話 2
川田温美 視点:
莉歌世からのメッセージを読んだ瞬間, 私の頭の中は真っ白になった.
「将吾さんが『結婚なんて墓場だ, お前といる方が癒される』って言ってたよ笑」
「笑」の文字が, 私の心臓をえぐり取った.
まるで, 私の全てを嘲笑っているかのように.
将吾は, 私にとって幼馴染で, 恋人だった.
いや, それ以上の存在だったかもしれない.
私がいないとダメな, 手のかかる「大きな子供」.
そう, ずっと信じて生きてきた.
幼い頃から, 将吾はいつも私の後ろをついて回った.
転べば私が手を差し伸べ, 泣けば私が慰めた.
彼のワガママを許し, 彼の失敗を庇い, 彼の夢を応援してきた.
「温美がいないと, 俺は何もできないよ」
そう言われるたびに, 私は彼に必要とされていると, 幸福を感じていた.
彼の仕事のプレゼン資料作りを手伝ったり, 疲れて帰ってきた彼のために温かい食事を用意したり.
彼の生活の全てを, 私は当然のように支えてきた.
それが「愛」だと, 信じて疑わなかった.
私が彼を支えることで, 彼が成長し, やがては私を大切にしてくれると.
でも, 莉歌世のメッセージは, その全てを否定した.
私の献身は, 彼にとってただの「世話」でしかなかったのだろう.
「癒し」を求めた彼は, 私の元を離れ, 若い後輩に甘えていた.
結婚は「墓場」.
私の存在は, 彼にとって重荷でしかなかったのだ.
胸の奥から, 込み上げてくる吐き気を感じた.
まるで, 今まで積み上げてきたものが, 一瞬にして目の前で崩れ去ったような感覚.
私は, その場で膝から崩れ落ちそうになった.
「温美! 」
突然, 背後から声をかけられ, びくりと体が震えた.
親友の佳音 (かのん) だった.
彼女は, 私が区役所を出てからずっと, 私を心配して待っていてくれたのだ.
佳音は, 私のただならぬ様子にすぐに気づいたようだ.
彼女は, 私の手からスマホを取り上げ, 莉歌世からのメッセージを読んだ.
佳音の顔が, 怒りで歪んだ.
「あいつ…! マジで最低! ! 」
彼女は, そう言ってスマホを握りしめた.
佳音は, 以前から将吾の言動に疑問を抱いていた.
「温美, 将吾ってさ, 温美に甘えすぎじゃない? それって, モラハラに近いよ」
何度か忠告してくれたこともあった.
でも, 私は将吾を信じていたから, その言葉に耳を傾けなかった.
私が, バカだった.
佳音は, 私の肩を抱きしめてくれた.
「温美, もういい. もう, あんな男, 捨ててしまえ」
彼女の言葉は, 私の凍りついた心に, 少しだけ温かさをもたらした.
私は, 佳音の肩に顔を埋めた.
涙が, とめどなく溢れ出した.
今まで, どれだけ我慢してきたのだろう.
どれだけ, 彼の嘘に目をつぶってきたのだろう.
涙は, 私の心に溜まっていた, 黒い感情を洗い流してくれるようだった.
「私…もう, 将吾とは別れる」
私は, 佳音の腕の中で, そう呟いた.
その言葉は, 私の心からの決意だった.
佳音は, 私の背中を優しくさすってくれた.
「それが, 温美にとって一番いいことだよ. 大丈夫, 私がそばにいるから」
彼女の言葉に, 私は救われた思いだった.
その日, 私は佳音の家に泊まった.
一晩中, 佳音は私の話を聞いてくれた.
将吾との出会い, これまでの関係, そして今日の裏切り.
全てを吐き出すうちに, 私の心は少しずつ軽くなっていった.
翌朝, 私は将吾との関係を精算するために動き出した.
まず, 将吾が置いている二人の新居の合鍵を, ゴミ箱に捨てた.
鍵が, カシャンと音を立てて落ちる.
その音は, まるで私たちの関係が終わったことを告げる鐘のようだった.
次に, 共有財産の清算.
共同口座は解約し, 二人の新居は契約を解除した.
そして, 将吾の荷物.
彼の洗濯物, 彼の私物, 彼の思い出の品々.
全てを段ボール箱に詰め込んだ.
「これ, どうするの? 」
佳音が, 段ボールの山を見て言った.
「実家に送る. 私から連絡することはない」
私は, 淡々と答えた.
もう, 彼の顔を見るのも嫌だった.
将吾からの電話やメッセージは, 当然のように毎日届いた.
