話 2
松島茜 視点: 偽りの朝食
翌朝, 私は久しぶりに自然に目が覚めた. 目覚まし時計をセットしなかったのも, 誰かのために朝食を作る必要がないのも, 本当に久しぶりだった. 長年の習慣が染み付いていて, いつもなら譲康のためにキッチンに立っていたはずだ. 彼の好きなオムレツを焼き, 淹れたてのコーヒーを用意する. それが私の日課だった. しかし, 今朝は違う. 愛が冷めると, 人はこうも簡単に興味を失うものなのかと, 自嘲気味に思った.
パジャマのまま階段を降りると, キッチンから香ばしい匂いが漂ってきた. 譲康が, 慣れない手つきでフライパンを振っているのが見えた. 普段は高価なスーツを着こなしている彼が, 私のエプロンを身につけている姿は, どこか滑稽だった. 思わず, ふっと笑みがこぼれた.
譲康が振り返り, 私の裸足に気づいた.
「茜, そんな格好で下に降りちゃダメだ. 冷えるだろう? 」
彼は慌ててガスを止め, 私に駆け寄ってきた.
そして, 私を横抱きにすると, ソファに座らせ, 器用に私の足に靴下を履かせ, ふわふわのスリッパを履かせた. その手つきは, まるで壊れ物を扱うようだった.
「ここで待ってて. すぐに朝食を持ってくるから」
そう言って, 譲康は再びキッチンへと戻っていった.
私は「いらない」と言いたかったが, その言葉は喉の奥でつかえて, 声にならなかった.
しばらくして, 湯気を立てる朝食がテーブルに並べられた.
「茜, 起きた? 」家政婦の声が, リビングに響いた.
「譲康様が, 茜様のために朝早くから朝食を準備していらっしゃいました. 本当に優しい旦那様ですね」
家政婦の言葉に, 譲康は得意げに胸を張った.
彼の作った朝食は, 私がいつも食べていたものと寸分違わぬものだった.
「茜が最近疲れてるみたいだから, ちゃんと栄養のあるものをって思って. 茜の好きなパンケーキは, 蜂蜜とメープルシロップ, 両方用意したよ. 卵は半熟が好きだろう? ベーコンはカリカリに焼いて, サラダには茜が好きなドレッシングをかけた. コーヒーは, いつものブラックでいいかな? 」
彼は嬉しそうに, 一つ一つのメニューについて説明した.
「茜の好きなものは, 全部覚えてるんだ」
その言葉に, 私の唇からは「ありがとう」という乾いた返事しか出なかった.
譲康は, 私の客套的な態度に不満そうに眉を下げた.
「茜, もっと喜んでくれてもいいじゃないか」
私は黙って牛乳を一口飲んだ.
譲康はそれを, 私がサプライズに感動しているとでも思ったのだろう.
「よし, 今日から毎日, 茜のために朝食を作るよ. 永遠にね! 」
「永遠」か. その「永遠」は, あなた自身の手で, とっくの昔に壊されてしまったのに. 私の心臓が冷えていくのを感じた.
その時, 譲康の携帯電話が鳴り響いた. 画面には見知らぬ番号が表示されていたが, 私にはそれが誰からの電話か, すぐに分かった.
話 3
松島茜 視点: 響き渡る声
譲康は携帯電話をちらりと見て, 私から少し離れた場所へ移動した. まるで, 私に聞かれたくない会話でもあるかのように. 彼の背中越しに, 電話の向こうから, 甲高い女性の声が漏れ聞こえた. 前島瑞希の声だった. 私は心臓が凍りつくのを感じた.
「どうして, 茜なんかと一緒にいるのよ! 」
瑞希の怒った声が, 静かなリビングに響き渡った.
譲康は声をひそめ, 落ち着いた声で瑞希をなだめている.
「瑞希, 今はちょっと…」
「ちょっとって何よ! 私がどれだけ寂しい思いをしているか, あなたにはわからないの? 今すぐ, ここに来てよ! 」
瑞希の声は, まるで私の神経を逆撫でするようだった.
譲康は, 私たちの関係を「義務」と表現した. 彼の口から出たその言葉は, 私の心を深く切り裂いた.
「瑞希, 君も分かってるだろう? 彼女は僕の妻だ. 君といる時は, 彼女に連絡しないように言ったはずだ」
譲康は, そう言った. まるで, 私への配慮でもあるかのように.
瑞希は, 一瞬静かになったかと思うと, 今度は誘惑的な声色になった.
「ふふ, わかったわ. じゃあ, 今夜は, あなたを一人占めできるってことね? 新しい下着を買ったの. きっと, あなた好みよ」
瑞希の声は, 私の耳の奥で, 粘着質な蜜のように響いた.
私の胃の奥からこみ上げてくる吐き気に, 私は思わず口元を押さえた. 頭の中がぐるぐると回り, 目の前が真っ白になる. 身体が, まるで氷漬けにされたかのように冷たくなっていくのを感じた.
譲康が電話を切り, まるで何もなかったかのように私に近づいてきた.
「茜, どうしたんだ? 顔色が悪いぞ. 花粉症か? 」
彼の優しい言葉と, その裏にある冷酷な真実.
私は, その二つの感情の間に挟まれ, 息が詰まりそうだった.