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結婚式当日、家族は私の「繊細な神経」を心配し、婚約者の健司は「君はただ綺麗にしてればいい」と言った。何年もの間、彼らは私を壊れやすい人形のように、管理すべき問題児として扱ってきた。

式の開始まで一時間。忘れ去られたベビーモニターから、彼らの声が聞こえてきた。私のシャンパンにこっそり混ぜる予定の、精神安定剤についての相談だった。

目的は、私の「ヒステリー」を鎮めるだけじゃない。

式を無事に乗り切らせた後、「感動のあまり」という名目で私をベッドに送り込むため。

私が部屋に消えた瞬間、ウェディング用の装飾は隠していた「誕生日おめでとう」の横断幕に差し替えられ、私の披露宴は甥っ子のための豪華な誕生日パーティーへと姿を変える。私の人生そのものが、私が招かれてすらいない祝宴のための、邪魔な前座に過ぎなかったのだ。

私が「誰にも相手にされていない」と感じるのは被害妄想だと、彼らはいつも言った。今、私は恐ろしい真実を知った。彼らは私を無視していただけじゃない。私の人生から、私という存在を積極的に消し去ろうと画策していたのだ。

でも、亡くなった祖母が、私に最後の贈り物を遺してくれていた。脱出口を。

桐山玲という男の名刺。名前の下には「常識外れの解決策」と印刷されている。

私はクリスタルの花瓶を叩き割り、裸足にシルクのローブ一枚で五つ星ホテルのスイートを飛び出した。自分の人生に背を向け、後始末は彼らに押し付けて。唯一の目的地は、その名刺に書かれた住所だけだった。

第1章

ブライズルームの静寂は、今まで聞いたどんな音よりも、大きく私の耳に響いていた。それは重く、期待に満ちた沈黙。部屋に充満する千本もの白百合のむせ返るような香りと、微かに鼻をつくヘアスプレーの鋭い匂いが混じり合っていた。グランド・ヴェール東京の床から天井まである壮大な窓の外では、街が生命のざわめきに満ちているというのに、この部屋だけは、時間がシロップのようにどろりと引き伸ばされていた。

金縁の姿見の前に立つ私は、まるで知らない誰かだった。初めて買った中古車よりも高価なドレスを身にまとって。シルクの生地は重く、液体のようにひんやりと肌を滑り、その緻密なビーズ細工は光を受けて、無数の小さな虹の欠片へと砕けていた。完璧な花嫁のための、完璧なドレス。問題は、私が完璧とは程遠い気分でいることだった。

(息をして、美咲。ただ、息をするのよ)

混乱した頭の中で、必死の囁きが聞こえる。鏡の中の私は、巧みに施されたメイクの下で青ざめ、目を見開いていた。心臓が肋骨に激しく打ちつけられる。骨とレースの檻に閉じ込められた、狂った鳥のように。人生で最高に幸せな日になるはずだった。誰もがそう言っていた。母も、婚約者の健司も、彼の完璧な妹の伊織さんも。彼らの言葉は、磨き上げられた滑らかな石のようだった。私の不安という荒れ狂う水面へと、一つ、また一つと投げ込まれていく。

「息をのむほど綺麗よ、あなた。本当に、夢のよう」

母の恵子が、鳩色のシフォンドレスを風にそよがせながら部屋に入ってきた。シャネルの5番と、静かな失望の香りがした。その微笑みは、決して瞳までは届かない。もう何年も、私を見るときはいつもそうだった。

完璧に手入れされた爪先を持つ母の冷たい指が、私のこめかみ近くに落ちた髪を一筋、直した。慰めるための仕草のはずが、まるで査定のように感じられた。商品を売りに出す前の、最終品質チェック。

(怯まないで。彼女の思い通りになってるって見せないで)

「ありがとう、お母さん」

か細く、弱々しい声で、私はなんとかそう言った。

「緊張してるだけよ、大丈夫」

母はそう言って、私の肩越しに鏡に映る自分自身の姿をちらりと見た。

「花嫁はみんなそうなるものよ。リラックスしなさい。婚約パーティーの二の舞はごめんだから」

私は顔をしかめた。婚約パーティー。大勢の人と、皆からの期待という息苦しい重圧に耐えきれず、私はパニック発作を起こした。健司はそれを「チャーミングなちょっとした動揺」と呼び、母は「恥さらし」と言った。二人は私の「繊細な神経」を、まるで私が自分勝手に彼らに押し付けている、慢性的で不治の病であるかのように語った。

