨の言葉に, 慎司が険しい顔で花梨を制した. その瞬間, 彼の腕が花梨をさらに強く引き寄せた.
私は無意識のうちに, 自分の腹部をそっと撫でた. そこにはまだ小さな命が宿っているはずだった.
慎司は, 花梨を守るためなら何でもする. 私を犠牲にしても. この子を犠牲にしても. それが彼の「恩義」という名の呪いだった.
私はバッグから, 事前に用意していた書類を取り出した. 白い封筒の中で, それは静かにその時を待っていた.
「慎司さん, この子のこと... 少し話したいことがあるの. 」私は震える声で切り出した.
私の言葉に, 慎司の表情に一瞬だけ動揺が走った. 彼は花梨から少しだけ視線を外し, 私を見た.
「そういえば, あのティーカップ, 今日届いたのか? 」慎司は, 私の左手の薬指に視線を向けた. 結婚指輪はもうそこにはなかった. 彼の視線は, 私の手から, 私が毎日眺めていたはずのティーカップのコレクション棚へと向かった. そこには当然, 99個目のカップはなかった.
慎司は私との約束を破り, いつも花梨の元へと向かった. 私が一人でいる夜, 彼はいつも花梨のそばにいた.
「99個目のカップが揃ったら, もう花梨の元へは行かない. 」それが慎司の約束だった. その代わりに, 彼は私に高価なアンティークティーカップを一つずつ与え続けた.
そのティーカップは, 彼の裏切りの数だけ増えていった. 99個. それが私の「報酬」だった.
私は慎司が花梨を抱きしめる姿をもう一度, 目に焼き付けた. その情景は, 私の心臓を鈍器で殴りつけるような痛みを与えた.
「慎司さん... どうして? 」私の声は, もはや蚊の鳴くようなか細いものだった.
慎司は, 私に見られたことに焦ったように, 花梨から体を離した. 彼の顔には動揺と, そして私への苛立ちが浮かんでいた.
「誤解だ. 花梨は具合が悪くて... 」彼は言葉を繕おうとした. その弁解は, あまりにも陳腐だった.
話 2
武藤乃々花 POV:
慎司の陳腐な弁解を遮るように, 花梨が突然, ヒステリックに叫び出した.
「もう嫌! 私なんて死んだ方がいいんだわ! 」花梨はそのまま, 近くにあった棚の角に頭を打ちつけようとした.
「花梨! 」慎司は私を突き飛ばし, 花梨の元へ駆け寄った.
私の体はバランスを失い, 冷たい床に叩きつけられた. 腹部に激しい痛みが走る. 温かい液体が太ももを伝うのを感じた.
「慎司さん... 助けて... 」私はか細い声で彼を呼んだ. 目の前の光景がぼやけていく.
慎司は一瞬だけ立ち止まった. 彼の瞳には, 言いようのない嫌悪と憎悪が宿っていた. 彼はその目で見据えると, 迷うことなく花梨を抱きかかえ, 私を置いてその場を去っていった.
「二度と俺たちの前に現れるな! 」彼の言葉が, 遠ざかる背中から聞こえた.
意識が遠のく中, 見知らぬ看護師が私を見つけてくれた. 彼女は血の海に倒れている私を見て, すぐに医師を呼んだ.
冷たい手術台の上で, 私は医師の声を聞いた. 「... 残念ですが, 赤ちゃんは助かりませんでした. 」
私の小さな, 待ち望んでいた命. 小さな指, 小さな足. あの未来は, 慎司の腕の中で, 花梨の嘘と悲鳴の中で, 永遠に終わってしまった.
私は何度も慎司の電話を鳴らした. しかし, 通話は一度も繋がらなかった. 彼の秘書から, 数日後に分厚い封筒が届いた. 中には, 病院の費用と, 数千万円の小切手. そして, 「これで黙っていろ」という無言のメッセージが添えられていた.
涙がとめどなく溢れた. 私の体は空っぽになった. もう, 終わりだ. 全てを終わらせよう.
数日後, 私は病院のロビーで, 慎司と花梨が楽しそうに話しているのを目にした. 慎司は私がいた時とは別人のように, 花梨に優しく微笑みかけていた.
彼は私に気づくと, 顔を曇らせた. そして秘書に何かを指示し, 秘書が離婚届を持って私の元にやってきた.
「君の望み通りだ. これで自由だろう. 」慎司は冷たい声で言った.
私は何も言わず, 離婚届を受け取った. その態度に, 慎司は少し驚いたようだった.
「これで, もう俺を邪魔することはないだろうな? 」彼の言葉は, 私に向けられた最後の優しさを, 完全に消し去った.
「ええ, もう二度と. 」私は静かに答えた.
私の返事に, 慎司はさらに驚いたようだった. 一瞬だけ, 彼の顔に困惑の色が浮かんだ. それは私が, 今まで見せたことのない, 冷たい表情だったからかもしれない.
「... 体調は, 大丈夫なのか? 」彼はたどたどしく尋ねた. 彼の目は, 私の腹部に向けられていた.
私は無言で, 悲しみに満ちた笑みを浮かべた. 今頃, そんなことを聞くのか. 全ては, もう遅いのに.
その時, 花梨が慎司の腕に抱えられたまま, 私の手の中の離婚届に気づいた. 彼女の顔が, わずかに歪んだ. しかし, すぐに嬉しそうな表情に変わった.
花梨の腕の中には, 見覚えのあるノートがあった. それは, 私が祖母から受け継いだ, 秘伝のレシピノート. 私のパティスリーにとって, 何よりも大切な「魂」だった.
