話 1
経営危機に陥った北野家のため, 私は氷室紀夫の元へ「人質」として送られた.
しかし, 彼が愛していたのは私ではなく, 病弱な「彩世」という女だった.
暴走車が突っ込んできた時, 彼は迷わず彩世を庇った. 挙句の果てに, 私との夜を密かに撮影し, 脅しの道具にしていたことまで知ってしまう.
愛も, 家族も, 尊厳も, すべてを奪われ, 私の心は完全に死んだ.
私は彼の豪邸に火を放ち, 過去とのすべてを断ち切った.
第1章
北野美優 POV:
あの夜, 私は氷室紀夫の腕の中で, 自分が誰かのための道具に過ぎないと悟った. 彼の携帯に届いた, 見慣れない女からのメッセージが, 私を甘い幻想から叩き起こしたのだ.
「お嬢, 疲れただろう? ゆっくり休んで. 」
彼の指が私の髪を撫でる. その声はいつもより優しく, 彼の支配的な態度とは裏腹に, その瞬間だけは私が彼にとって特別な存在だと信じさせてくれた.
私は彼の胸に顔を埋める. 今日一日の, 北野家の娘としての厳しい振る舞いを忘れさせてくれる唯一の場所だった. しかし, その安らぎは長くは続かなかった.
彼の携帯が震える. 枕元に置かれた画面が, 一瞬だけ私の方を向いた. 送信元は「彩世」. メッセージの内容は, 彼の出発を告げる簡単なものではなく, もっと親密な響きを持っていた.
「そろそろ時間だ」
彼はそう言って, ゆっくりと私から体を離した. いつものように, 家族の緊急の用事だと言っていた. それが彼の「家族」の裏の仕事であることは知っていたけれど, 詳細は教えてくれなかった.
「また, 私を置いていくの? 」
声に出してしまいそうになった, 唇が震えた. 彼は私の言葉を聞いて, 小さく笑った. その笑い声には, 何の感情も含まれていないように聞こえた.
「心配するな, すぐに戻る」
彼は私の額にキスをした. そのキスは冷たく, 彼の言葉と同じくらい私を不安にさせた. 私は彼の背中を見送った.
彼が去った後, 私はすぐに彼の書斎に向かった. 私のハッキング能力は, この家に囚われた私にとって唯一の武器だった. 彼の会社「氷室コーポレーション」のサーバーに忍び込むのは容易いことだった.
「彩世…」
その名前で検索をかける. 画面に表示されたのは, 予想をはるかに超える親密なやり取りの履歴だった. それは, 私が見ていた氷室紀夫とは全く違う顔だった.
私の心臓が激しく脈打つ. 胸が締め付けられるような痛みに, 思わず息を呑んだ. 信じられない. 彼は私に, あんなにも冷たかったのに.
私は彼が彩世に向けて送ったメッセージを読んで, 震えた. 私の知っている氷室紀夫は, 感情を表に出すことをしない凍った皇帝だった. しかし, 画面の中の彼は, まるで恋人のように優しく, 気遣いに満ちていた.
「嘘だ…」
私はその場に座り込んだ. 頭の中は, 彼と彩世の親密な会話で埋め尽くされた. 私に向けられた冷たい言葉, 私には決して見せなかった優しい笑顔.
私はすぐに身支度を整えた. 彼の嘘を, この目で確かめる必要があった. 彼の会社が所有する監視カメラのネットワークに侵入し, 彼の車を追跡した.
彼の車は, 都心から少し離れた高級レストランの前で止まった. 私は隠れて, 彼が車から降りるのを待った. そして, 現れたのは, 写真で見た通りの「彩世」だった.
彼は彼女に駆け寄り, その手を優しく握り, まるで壊れ物でも扱うかのようにエスコートした. 私の心臓が, まるでガラスのように砕け散るのを感じた. 彼が私に見せたことのない, あの優しさが, 別の女に向けられている.
私は, この数ヶ月間の出来事を思い返した. 北野家が経営危機に陥り, 祖父, 北野源三郎は私を氷室紀夫の元へ送り込んだ. それは, 政略結婚とは名ばかりの, 人質同然の扱いだった.
「この娘は, お前が自由に扱っていい」
源三郎は私を氷室に引き渡す際, そう言った. 私はその言葉に反発し, 氷室を挑発した. 彼の冷酷な目を真正面から見つめ, 私は彼の怒りを買おうとした.
「お前に, 何ができる? 」
氷室は私を冷めた目で見下ろした. 私はその言葉に, 密かに燃える闘志を抱いた. 私は自分のハッキング能力を使い, 彼の会社のシステムに密かに侵入し, 小さな混乱を引き起こした. それは彼の注意を引くための, 私なりの反抗だった.
その夜, 彼は私を部屋に呼び出した.