健司の妹であり、私の家族がまるで太陽のように周りを回っている伊織さんが、母の後ろからふわりと入ってきた。彼女は私の正反対の存在だった。気負いのない自信、輝くような美しさ、そして家族中のアイドルである天使のような男の子、蓮くんの母親。彼女はシャンパングラスを手に、明るく、そして哀れみに満ちた笑みを浮かべていた。

「美咲ちゃん、素敵よ」

蜂蜜に毒を混ぜたような声で、彼女はさえずった。

「健司さんもすごく楽しみにしてる。もう待ちきれないって」

彼女の視線が私のドレス、髪、顔をなめるように見つめ、私はいつもの、あの焼けつくような劣等感に襲われた。彼女こそ、母がずっと望んでいた娘だった。「動揺」なんて起こさないタイプの女。

「シャンパン、持ってきたわ」

彼女はフルートグラスを差し出した。泡が陽気に踊っている。

「その繊細な神経を、落ち着かせるためにね」

まただ。その言葉。頭を撫でてあやすような、見下した言葉。

母が代わりにグラスを受け取った。

「まだよ、伊織さん。顔が赤くなったら困るわ」

母は私に向き直った。

「さあ、私はコーディネーターと最終確認をしてくるわ。伊織さん、美咲についていてあげて。彼女が…取り乱さないように」

ドアがカチリと閉まり、私は香水の匂いが充満する息苦しい静寂の中、伊織さんと二人きりで残された。鏡越しに彼女が私を見ているのがわかる。

「全部、本当に完璧にいくわよ」

彼女は共犯者のような口調で言った。

「今日が終われば、やっと何もかも落ち着くわ。来週は蓮の誕生日をちゃんとお祝いできるし。お母様、メインのボールルームを使いたいって言ってたわよ」

胃がねじれた。私の披露宴は、メインのボールルームで行われる。彼女は、もう飾り付けを変える計画を立てているとでも言うのだろうか?

「私の結婚式は、今日よ、伊織さん」

思ったより鋭い声が出た。

彼女はクスクスと笑った。その鈴を転がすような声が、私のささくれた神経に障った。

「もちろんよ、馬鹿ね。私が言いたいのは…ほら、この大騒ぎが終わればってこと。健司さん、全部を管理しようとして、すごくストレス溜めてたから。あなたのこと、どれだけ心配してるか知ってるでしょ」

(私を管理する。彼は私を管理することを心配している)

その言葉が頭の中で響いた。それが私。プロジェクト。管理されるべき問題。健司はパートナーと結婚するのではない。棚に飾っておく必要のある、美しくて壊れやすい人形を手に入れるのだ。

その時、健司本人がドアを押し開けた。その顔には、無理に作った陽気な表情が張り付いていた。タキシード姿はハンサムで、黒髪は完璧に整えられている。だが、彼の顎はこわばり、目は部屋をざっと見渡してから、私の上に落ち着いた。

「僕の美しい花嫁だ」

その言葉は、練習してきたかのように聞こえた。彼はやって来て私の頬にキスをした。乾いた、短いキス。高級なコロンと、その下に隠れたストレス性の汗の匂いが微かにした。

「伊集院夫人になる準備はできたかい?」

「健司さん」

私は震える声で話し始めた。

「伊織さんが言ってたの…ボールルームのこと…蓮くんのパーティーのためにって」

彼の笑顔が一瞬、揺らいだ。苛立ちの光が顔をよぎり、すぐに滑らかに消された。彼は伊織さんを鋭く睨んだが、彼女は無邪気な顔で肩をすくめるだけだった。

彼は私の両手を取った。氷のように冷たい私の指。

「美咲、やめてくれ。今日だけは。君は何でもないことで興奮しすぎてる」

「何でもなくないわ」

必死の思いで、言葉が堰を切ったように溢れ出た。

「みんなが私を素通りしていくみたい。この一日が、ただ…乗り越えるべき障害みたいに感じるの」

「被害妄想だよ」

彼の声は、私が「面倒」な時に使う、低く、なだめるような口調に変わった。

「君は神経過敏になってる。ストレスのせいだ。どうしていつも物事を難しくするんだ、ハニー?今日は僕たちのための日のはずだろう?」

ガスライティング。彼の得意技だ。私の純粋な感情を非難へと捻じ曲げ、私を自分の物語の悪役にする。私の懸念は正当なものではなく、彼の完璧な一日にとって不都合なものなのだ。