「これ... どうして花梨さんが持っているの? 」私の声は, 震えていた.
「慎司さんがくれたのよ. 乃々花さんのパティスリーのレシピだって. これがあれば, 慎司さんとの新しいお店, 絶対に成功するわよね, 慎司さん? 」花梨は, 屈託のない笑顔で慎司を見上げた.
慎司は, 花梨の言葉に何も言えず, ただ私から目を逸らした.
私の心臓は, まるでガラスのように砕け散った. 裏切り. 絶望. 怒り. 全ての感情が, 私の体の中で嵐のように渦巻いた.
私はすぐに弁護士に連絡を取り, 離婚手続きを依頼した. そして, 慎司から贈られた99個のティーカップを全て叩き割る準備をした. 私にはもう, 未練など何もない.
話 3
武藤乃々花 POV:
家に戻ると, 家政婦さんが心配そうに私を見つめた.
「奥様, 顔色が真っ青でいらっしゃいます. 何かあったのですか? 」彼女の優しい声が, 私の乾ききった心に染み渡る.
「いいえ, なんでもありませんよ. 」私は無理に微笑んだ. その笑顔は, きっと見るに耐えないものだっただろう.
慎司は私の体調に気づきもしなかったのに, 家政婦さんはすぐに私の変化を察した. この差が, 私たちの関係の全てを物語っている.
痛みは, まだ腹部の奥底に居座っていた. それはまるで, 私の体から引き剥がされた小さな命の痕跡のようだった. 何よりも, 心臓を鷲掴みにされたような痛みが, 私を窒息させていた.
私の夢だったパティスリー. 私の小さな命. 全てを奪われた. 奪ったのは, 私が愛したはずの男.
「愛していた」なんて, もう言えない. 言いたくない. でも, 私の心はまだ, 彼を完全に憎むことができなかった. その事実が, 私をさらに苦しめた.
私は自分の部屋に戻り, キャリーケースを開けた. 彼の家から, 私自身の痕跡を消していく作業に取り掛かった.
その時, 玄関のドアが開く音がした. 慎司が帰ってきたのだ.
「乃々花? 何をしているんだ? 」慎司は, 私が荷物を詰めているのを見て, 驚いた顔で尋ねた. 彼の声には, いつもの冷たさとは違う, わずかな焦りが混じっていた.
「少し, 整理しているだけです. 」私はそっけなく答えた.
慎司は私のそばに歩み寄ると, 私の腕を掴んだ. そして, 彼のもう一方の手には, 小さな箱が握られていた.
「これ, 見てくれ. 99個目のカップだ. 君がずっと欲しがっていた特別なものだろ? 」彼の声は, わずかな期待を帯びていた.
彼は箱を開けた. 中には, 繊細な絵柄が施された, 美しいティーカップが収められていた.
「これで, 君のコレクションは完成だ. 約束通り, もう二度と花梨のところには行かない. だから, もう心配するな. 」慎司は, 自信に満ちた顔で言った. 彼の表情には, 今度こそ私を喜ばせられると信じているような, 愚かな期待が満ちていた.
私は, あと少しで真実を口にしてしまいそうになった. このカップが届いた日に, 私は全てを失ったのだと.
しかし, 慎司は私の言葉を待たずに言った. 「花梨の容態が急変してな. 数日後にはまた付き添わなければならない. だから, 出産には立ち会えないかもしれない. 」
私の喉が, ぎゅっと締め付けられた. この男は, 私に一人で出産しろと言っているのだ.
私は静かに立ち上がり, 壁一面に並べられたティーカップのコレクション棚まで歩いた.
「慎司さん, 約束, 覚えてる? 」私は振り返り, 彼の目を見据えた. 「『99個のカップが揃ったら, もう花梨の元へは行かない』って. 約束通り, もう二度と, 私の前から消えない? 」
慎司は一瞬躊躇した. しかし, すぐに決意したように, 私から目を逸らした.
「... それは, 無理だ. 」彼の言葉は, 私の胸に重くのしかかった. 私の最後の希望が, 音を立てて砕け散った.
私は, 唇の端に乾いた笑みを浮かべた.
「そう, やっぱり... そうですよね. 」私の声は, 妙に落ち着いていた.
慎司は, 私のその反応に驚いたようだった. 「乃々花... ? 」
彼は私を抱きしめた. 「分かってくれるだろう? 花梨は今, 本当に大変なんだ. でも, 約束は守る. きっと, 君とこの子のそばにいる時間を, これまで以上に作るから. 」
私は, もう彼に何も期待していなかった. 彼の言葉は, 空虚な音の羅列に過ぎなかった.
「慎司さん, この子が生まれたら, ちゃんと名前を考えてあげてくれる? 」私は, 彼の腕の中でそっと言った.
「ああ, もちろんだ. 」慎司は, 私の腹部に手を当て, 優しく微笑んだ. その瞬間だけは, 彼は本当に父親になろうとしているように見えた.
胸の奥から, 再び痛みが込み上げてきた. この温かさも, この微笑みも, 全ては偽りなのだと, 私の体は知っていた.
慎司が玄関のドアを閉め, 去っていく音を聞きながら, 私は静かにベッドに腰を下ろした.
私はキャリーケースから, 小さなベビー服を取り出した. 慎司が私にプレゼントしてくれた, 生まれてくる子のための最初の贈り物. その肌触りは, 温かくて柔らかかった.
私は, この子が生まれてくることをどれほど楽しみにしていたのだろう. 慎司との未来を, どれほど信じていたのだろう.