1

国民的俳優である夫, 長谷部譲康. 彼はテレビの向こうで, 私への愛を甘く囁く. しかしその裏で, 彼は忌まわしい白い車の中, 別の女と体を重ねていた.

その関係は数ヶ月どころか, 数年に及ぶ.

妊娠が発覚した矢先, 私は事故に遭い, 病院で一人, 激痛に耐えていた. 助けを求め, 夫に電話をかける. しかし, 電話口から聞こえてきたのは, 不倫相手である前島瑞希の挑発的な嬌声と, 夫の「うるせぇよ! 黙ってろ! 」という怒鳴り声だった.

「譲康様は, あなたのことを『ベッドじゃ全然ダメだ』って言ってたわ」瑞希からの追い打ちをかけるようなメッセージが, 私の心を完全に引き裂いた.

私は震える手で, お腹の子を諦める手術同意書にサインした.

もう, 愛も, 期待も, 何もない. 私は自らの戸籍と社会的存在を抹消し, この国から姿を消すことを決意した.

第1章

松島茜 視点: 終わりの始まり

「松島様, 今回の国家文化プロジェクトへのご参加, 重ねて御礼申し上げます. しかし, ご存じの通り, このプロジェクトは極秘裏に進められ, 参加者の方にはご自身の戸籍, 社会的存在を一時的に抹消していただく必要がございます. 条件は非常に厳しいものですが, いかがでしょうか? 」電話の向こうから滝口誠治の声が響いた. 彼の言葉は, まるで一枚の白い紙に, 私の過去を消し去る墨を落とすようだった.

「承知いたしました」私の声は, 驚くほど落ち着いていた.

その言葉に, 電話の向こうでわずかな動揺が伝わった.

「よろしいのですか?  これは, あなたの人生を根本から変える決断になります」

「ええ, 問題ありません」

声には出さないが, 私の人生はもう, 変わるべくして変わってしまったのだ.

電話を切り, リビングのテレビに目を向けた. 画面には, 国民的俳優, 長谷部譲康が映っている. 私の夫だ.

彼は, インタビューアーの「奥様との関係はうまくいっていますか? 」というきわどい質問に, にこやかに答えていた.

「奥様とは長年連れ添っていらっしゃる国民的俳優さんです. 結婚指輪を外されたことはないとか? 」インタビュアーの声が弾む.

譲康は, 左手を胸に当て, 薬指のプラチナリングをそっと撫でた. その仕草は, まるで舞台の上の演技のように完璧だった.

画面の向こうの観客が, 「きゃー! 」と黄色い声を上げる.

「まさか. 僕にとって彼女は, 唯一無二の存在ですから」

譲康は, 少し自嘲するように笑った.

「僕の人生は, 彼女なしでは考えられません. 一生, 彼女だけを愛すると誓います」

画面いっぱいに映る彼の顔が, あまりにも清廉潔白すぎて, 私は思わず乾いた笑いを漏らした.

彼は, 私の目の前で, 別の女と, あの忌まわしい白い車の中で, 私を裏切っていたのだ.

しかも, その関係は数ヶ月どころか, 数年に及んでいることを, 私は知っていた.

私が彼の「唯一無二の存在」である? ふざけている.

私はゆっくりと立ち上がり, 携帯を手に取った.

親友である里見真紀子の電話番号を探し, コールボタンを押す.

「もしもし, 真紀子?  私よ, 茜」

電話の向こうで, 真紀子の明るい声が聞こえた.

「真紀子, 悪いんだけど, 離婚の手続き, お願いできる? 」

私の言葉に, 真紀子の声が途切れた.

「…茜, 何があったの? 」

「何があったって聞かれてもね. ただ, もう終わりにしたいの」

沈黙が続く. 真紀子が何かを察したようだった.

「わかったわ. 準備しておく. いつでも連絡してちょうだい」

真紀子の声は, いつになく真剣だった.

電話を切った後, 私の心は空っぽになった.

2

松島茜 視点: 偽りの朝食

翌朝, 私は久しぶりに自然に目が覚めた. 目覚まし時計をセットしなかったのも, 誰かのために朝食を作る必要がないのも, 本当に久しぶりだった. 長年の習慣が染み付いていて, いつもなら譲康のためにキッチンに立っていたはずだ. 彼の好きなオムレツを焼き, 淹れたてのコーヒーを用意する. それが私の日課だった. しかし, 今朝は違う. 愛が冷めると, 人はこうも簡単に興味を失うものなのかと, 自嘲気味に思った.

