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汗ばんだ婚姻届を握りしめ, 区役所で彼を待つのはこれで五度目だった.

約束の時間を過ぎても現れない婚約者.

代わりに届いたのは, 職場の後輩とホテルで笑い合う彼の写真だった.

「結婚なんて墓場だ, お前といる方が癒される」

後輩からのメッセージに添えられたその言葉で, 私の長年の献身は「都合のいい女」の世話焼きへと成り下がった.

私が別れを切り出し, 合鍵を捨てると, 彼の態度は一変した.

「俺を捨てるのか! お前は俺がいないとダメなんだ! 」

彼は逆上し, 職場や実家にまで押しかけ, 私が逃げ込んだホテルで「妻を出せ」と怒鳴り散らすストーカーへと変貌したのだ.

彼の母親までもが「息子をこんなにして」と私を責め立てる始末.

私は全てを捨て, 誰も知らない街へと逃げた.

数年後, インテリアデザイナーとして大賞を受賞し, 華やかなステージに立った私の前に, 薄汚れた姿の彼が乱入してきた.

「温美! 女としての幸せはどうした! 」

警備員に引きずられていくかつての恋人を, 私はマイクの前で, 冷ややかな笑顔で見下ろした.

第1章

川田温美 視点:

区役所の待合室, 手に握りしめた婚姻届が汗で湿っていく. 五度目だ. 藤森将吾は, また来なかった. その時, スマホが震え, 差出人の名前に私の心臓は嫌な音を立てた. 桜井莉歌世. 彼女からのメッセージには, 私と将吾の未来を粉々に打ち砕く, 決定的な証拠が添えられていた.

莉歌世からのメッセージを開く指が震えた.

そこには, 将吾と彼女がホテルのラウンジで向かい合って座っている写真が添付されていた.

二人は楽しそうに笑い合っている.

私の知っている, あの将吾の笑顔だった.

私には見せたことのない, 甘ったるい笑顔.

「温美さん, ごめんなさいね. 将吾さん, 今ちょっと忙しいみたいで」

メッセージには, そんな言葉が添えられていた.

温美さん, ごめんなさいね.

その言葉の裏に隠された, 嘲笑が私にははっきりと見えた.

莉歌世は, 私の職場の後輩だ.

そして, 将吾の同僚でもある.

数ヶ月前から, 莉歌世のSNSには将吾との親密さを匂わせる投稿が増えていた.

将吾は「ただの後輩だよ, 温美が心配しすぎ」と笑い飛ばしていたけれど.

私は, 信じていた.

信じようと, 必死になっていたのだ.

区役所の時計の針は, もう約束の時間を30分も過ぎていた.

もう待てない.

私は, 震える指で将吾の携帯に電話をかけた.

コール音が, むなしく響くだけだった.

出ない.

やっぱり出ない.

私の胸の奥が, 冷たい水で満たされていく感覚がした.

もう一度, 電話をかける.

今度は, コール音が途中で切れた.

「もしもし? 」

将吾の声だ.

でも, 彼の声はいつもより低い.

そして, 少し焦っているようにも聞こえた.

「将吾, どこにいるの? もう30分も過ぎてるよ」

私の声は, 思ったよりも平静だった.

怒りよりも, 諦めが勝っていたのかもしれない.

「ああ, 温美か. ごめん, 今, 急なトラブルで会社に呼び戻されてさ. 本当に申し訳ない」

将吾の声に, 嘘が混じっているのが分かった.

急なトラブル?

ホテルのラウンジで, 後輩と笑い合っているのが, 急なトラブルなの?

私は, 唇を噛みしめた.

「将吾, 本当に会社なの? 」

私の声が, 少しだけ震えた.

「当たり前だろ? 温美との入籍, 俺だって楽しみにしてたんだから. でも, 仕事はしょうがないだろ? 」

将吾の声に, 苛立ちが混じった.

そして, 少しの逆ギレ.

いつものパターンだ.

私は, スマホの画面に目を落とした.

莉歌世からのメッセージ.

あの写真.

将吾の嘘が, あまりにも鮮明に映し出されていた.

「分かった. じゃあ, 仕事頑張ってね」

私は, そう言って電話を切った.

私の心は, 本当に冷たくなっていた.

もう, 何も感じなかった.

区役所の待合室には, 幸せそうなカップルが座っていた.

彼らは, 笑顔で職員と話している.

私の手の中の婚姻届は, まるで私の心を嘲笑うかのように, しわくちゃになっていた.