「面白い」
彼はそう言って, 初めて私を抱きしめた. その日から, 私たちは秘密の関係を築いた.
彼は夜だけ私を「お嬢」と呼び, 私を独占した. 私はその偽りの愛の中で, 彼に深く依存していった. 彼が私を愛していると, 本気で信じ込んでいた.
私の誕生日の夜, 彼は私のもとにいなかった. その夜, 私は彼の秘密の部屋で, 彼と彩世の親密な写真を見つけた. 私はその事実を認めようとせず, 酒を飲み, 自分を麻痺させようとした.
彼が戻ってくると, 私は彼の書斎を破壊した. 感情のままに, 彼が大切にしていたものを散らかし, 壊した.
「どうした? 」
彼は私の行動を冷たい眼差しで見つめ, 何の感情も示さなかった.
「もういい…」
私はそう呟き, 全ての希望を失った. 彼の顔には, 私が求めていた後悔や悲しみは一切なかった. 私の心は, その瞬間, 完全に死んだ.
私は北野家の本家に戻った. 源三郎は, 私の突然の帰宅に驚いた顔を見せた.
「祖父様, 私は北野家との縁を切ります」
私の声は冷たく, 感情がこもっていなかった.
源三郎は眉をひそめた.
「何を言っている」
「氷室紀夫は, 北野家の重要な秘密を握っていた. そして, その秘密を使って祖父様を脅していたのね? 」
私は, 彼が隠していた過去の不正取引の記録を突きつけた.
源三郎の顔色が変わった.
「貴様…どこでそれを! 」
「私を人質として差し出したのに, 私はただの駒じゃなかった」
私は冷笑した.
「いいでしょう. 北野家との縁は切れ. しかし, お前は無一文になる」
源三郎は怒りに震えながら言った.
「結構です. ただし, 一つだけ条件があります. 私が桜田航との政略結婚を受け入れる代わりに, 財閥の所有するいくつかの海外資産を私の名義に変更してください. それと, 私の母親の形見である, あの簪は返還していただきます」
私の声は最後まで冷静だった.
源三郎は一瞬戸惑ったが, すぐにその提案を承諾した.
「美優, お前は本当に私の孫なのか…」
源三郎は私の背中にそう呟いた. 私はその言葉に耳を貸さず, 屋敷を後にした.
私は, 一人になった部屋で, 小さく嗚咽を漏らした. 氷室紀夫に裏切られたこと, そして家族に見捨てられたこと. 私の人生は, 一体何だったのだろう. 全てを失った喪失感が, 私を支配した.
その時, 部屋のドアがノックされた. メイドが, 彩世が来たと告げた. 私の心臓が, 再び激しく脈動し始めた. 今度は, 怒りと憎しみで.
「お嬢様, 菅沼彩世様がお見えです. 」
メイドの声が, 私の耳に冷たく響いた. 彩世が, この場所まで追ってきた. 私は, 全身に震えが走るのを感じた.
「なぜ, この場所に…」
私の脳裏に, 氷室紀夫の冷たい言葉が蘇った. 「彼女は病弱なんだ, 傷つけるな」彼は, 私を捨ててまで守ろうとした女. 私は, 自分の運命が, さらに深く絡み合っていくのを感じた.
話 2
北野美優 POV:
彩世は, まるで白い百合の花のように純粋な笑顔を浮かべて, 私の部屋に入ってきた. その華奢な体つきと透き通るような肌は, 見る者に保護欲を掻き立てる.
「美優さん, ごめんなさいね. 急に押しかけてしまって. 」
彼女の声はか細く, 心配そうな表情を私に向けたが, その瞳の奥には冷たい嘲笑が宿っているように感じた.
私は, 彼女の言葉に何も返さなかった. ただ, 冷めた目で彼女を見つめ返す.
源三郎は, 彩世を見ると, 表情を和らげた.
「彩世, よく来てくれた. 美優はまだ子供でな, お前のように思慮深くはないのだ. 」
源三郎は, 私には向けたことのない優しい眼差しを彩世に送っていた. まるで, 彼女こそが北野家の真の血筋であるかのように.
「源三郎様, お気遣いなく. 美優さんの気持ちも分かります. 」
彩世は謙虚にそう言った後, 源三郎に向き直った.
「あの, 源三郎様. 私の部屋は, どこになるのでしょうか? 」
その言葉は, まるで初めから, ここが自分の居場所であるかのように響いた.
源三郎は少し考えた後, 私を真っ直ぐに見た.
「美優, お前の部屋は, 彩世に譲ってやれ. お前はもう, 北野家の人間ではないのだからな. 」
その言葉は, 私の心を深く抉った. 長年住み慣れた部屋を, 何の権利もない女に奪われる.