パジャマのまま階段を降りると, キッチンから香ばしい匂いが漂ってきた. 譲康が, 慣れない手つきでフライパンを振っているのが見えた. 普段は高価なスーツを着こなしている彼が, 私のエプロンを身につけている姿は, どこか滑稽だった. 思わず, ふっと笑みがこぼれた.

譲康が振り返り, 私の裸足に気づいた.

「茜, そんな格好で下に降りちゃダメだ. 冷えるだろう? 」

彼は慌ててガスを止め, 私に駆け寄ってきた.

そして, 私を横抱きにすると, ソファに座らせ, 器用に私の足に靴下を履かせ, ふわふわのスリッパを履かせた. その手つきは, まるで壊れ物を扱うようだった.

「ここで待ってて. すぐに朝食を持ってくるから」

そう言って, 譲康は再びキッチンへと戻っていった.

私は「いらない」と言いたかったが, その言葉は喉の奥でつかえて, 声にならなかった.

しばらくして, 湯気を立てる朝食がテーブルに並べられた.

「茜, 起きた? 」家政婦の声が, リビングに響いた.

「譲康様が, 茜様のために朝早くから朝食を準備していらっしゃいました. 本当に優しい旦那様ですね」

家政婦の言葉に, 譲康は得意げに胸を張った.

彼の作った朝食は, 私がいつも食べていたものと寸分違わぬものだった.

「茜が最近疲れてるみたいだから, ちゃんと栄養のあるものをって思って. 茜の好きなパンケーキは, 蜂蜜とメープルシロップ, 両方用意したよ. 卵は半熟が好きだろう? ベーコンはカリカリに焼いて, サラダには茜が好きなドレッシングをかけた. コーヒーは, いつものブラックでいいかな? 」

彼は嬉しそうに, 一つ一つのメニューについて説明した.

「茜の好きなものは, 全部覚えてるんだ」

その言葉に, 私の唇からは「ありがとう」という乾いた返事しか出なかった.

譲康は, 私の客套的な態度に不満そうに眉を下げた.

「茜, もっと喜んでくれてもいいじゃないか」

私は黙って牛乳を一口飲んだ.

譲康はそれを, 私がサプライズに感動しているとでも思ったのだろう.

「よし, 今日から毎日, 茜のために朝食を作るよ. 永遠にね! 」

「永遠」か. その「永遠」は, あなた自身の手で, とっくの昔に壊されてしまったのに. 私の心臓が冷えていくのを感じた.

その時, 譲康の携帯電話が鳴り響いた. 画面には見知らぬ番号が表示されていたが, 私にはそれが誰からの電話か, すぐに分かった.

3

松島茜 視点: 響き渡る声

譲康は携帯電話をちらりと見て, 私から少し離れた場所へ移動した. まるで, 私に聞かれたくない会話でもあるかのように. 彼の背中越しに, 電話の向こうから, 甲高い女性の声が漏れ聞こえた. 前島瑞希の声だった. 私は心臓が凍りつくのを感じた.

「どうして, 茜なんかと一緒にいるのよ! 」

瑞希の怒った声が, 静かなリビングに響き渡った.

譲康は声をひそめ, 落ち着いた声で瑞希をなだめている.

「瑞希, 今はちょっと…」

「ちょっとって何よ!  私がどれだけ寂しい思いをしているか, あなたにはわからないの?  今すぐ, ここに来てよ! 」

瑞希の声は, まるで私の神経を逆撫でするようだった.

譲康は, 私たちの関係を「義務」と表現した. 彼の口から出たその言葉は, 私の心を深く切り裂いた.

「瑞希, 君も分かってるだろう?  彼女は僕の妻だ. 君といる時は, 彼女に連絡しないように言ったはずだ」

譲康は, そう言った. まるで, 私への配慮でもあるかのように.

瑞希は, 一瞬静かになったかと思うと, 今度は誘惑的な声色になった.

「ふふ, わかったわ. じゃあ, 今夜は, あなたを一人占めできるってことね?  新しい下着を買ったの. きっと, あなた好みよ」

瑞希の声は, 私の耳の奥で, 粘着質な蜜のように響いた.

私の胃の奥からこみ上げてくる吐き気に, 私は思わず口元を押さえた. 頭の中がぐるぐると回り, 目の前が真っ白になる. 身体が, まるで氷漬けにされたかのように冷たくなっていくのを感じた.

譲康が電話を切り, まるで何もなかったかのように私に近づいてきた.

「茜, どうしたんだ?  顔色が悪いぞ. 花粉症か? 」

彼の優しい言葉と, その裏にある冷酷な真実.

私は, その二つの感情の間に挟まれ, 息が詰まりそうだった.

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国民的俳優の甘い裏切り

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