話 2
宮新隼人の鋭く険しい視線が、瞬時に安田真紗に突き刺さった。「誘拐は君の仕業か?」厳しい声が響く。
安田真紗は顔色を失い、信じられないといった様子で反論した。「二人とも誘拐されたのよ!私は命懸けであなたを助けたのに!」
――勝田成子は、最初から最後まで足を引っ張るだけの役立たずだった。
彼女を助け出すために無理をしたからこそ、こんなにも傷だらけになったのだ。
それなのに、命を救った恩に感謝するどころか、勝田成子はまさかの裏切りを見せた。
涙で顔を濡らしながら、勝田成子は歯ぎしりして叫んだ。「それがあなたの苦肉の策だったのよ!あなたは誘拐犯とグルだった!あの人、全部私に話してくれたんだから!」
勝田成子が卑劣な女だということは分かっていた。けれど、ここまで平然と嘘をつくとは思わなかった。
いや、むしろ誘拐犯自体が、勝田成子の差し金なのではないか――そんな疑念さえ浮かぶ。
だって、暴力を受け続けたのはいつも自分だけだった。勝田成子には一切手を出さなかったのだから。
安田真紗は、胸の奥で怒りを必死に押し殺しながら、勝田成子を冷ややかな目で見つめた。
その瞳の鋭さは、まるで空を裂く刃のようだった。
「今日、君が吐いた嘘――その一つひとつに、必ず代償を払わせる」
「安田真紗!」
宮新隼人は一瞬の迷いもなく勝田成子の前に立ちふさがり、その声には憎しみがにじんでいた。
「ここまで卑劣だったとは……俺は、こんな女を妻に迎えたとは!戻ったらきっちり決着をつける!」
そう言い捨てると、彼はすぐさま勝田成子を抱きかかえ、その場を後にした。
安田真紗はその場に呆然と立ち尽くしていた。宮新隼人の目に宿るあからさまな憎悪を見た瞬間、全身に走る痛みなど、心の痛みのほんの一かけらにも及ばなかった。
彼女は、まるで一瞬で自分を弁解する力を失ってしまったかのようだった。
なぜなら――宮新隼人は、自分の言葉なんて、最初から信じる気などないから。
勝田成子がほんの少し哀しげな声を出せば、それだけで。彼女がひとつ、意味ありげな視線を送れば、それだけで。
宮新隼人は、迷うことなくその隣に立つ。
安田真紗の身体はこわばったまま、宮新隼人が勝田成子を抱き上げ、傍に停められた車へと駆けていく姿をただ見つめていた。
勝田成子は彼の腕の中に甘えるように身を預けながらも、そのくせ、こちらへと挑発的な、勝ち誇った視線を投げかけてきた。
――今は、六月のはずなのに。
それでも安田真紗は、骨まで凍りつくような寒さを感じていた。
昔、宮新隼人が事故に遭ったとき――彼を車の中から必死に背負って助け出したのは、誰でもない安田真紗だった。
その後、彼女は意識を失って倒れ、次に目を覚ましたときには――すでに勝田成子が、自分のした「命の恩人」の功績を横取りしていた。
どれだけ彼女が真実を訴えても、宮新隼人は頑なに信じなかった。彼にとって恩人はあくまで勝田成子。それどころか、彼女がそれを否定することで、かえって「勝田成子の功績を奪おうとする卑劣な女」と決めつけられたのだ。
…本当は最初からわかっていた。宮新隼人が好意を寄せているのは、勝田成子だということ。この結婚も、ただの政略結婚にすぎないということが。
結婚してからの三年間、妻という立場でありながら、愛情どころか、最低限の敬意すら与えられたことはなかった。
その理由は――結婚前夜に起きた、あの出来事。勝田成子に陥れられ、見知らぬ男と一緒にいたと誤解させられたこと。たとえ肉体関係はなかったとしても、宮新隼人の目には、彼女はすでに「穢れた女」だった。
その日からずっと――
彼女の人生は、まるで地獄だった。
安田雄降が薬物使用の疑いで逮捕され、更生施設に送られた。 安田氏が混乱に陥ったとき、立ち上がって会社を引き継いだのは宮新隼人だった。
安田真紗の母は、夫の不倫が原因で早くに病に伏し、この世を去った。彼女は父をずっと憎んでいた。その転落は自業自得だとさえ思っていた。
