2

1000億ドル。その場にいる全員の資産を根こそぎにしても、到底届かない天文学的な額だ。

ニックは崩れるように地面に膝をつき、私の手を取って彼の頬に触れようとした。

「ティリー、怒っているんだろう。僕がまた何か、君を不機嫌にさせるようなことをしたのか……」

かつて誰もが恐れたアルファが、今この瞬間、最も脆い一面を晒している。

その場にいた誰もが、彼に同情の念を禁じ得なかった。

しかし、私はただ冷ややかに両手を引き抜いただけだった。

「もう付きまとわないで。本当に、気持ち悪いわ」

ニックは呆然と私を見つめ、私の言葉が信じられないという顔をしていた。

私が背を向けた、その瞬間。傍らに立っていた医者のアンディが、私の十二歳になる知的障害の妹を地面に突き飛ばし、挑発的な視線を向けてきた。

「ティリー、ニックを捨てるのは勝手だけど、まさかこの子まで見捨てるつもり?」

妹は私に手を伸ばし、足元に這い寄ろうとする。だが私は冷笑を浮かべ、無慈悲に蹴り飛ばした。

「いらない」

アンディが瞬く間に駆け寄り、私の腕を強く掴んだ。

「彼の献身を裏切るなんて! 病気の彼を一人にして、面倒まで押し付けるつもり!?」

「忘れたの? ニックはあなたを群れに受け入れさせるために、追放されかけたのよ!」

その言葉に、私は眉をひそめた。

「アンディ、私の記憶が正しければ、あなたはただの医者のはずだけど」

「どういう立場で私を非難しているの?」

アンディは逆上し、私の目に突き刺さんばかりの勢いで指を突きつけてきた。

「あなたなんかに彼のルナになる資格はない!」

「あなたもあなたの家族も、ニックに養ってもらってるくせに!彼がいなかったら、今頃あなたは体と魂を売りさばく卑しい女になってたわよ!」

彼女の下劣な言葉が、私の中に眠る狼の怒りを呼び覚ました。獣が、咆哮をあげる。

衝動のままに、私は彼女の指を掴み、力任せにへし折った。

アンディの耳をつんざくような悲鳴が響き渡る。

その声でニックは我に返り、

慌てて私の手を振り払うと、アンディを庇うように立ちはだかった。

「ティリー、今のはやりすぎだ! アンディは僕のために、君を引き留めようとしてくれただけじゃないか!」

ニックとアンディが固く握り合った手を見つめ、私の表情から温度が消えていく。

「口の利き方も知らない獣を躾けただけ。何か問題でも?」

ニックの仲間たちが前に出て、

威圧的に二人と私の間に割って入った。

「たとえルナであっても、群れの医者を好き勝手に侮辱することは許されない。その代償を払ってもらうぞ!」

言うが早いか、男たちは私を地面に激しく叩きつけた。あまりの衝撃に、口から血がこぼれ落ちる。

「彼女を傷つけるな!」

ニックが前に出て制止する。まるで自分が傷つけられたかのように。

そして、心底どうしようもないといった顔で私を見下ろした。

「テ「ティリー、君が跪いてアンディに謝れば、それで終わりにする」

周囲は彼の私への「寵愛」に感嘆の息を漏らす。

私はその偽善に満ちた表情を、氷のような視線で見つめ返した。

「私の謝罪なんて、彼女にはもったいないわ」

アンディは、ニックとの情事の動画を幾度となく送りつけて私を挑発し、

食事に薬を盛って私の子を流産させた。

それでもニックは彼女を庇い続け、群れの者たちには私が狂ったのだと思い込ませたのだ。

そして今この瞬間も、彼は「ルナを寵愛するアルファ」の仮面を被り続けている。

「ティリー、君を傷つけたくないんだ」

ニックは苦悶の表情で片膝をつくと、一瞬の逡巡の後、

私の指を掴み、容赦なくへし折った。

私の凄まじい絶叫が響く中、彼の手は微かに震えながらも、その動きを止めない。