彼は私の手を、少し強すぎる力で握りしめた。

「ただ笑って、綺麗にして、バージンロードを歩いてくれ。僕のために、それができるかい?」

私は虚ろに頷いた。闘う気力は消え失せ、いつもの空虚な痛みが取って代わった。彼は私の額にキスをして去っていった。彼のコロンの香りと、私を退ける言葉だけを空中に残して。

伊織さんは最後に勝ち誇ったような笑みを私に向け、彼の後を追った。

「祭壇で会いましょう」

彼女は甲高い声で言った。

再び一人になり、静寂が前よりも重くのしかかってきた。涙が目の端に滲み、私はそれを必死に瞬きで押し戻した。メイクアップアーティストの丹念な仕事を台無しにするわけにはいかない。それが私の唯一の仕事なのだから。綺麗でいること。

化粧台の上に置かれた、小さなビーズのクラッチバッグに目が留まった。その中には、今日、唯一本当に私のものだと感じられるものが入っている。祖母からもらった、小さな銀のロケット。祖母だけが、私を本当に見てくれていた。壊れやすい人形としてではなく、一人の人間として。彼女は二年前に亡くなり、その喪失感は今も生々しい傷口として残っている。

私は不器用な指で留め金を探った。ない。冷たく鋭いパニックが私を貫いた。私はバッグの中身をシルクの長椅子の上にぶちまけた。口紅、ティッシュ、コンパクトミラー…でも、ロケットはない。

どこに置いたんだろう?パッキングしたことは覚えている。大切に保管するために、彼女が遺してくれた小さなアンティークの木箱に入れたはずだ。その箱は、私の旅行バッグに入れた。

私はシルクのローブを翻し、クローゼットに駆け寄った。バッグを見つけ、小さな杉の箱を取り出す。馴染みのある、心安らぐ木の香りが鼻腔を満たした。祖母の箱。この不安の渦巻く海の中での、私の錨だった。

蓋を開けた。ロケットはそこにはなかった。心臓が沈む。しかし、別のものがあった。ベルベットの内張りの下、今まで一度も見たことのなかった場所に、隠しコンパートメントがあった。震える指で、それをこじ開けた。

中には、色褪せたシルクの上に、一枚の、黒いビジネスカードが置かれていた。重厚なマットブラックの紙に、厳格なシルバーのフォントで文字が刻まれている。

「桐山 玲。桐山インダストリー。常識外れの解決策」

その下には、小さく折りたたまれたメモ用紙があった。インクは薄れているが、その筆跡は間違いなく祖母のものだった。彼女の力強く、優雅な文字は、幸せだった頃の亡霊のようだった。

震える手で、それを開いた。メッセージは短かった。何年もの時を超えて投げられた、一本の命綱。

「あなたが、自分自身を選ぶ準備ができた時のために」

熱い涙が一粒こぼれ落ち、カードの上に落ちて、その威圧的な名前を滲ませた。桐山玲。彼が誰なのかは知らない。でも、祖母は知っていた。そして、私のためにこれを遺してくれた。脱出口を。

その考えは、恐ろしくもあり、同時に exhilarating であった。自分自身を選ぶ。今日一日、絶望以外の感情を初めて感じた。それは、息苦しい暗闇の中に灯った、小さく、危険な火花だった。希望の光。

2

火花は燃え上がった。私の上に覆いかぶさっていた諦めの霧を、激しく、浄化する炎となって焼き尽くした。「自分自身を選びなさい」。祖母の言葉は命令であり、私が今まで必要としていることさえ知らなかった許可証だった。しかし、どうやって?結婚式は一時間もしないうちに始まる。巨大な機械は動き出しており、私はただ、促された時に回ることを期待されている歯車に過ぎない。

スイートルームを見回し、閉じ込められているように感じた。暖炉の上の百合は、その葬式のような純白さで私を嘲笑っているかのようだ。鏡の中の白いドレスは、美しい死装束だった。私には証拠が必要だった。どんな迷いも、これからしようとしていることに対する罪悪感のかけらも打ち砕くような、否定しようのない理由が。