「お断りします」
私は冷たく言い放った. 私の部屋は, 私の唯一の聖域だった. それを奪われることだけは, 許せなかった.
「貴様! 」
源三郎は怒鳴ったが, 私はもう彼を恐れてはいなかった.
「私はこの家から出て行きます. もう北野家とは一切関わりません」
私はそう言って, 部屋を飛び出した. 源三郎が何か叫んでいたが, 私の耳には届かなかった. 私はもう, この家に何の未練もなかった.
私はすぐに, 都内で最も高級なホテルにチェックインした. 最上階のスイートルームを予約し, ありったけのブランド品を買い漁った. クレジットカードの限度額など気にせず, 衝動のままに.
「美優! お前, 一体何をしているんだ! 」
数日後, 源三郎から怒鳴るような電話がかかってきた. 私のクレジットカードの請求が, 彼の元に届いたのだろう.
「祖父様との取引ですよ. 私の名義の海外資産は, まだ一部しか動かせませんから. 当面の生活費は, このクレジットカードで賄わせていただきます」
私は皮肉たっぷりにそう返した.
「貴様, この家の財産を食い潰すつもりか! 」
「ええ, そのつもりですよ. 私を人質として差し出した代償です. それに, 桜田様との結婚は, 私自身の意志ではありませんから」
私はそう言って, 電話を切った. 北野家の流動資産を根こそぎ奪い取る計画を, 私は密かに練り始めていた.
その夜, 氷室紀夫からメッセージが届いた.
「無事か? 」
たった二文字のメッセージだった. 私は冷笑した.
「ええ, お陰様で」
短い返信を送ると, すぐに既読がついたが, 返信は来なかった.
次の日の朝, 私はホテルのフロントから呼び出された. 私のクレジットカードが凍結された, というのだ.
「お客様, お支払いいただけませんか? 」
私は呆然とした. 北野家の手回しが, こんなにも早いとは.
「申し訳ございません, お支払いできません」
私はそう言うしかなかった. 結局, 私はホテルを追い出され, 身一つで路上に放り出された.
私は, 自分の携帯電話を取り出した. 誰かに助けを求めようとしたが, 私の知り合いは, 皆, 北野家の人間か, 氷室紀夫に関わる者ばかりだった. 本当に困った時, 私には誰もいない.
私は, 重い荷物を引きずりながら, 街を彷徨った. 夜風が肌を刺し, 私の心は凍えきっていた. 私は, 自分がこんなにも無力で孤独な存在だったのかと, 絶望した.
公園のベンチに座り込んでいると, 酔った男が私に近づいてきた.
「おい, 嬢ちゃん. 一人かい? 」
男の不気味な笑い声が, 夜の闇に響き渡った. 私は震え上がった.
その時だった.
「彼女に, 何をしている」
冷たい声が, 男の背後から響いた. 氷室紀夫だった. 彼は暗闇の中に, まるで影のように立っていた.
酔った男は, 氷室の威圧的な雰囲気に怯え, すぐに逃げ去った.
「…なぜ, ここに? 」
私は震える声で尋ねた.
「こんな場所で, 何をしている」
氷室は私の問いには答えず, 冷たい声で私を咎めた. 彼の目は, 私を責めるように輝いていた.
話 3
北野美優 POV:
氷室は私の返事を待たずに, 私の腕を掴んだ. 彼の指が私の肌に食い込み, 痛みを感じた. 私は彼の力に抗うことなく, 彼に引きずられるようにして車に乗せられた.
彼の行動は, 私には理解できなかった. なぜ, 私を助けに来たのか. そして, なぜ私を彼の家へと連れて行くのか.
車は, 私たちが何度か過ごした, 彼の高級マンションの前に止まった. 見慣れた景色が, 私の心を一層掻き乱した. 私は, 再び彼の支配下に戻るのかと, 絶望的な気持ちになった.
「入るぞ」
彼はそう言って, 無機質なエントランスを通り過ぎた. 私は彼の後ろを, ただ黙ってついて行った.
部屋に入ると, 私はすぐにリビングのソファに座り込んだ. 彼の部屋は, 以前と何も変わっていなかった. 冷たく, 無機質な空間. それが, 彼の本質を表しているようだった.
彼は私の隣に腰を下ろした. 彼の視線が私に向けられたが, 私は顔を上げることができなかった.
「ここに泊まっていくか? 」
彼の声は, 以前のように優しくもなく, かといって冷たくもなかった. ただ, 感情のない声だった.
「結構です」
私はすぐに答えた. 同じベッドで眠る気にはなれなかった. 彼の裏切りを, 私はまだ許していなかった.
「…そうか」
彼はそう言うと, 立ち上がった.
「客室を使え」
彼はそう言って, 私に客室の場所を示した. 私は彼の言葉に, 少しだけ安堵した. 少なくとも, 彼と同じベッドで過ごすことは避けられた.
