話 1
アルファであるニックが銀毒症を患った。
彼のルナである私は、まさにその時、私たちの証であったムーンストーンの指輪を砕き、『伴侶契約解除申請書』を彼の顔に叩きつけた。
「あなたとの契約を破棄する」
私の内にいる狼が、満足げに喉を鳴らす。
対するニックは目を真っ赤に充血させ、苦悶の表情で私の前にひざまずいた。
「ティリー、すまない。俺が愚かだったせいで病気になってしまった。醜くならないよう努力するし、君に迷惑はかけない」
「俺のすべてを捧げる。だから、どうか見捨てないでくれ」
彼は私の足にすがりつき、哀願する。 まるで私がいなければ生きていけないとでも言うように。
かつて誰もが崇拝し、畏怖の念を抱いたアルファが、今は犬のように卑屈に地面に這いつくばっている。
しかし、私は彼の苦痛に目もくれず、月の女神像の前まで乱暴に引きずり出した。
「契約を解除する気がないのなら、月の女神にあなたへの祝福を取り消していただくまで!」
......
私の警告に、周囲の親族や友人たちは息を呑んだ。
ニックの父親が前に進み出て私を突き飛ばし、息子を背後にかばう。
「ニックはお前にすべてを捧げた。その彼が最も苦しんでいる時に見捨てると言うのか!?」
「正当な理由がないのなら、こちらこそ月の女神にお前を呪っていただくぞ!」
私は彼を一瞥し、内に秘めた狼と共に嘲笑を浮かべた。
「恨むのなら、足手まといの病にかかったご自分を恨むことね」
ニックの親族たちは、途端に憤慨の声を上げる。
彼の母親もまた、怒りに燃える手で私の腕を掴み、非難した。
「あの子はあなたを庇って銀鉱石の攻撃を受けたのよ!でなければ、あれほど強靭なアルファが、敵の攻撃を避けられないはずがないでしょう!?」
ニックは、私を取り戻そうと、おずおずと私の手に触れた。
「ティリー、君がそばにいてくれるなら、俺の財産はすべて……」
私はその手を苛立たしげに振り払う。
「私に触らないで!あなたの財産なんていらない。早く契約を解除して!」
誰もが信じられないといった目で私を見ていた。
彼らの目には、ニックは私を溺愛し、何でも許してくれる存在として映っていたからだ。
その寵愛に感謝するどころか、契約の解除を迫る私は、
まさしく邪悪で愚かな女だろう。
しかし、それこそがニックが周囲に見せたかった光景なのだ。
実のところ、ニックが銀毒症を患ったのは、もうずっと前のことだった。
彼は部族の安寧のため、私以外のすべての人間にその事実を隠し続けていた。
そして毎夜、発作を起こす姿で私を怖がらせたくないという口実で、私を部屋の外に締め出した。
外で待ち伏せていたならず者たちに襲われ、私は何度も重傷を負い、意識を失った。
時には、衣服をすべて剥ぎ取られることさえあった。
その惨状を目にした者たちは、私がニックを裏切ったのだと信じて疑わなかった。
意識を取り戻すたびに私を待っているのは、親しい者たちからの軽蔑の眼差しだけ。
それでも、ニックが私のために弁明することは決してなかった。
もう、こんな汚名にはうんざりだった。完全に彼の元を去りたい。
だが、そう思うたびに、ニックは怒りに任せて私の首を絞め上げ、こう問い詰めるのだ。
「俺が病気になったのをいいことに、外でもっと屈強なアルファを見つけたとでも言うのか?」
そんな時、私の言葉が彼の耳に届くことはない。
それなのに、今回は。衆人環視の中で、彼はひざまずいて私に懇願してみせる。
自らの深い愛情を誇示し、私の卑劣さを際立たせるために。
この茶番が繰り返されるうち、私の内にいる狼さえも、次第に沈黙するようになっていた。
私はずっと、この時を待っていた。
そして今、好機が訪れた。
私は無反応なニックを見下ろし、床に落ちた『伴侶契約解除申請書』を拾い上げ、彼の目の前に突きつける。
「サインしなさい。さもないと、後悔することになるわ」
私の言葉が終わるか終わらないかのうちに、横から冷笑が響いた。
「以前は蹴り飛ばしても離れない犬のようにニックに契約を懇願していたくせに、今度は契約解除を強要するとは」
「あなたのような卑しいオメガは見たことがない」
声の主は、ニックの秘書だった。
私は黙って秘書を一瞥し、再び目の前の男に視線を落とした。
