話 1
私はシステムから与えられた任務で, 心を閉ざしたIT社長・広瀬恭平を癒し, 彼と結婚. 息子の弾にも恵まれ, 完璧な家庭を築いたと信じていた.
しかし, 結婚7年目の記念日, 夫が秘書の芽生と不倫し, 息子の弾までもがその嘘に加担していたことを知ってしまう.
決定的だったのは, 雪崩に襲われた瞬間. 夫と息子は, 私ではなく, 迷うことなく芽生を助けに向かったのだ.
10年間尽くした夫と, 命懸けで産んだ息子からの二重の裏切り. 私の愛と信頼は, 音を立てて崩れ落ちた.
私はすべてを捨てて元の世界へ帰還し, 新たな人生を歩み始めた. だが, 後悔に苛まれた夫と息子が, 私を連れ戻すためにこちらの世界へやってきた. 彼らに与えられた時間は, わずか24時間. もし私が拒絶すれば, 彼らは永遠の苦しみを背負うことになる.
第1章
堀井彩矢 POV:
あの男が私を裏切っていたこと, 彼の弟までもがそれに加担していたことを知った時, 私の世界は音を立てて崩れ落ちた. 私はシステムに, 任務の終了を求めた.
「任務終了の申請を受け付けました. 処理にはしばらく時間がかかります. お待ちください」
システムの機械的な声が響く. 私の疲弊した心には, その冷たい響きがむしろ慰めだった. しばらくして, システムは困惑したトーンで問いかけてきた.
「本当に, よろしいのですか? あなたの家族は... 」
私は答えず, テレビの電源を入れた. 画面には, 見慣れた顔が映し出される. 広瀬恭平と, 彼の弟, 広瀬弾. 二人はプライベートジェットから降り立ち, まるで仲の良い家族のように微笑んでいた.
記者たちが群がり, マイクを向けた.
「広瀬社長, 奥様と弾様が心配されているのでは? 」
恭平は優しい眼差しでカメラを見つめ, 言った.
「ええ, もちろん. 彩矢は僕にとって, 何よりも大切な存在ですから. 彼女が待っていると思うと, 一刻も早く家に帰りたくなります」
弾が興奮した様子で叫んだ.
「ママに, とっておきのサプライズがあるんだ! 」
恭平は笑顔で弾の頭を撫で, 記者たちに深々と頭を下げた.
「すみません, 妻が待っていますので. 失礼します」
恭平は弾の手を引き, 足早に去っていく. 記者たちは口々に「理想の夫婦だ」「まさに完璧な家族」と称賛した.
テレビを消す. 画面が真っ暗になり, 私の顔がぼんやりと映る. 自嘲的な笑いが喉から漏れた.
「はは... 完璧な家族, ね」
私はこの世界の人間ではない.
システムから与えられた任務は, 過去のトラウマで心を閉ざしたIT企業の若手社長, 広瀬恭平を癒し, 社会的に成功させることだった. 初めて会った時, 恭平は影を背負った, 暗闇の中にいるような男だった. 彼の瞳には光がなく, ただ虚無だけが広がっていた.
三年という歳月をかけて, 私は彼を闇から救い出した. 彼の心に寄り添い, 失われた家族の記憶を共に乗り越え, 彼の才能を最大限に引き出した. 恭平はかつての陰鬱な青年から, 急成長するIT企業の若きカリスマへと変貌を遂げた.
任務が完了した時, システムは私に去るよう促した.
「任務完了. これ以上, 関わる必要はありません」
でも, 恭平は私を引き留めた.
「彩矢, 行かないでくれ. 君なしでは, 僕はもう生きていけない」
彼の言葉は, 私の心を深く揺さぶった. 私はシステムに反し, この世界に残ることを選んだ.
そして, 彼と結婚した.
結婚式の夜, 私は冗談めかして言った.
「もし私を裏切ったら, どうなるか分かってるわよね? 」
恭平は私の手を握りしめ, 真剣な眼差しで答えた.
「君を裏切るなんて, ありえない. 僕の愛は永遠だ」
その言葉を, 私は信じていた.
結婚して四年. 恭平は私を深く愛し, 大切にしてくれた. 彼は私のために家事を覚え, 毎朝美味しい朝食を作ってくれた. 彼は仕事でどんなに忙しくても, 必ず私に連絡をくれた.
やがて, 私は彼の子を身籠った. 陣痛に苦しむ私を, 恭平は病院の廊下で一晩中待ち続けた. 彼は涙を流しながら言った.
「彩矢, ごめん. 僕が至らなかった. 君をこんなに苦しませて... 」
彼が過去の事故で負った傷を理由に, 自ら不妊手術を受けたと知った時は, 彼の愛の深さに震えた.
生まれてきた子供は, 弾と名付けられた. 恭平が「彩矢が僕を救ってくれたように, 弾もきっと彩矢を幸せにしてくれるだろう」と願って付けた名前だった.