その時, 自動ドアが開き, 将吾が慌てた様子で入ってきた.

彼は, 私の姿を見つけると, 少し安心したような顔をした.

「温美! ごめん, 本当にごめん! なんとか片付けてきたよ! 」

彼は, 息を切らしながら私の隣に座った.

「急なトラブルって, ホテルのラウンジでのおしゃべりのこと? 」

私の声は, 冷え切っていた.

将吾の笑顔が, 凍りついた.

彼は, 一瞬言葉を失った.

その顔には, 焦りと動揺がはっきりと浮かんでいた.

「な, 何を言ってるんだ, 温美? 何かの間違いだろ? 」

彼は, しどろもどろになって言い訳を始めた.

私は, スマホの画面を彼に見せた.

莉歌世からのメッセージと, あの写真.

将吾の顔から, 血の気が引いていくのが分かった.

「これは…これは誤解だ! 莉歌世が, ただ精神的に不安定で, 相談に乗ってやっただけなんだ! 」

将吾は, 必死に弁解した.

彼の声は, 焦りで上ずっていた.

「五度目だよ, 将吾. 五度も, あなたは私との約束を破った」

私の声には, もう何の感情もこもっていなかった.

「そして, そのたびにあなたは嘘をついた」

私の目は, 将吾の目をまっすぐに見つめていた.

将吾は, 私から視線を逸らした.

彼は, 自分の嘘がばれたことを悟っていた.

「温美…俺は…」

彼は, 何かを言おうとして, 言葉に詰まった.

「もういいよ」

私は, そう言って立ち上がった.

婚姻届を, 握りしめたまま.

「温美, 待ってくれ! 頼む, 信じてくれ! 俺は温美を愛してるんだ! 」

将吾は, 私の腕を掴んだ.

彼の手に, もう以前のような温かさは感じなかった.

私は, 彼の腕を振り払った.

「愛してるなら, こんなことしない. あなたは, 私を都合のいい女としか思ってない」

私の言葉は, 将吾の胸に突き刺さったようだった.

彼は, 呆然とした表情で私を見つめていた.

その目に, わずかな後悔の色が浮かんだような気がした.

でも, もう遅い.

私の心は, 完全に壊れてしまったのだから.

「もう二度と, あなたとは入籍しない」

私は, そう告げた.

私の声は, ひどく冷たかった.

将吾は, 膝から崩れ落ちそうになっていた.

私は, 区役所の待合室を出た.

外は, 冷たい風が吹いていた.

もう, 何もかもどうでもよかった.

スマホが震えた.

また, 莉歌世からだ.

「将吾さんが『結婚なんて墓場だ, お前といる方が癒される』って言ってたよ笑」

そのメッセージは, 私の最後の希望を打ち砕いた.

2

川田温美 視点:

莉歌世からのメッセージを読んだ瞬間, 私の頭の中は真っ白になった.

「将吾さんが『結婚なんて墓場だ, お前といる方が癒される』って言ってたよ笑」

「笑」の文字が, 私の心臓をえぐり取った.

まるで, 私の全てを嘲笑っているかのように.

将吾は, 私にとって幼馴染で, 恋人だった.

いや, それ以上の存在だったかもしれない.

私がいないとダメな, 手のかかる「大きな子供」.

そう, ずっと信じて生きてきた.

幼い頃から, 将吾はいつも私の後ろをついて回った.

転べば私が手を差し伸べ, 泣けば私が慰めた.

彼のワガママを許し, 彼の失敗を庇い, 彼の夢を応援してきた.

「温美がいないと, 俺は何もできないよ」

そう言われるたびに, 私は彼に必要とされていると, 幸福を感じていた.

彼の仕事のプレゼン資料作りを手伝ったり, 疲れて帰ってきた彼のために温かい食事を用意したり.

彼の生活の全てを, 私は当然のように支えてきた.

それが「愛」だと, 信じて疑わなかった.

私が彼を支えることで, 彼が成長し, やがては私を大切にしてくれると.

でも, 莉歌世のメッセージは, その全てを否定した.

私の献身は, 彼にとってただの「世話」でしかなかったのだろう.

「癒し」を求めた彼は, 私の元を離れ, 若い後輩に甘えていた.

結婚は「墓場」.

私の存在は, 彼にとって重荷でしかなかったのだ.

胸の奥から, 込み上げてくる吐き気を感じた.

まるで, 今まで積み上げてきたものが, 一瞬にして目の前で崩れ去ったような感覚.

