1

結婚三周年記念旅行の前夜, 夫の京佑は元カノの和歌菜からの電話一本で, 私を置いて家を飛び出した.

「和歌菜は今, 大変な状況なんだ. 君には関係ないだろう! 」

彼の口から出たのは, 聞いたこともない冷たい言葉と, 私への苛立ちだった.

クリスマスの夜, 出張中のはずの京佑が, 和歌菜とその子供と公園で仲睦まじく過ごす姿をSNSで見てしまう. 問い詰める私に彼は「和歌菜は末期癌なんだ」と涙ながらに訴えた.

その言葉を信じかけた矢先, 公園で彼らと鉢合わせした私は, あまりの衝撃でその場に倒れ, お腹の子を失った.

絶望の淵で, 私は静かに誓う. これはただの裏切りではない. 私の子供を奪った彼らへの, 復讐の始まりなのだと.

第1章

田島琴莉 POV:

深夜, 寝室に響いた携帯の呼出音が, 私の心臓を激しく揺さぶった. 隣で眠っていたはずの京佑の体が, さっと跳ね起きる気配がした.

「もしもし? 」

まだ半分夢の中にいる私は, 彼の声がひどくか細く聞こえたことに気づいた. それから, 聞き慣れない女性の声が, 枕元から直接聞こえてきた気がして, 思わず身震いした.

京佑は無意識のうちにスピーカーフォンをオンにしていたらしい. 電話の向こうから, すすり泣くような声が聞こえてきた. それは, 数年前に一度だけ会ったことがある京佑の元恋人, 和歌菜の声だった.

「京佑, お願い…助けて…」

切羽詰まった, 弱々しい声だった. 私は一瞬で目が覚めた. 京佑は私の隣で, 驚きと焦りの表情を浮かべている.

彼は慌ててスピーカーフォンを切り, 携帯を耳に当てた.

「どうしたんだ? 和歌菜, 落ち着いて話せ」

彼の声は低く, しかし明らかに動揺していた. そして, すぐに口から出た言葉は私の予想を軽く超えていた.

「わかった, 今すぐ行く. 待っていろ」

私はその言葉を聞いて, 胸の奥が冷たくなった. 京佑が今夜, 私と何を約束していたのか, まるで記憶から消し去られたかのように, 彼は和歌菜の救援に向かおうとしている.

今夜は, 私と京佑にとって, とても大切な日だったはずなのに.

私は, 和歌菜という女性が, 私たちの生活にどれほど深く影を落とすことになるのか, その予感に身動きが取れなくなった.

京佑はベッドから身を起こし, 暗闇の中で手早く服を着始めた. 携帯の小さな光が, 彼の顔を青白く照らしている. その表情は, 私には見慣れないものだった. 焦り, そして, 何かを隠そうとしているような, 後ろめたい感情.

私の心臓は警鐘を鳴らしていた. まるで, これから恐ろしい何かが起こると警告しているみたいだった.

「京佑, どこへ行くの? 」

私は無意識のうちに, 彼の腕を掴んでいた. 声が震えていた.

「行かないで…お願い」

私の直感が, これはただの友人としての助け合いではないと囁いていた. 和歌菜は京佑の元恋人だ. そして, 彼女は京佑の家族とも深いつながりがある.

和歌菜が困っているというが, 彼女には実家もあるし, 他の友人だっていただろう. なぜ, よりによって, 結婚三周年記念日旅行の前夜に, よりによって私の夫に助けを求めるのか.

私の頭の中で, 疑念の渦が巻いた.

「琴莉, 放してくれ! 」

京佑の声が, 部屋に響き渡った. それは, これまで聞いたことのないような, 激しい怒りを含んだ声だった.

私の手は, 彼の腕から滑り落ちた. 彼が私に対して, こんなにも感情を露わにしたのは初めてだった. 彼の怒りに, 私は凍りついた.

「和歌菜は今, 大変な状況なんだ. 君には関係ないだろう! 」

京佑は, 私を睨みつけるように言った. その目には, 私への苛立ちと, 和歌菜を庇う明確な意志が宿っていた.

私はただ, 呆然と彼を見つめるしかなかった. いつも優しくて, 私のことを一番に考えてくれる京佑. 私の手の甲をそっと撫で, 微笑みかけてくれた彼.

その笑顔の下に, こんなにも冷酷な, 見知らぬ顔が隠されていたなんて.

「長村家 (京佑の家族) とも関わりの深い千葉家 (和歌菜の家族) の令嬢が困っているんだ. 君に, その事情がわかるわけがないだろう! 」

彼はそう言って, 私から視線を逸らした. まるで, 自分の感情を表に出したことを後悔しているかのように, すぐに表情を和らげた.

「ごめん, 琴莉. 少し感情的になってしまった」

彼は私の肩に手を置いた.

「でも, これは僕の責任なんだ. 千葉家と長村家の関係もある. 放っておくわけにはいかない」

彼の言葉は, まるで言い訳のように聞こえた. 長村家. 長村家. いつも彼の決断の背後には, 京佑の家族の存在があった. しかし, 今回の件は, それだけでは片付けられない不穏な空気が漂っていた.