かつて気高かったアルファが、今は無様に私の足にすがりつき、離そうとしない。
一歩踏み出そうとした途端、部族の医師であるアンディに腕を掴まれた。
「ルナ、銀毒症の患者には寄り添う存在が必要です。今こそ、ニック様が最も弱っている時ではありませんか。どうして見捨てられるのです?」
「彼の死期を早めたいとでもおっしゃるのですか?」
ニックの友人たちもまた、私に侮蔑の視線を向ける。「ティリー、お前がニックのルナでなければ、誰一人としてお前を相手になどしないさ!」
その時、ニックが感情を爆発させた。彼は弱った身体を無理やり起こすと、私を強く抱きしめた。
「もうやめてくれ」
そして、一転して優しい眼差しを私に向ける。
「ティリー、また君の父親が金に困っているのか?」
「彼が賭博を続けることには賛成できないが、君が望むなら、なんだって用意しよう」
私の内の狼が、彼に向かって唸り声を上げる。
そして私もまた、悲しみを湛えた瞳で彼を見つめた。
ニックは、嘘をついている。
「銀毒症の病人に、こんな芝居をさせてまで慰めさせるとはな」
ニックの父親、ダグもまた、苦々しい表情で口を開いた。
「我々がお前の父親の賭け事に、これまでいくら費やしたと思っている。今更、はした金が増えたところで変わらん。 言え、今回はいくらだ?」
無数の視線が突き刺さる中、ダグは私が金銭を要求するはずがないと確信していた。
ここで私が金を受け取れば、彼は必ずや私に汚名を着せるだろう。私が彼らに逆らう度胸はないと、高を括っているのだ。
だが、私はニックの腕をゆっくりと押し返し、氷のような視線で言い放った。
「いいでしょう。なら、1000億ドルいただくわ」
「明日までに口座に振り込まれなければ、契約は即時解除よ」
話 2
1000億ドル。その場にいる全員の資産を根こそぎにしても、到底届かない天文学的な額だ。
ニックは崩れるように地面に膝をつき、私の手を取って彼の頬に触れようとした。
「ティリー、怒っているんだろう。僕がまた何か、君を不機嫌にさせるようなことをしたのか……」
かつて誰もが恐れたアルファが、今この瞬間、最も脆い一面を晒している。
その場にいた誰もが、彼に同情の念を禁じ得なかった。
しかし、私はただ冷ややかに両手を引き抜いただけだった。
「もう付きまとわないで。本当に、気持ち悪いわ」
ニックは呆然と私を見つめ、私の言葉が信じられないという顔をしていた。
私が背を向けた、その瞬間。傍らに立っていた医者のアンディが、私の十二歳になる知的障害の妹を地面に突き飛ばし、挑発的な視線を向けてきた。
「ティリー、ニックを捨てるのは勝手だけど、まさかこの子まで見捨てるつもり?」
妹は私に手を伸ばし、足元に這い寄ろうとする。だが私は冷笑を浮かべ、無慈悲に蹴り飛ばした。
「いらない」
アンディが瞬く間に駆け寄り、私の腕を強く掴んだ。
「彼の献身を裏切るなんて! 病気の彼を一人にして、面倒まで押し付けるつもり!?」
「忘れたの? ニックはあなたを群れに受け入れさせるために、追放されかけたのよ!」
その言葉に、私は眉をひそめた。
「アンディ、私の記憶が正しければ、あなたはただの医者のはずだけど」
「どういう立場で私を非難しているの?」
アンディは逆上し、私の目に突き刺さんばかりの勢いで指を突きつけてきた。
「あなたなんかに彼のルナになる資格はない!」
「あなたもあなたの家族も、ニックに養ってもらってるくせに!彼がいなかったら、今頃あなたは体と魂を売りさばく卑しい女になってたわよ!」
彼女の下劣な言葉が、私の中に眠る狼の怒りを呼び覚ました。獣が、咆哮をあげる。
衝動のままに、私は彼女の指を掴み、力任せにへし折った。
アンディの耳をつんざくような悲鳴が響き渡る。
その声でニックは我に返り、
慌てて私の手を振り払うと、アンディを庇うように立ちはだかった。
「ティリー、今のはやりすぎだ! アンディは僕のために、君を引き留めようとしてくれただけじゃないか!」
ニックとアンディが固く握り合った手を見つめ、私の表情から温度が消えていく。
「口の利き方も知らない獣を躾けただけ。何か問題でも?」
ニックの仲間たちが前に出て、
威圧的に二人と私の間に割って入った。