私は, その場で膝から崩れ落ちそうになった.

「温美! 」

突然, 背後から声をかけられ, びくりと体が震えた.

親友の佳音 (かのん) だった.

彼女は, 私が区役所を出てからずっと, 私を心配して待っていてくれたのだ.

佳音は, 私のただならぬ様子にすぐに気づいたようだ.

彼女は, 私の手からスマホを取り上げ, 莉歌世からのメッセージを読んだ.

佳音の顔が, 怒りで歪んだ.

「あいつ…! マジで最低! ! 」

彼女は, そう言ってスマホを握りしめた.

佳音は, 以前から将吾の言動に疑問を抱いていた.

「温美, 将吾ってさ, 温美に甘えすぎじゃない? それって, モラハラに近いよ」

何度か忠告してくれたこともあった.

でも, 私は将吾を信じていたから, その言葉に耳を傾けなかった.

私が, バカだった.

佳音は, 私の肩を抱きしめてくれた.

「温美, もういい. もう, あんな男, 捨ててしまえ」

彼女の言葉は, 私の凍りついた心に, 少しだけ温かさをもたらした.

私は, 佳音の肩に顔を埋めた.

涙が, とめどなく溢れ出した.

今まで, どれだけ我慢してきたのだろう.

どれだけ, 彼の嘘に目をつぶってきたのだろう.

涙は, 私の心に溜まっていた, 黒い感情を洗い流してくれるようだった.

「私…もう, 将吾とは別れる」

私は, 佳音の腕の中で, そう呟いた.

その言葉は, 私の心からの決意だった.

佳音は, 私の背中を優しくさすってくれた.

「それが, 温美にとって一番いいことだよ. 大丈夫, 私がそばにいるから」

彼女の言葉に, 私は救われた思いだった.

その日, 私は佳音の家に泊まった.

一晩中, 佳音は私の話を聞いてくれた.

将吾との出会い, これまでの関係, そして今日の裏切り.

全てを吐き出すうちに, 私の心は少しずつ軽くなっていった.

翌朝, 私は将吾との関係を精算するために動き出した.

まず, 将吾が置いている二人の新居の合鍵を, ゴミ箱に捨てた.

鍵が, カシャンと音を立てて落ちる.

その音は, まるで私たちの関係が終わったことを告げる鐘のようだった.

次に, 共有財産の清算.

共同口座は解約し, 二人の新居は契約を解除した.

そして, 将吾の荷物.

彼の洗濯物, 彼の私物, 彼の思い出の品々.

全てを段ボール箱に詰め込んだ.

「これ, どうするの? 」

佳音が, 段ボールの山を見て言った.

「実家に送る. 私から連絡することはない」

私は, 淡々と答えた.

もう, 彼の顔を見るのも嫌だった.

将吾からの電話やメッセージは, 当然のように毎日届いた.

「温美, 話を聞いてくれ! 俺が悪かった! 」「頼む, 俺には温美しかいないんだ! 」

そんな言葉が, 私のスマホの画面に表示される.

でも, 私は全て無視した.

着信拒否, SNSブロック.

彼の存在を, 私の世界から完全に排除したのだ.

「もう, あいつのことなんか考えなくていいんだよ」

佳音は, 私に温かいココアを淹れてくれた.

「でもさ, 温美, このままじゃ将吾だけがいい思いをするじゃない? 」

佳音の目が, キラリと光った.

「どういうこと? 」

私は, 首を傾げた.

「せっかく温美が解放されたんだから, あいつにはきっちり報いを受けてもらわないとね」

佳音は, にやりと笑った.

その笑顔には, どこか悪魔的な輝きがあった.

「将吾に, ざまぁって言わせてやろうよ」

佳音は, 私の目を見て, そう言った.

その言葉は, 私の心に静かな炎を灯した.

私は, 初めて将音と同じ気持ちになっていた.

将吾には, 報いを受けてもらう.

徹底的に.

3

川田温美 視点:

佳音の「ざまぁ」発言には, 正直驚いた.

普段は穏やかな彼女が, これほど怒りを露わにするのは珍しい.

でも, その言葉は私の心に, これまで感じたことのない種類の感情を呼び起こした.

怒り.

そして, ほんの少しの, 復讐心.

「どうするの? 」

私はココアを飲みながら, 佳音に尋ねた.

佳音は, ニヤリと笑った.

「まずは, 将吾が今, 何をしているか探ることからね」

彼女は, そう言ってスマホを取り出した.