だからこそ、真紗は感謝していた。あの苦境の中で手を差し伸べ、安田グループを守ってくれた宮新隼人に。
だが、後になって知ってしまったのだ――
父の事件は、すべて宮新隼人の復讐の一環だったということを。そして安田グループは、その混乱に乗じて彼に乗っ取られていたということを。すべては、綿密に仕組まれた陰謀だったのだ。
彼の野心が満たされた後は、安田真紗に対する嫌悪はあからさまになった。二人で暮らすはずの家にも滅多に帰らず、顔を合わせるたびに彼女を傷つけ、辱めた。
胸を突くような記憶の数々が、洪水のように押し寄せる。
もう、耐えられなかった。安田真紗の体が限界に、そして血を吐き、視界は闇に呑まれていった――。
話 3
病院の特別個室――
安田真紗はベッドに横たわり、いまだ意識が戻らぬままだった。
そのすぐそばには、黒のオーダースーツを着た男性が車椅子に座っている。
男の年は二十七。整った薄い唇と端正な横顔は、まるで神が彫ったかのように完璧で、その佇まいには凍てつくような冷たさと、近寄りがたい気品が漂っていた。
「中村会長……下半身の麻痺は、残念ながら改善の兆しがなく……むしろ、悪化しております」
奥田院長は、言葉を選びながら、震えるように首を振った。 「このままでは完全に動かなくなるのも時間の問題かと。完治を望むなら……「闇無き」しか、道はないでしょうな」
中村陽――中村グループの会長にして、中村家の現当主。
中村家は由緒ある名家であり、その根は深く、謎の家族。
そして、その家を率いる中村陽こそ、琴口市で最も注目を集める存在、誰もが一目置く男だ。
正統な嫡孫として生まれた彼は、わずか六歳にして、単独で国際犯罪組織のファイアウォールを突破。たった10分で数千億規模の不正資金を回収し、犯罪の温床を一掃してみせた。
十歳で国家の新エネルギー分野において次々と特許を取得し、中村家が市場を独占する礎を築いた。
十五歳では、父と共にグローバル市場の拡大に尽力し、かつて没落寸前だった旧家を、世界の権力者すら警戒する巨大財閥へと押し上げた。
そんな無敵ともいえる男が、三年前のある事故で下半身不随となり、残りの人生を車椅子と共に生きることになるとは――誰が予想できただろうか。
そして今、差し迫った事態が――……
中村陽はうっすらと目を上げた。「今の俺の状態で、子どもを作ることなんて、できるのか?」
祖母は重い病に冒されており、もう長くはないかもしれない。彼女の唯一の願いは、曾孫の顔を見ることだった。
「えっ……?」
奥田院長の顔色がさっと変わった。
……
安田真紗は、橋の上でどれほどの時間を横たわっていたのか分からなかった。救急車に運ばれたのがいつだったのかも、全然知らなかった。
ただ、ぼんやりとした意識のなかで――
彼女は、冷ややかで疎ましげな深い瞳を見た気がした。
とても見覚えがあるように感じたのに、誰なのかは分からない。
だが次の瞬間、その目が突然、宮新隼人の嫌悪と軽蔑に満ちた顔に変わった――!
「安田真紗、死ねばいいのに!なんでまだ生きてるんだよ!」
「おまえが死ねば、成子とやっと一緒になれるんだ。おまえなんか、邪魔なだけなんだよ、さっさと死ね!」
――ダメだ!
もしここで死んでしまったら、それこそあの下劣な男女の思うつぼじゃないか!
母の一生の苦労で築き上げた財産も、これまで積み重ねてきた研究成果も――すべてが宮新隼人のものになるなんて!
絶対に許せない。
そんなの、嫌……!
安田真紗は、ぱちりと目を見開いた。目に飛び込んできたのは、見慣れた天井だった。
鼻をつく強い消毒薬の匂いが一気に押し寄せ、胃が激しくうねる。思わずお腹を押さえ、えずくように身体を折り曲げる。
――けれど、今回は。
彼女はかすかに、安堵していた。生きていることが、ただ、それだけで嬉しかった。
「目が覚めたか?」
低くくぐもった声が、耳元にふわりと届く。
その瞬間、真紗の細い身体がびくりと震えた。背中には、冷たい汗が一気に噴き出していた。