「これは、アンディへの償いだ。僕は群れのリーダーとして、君を庇って公正さを失うわけにはいかない」

痛みで意識が遠のき、体内の狼が引き裂かれるように呻く。

私を押さえつける力はさらに強まり、呼吸すらままならない。

そして、七本目の指が折られた時、心臓に激痛が走った。

体内の狼が、生命力を失っていくのを感じる。

もはや体の痛みなどどうでもよかった。私は涙ながらにニックに懇願した。

「謝るわ、謝るから……。私の狼が死んでしまう。お願い、彼女を助けて」

ニックは心底失望したという顔で私を見つめた。

「ティリー、責任から逃れるために嘘をつくのか?」

彼はそう言うと、私の八本目の指を掴み、再びへし折った。

繰り返される激痛に感覚は麻痺し、体内の狼は完全に沈黙した。

私は血の気を失った顔で、憎しみに満ちた視線をニックに向ける。

「今日のことを、私の母が知らないよう祈るのね。もし知られたら、あなたたちを絶対に許さないから!」

周囲から、侮蔑に満ちた嘲笑が浴びせられた。

「恐怖で頭がおかしくなったか? お前の母親なんて、群れを追放されたただの野良だろ」

「ニック様のトイレ掃除をさせてもらえるだけでも、ありがたく思えってんだ!」

アンディも怯えたふりをしながらニックの背後に隠れ、囁いた。

「ルナは悪魔に取り憑かれているみたい。だから幻覚を……」

「ニック、銀の剣でその悪魔を殺せば、きっとルナはあなたとの契約を解いたりしないわ」

ニックの目に希望の光が宿ったが、衰弱しきった私を見て、一瞬、葛藤の色を見せた。

だが、数分間の逡巡の末、彼は銀の剣を持ってこさせた。

そして、耐えられないというように固く目を閉じ、剣の切っ先を私の心臓へと向ける。

「すまない、ティリー」

切っ先が服を裂き、冷たい刃が肌に触れようとした、その瞬間――。

一対の手が、私の前に差し出された。

3

期待に胸を膨らませて顔を上げた先にいたのは、障がいを持つ私の妹だった。

アンディに親しげに頭を撫でられながら、妹は虚ろな表情で私を指差す。

「お姉ちゃんは悪魔憑きなんかじゃないよ。ただ男の人が好きなだけ。何人かのアルファに慰めてもらえば、きっとよくなる」

その言葉に、場の空気は再び凍りついた。

「なんだと?」 ニックが妹の腕を乱暴に掴む。

妹はきょとんとした顔で彼を見上げた。

「ニックがアルファを用意してあげれば、お姉ちゃんはどこにも行かないよ」

妹がこんなふうに私を貶めたのは、これが初めてではない。

妹はニックのことが好きだった。かつて自ら服を脱ぎ捨て、ならず者の狼に抱きつきながら、

助けを求めるときにはこう叫んだのだ。「お姉ちゃん、もうニックとは話さないから!許して!」と。

ニックの気を引くためのその行為は、彼が私を責めるようになってから、さらにエスカレートしていった。

ニックとの初夜でさえ、事が終わる前に裸で彼の腕の中に滑り込んできたこともあった。

私が怒ると、妹はすぐにひざまずいて罰しないでと懇願する。

そんな彼女の姿を見て、ニックは私が妹を虐待しているのだと思い込み、何度も私と口論になった。

妹のために、私を罰することさえあった。

妹にはとっくに失望しきっていたが、

それでも彼女の言葉は、私の心を鋭く抉った。

私は歯を食いしばり、妹に問いかける。

「……誰にそんなことを教わったの?」

しかし、妹が口を開くより先に、ニックの父親であるダグが私の頬を激しく張り飛ばした。

「この娘の知能は六歳児程度だぞ!嘘がつけるわけなかろうが!」

アンディも横から口を挟む。

「どうりで部族の薬が減るわけだ。お前がずっと、心の繋がりを阻害する薬を盗んでいたんだな!」

その言葉を聞いたニックは、全身から力が抜けたように秘書に支えられ、かろうじて立っているのがやっとだった。