そして、思い出した。

ベビーモニター。

先週、伊織さんが用事を済ませる間、息子の蓮くんを私のマンションに連れてきた。彼は風邪から回復期で、私は予備の部屋で彼が昼寝から目覚めた時に聞こえるように、古いモニターを設置したのだ。結婚式の準備の慌ただしさの中で、私はそのことをすっかり忘れていた。親機は旅行バッグに放り込んだが、もう一方の子機、つまり送信機は、母と健司、そして伊織さんが今集まっている隣の居間の暖炉の上、写真立ての後ろに隠されたまま、まだコンセントに繋がっているはずだ。

息が止まった。無謀で、絶望的な賭けだった。

私は静かに、こっそりと動いた。バッグに忍び寄り、心臓が胸の中で狂ったようにリズムを刻む。指が受信機の冷たいプラスチックに触れた。スイッチを入れると、静電気の音が鳴り響いた。音量を囁き声ほどに下げ、スピーカーを耳に押し当てた。

静電気がパチパチと鳴り、そしてクリアになった。声が聞こえてきた。歪んでいるが、はっきりと。母の声だ。

「…本当に量は大丈夫なの、健司さん?彼女を廃人みたいにしたいわけじゃないのよ。ただ…扱いやすく。話し合った通りに」

肺から空気が苦痛と共に抜け出た。「量」?

健司の声が、苛立ちで張り詰めていた。

「もちろん大丈夫だ。軽い精神安定剤だよ。医者も完全に安全だと言っていた。彼女のヒステリーを少し和らげるだけだ。式の前のシャンパンに入れる。彼女はただ泡のせいでフワフワするんだと思うだろう。披露宴が始まる頃には眠くなって、ベッドに連れて行ける」

「ヒステリー」「精神安定剤」「ベッドに連れて行く」。言葉は冷たく、臨床的で、全くもって非道だった。彼らは私のことを話している。私の結婚式の日に、私に薬を盛る計画を立てていたのだ。

伊織さんの声が、興奮を帯びて割り込んできた。

「それでケーキは?ケータリングには確認した?『蓮くん、お誕生日おめでとう』の横断幕は、メインステージの花の飾りの後ろに隠してあるのよね?」

「全て手配済みだ、伊織」

健司は疲れたようにため息をついた。

「美咲が『感動のあまり』体調を崩して退席したとアナウンスした瞬間、スタッフが全てを切り替える。彼女の退屈な披露宴は、お前の息子の素晴らしい五歳の誕生日パーティーになる。一回の料金で二つのイベントだ。効率的だろう」

効率的。

その言葉は、物理的な打撃のような力で私を打ちのめした。私の人生、私の愛、私の結婚――それは全て、冷酷な効率性で管理されるべき、不都合な取引に過ぎなかった。彼らは私を素通りしていただけではない。私の祝宴から、私を積極的に消し去ろうと画策していたのだ。その計算された残酷さ、息をのむほどの傲慢さが、彼らが知っていると思っていた、従順で壊れやすい美咲の最後の名残を粉々に打ち砕いた。

純粋で、混じりけのない、白熱した怒りが血管を駆け巡った。それは異質な感覚で、力強く、恐ろしいほどに澄み切っていた。何年もの間、私の感情は不安と自己不信の絡み合った混乱だった。これは違った。これは、明晰さだった。

サイドテーブルの上の、背の高いクリスタルの百合の花瓶に視線が釘付けになった。考える間もなく、私の手が伸び、それを床に叩きつけた。

爆発的な破壊音。クリスタルが床の大理石にぶつかり、砕け散る。水と花が、高価な絨毯の上に飛び散った。それは、今日一日で私がした最も決定的で、正直な行動だった。

隣の部屋から叫び声と、椅子が引かれる音が聞こえた。陽動だ。時間は数秒しかない。

アドレナリンが血の中で燃え盛っていた。私は重いベールを髪から引きちぎり、ピンが複雑なアップスタイルを引き裂いた。祖母の箱を掴む。滑らかな木の手触りが、震える手の中で確かな現実だった。ビジネスカードが、私の北極星だった。

ドレスは牢獄だ。これでは走れない。朝、ホテルに着てきたシンプルなレギンスとキャミソールが椅子の上に脱ぎ捨てられているのが目に入った。その上に、先ほどまで着ていたシルクのローブを羽織った。薄っぺらで不十分だが、それは自由だった。

化粧台の上には、私のスマートフォンが、繋がりと義務を象徴する滑らかな黒い長方形として横たわっていた。私はそれを残した。全てを断ち切るのだ。私の財布、靴、伊集院美咲となるはずだった私のアイデンティティ。全て、消え去った。