弾は幼い頃から, 私にべったりだった.
「ママ, 疲れてるの? 僕が肩揉んであげる」
「ママ, 眠そうだよ? 僕が子守唄を歌ってあげる」
周囲の人は, 弾が私をそこまで気遣うことに驚いた.
「弾くんは本当に優しいね. ママのこと, 大好きなんだね」
弾は胸を張って答えた.
「うん! 僕, ママが悲しい顔をするのが一番嫌い! ママを守るのは, 僕の役目だから! 」
恭平も微笑んで言った.
「彩矢は何も心配しなくていい. 弾と僕が君を一生守るから」
私はその言葉を心から信じ, この幸せが永遠に続くと疑わなかった.
けれど, それは, ある日突然, 崩れ去った.
彼らが, 柏木芽生という女と, もう一つの "家族" を築いていたことを知った時.
恭平と弾は私を幾度となく欺き, 芽生との親密な関係を隠し続けていた. 彼らは芽生と旅行に行き, 私には嘘の出張を言い訳にした.
あの日の結婚式の誓いが, 今, 皮肉にも現実となって私の前に立ちはだかる.
私は, 彼らとの関係を終わらせることを決めた.
テーブルの上で, 私の誕生日ケーキのロウソクが溶けていく.
「もう, これで終わりなのね」
私は静かに呟いた.
その時, 玄関のドアが開く音がした. 二つの足音が, 私に向かって近づいてくる.
「彩矢, ただいま! 」
「ママ, お誕生日おめでとう! 」
話 2
堀井彩矢 POV:
玄関に立っていたのは, 恭平と弾だった. 弾は恭平の腕をすり抜け, 私に飛びついてきた.
「ママ, どこに行ってたの? ずっと待ってたんだよ! 」
弾の小さな手が私の服をぎゅっと掴む.
「僕, ママが誰かと離れたいって言ってるのを聞いたんだ. 誰と離れたいの? 僕じゃないよね? 」
私は弾の頭を優しく撫でた.
「大丈夫よ. ママの友達の話よ. 夫婦関係がうまくいってなくて, 別れるかどうか悩んでいるの」
弾は不安そうに私を見上げた.
「そっか... ママは, 僕たちのこと, 嫌いじゃない? 」
私は微笑んで, 弾の頬にキスをした.
「もちろんよ. ママは弾が大好きよ」
弾は安心したように, 私の首に腕を回す.
「僕もママが大好き! ずっとママのそばにいるよ! 」
恭平はコートを脱ぎ, 私と弾を抱きしめた.
「ただいま, 彩矢. 心配かけたね. でも, もう大丈夫だ. 僕たちは永遠に一緒だよ」
彼はそう言うと, 私の額にキスをした.
私は何も言わず, ただ恭平の腕の中で, 苦い笑みを浮かべた. 彼の言葉の虚しさが, 胸に重くのしかかる.
弾がテーブルの上のケーキを見つけ, 目を輝かせた.
「ママ, ケーキだ! 誕生日プレゼント, 僕が持ってるんだ! 」
弾は恭平に促され, 恭平が持っていた小さな箱を私に差し出した. 恭平は箱を開け, 中からエメラルドのネックレスを取り出した.
「遅くなってごめん. 仕事が立て込んでて. すぐに着けてくれるかい? 」
恭平は私の首に手を伸ばし, ネックレスを着けようとした. その瞬間, 鼻腔をくすぐる甘い香りがした. 梔子の香りだ. 強烈な吐き気が込み上げ, 私は恭平と弾を突き飛ばし, トイレに駆け込んだ.
胃の中のものが全て逆流するような感覚. 恭平が慌てた声で私の名を呼んだ.
「彩矢! 大丈夫か! ? 医者を呼ぼう! 」
私は洗面台の縁を掴み, 震える手で水を掬い, 口をゆすいだ. 恭平が心配そうに背中を擦ってくれる. 私はその手を掴み, 真っ赤に充血した目で彼を睨みつけた.
「恭平... もし, 私がこの家で, 必要とされなくなったら... あなた, どうする? 」
私はあえて, さっき弾に話した友達の話を切り出した.
「私の友達ね, 夫が他の女性に心を奪われてたって知ったの. その夫はね, 友達に『君が一番大切だ』って言ってたんだって. でも, 結局は嘘だった. あなたなら, そんな状況でどうする? 」
恭平は私の言葉を遮るように, 強く私を抱きしめた.
「そんなこと, ありえない! 彩矢, 君は僕の唯一だ! 誰が何と言おうと, 君だけを愛してる! 僕たちは永遠に一緒だよ! 」
弾も小さな拳を握りしめ, 言った.
「僕も! ママを傷つけたりしない! ずっとママの味方だよ! 」
恭平は弾の言葉に笑い, 弾の頬をつねった.
「僕の信用がないって言うのか? 」
弾は不満そうに恭平の腕を叩いた.