「温美, 話を聞いてくれ! 俺が悪かった! 」「頼む, 俺には温美しかいないんだ! 」
そんな言葉が, 私のスマホの画面に表示される.
でも, 私は全て無視した.
着信拒否, SNSブロック.
彼の存在を, 私の世界から完全に排除したのだ.
「もう, あいつのことなんか考えなくていいんだよ」
佳音は, 私に温かいココアを淹れてくれた.
「でもさ, 温美, このままじゃ将吾だけがいい思いをするじゃない? 」
佳音の目が, キラリと光った.
「どういうこと? 」
私は, 首を傾げた.
「せっかく温美が解放されたんだから, あいつにはきっちり報いを受けてもらわないとね」
佳音は, にやりと笑った.
その笑顔には, どこか悪魔的な輝きがあった.
「将吾に, ざまぁって言わせてやろうよ」
佳音は, 私の目を見て, そう言った.
その言葉は, 私の心に静かな炎を灯した.
私は, 初めて将音と同じ気持ちになっていた.
将吾には, 報いを受けてもらう.
徹底的に.
話 3
川田温美 視点:
佳音の「ざまぁ」発言には, 正直驚いた.
普段は穏やかな彼女が, これほど怒りを露わにするのは珍しい.
でも, その言葉は私の心に, これまで感じたことのない種類の感情を呼び起こした.
怒り.
そして, ほんの少しの, 復讐心.
「どうするの? 」
私はココアを飲みながら, 佳音に尋ねた.
佳音は, ニヤリと笑った.
「まずは, 将吾が今, 何をしているか探ることからね」
彼女は, そう言ってスマホを取り出した.
佳音の情報網は, 将吾よりも広いかもしれない.
すぐに, 将吾が今日, 職場の飲み会に参加していることが分かった.
それも, 莉歌世も同席しているらしい.
「よし, 温美. 私たちも行こう」
佳音は, そう言って立ち上がった.
「え? 私も? 」
私は, 思わず声を上げた.
将吾の顔なんて, もう二度と見たくない.
「そうだよ. 温美が行かないと意味がないじゃない」
佳音は, 私の腕を引っ張った.
「それに, 将吾がどんな顔をしているか, この目で見てやろうよ」
彼女の言葉に, 私の心は揺れた.
将吾の, 慌てふためく顔.
それを見たい, という気持ちが, 私の心の中に芽生えていた.
私たちは, 将吾たちがいる居酒屋に向かった.
居酒屋の個室の前に着くと, 中から将吾の声が聞こえてきた.
「まじでさ, 温美って本当に面倒くさいんだよな. 結婚, 結婚ってうるさくて」
将吾の声には, 苛立ちと, 私への軽蔑が混じっていた.
私の体は, 石のように固まった.
心臓が, 鉛のように重くなった.
彼の声は, 私の心臓を直接握りつぶすかのように響いた.
「俺はさ, 莉歌世といる方が癒されるんだよ. 温美は, なんだかんだ言っても俺から離れられないだろって, 高を括ってたんだよな」
将吾の声に, 莉歌世の嬌声が重なった.
「将吾さん, ひどーい! 」
莉歌世の声が, 甘ったるく響く.
「でも, 将吾さんって, ああ見えて結構強引なんですね? 温美さんって, 将吾さんがいないとダメなんですか? 面倒見がいいって言うか…」
莉歌世の言葉は, 私を侮辱しているようだった.
将吾は, 高らかに笑っていた.
私の献身を, 私の愛情を, 彼は笑い飛ばしていたのだ.
私の心から, 血の匂いがした.
今まで, 彼のために尽くしてきた全てが, 無意味だったのだと, 突きつけられた瞬間だった.
私の手は, 冷え切っていた.
こんな男のために, 私は人生を捧げてきたのか.
私の目から, 涙が溢れそうになった.
でも, 私は泣かなかった.
泣く価値もない, そう思ったからだ.
佳音は, 私の異変に気づいたようだ.
彼女は, 私の手を握りしめた.
その手は, 温かかった.
「温美, もう終わりだよ. もう, あんな男, 忘れよう」
佳音の声は, 静かだったけれど, 力強かった.
「佳音, もういい. 帰ろう」
私は, そう言って佳音の腕を引っ張った.
もう, 将吾の醜い姿を見るのも, 彼の声を聞くのも嫌だった.
早く, この場を離れたかった.
私たちは, 居酒屋を出て, 路地裏へ向かった.
私は, 歩きながらスマホを取り出し, 将吾の荷物を送った宅配業者に電話をかけた.