スイートのドアは塞がれるだろう。彼らが来る。私は振り返り、カーテンに半分隠れた、今まで気づかなかった狭いドアを見つけた。従業員用の出口だ。

私はそれをこじ開けた。埃と業務用洗剤の匂いがする、薄暗く狭い廊下に出た。コンクリートが裸足の下で冷たく、ざらざらしていた。振り返らなかった。私は走った。

幸運にも、従業員用エレベーターは空だった。低い唸りを立てて下降し、ペントハウス階の金色の檻から私を運び去っていく。その時間は永遠のように感じられた。通り過ぎる各階で、ドアが開き、健司の怒りに満ちた顔が見えるのではないかと身構えた。しかし、ドアは開かなかった。

エレベーターは、ホテルの賑やかで広大なロビーへと開いた。一瞬、私は凍りついた。シルクのローブとレギンス姿、髪は乱れ、裸足で、小さな木箱を胸に抱きしめている女。私は見世物だった。人々がじっと見つめる。ベルボーイが立ち止まる。シャネルのスーツを着た女性が、完璧に整えられた眉を上げた。

気にしなかった。回転ドアを押し開け、東京の冷たく湿った空気の中へ出た。街の音――交通の音、サイレン、無数の会話のざわめき――が一度に私を襲った。細かい霧雨が降り始め、私の髪とローブにまとわりついた。目に入った最初のタクシーを拾う。黄色い車体が、脱出の灯台のように見えた。

「お客さん、どちらまで?」

運転手はバックミラー越しに私を見つけ、好奇心と心配が入り混じった表情で尋ねた。

私はまだ手に握りしめているビジネスカードを見下ろした。銀色の文字が、タクシーの薄暗い光の中で輝いているように見えた。

「桐山インダストリーまで」

私の声はかすれていたが、しっかりしていた。

「できるだけ速くお願いします」

雨に濡れた窓と信号機の光が流れる中、ドライブはあっという間だった。祖母がいつも持っているようにと強く言っていた、杉の箱の内張りに隠された緊急用の一万円札で運転手に支払った。

桐山インダストリーはビルではなかった。それは一つの声明だった。灰色の東京の空を突き刺し、雲を削る、滑らかな黒いガラスのモノリス。それは力と威圧感を放っていた。一瞬、私の勇気が揺らいだ。私は何をしているんだろう?これは狂気の沙汰だ。

しかし、母の声、健司の何気ない残酷さの記憶が、私を前に進ませた。私にはもう失うものは何もなかった。

ロビーは大理石と鋼鉄の大聖堂で、静まり返り、冷たかった。鋭い黒髪のボブの、厳格そうな受付係が、私が近づくと顔を上げ、私の姿に信じられないというように目を見開いた。

「何かご用でしょうか?」

彼女の声には、非難の色が滲んでいた。

「桐山玲さんにお会いしに来ました」

私は顎を高く上げて言った。

「アポイントメントはございますか?」

「いいえ」

私は言った。

「ですが、緊急です」

「桐山はアポイントメントのない方とはお会いしません」

彼女の口調は最終通告のようだった。彼女はすでに電話に手を伸ばしており、おそらく警備を呼ぶつもりだろう。

止められるわけにはいかない。今さら。彼女の後ろにエレベーターの列が見え、そのうちの一つのドアが閉まりかけていた。私は走った。

「お客様、そちらへは行けません!」

彼女の叫び声が、広大な空間に響き渡った。

私は閉まりゆくドアの間を、間一髪で滑り込んだ。ボタンをざっと見て、一番上にある、シンプルでエレガントな「P」の文字、ペントハウスを示すボタンに目が留まった。私はそれを押した。

エレベーターは不気味な静寂の中を上昇し、磨かれた鋼鉄の壁に映る私の姿は、幽霊のようで、狂気に満ちた目をしていた。ドアが開くと、そこは広々としたミニマルな受付エリアだった。大きなデスクに座っていた若い男性、おそらく秘書だろう、が顔を上げ、私が彼の横を通り過ぎて重厚な両開きのドアに向かうのを見て、驚いたように立ち上がった。

「失礼ですが!そこには入れません!」

彼は叫んだが、私は無視した。重いドアを押し開け、中へ入った。

オフィスは広大で、雨に濡れた街のパノラマビューが広がっていた。数人の男たちが、高価なダークスーツに身を包み、巨大なマホガニーの会議テーブルを囲んで座っていた。テーブルの主賓席には、桐山玲としか思えない男が座っていた。