「わかった, すぐ戻ってくるから. 本当に申し訳ない」

彼はそう言って, 私の額にキスをした. そのキスは, いつもよりずっと冷たかった.

私は無言で, 彼の行動を受け入れるしかなかった.

私の心は, この優しい夫の言葉を信じることができなかった. 京佑が和歌菜を助けに行く理由は, 本当に長村家のためだけなのだろうか? 彼の怒りと焦り. そして, 私に向けられた, あの見慣れない冷たい視線.

私の心の中に, 深い不安の影が落ちた.

2

田島琴莉 POV:

京佑が寝室を出ていく音を聞きながら, 私はただ, シーツを握りしめていた. ドアがゆっくりと閉まる. 彼の足音は, まるで嵐の前の静けさのように, 徐々に遠ざかっていった.

ベッドサイドの小さなランプだけが, 部屋の隅を寂しげに照らしている.

京佑の背中から伝わってきた, あの微かな焦燥感. まるで彼の心が, 私を置いて走り出しているようだった. 和歌菜が彼を呼んだ瞬間の, あの動揺. それは, 単なる旧友への義理や, 家族間のしがらみだけでは説明がつかない, もっと深い感情が絡んでいるように感じられた.

彼の心の中には, まだ和歌菜の居場所がある. いや, もしかしたら, 彼は一度も和歌菜を忘れたことなどないのかもしれない.

私は天井を見上げたまま, 目を開けていた. まぶたの裏に, 京佑と和歌菜が再会する光景が鮮やかに浮かび上がる. 彼らが互いを見つめ, 言葉を交わし, そして…

考えるのをやめた.

時計の針が, チクタクと音を立てて進むのをただ聞いている. 夜が明けていく気配がした.

私は, 自分の結婚生活が, こんなにも脆いものだったのかと自嘲した. 幸せな日々の中に, なぜこんなにも深い亀裂が隠されていたのか.

数ヶ月前, 京佑の書斎を掃除していた時のことだ.

偶然, 彼の古いパソコンのデータフォルダを見つけてしまった. 好奇心に駆られて開いてみると, そこには, 京佑と和歌菜の親密な写真がたくさん保存されていた. 大学時代のものだろうか, 二人はいつも寄り添い, 楽しそうに笑っていた.

その中でも, 私を最も打ちのめしたのは, 和歌菜が京佑に送ったであろう手書きのメッセージが写された写真だった.

薄いピンク色の便箋に, 京佑への愛情が綴られていた.

「京佑, あなたは私の全て. この先もずっと, 隣にいてね」

その言葉は, まるで私の心臓を直接掴まれたかのように, 息苦しくさせた. 京佑の, 和歌菜を見つめる眼差し. そこには, 私が知る夫とは違う, もっと深く, もっと激しい愛情が宿っていた.

その時, 私は悟った. 京佑が本当に愛していたのは, 私ではなく, 和歌菜だったのだと.

私はパソコンの電源を落とし, 何も見ていないふりをした. その日から, 私の心には, 拭い去ることのできない黒い影ができた. 京佑の優しい笑顔を見るたびに, その裏に隠された和歌菜の存在がちらついた.

今朝の出来事は, その影を, より一層濃くしただけだ.

夜が明けた. けたたましいアラームの音が, 私の意識を現実へと引き戻した. 京佑が家を出てから, 一体どれくらいの時間が経ったのだろう. 彼はまだ帰ってきていない.

携帯には, たった一通のメッセージが残されていた.

「和歌菜の容態が思わしくない. また連絡する」

簡潔な言葉に, 彼の焦りが滲んでいた. しかし, 私にはそれだけでは伝わらない別の感情も読み取れた.

京佑は, 今日が私たち夫婦にとってどれほど大切な日であるかを, 完全に忘れているようだった.

今日, 私たちは, 結婚三周年記念日旅行に出発するはずだった. 数ヶ月前から二人で計画を立て, 予約も済ませていた. 私がどれほどこの旅行を心待ちにしていたか, 彼は知っているはずだ.

私たちの旅行計画は, 京佑のたった一言で, 脆くも崩れ去った.

寂しさが, 私の胸を締め付けた. 京佑はまだ帰ってこない. 私は, 彼に電話をかけた.

何度もコール音が鳴り続ける. 焦りが募る. その時, 保留音が聞こえてきた. 京佑は電話中だった.

すぐに, 彼からメッセージが届いた.

「どうした? 」

たった二文字. その簡潔さに, 私の怒りが爆発しそうになった.

「今日の旅行, どうするの? 」

私は震える指でメッセージを打った. そして, 数分待ったが, 彼からの返信はなかった.

私は, もう待てなかった. 自分でタクシーを呼び, 空港へと向かうことにした.

タクシーが空港に近づいた頃, 私の携帯が鳴った. 京佑からだった.

「琴莉, ごめん! 今, 気づいたよ. 本当に申し訳ない」

彼の声は, 昨夜よりもずっと疲弊しているように聞こえた.

「和歌菜が, 昨夜からずっと意識を失っていて…」

彼はそう言って, 言葉を詰まらせた.