彼が何かを言う前に、周りの者たちが一斉に私を非難し始める。

「こんな卑しいオメガに、ルナの資格はない!」

「ならず者を連れ込んで首領を裏切った売女だ!相応の罰を与えろ!」

一族の罵声を浴びる中、ニックはゆっくりと私の前にひざまずくと、赤く充血した目で私の喉を締め上げた。

「ティリー、俺がお前に触れることさえためらっていたというのに……お前は外で好き勝手に男と寝ていたのか?」

私は冷え切った目で彼を見つめ、嘲りを込めて言い放つ。

「ニック、あなたを見くびっていたわ。本当に頭の悪い、愚かな人ね!」

ニックは私を睨みつけ、氷のような声で言った。

「ああ、確かに愚か者だ。お前のような女に騙されていたのだからな」

「裏切りが好きだというのなら、その望みを叶えてやろう!」

そう言うと、彼は秘書に兵士を数人連れてくるよう命じた。

信じられない思いで、私は彼を見つめる。

「気でも狂ったの!? この者たちに私を触れさせるつもり?そんなことをしたら、絶対に許さないから!」

ニックの目は血走り、明らかに理性を失っていた。

彼は憎悪に満ちた目で私を値踏みするように見下す。

「お前がそれほど安っぽい女なら、相手がアルファだろうがベータだろうが、何も変わりはないだろう」

言うが早いか、彼は背後の兵士たちに命じた。

「やれ」

誰も彼を止めようとはしない。誰もが、ルナに裏切られた哀れなアルファだと同情しているのだ。

命令を聞いた数人の狼男が、獣のように私に飛びかかり、服を破り始めた。

必死に抵抗し、一人の男の手に噛みついて血を流させたが、それがかえって彼らを興奮させるだけだった。

私がもがいている間、妹とアンディが何やら言葉を交わしていた。

やがて妹が近づいてきて、私に跨るベータに指示を出す。

「違うよ。お姉ちゃんは、立ったまま真ん中に挟まれるのが好きなんだよ」

その言葉に、ニックの呼吸が荒くなる。

彼は私の耳元に拳を叩きつけ、殺さんばかりの視線で私を射抜いた。

「……妹の前で、そんな真似までしていたのか?」

折られた指の激痛に、意識が遠のきそうになる。

周囲の好奇と侮蔑に満ちた視線が、屈辱となって突き刺さる。

肌が空気に晒されるのを感じ、私は喉の奥から叫び声を上げた。

「私はライカンを統べる王の娘よ!私に指一本でも触れたら、ライカンがお前たちを皆殺しにするわ!」

私の上にいたベータが、その言葉を遮るように何度も平手打ちを食らわせる。

頭が割れるように痛む中、アンディの嘲笑が聞こえた。

「賭博狂いの父親がライカンだとでも?それとも、あの卑しい母親がか?」

ニックの友人たちも、腹を抱えて笑い出した。

「馬鹿馬鹿しい! ライカンに会ったことのある狼などいやしないのに、自分がその王の娘だと?」

その言葉が終わるか終わらないかのうちに、再び強烈な平手打ちが二度、私の頬を襲った。

今度は、ニックの手だった。

彼は冷酷な瞳で私を見下ろし、何かを決意したように告げる。

「契約は破棄しない。お前にも、俺と同じ苦しみを永遠に味わわせてやる」

そして、再び秘書に命じた。

「メディアを呼べ。明日のニュースを、こいつの写真で埋め尽くしてやれ」

無数のフラッシュが焚かれる中、私はすべての抵抗をやめ、絶望に身を委ねた。

最後の布切れが引き裂かれる、その瞬間――。何者かが、私に群がる狼たちを蹴り飛ばした。

「こいつに指一本でも触れてみろ!!」

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病に堕ちたアルファの哀願

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