私は客室に向かった. ドアを閉めると, 私はゆっくりと息を吐いた. 桜田航との結婚まで, あと数日. 私はこの場所から, もうすぐ離れるのだ.
翌朝, 私はゆっくりと目を覚ました. 時計を見ると, すでに午前10時を過ぎていた. 私は, 少しだけ気分が楽になっていた.
リビングに向かうと, 氷室がすでに朝食を摂っていた. 彼の前には, 新聞と淹れたてのコーヒーが置かれている. 彼は, 私が部屋に入ってきたことに気づくと, 視線を私に向けた.
「座れ」
彼はそう言って, 私の分の椅子を引いた. 私は黙って彼の向かいに座った. 朝食は, パンと卵, そしてベーコン. シンプルだが, 彼が用意したにしては珍しい.
「…彩世は, 一体誰なのですか? 」
私が口を開くと, 氷室の動きが止まった. 彼の視線が, 私に突き刺さる.
「…私の恩師の娘だ」
彼はそう答えた. その声には, 微かに感情がこもっているように聞こえた.
「それだけですか? 」
私はさらに問い詰めた. 彼の答えは, 私には納得できなかった. 恩師の娘にしては, あまりにも親密すぎる.
「彼女は, 私が守るべき人間だ. 病弱で, 家族もいない」
彼の声は, 冷たく響いた. しかし, その言葉の裏には, 彩世への深い感情が隠されているように感じた.
「だから, 私を裏切ったと? 」
私の声は震えていた. 感情が, 私を支配しようとしていた.
「彩世を傷つけるな」
氷室は私の言葉を遮り, 鋭い眼差しで私を睨みつけた. その目には, 私への警告が含まれていた.
「…面白い」
私は冷笑した. 彼の言葉は, 私にとってはただの言い訳に過ぎなかった.
「彼女は, お前とは違う. お前のように強くはない」
彼の言葉は, 私をさらに傷つけた. まるで, 私が感情を持たないロボットであるかのように.
私の心は, 完全に冷え切っていた. 彼は, 私を愛してなどいなかった. 私にとっての彼の存在は, 彼のビジネスのための道具に過ぎなかったのだ.
私は, 食事を途中で切り上げ, 客室に戻った. ドアを閉めると, 私はベッドに倒れ込んだ. 涙が, 私の頬を伝った.
その日一日, 私は部屋から一歩も出なかった. 氷室が何度か私を呼ぶ声が聞こえたが, 私は無視した. 私の心は, 彼の裏切りで深く傷ついていた.
夜になっても, 私の目は冴え渡っていた. 氷室の部屋からは, 何も音が聞こえなかった. 彼は, 彩世の元へと向かったのだろうか.
翌日の午後, 氷室が私の部屋をノックした.
「今夜, パーティーがある. 準備をしておけ」
彼の言葉に, 私は驚いた. パーティー? なぜ, 今になって.
「…分かりました」
私はそう答えた. どんなパーティーなのか, 私には想像もできなかった. しかし, 彼が私を連れて行くということは, 何らかの意味があるのだろう.
私たちは, 都心の豪華なパーティー会場に到着した. 会場には, 社交界の著名人たちが集まっており, 華やかな雰囲気に包まれていた.
「美優さん! 」
会場に入るとすぐに, 彩世が私に駆け寄ってきた. 彼女は, 私の知っている病弱な姿とは全く違い, 豪華なドレスを身に纏い, 輝いていた.
「このパーティーは, 彩世さんのための歓迎会なのよ」
彩世はそう言って, 私に満面の笑みを向けた. その言葉は, 私の心を深く抉った. 私は, 彼のパーティーに連れられてきたのではなく, 彩世の引き立て役として利用されたのだ.
私の脳裏に, 氷室の冷たい言葉が蘇った. 私はただの道具. 彼の存在は, 私にとって何の希望も与えなかった.
「あら, 美優さん? どうしたの, そんなに顔色が悪いわ」
彩世は私の顔を覗き込み, 心配そうな表情を浮かべた. その目は, 私を嘲笑っているように見えた.
「あなたこそ, よくお元気になられたこと」
私は冷笑した. 彼女の偽りの優しさに, 吐き気がした.
「氷室様のために, 早く元気にならなくちゃと思って」
彼女はそう言って, 氷室の腕に抱きついた. 氷室は, 彼女の頭を優しく撫でた. その目は, 私には向けられることのない, 優しい眼差しだった.
私の心臓は, 激しく脈打っていた. 彼の裏切りが, 私の心を深く傷つける. 私は, このパーティーで, 完全に彼に見捨てられたことを悟った.
私は, バーカウンターに向かい, 次々と酒を煽った. アルコールが, 私の心を麻痺させていく. 私は, この屈辱を忘れたかった.