「たとえルナであっても、群れの医者を好き勝手に侮辱することは許されない。その代償を払ってもらうぞ!」
言うが早いか、男たちは私を地面に激しく叩きつけた。あまりの衝撃に、口から血がこぼれ落ちる。
「彼女を傷つけるな!」
ニックが前に出て制止する。まるで自分が傷つけられたかのように。
そして、心底どうしようもないといった顔で私を見下ろした。
「テ「ティリー、君が跪いてアンディに謝れば、それで終わりにする」
周囲は彼の私への「寵愛」に感嘆の息を漏らす。
私はその偽善に満ちた表情を、氷のような視線で見つめ返した。
「私の謝罪なんて、彼女にはもったいないわ」
アンディは、ニックとの情事の動画を幾度となく送りつけて私を挑発し、
食事に薬を盛って私の子を流産させた。
それでもニックは彼女を庇い続け、群れの者たちには私が狂ったのだと思い込ませたのだ。
そして今この瞬間も、彼は「ルナを寵愛するアルファ」の仮面を被り続けている。
「ティリー、君を傷つけたくないんだ」
ニックは苦悶の表情で片膝をつくと、一瞬の逡巡の後、
私の指を掴み、容赦なくへし折った。
私の凄まじい絶叫が響く中、彼の手は微かに震えながらも、その動きを止めない。
「これは、アンディへの償いだ。僕は群れのリーダーとして、君を庇って公正さを失うわけにはいかない」
痛みで意識が遠のき、体内の狼が引き裂かれるように呻く。
私を押さえつける力はさらに強まり、呼吸すらままならない。
そして、七本目の指が折られた時、心臓に激痛が走った。
体内の狼が、生命力を失っていくのを感じる。
もはや体の痛みなどどうでもよかった。私は涙ながらにニックに懇願した。
「謝るわ、謝るから……。私の狼が死んでしまう。お願い、彼女を助けて」
ニックは心底失望したという顔で私を見つめた。
「ティリー、責任から逃れるために嘘をつくのか?」
彼はそう言うと、私の八本目の指を掴み、再びへし折った。
繰り返される激痛に感覚は麻痺し、体内の狼は完全に沈黙した。
私は血の気を失った顔で、憎しみに満ちた視線をニックに向ける。
「今日のことを、私の母が知らないよう祈るのね。もし知られたら、あなたたちを絶対に許さないから!」
周囲から、侮蔑に満ちた嘲笑が浴びせられた。
「恐怖で頭がおかしくなったか? お前の母親なんて、群れを追放されたただの野良だろ」
「ニック様のトイレ掃除をさせてもらえるだけでも、ありがたく思えってんだ!」
アンディも怯えたふりをしながらニックの背後に隠れ、囁いた。
「ルナは悪魔に取り憑かれているみたい。だから幻覚を……」
「ニック、銀の剣でその悪魔を殺せば、きっとルナはあなたとの契約を解いたりしないわ」
ニックの目に希望の光が宿ったが、衰弱しきった私を見て、一瞬、葛藤の色を見せた。
だが、数分間の逡巡の末、彼は銀の剣を持ってこさせた。
そして、耐えられないというように固く目を閉じ、剣の切っ先を私の心臓へと向ける。
「すまない、ティリー」
切っ先が服を裂き、冷たい刃が肌に触れようとした、その瞬間――。
一対の手が、私の前に差し出された。
話 3
期待に胸を膨らませて顔を上げた先にいたのは、障がいを持つ私の妹だった。
アンディに親しげに頭を撫でられながら、妹は虚ろな表情で私を指差す。
「お姉ちゃんは悪魔憑きなんかじゃないよ。ただ男の人が好きなだけ。何人かのアルファに慰めてもらえば、きっとよくなる」
その言葉に、場の空気は再び凍りついた。
「なんだと?」 ニックが妹の腕を乱暴に掴む。
妹はきょとんとした顔で彼を見上げた。
「ニックがアルファを用意してあげれば、お姉ちゃんはどこにも行かないよ」
妹がこんなふうに私を貶めたのは、これが初めてではない。
妹はニックのことが好きだった。かつて自ら服を脱ぎ捨て、ならず者の狼に抱きつきながら、
助けを求めるときにはこう叫んだのだ。「お姉ちゃん、もうニックとは話さないから!許して!」と。
ニックの気を引くためのその行為は、彼が私を責めるようになってから、さらにエスカレートしていった。
ニックとの初夜でさえ、事が終わる前に裸で彼の腕の中に滑り込んできたこともあった。
私が怒ると、妹はすぐにひざまずいて罰しないでと懇願する。