「もしもし, 先日お預けした荷物ですが, 送り先の変更をお願いします」
私は, 将吾の実家の住所を伝えた.
もう, 将吾の荷物を私の家に置きたくなかった.
その時, 路地裏の角から, 将吾と莉歌世が現れた.
二人は, 腕を組んで, 楽しそうに笑い合っていた.
将吾の顔は, 少し赤らんでいた.
完全に, 酔っていたのだ.
「あれ? 温美さんじゃないですか? 」
莉歌世が, 私に気づいた.
彼女の顔には, どこか得意げな表情が浮かんでいた.
将吾も, 私に気づいたようだ.
彼の顔から, 一瞬にして笑顔が消えた.
「温美! なんでここに? 」
将吾の声は, 焦りで上ずっていた.
「将吾さん, 温美さん, なんか怒ってるみたいですよ? 」
莉歌世が, 将吾の腕を掴んで小首を傾げた.
その仕草が, 私を嘲笑っているようにしか見えなかった.
私は, 将吾の目をまっすぐに見つめた.
「将吾, あなたは最低の男だよ」
私の声は, ひどく冷たかった.
将吾は, 一瞬言葉を失った.
莉歌世が, 将吾の腕を掴む手に力を込めた.
「温美さん, 将吾さん, 酔ってるんですから, そんなひどいこと言わないでくださいよ」
彼女の声には, 将吾を庇うような響きがあった.
まるで, 彼女が将吾の「正妻」であるかのように.
「莉歌世, あなたは彼のことが好きなの? 」
私は, 莉歌世に尋ねた.
莉歌世は, 一瞬怯んだような顔をした.
「え? もちろんですよ! 将吾さんは, 私の大切な先輩ですから! 」
彼女は, そう言って将吾に寄り添った.
「そう. じゃあ, あなたに将吾をあげるわ」
私は, そう言って, 将吾の目を一瞥した.
将吾の顔は, 真っ青になっていた.
「なに, 言ってるんだ, 温美! ? 」
将吾が, 私の腕を掴もうとした.
私は, その手を振り払った.
「もう, あなたとは終わり. 二度と私の前に現れないで」
私の言葉は, 将吾の心臓に氷の刃を突き刺したようだった.
「温美, 待ってくれ! 頼む, 温美! 俺が悪かった! 温美がいないと, 俺はダメなんだ! 」
将吾は, 私に向かって叫んだ.
彼の声には, 焦りと, わずかな絶望が混じっていた.
「あなたがダメなのは, 私のせいじゃない. あなたの問題よ」
私は, そう言って背を向けた.
もう, 彼の声を聞くのも, 彼の顔を見るのも嫌だった.
莉歌世は, 呆然とした表情で将吾を見つめていた.
彼女の顔から, さっきまでの得意げな表情は消え失せていた.
「将吾さん…」
莉歌世は, 将吾の腕を掴んだまま, 不安げな声を上げた.
私は, 佳音の腕を掴んで, その場を離れた.
もう, 二度と振り返ることはなかった.
私の心は, 完全に将吾から離れていた.
彼への感情は, もう何も残っていない.
ただ, 空虚なだけだった.
その夜, スマホが鳴った.
将吾からだ.
私は, 無言で電話に出た.
「温美, 頼む! 話を聞いてくれ! 俺は, 温美を裏切るつもりなんてなかったんだ! 」
将吾の声は, 震えていた.
「莉歌世は, ただの後輩なんだ! 精神的に不安定だから, 放っておけなかっただけなんだ! 」
彼は, 必死に言い訳を繰り返した.
私は, 何も答えない.
ただ, 彼の言葉を静かに聞いていた.
「温美, 頼むから俺を許してくれ! 俺は温美がいないと, 本当にダメなんだ! 」
将吾の声が, 懇願に変わった.
「私の荷物, 実家に送っておいたから」
私は, 将吾の言葉を遮って, そう告げた.
将吾の声が, 途切れた.
「温美…お前, 本気なのか? 」
彼の声には, 絶望の色が混じっていた.
「私の人生に, もうあなたの居場所はない」
私は, そう言って電話を切った.
私の心は, もう何も感じなかった.
ただ, 将吾の声が, 自分の耳障りな音として響いているだけだった.
完全に, 心が死んでいた.
しかし, 私の解放を阻む最後の, そして最も迷惑な連絡が届いた.
「温美, 俺はお前のそばにいる. お前の人生から, 俺は消えない. だから, 覚悟しておけよ」
将吾の声が, 冷たい呟きとして私の耳に残った.