「今から, 君のもとへ向かっても, 間に合いそうにない. 凛々 (私の親友) に連絡して, 一緒に行ってもらえないか? 」

彼の提案に, 私の心はさらに冷え切った. 彼は, 私を友人に託して, 和歌菜のそばに残るつもりなのだ.

「もういい」

私はそう言って, 電話を切った. 友人には, こんな情けない姿を見せたくない.

私は, もうどうすればいいのか分からなかった.

目の奥が熱くなり, 涙が溢れそうになった. こんな状況で, どうやって凛々に事情を説明すればいいのか. 私がどれほど惨めな状況にいるのか, 彼女に知られたくなかった.

京佑は, 本当に和歌菜が瀕死の状態だと信じているのだろうか? それとも, これはただの, 彼の浮気を隠すための巧妙な言い訳なのだろうか?

3

田島琴莉 POV:

空港から, 私はそのまま最寄りの総合病院へと向かった. 旅行はキャンセルし, 今朝の体調不良で予約していた検査を受けるためだ.

受付に着いた時には, 予約時間はすでに過ぎていた. しかし, 院内は人でごった返しており, 長い列がいくつもできていた.

私は, 疲れた体を引きずるように, 適当な列の最後尾に並んだ.

待合室の椅子に座る夫婦やカップルが, 楽しそうに談笑しているのが目に入った. 彼らは互いの手を握り合ったり, 心配そうに相手の顔を覗き込んだりしている. 私は, その光景を眺めながら, 深くため息をついた.

私の隣には, 誰もいない.

しばらく立っていると, 足の裏がじんじんと痛くなってきた. 昨夜からの不眠と, 精神的な疲労が, 体を蝕んでいた. 胃のあたりがムカムカして, ひどい吐き気が込み上げてくる. トイレに行きたかったが, 列は一向に進む気配がない.

こんな場所で吐くわけにはいかない. 私は必死で吐き気をこらえた.

その時, 隣にいた男性が, 私に声をかけてきた.

「大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」

見上げると, 整った顔立ちの男性が, 心配そうに私を見ていた. どこかで会ったことがあるような気がした.

「もしよかったら, 僕が代わりに並んでいましょうか? 少し休んできた方がいいですよ」

彼の優しい言葉に, 私は思わず涙腺が緩みそうになった.

「ありがとうございます. 助かります」

私はすぐにトイレへと向かった. 吐き気は収まったものの, 体は鉛のように重かった.

受付に戻ると, 先ほどの男性はすでにいなかった. 彼の家族の診察が終わったのだろう.

代わりに, 彼の連れ合いの女性が, 私に小さな紙袋を差し出してきた.

「これ, よかったらどうぞ. さっきの男性が, あなたにって」

中には, 温かいお茶と, 小さなサンドイッチが入っていた. 私は, 感謝の気持ちを込めて, 深く頭を下げた.

「ありがとうございます. 本当に助かります」

「いえいえ. 妊婦さんは無理しちゃいけませんよ. 特に, つわりがひどい時は, 無理せず休むのが一番です. 温かい飲み物と, 少し何か口に入れると, 楽になりますよ」

彼女の言葉に, 私はハッとした. 妊婦. そうだ, 私は今, 京佑の子を宿している.

「あの…旦那さんは? 」

彼女は, 京佑が一緒にいないことを不思議そうに尋ねた.

私は, 曖昧な笑顔を浮かべた. どう説明すればいいのだろう.

「夫は…急な仕事で, どうしても外せない用事があるんです. 元々の知り合いが, とても大変な状況に陥ってしまって」

そう言うのが精一杯だった.

彼女は, 私の言葉を聞いて, 眉をひそめた.

「急な用事って, 奥さんがこんな時に…? 妊婦さんを一人で病院に行かせるなんて, ちょっと理解に苦しみますね. どんなに大切な知り合いでも, 奥さんより優先することなんて, ありますか? 」

彼女の言葉が, 私の心に深く突き刺さった. 私の口から出た言葉は, 彼にとってただの言い訳に過ぎなかった.

「その知り合いの方, よほど大変なんですね. でも, ご主人がそこまで心配するなんて…もしかして, その方とご主人は, 何か特別な関係なんですか? 」

彼女の真っ直ぐな問いかけに, 私の心臓が大きく跳ねた. 鋭い指摘に, 私は言葉を失った.

「あなた, まさか…」

彼女は, 何かを察したように, 私の顔をじっと見つめた. その時, 隣にいた男性が, 彼女の腕を軽く叩いた.

「もう行こう. 大丈夫? 検査, 終わった? 」

男性は, 私に軽く会釈をすると, 彼女の手を引いて立ち去った.

彼らの背中を見送りながら, 私の心には, 言いようのない後悔の念が押し寄せた.

京佑は, なぜ私をこんなに傷つけるのだろう. 彼が本当に大切にすべきものは何なのか. 私と, 私たちの赤ちゃんのことではないのか.

私の目からは, 大粒の涙が溢れ出した. こんなところで泣くなんて, みっともない. 私は, 必死で涙をこらえた.

京佑. あなたは, 一体何を考えているの?

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奪われた子供と妻の決意

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