そんな彼女の姿を見て、ニックは私が妹を虐待しているのだと思い込み、何度も私と口論になった。
妹のために、私を罰することさえあった。
妹にはとっくに失望しきっていたが、
それでも彼女の言葉は、私の心を鋭く抉った。
私は歯を食いしばり、妹に問いかける。
「……誰にそんなことを教わったの?」
しかし、妹が口を開くより先に、ニックの父親であるダグが私の頬を激しく張り飛ばした。
「この娘の知能は六歳児程度だぞ!嘘がつけるわけなかろうが!」
アンディも横から口を挟む。
「どうりで部族の薬が減るわけだ。お前がずっと、心の繋がりを阻害する薬を盗んでいたんだな!」
その言葉を聞いたニックは、全身から力が抜けたように秘書に支えられ、かろうじて立っているのがやっとだった。
彼が何かを言う前に、周りの者たちが一斉に私を非難し始める。
「こんな卑しいオメガに、ルナの資格はない!」
「ならず者を連れ込んで首領を裏切った売女だ!相応の罰を与えろ!」
一族の罵声を浴びる中、ニックはゆっくりと私の前にひざまずくと、赤く充血した目で私の喉を締め上げた。
「ティリー、俺がお前に触れることさえためらっていたというのに……お前は外で好き勝手に男と寝ていたのか?」
私は冷え切った目で彼を見つめ、嘲りを込めて言い放つ。
「ニック、あなたを見くびっていたわ。本当に頭の悪い、愚かな人ね!」
ニックは私を睨みつけ、氷のような声で言った。
「ああ、確かに愚か者だ。お前のような女に騙されていたのだからな」
「裏切りが好きだというのなら、その望みを叶えてやろう!」
そう言うと、彼は秘書に兵士を数人連れてくるよう命じた。
信じられない思いで、私は彼を見つめる。
「気でも狂ったの!? この者たちに私を触れさせるつもり?そんなことをしたら、絶対に許さないから!」
ニックの目は血走り、明らかに理性を失っていた。
彼は憎悪に満ちた目で私を値踏みするように見下す。
「お前がそれほど安っぽい女なら、相手がアルファだろうがベータだろうが、何も変わりはないだろう」
言うが早いか、彼は背後の兵士たちに命じた。
「やれ」
誰も彼を止めようとはしない。誰もが、ルナに裏切られた哀れなアルファだと同情しているのだ。
命令を聞いた数人の狼男が、獣のように私に飛びかかり、服を破り始めた。
必死に抵抗し、一人の男の手に噛みついて血を流させたが、それがかえって彼らを興奮させるだけだった。
私がもがいている間、妹とアンディが何やら言葉を交わしていた。
やがて妹が近づいてきて、私に跨るベータに指示を出す。
「違うよ。お姉ちゃんは、立ったまま真ん中に挟まれるのが好きなんだよ」
その言葉に、ニックの呼吸が荒くなる。
彼は私の耳元に拳を叩きつけ、殺さんばかりの視線で私を射抜いた。
「……妹の前で、そんな真似までしていたのか?」
折られた指の激痛に、意識が遠のきそうになる。
周囲の好奇と侮蔑に満ちた視線が、屈辱となって突き刺さる。
肌が空気に晒されるのを感じ、私は喉の奥から叫び声を上げた。
「私はライカンを統べる王の娘よ!私に指一本でも触れたら、ライカンがお前たちを皆殺しにするわ!」
私の上にいたベータが、その言葉を遮るように何度も平手打ちを食らわせる。
頭が割れるように痛む中、アンディの嘲笑が聞こえた。
「賭博狂いの父親がライカンだとでも?それとも、あの卑しい母親がか?」
ニックの友人たちも、腹を抱えて笑い出した。
「馬鹿馬鹿しい! ライカンに会ったことのある狼などいやしないのに、自分がその王の娘だと?」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、再び強烈な平手打ちが二度、私の頬を襲った。
今度は、ニックの手だった。
彼は冷酷な瞳で私を見下ろし、何かを決意したように告げる。
「契約は破棄しない。お前にも、俺と同じ苦しみを永遠に味わわせてやる」
そして、再び秘書に命じた。
「メディアを呼べ。明日のニュースを、こいつの写真で埋め尽くしてやれ」
無数のフラッシュが焚かれる中、私はすべての抵抗をやめ、絶望に身を委ねた。
最後の布切れが引き裂かれる、その瞬間――。何者かが、私に群がる狼たちを蹴り飛ばした。
「こいつに指一本でも触れてみろ!!」