彼は彼のビルよりもさらに威圧的だった。背が高く、引き締まった体つきで、体にぴったりと合ったチャコールグレーのスーツを着こなしていた。黒髪は短く、冷酷なほどに整えられている。その顔は鋭い角度と厳しい線で構成され、表情は冷たく、抑制された力の仮面だった。彼は驚いても怒ってもいないように見えた。ただ…興味をそそられているように見えた。

全ての会話が止まった。部屋中の全ての目が、私に注がれていた。完全な沈黙。

私はまっすぐテーブルの主賓席に向かって歩いた。裸足が、豪華なダークカーペットの上を音もなく進む。私の手は震えることなく、彼の前の磨かれたマホガニーの表面に、祖母のビジネスカードを叩きつけた。その音は、静かな部屋に鋭く響き渡った。

嵐の雲のような色の彼の瞳が、カードから上がり、私の目と合った。その瞳は知的で、計算高く、そして全く読み取れなかった。

「祖母はあなたのことを『脱出口』と呼んでいました」

私の声は、自分でも驚くほど澄み切って響いた。

「私は消えたい。そして、私の古い人生を焼き尽くしたいんです」

桐山玲は動かなかった。彼は話さなかった。ただ私を見ていた。その視線は強烈で、まるで私の絶望と怒りの全ての層を剥がし、その下で動く機械を見ているかのようだった。長く、緊張した瞬間が過ぎた。そして、彼の口角がぴくりと動き、ほんのかすかな笑みが浮かんだ。

3

桐山玲はもうしばらく私の視線を捉えていた。それはどんな言葉による尋問よりも徹底的な、静かな査定だった。部屋の空気は、他の男たちの呆然とした沈黙で重苦しかった。私の背中に突き刺さる彼らの視線を感じる。私の乱入に対する衝撃と非難が入り混じった視線だ。聞こえるのは、狂ったように打つ私の心臓の音と、彼の後ろの広大な窓に打ちつける雨の穏やかでリズミカルな音だけだった。

そして、彼は手首をかすかに、ほとんど気づかれないほど動かして、彼らを下がらせた。

「諸君」

彼の声は低く、響き渡るバリトンで、即座の服従を命じた。

「今日はここまでだ。後日、私のオフィスから改めて連絡させる」

抗議の声は上がらなかった。スーツ姿の男たちは静かに椅子を床から引き、手際よく、控えめな動きで書類をまとめた。彼らは部屋から出て行く際、まるで私が起爆を恐れる地雷であるかのように、慎重に私から視線を逸らした。外のオフィスにいた若い秘書が、不安そうな表情でドアのそばに佇んでいた。桐山が彼に短く頷くと、彼もまた姿を消し、重いドアを静かに、しかし決定的に閉めた。

私たちは二人きりになった。

今降りてきた静寂は、先ほどとは違っていた。もはや公然とした、批判的なものではなく、私的で、強烈に集中したものだった。それは私たちの間に張り詰め、可能性を秘めた一本のワイヤーのようだった。

ついに彼が沈黙を破った。その嵐のような灰色の瞳は、私の顔から決して離れなかった。

「君の祖母は素晴らしい女性だった。抜け目がなく、そして味方を選ぶセンスも抜群だった」

彼は自分のデスクの向かいの椅子を指差した。

「座りなさい、ミス…?」

「美咲です」

アドレナリンが引き始め、その後に震えが残る中、私の声は少し震えた。

「小林美咲」

私はしなやかな革の椅子に沈み込んだ。それは馬鹿げたほど快適で、私の中で渦巻く混乱とは対照的だった。オフィスは古い革と高級なスコッチ、そしてもう一つ、彼独特の清潔で男性的な香りがした。

彼は自分の椅子にもたれかかり、冷静な権威の象徴そのものだった。

「全て話しなさい、小林美咲。何もかも、包み隠さず」

だから私は話した。屈辱、裏切り、そして怒りの奔流となって、言葉が溢れ出た。「繊細な神経」のこと、絶え間ないガスライティング、家族や婚約者が私をまるで負債のように扱っていたこと。伊織さんと誕生日パーティーのこと、そして最後に、声をつまらせながら、ベビーモニターと精神安定剤のことを話した。