「違うよ! でも, ママを守るのは僕の役目だから! 」
二人のやり取りを見ながら, 私の心は冷え切っていた. 彼らの言葉は, もう私には届かない. 恭平が浮気をしていて, 弾がそれを知っていながら私に隠していたこと. その事実が, 私の心を蝕んでいた. 彼らの言葉の真偽など, もうどうでもよかった.
話 3
堀井彩矢 POV:
あのネックレス. 恭平が私に贈ったエメラルドのネックレスは, 芽生の手首にはめられたブレスレットと全く同じデザインだった. 恭平は, 全く同じデザインの宝石を, 私と芽生に与えていたのだ. 私の唇に, 乾いた嘲笑が浮かんだ.
数日後, 偶然を装って芽生と会った時, 私はわざと, 恭平が私に贈ったネックレスの話をした.
「恭平はね, 私を世界で一番大切にしてるって言ってるの. 信じられないくらい愛されてるって, 毎日実感するわ」
芽生はにこやかに微笑んだ.
「ええ, 知っていますわ. 広瀬社長は, 私にも『君は僕にとって, かけがえのない存在だ』と仰っていましたもの. まるで, 彩矢さんのように, 私を寵愛してくださるの」
恭平は, 私と芽生に, 全く同じ言葉を囁いていた. 彼は, 二人の女に, 同じ宝石を贈り, 同じ愛の言葉を囁いていたのだ. 私の心臓が, 冷たい氷でできた手で握り潰されるようだった.
恭平と弾は, 私たちのやり取りを不安げな顔で見ていた. 彼らは, 自分たちの秘密が暴かれるのではないかと, 怯えているようだった. 私はわざとらしく咳をした. 恭平はすぐにコートを脱いで私に羽織らせ, 温かい紅茶を差し出した. 弾も私の首にマフラーを巻きつけながら, 心配そうに言った.
「ママ, 風邪引かないようにね」
彼らの行動に, 私は心底吐き気がした. 芽生の香水が染み付いたコートも, 弾の偽善的な優しさも, 全てが私を苛立たせた. 私は彼らに向かって言った.
「体がだるいから, ホテルで休ませてもらうわ」
恭平と弾は顔を見合わせ, 戸惑った表情を浮かべた. しかし, 私がホテルに行くことに異論を唱えることはなかった. 彼らは私をホテルまで送り届け, 恭平は私を抱きしめ, 弾は私の頬にキスをした.
その日の夕方, 恭平の携帯が震えた. 彼は慌ててマナーモードに切り替えた. 恭平は私が目を閉じたのを確認すると, ほっとしたように息を吐いた. 携帯の画面には, 「芽生」という文字が何度も点滅していた. 弾が恭平の袖を引っ張り, 小さな声で言った.
「パパ, 芽生ちゃんに会いたい」
恭平は弾を制止し, 静かに部屋を出て行った. 私は彼らが部屋を出たのを確認すると, 部屋を出て後を追った.
恭平と弾は, 芽生の部屋の前に立っていた. ドアが開くと, 芽生は恭平の胸に飛び込んだ.
「恭平さん! ずっと会いたかったわ! 彩矢さんが目を覚ましたって聞いて, 私, 不安で... 」
芽生は涙ながらに恭平にしがみつき, 彼に寄り添うことを求めた. 恭平は芽生の涙に心を動かされたように, 彼女を強く抱きしめ, 囁いた.
「大丈夫だ, 芽生. 僕がそばにいるから」
弾は得意げに言った.
「ママが寝たから, 僕たち, 芽生ちゃんのところに来たんだよ! 」
芽生は一瞬感動したような表情を浮かべたが, すぐに顔を曇らせた.
「でも, 彩矢さんが恭平さんを独り占めしてるみたいで, 私, 寂しいの」
弾は芽生の手を握りしめ, 言った.
「芽生ちゃん, 僕が温めてあげる! 」
恭平は芽生の鼻先に軽く触れ, ふざけたように言った.
「嫉妬してるのかい? 君のために, この場所を選んだんだよ」
芽生は微笑んで, 恭平の唇にキスをした. 恭平は芽生を強く抱きしめ, 二人は深く口づけを交わした. 弾は目を覆い,
「もう! 僕, 電球になりたくないよ! 」
と叫んだ. 恭平は芽生から離れず, 言った.
「弾は昔から, こういうのよく見てるからな. 慣れてるだろ? 」
恭平は芽生を抱き寄せ, 弾の手を引いて部屋の中に入っていった. ドアが閉まる音だけが, 廊下に響いた.
私は柱の陰から, その光景を全て見ていた. 頬を伝う涙が, 冷たい水のように感じられた. 恭平と弾の甘い言葉が, 私の耳元でこだまする. 彼らは, 私の誕生日を祝うふりをして, 芽生と過ごすための舞台を演出していたのだ. 私は胸を押さえ, その場に蹲り込んだ.
「もう, あなたたちとは, 終わりよ」
私の心は, 完全に決壊した.