私のとりとめのない告白の間中、彼は耳を傾けていた。彼は口を挟まなかった。ありきたりの慰めや同情の言葉も口にしなかった。彼の顔は石のように読み取れない仮面のままだったが、その注意は絶対的だった。彼は同じ計算高い鋭さで私を見つめ、私の痛みのあらゆる詳細、あらゆるニュアンスを吸収していた。それは不気味だったが、同時に、今日一日で初めて本当に話を聞いてもらえたと感じた瞬間でもあった。

私が話し終えた時、喉はひりひりし、感情的な消耗で震えていた。静寂が戻り、私の荒い呼吸だけがそれを満たした。

「伊集院家か」

彼はその名前を、まるで舌の上で毒を味わうかのように言った。

「健司の父親、伊集院剛三は伊集院ホールディングスのトップだ。東京湾岸の再開発プロジェクトを巡って、私の最大のライバルでもある」

私は顔を上げた。

「え?」

彼の目に、暗く、捕食者のような光が宿った。

「君の家族は、美咲、桐山インダストリーをこの街で最も強力な存在にするであろう取引を阻止しようとしている。そして、彼らの切り札は、プロジェクトの主要信託における株式ブロックだ。その株式は、君の相続財産に対する支配権を通じてしか手に入れられない」

全てが、吐き気を催すほどの明瞭さで繋がった。私の相続財産。祖母が私に残してくれた、三十歳の誕生日か結婚するまで信託されているお金。これは単に私を支配することだけではなかった。私のお金を支配するためだったのだ。健司との結婚は、彼らにとってビジネス取引であり、桐山玲と戦うために必要な資金を解き放つための手段だった。

「彼らは私の名前が必要だったのね」

私は囁いた。

「彼らは君の名前が必要だった」

彼は平坦で硬い声で肯定した。

「そして私は、それを彼らから奪い取りたい」

彼は身を乗り出し、磨かれたデスクに前腕を置いた。獲物に迫る捕食者のようだった。

「君は脱出口を求めてここに来た。私は君に武器を提案しよう。冷徹で、取引的な契約だ。感情も、幻想もない。便宜上の結婚だ」

私は言葉を失い、彼を見つめた。

「私は君に私の名前を与えよう」

彼は低く、催眠術のような囁きで続けた。

「桐山という名前は、この街では重みを持つ。力を持つ。それがあれば、君は私の保護下に入る。誰も君に手出しはできなくなる。君が望んだように、古い人生から消えるだけでなく、それが燃え尽きるのを見届けるためのリソースを与えよう。伊集院家の財政的、社会的な破滅は、私が個人的に保証する」

復讐の約束は、魅惑的な毒だった。私はそれを貪るように飲み干した。

「その見返りに」

彼は私の目を捉えながら言った。

「君は私が必要なものを与える。君は桐山夫人になる。私の妻として、君の株式、君の相続財産は、私の利益と結びつく。伊集院家は切り札を失い、私が勝つ。それだけのことだ」

頭が混乱した。この男と結婚する?この冷たく、威圧的な見知らぬ男と?狂気の沙汰だ。一つの檻から別の檻へ移るようなものだ。私を彼の企業戦争の駒としか見ていない男に、自分を縛り付けることになる。

しかし、他にどんな選択肢がある?戻る?健司と母のもとへ、薬を盛られ、従順に這い戻る?彼らに勝たせる?

絶対に嫌だ。

先ほどの怒りが、熱く、安定した炎となって戻ってきた。これはチャンスだ。逃げるだけでなく、反撃するための。祖母のメモが心の中で響いた。「あなたが、自分自身を選ぶ準備ができた時のために」。これは選択だ。恐ろしく、無謀で、力強い選択。

「わかったわ」

かろうじて聞こえるほどの声で、私は息を吐いた。

彼は眉を上げた。

「それでいいのか?」

「私にはもう失うものは何もないから」

私の声は力を増した。

「彼らはもう全てを奪っていった。ええ。同意します」

ゆっくりとした、満足げな笑みが彼の唇に浮かんだ。それは彼の顔つきを変え、彼を危険で、破壊的なほどハンサムに見せた。

「いいだろう」

彼はインターホンのボタンを押した。

「サラ、私の個人法務チームと戸籍係を至急オフィスに呼んでくれ」

その後の一時間は、非現実的な whirlwind だった。同じように鋭いスーツを着た男女二人の弁護士が、書類の束を持って現れた。彼らは婚前契約書について、てきぱきとしたプロフェッショナルな口調で説明した。それは鉄壁だった。私は彼の保護と寛大な生活費を受け取る権利があるが、彼の財産、桐山インダストリーは彼個人のものであり、私のものではない。しかし、私自身の相続財産は、桐山家の法的傘下で、彼を含め誰からも守られ、完全に私が管理できる。それは公正以上のもので、寛大だった。

私は彼らが指示した場所に署名した。彼の力強く、自信に満ちた署名の隣に、私の署名は蜘蛛の巣のように、見慣れない走り書きとなった。桐山に怯えきっているように見える、小柄で慌てふためいた戸籍係が、婚姻届を正式に証人として受理した。

こうして、自分の結婚式から逃げ出して二時間も経たないうちに、私は既婚者となった。

桐山は、新品の滑らかな黒いスマートフォンをデスクの上で私の方へ滑らせた。

「これは君のだ。番号は追跡不能だ。君の古い人生は終わった」

彼の声には、何の温かみもなかった。

「君は今、桐山夫人だ」

彼の言葉の決定的な響きに、背筋が震えた。私は桐山美咲。その名前は異質で、舌の上で重く感じられた。

まるで合図のように、桐山のスマートフォンに通知音が鳴った。彼は画面を一瞥し、先ほど見た捕食者のような笑みが、今度はより鋭く戻ってきた。それは私の中に恐怖と興奮のスリルを走らせた。

「計画変更だ」

彼の声は低い命令だった。彼は立ち上がり、その動きは流れるようで力強かった。

「君の元婚約者が、マスコミに声明を発表したようだ。君が悲劇的な、ストレスによる精神崩壊を起こし、行方不明になったと報じられている」

彼はデスクを回り、私の前に立った。そして手を差し伸べた。彼が私を立たせるのを手伝うと、その手触りは冷たく、しっかりしていた。

「彼らを待たせるのはやめよう」

彼の灰色の瞳が危険な光を放ちながら言った。彼は私に腕を差し出した。その古風な形式ばった仕草は、この狂気の状況とは全く不釣り合いに感じられた。

「どこへ行くの?」

私の心臓が、新しく、狂ったようなリズムで鼓動し始めた。

彼の笑みが広がった。

「彼らは君の披露宴を伊織の息子の誕生日パーティーに変えたんだろう?我々が出席しないのは失礼というものだ」

彼は私をオフィスから連れ出した。彼の腕は私のそばで、固く、揺るぎない存在だった。私たちは専用エレベーターで地下駐車場へ下りた。その静寂は、言葉にされない期待でパチパチと音を立てていた。輝く黒いベントレーが待っており、運転手がドアを開けて待っていた。

グランド・ヴェール東京への帰路は短く、街は濡れたネオンが流れる通りとなった。私の心は恐怖と高揚感の嵐だった。これはあまりにも速すぎる。私は薄っぺらなローブに裸足、乱れた髪で、私が精神崩壊を起こしたと思っている人々で満たされた部屋に足を踏み入れようとしている。

桐山は私のパニックを察したのだろう。彼の腕に置かれた私の手の上に、彼の手が重なった。

「私のそばを離れるな」

彼は静かに命じた。

「そして、何があっても、彼らに恐怖を見せるな」

私たちは正面玄関に到着した。ドアマンは車を認識して目を丸くし、そして私を見てさらに目を丸くした。

桐山は車から降り、そして振り返って私を車から降ろすのを手伝った。その動きは意図的で、所有欲に満ちていた。彼はホテルのスタッフの息をのむ音を無視し、その焦点は前方のグランドボールルームのドアだけに注がれていた。

彼は私の手をしっかりと彼の腕に絡め、歩き始めた。一歩進むごとに、私の恐怖は後退し、冷たく、硬い決意に取って代わられた。私は顎を上げ、彼の自信を映し出した。

入り口に近づくと、くぐもった音楽と笑い声が聞こえてきた。桐山は立ち止まり、私を見下ろし、共犯者のように小さく頷いた。

そして、ドアが開かれた。

音楽が途切れ、止まった。百もの会話が一瞬にして死んだ。衝撃を受けた顔の海が、私たちの方を向いた。そして、部屋の中央、けばけばしい「蓮くん 5歳のお誕生日おめでとう!」と書かれた横断幕の下に、健司、私の母、そして伊織さんが立っていた。その表情は、完全な恐怖の完璧なタブローとなって凍りついていた。

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逃げた花嫁、見つけた愛

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