佳音の情報網は, 将吾よりも広いかもしれない.

すぐに, 将吾が今日, 職場の飲み会に参加していることが分かった.

それも, 莉歌世も同席しているらしい.

「よし, 温美. 私たちも行こう」

佳音は, そう言って立ち上がった.

「え? 私も? 」

私は, 思わず声を上げた.

将吾の顔なんて, もう二度と見たくない.

「そうだよ. 温美が行かないと意味がないじゃない」

佳音は, 私の腕を引っ張った.

「それに, 将吾がどんな顔をしているか, この目で見てやろうよ」

彼女の言葉に, 私の心は揺れた.

将吾の, 慌てふためく顔.

それを見たい, という気持ちが, 私の心の中に芽生えていた.

私たちは, 将吾たちがいる居酒屋に向かった.

居酒屋の個室の前に着くと, 中から将吾の声が聞こえてきた.

「まじでさ, 温美って本当に面倒くさいんだよな. 結婚, 結婚ってうるさくて」

将吾の声には, 苛立ちと, 私への軽蔑が混じっていた.

私の体は, 石のように固まった.

心臓が, 鉛のように重くなった.

彼の声は, 私の心臓を直接握りつぶすかのように響いた.

「俺はさ, 莉歌世といる方が癒されるんだよ. 温美は, なんだかんだ言っても俺から離れられないだろって, 高を括ってたんだよな」

将吾の声に, 莉歌世の嬌声が重なった.

「将吾さん, ひどーい! 」

莉歌世の声が, 甘ったるく響く.

「でも, 将吾さんって, ああ見えて結構強引なんですね? 温美さんって, 将吾さんがいないとダメなんですか? 面倒見がいいって言うか…」

莉歌世の言葉は, 私を侮辱しているようだった.

将吾は, 高らかに笑っていた.

私の献身を, 私の愛情を, 彼は笑い飛ばしていたのだ.

私の心から, 血の匂いがした.

今まで, 彼のために尽くしてきた全てが, 無意味だったのだと, 突きつけられた瞬間だった.

私の手は, 冷え切っていた.

こんな男のために, 私は人生を捧げてきたのか.

私の目から, 涙が溢れそうになった.

でも, 私は泣かなかった.

泣く価値もない, そう思ったからだ.

佳音は, 私の異変に気づいたようだ.

彼女は, 私の手を握りしめた.

その手は, 温かかった.

「温美, もう終わりだよ. もう, あんな男, 忘れよう」

佳音の声は, 静かだったけれど, 力強かった.

「佳音, もういい. 帰ろう」

私は, そう言って佳音の腕を引っ張った.

もう, 将吾の醜い姿を見るのも, 彼の声を聞くのも嫌だった.

早く, この場を離れたかった.

私たちは, 居酒屋を出て, 路地裏へ向かった.

私は, 歩きながらスマホを取り出し, 将吾の荷物を送った宅配業者に電話をかけた.

「もしもし, 先日お預けした荷物ですが, 送り先の変更をお願いします」

私は, 将吾の実家の住所を伝えた.

もう, 将吾の荷物を私の家に置きたくなかった.

その時, 路地裏の角から, 将吾と莉歌世が現れた.

二人は, 腕を組んで, 楽しそうに笑い合っていた.

将吾の顔は, 少し赤らんでいた.

完全に, 酔っていたのだ.

「あれ? 温美さんじゃないですか? 」

莉歌世が, 私に気づいた.

彼女の顔には, どこか得意げな表情が浮かんでいた.

将吾も, 私に気づいたようだ.

彼の顔から, 一瞬にして笑顔が消えた.

「温美! なんでここに? 」

将吾の声は, 焦りで上ずっていた.

「将吾さん, 温美さん, なんか怒ってるみたいですよ? 」

莉歌世が, 将吾の腕を掴んで小首を傾げた.

その仕草が, 私を嘲笑っているようにしか見えなかった.

私は, 将吾の目をまっすぐに見つめた.

「将吾, あなたは最低の男だよ」

私の声は, ひどく冷たかった.

将吾は, 一瞬言葉を失った.

莉歌世が, 将吾の腕を掴む手に力を込めた.

「温美さん, 将吾さん, 酔ってるんですから, そんなひどいこと言わないでくださいよ」

彼女の声には, 将吾を庇うような響きがあった.

まるで, 彼女が将吾の「正妻」であるかのように.

「莉歌世, あなたは彼のことが好きなの? 」

私は, 莉歌世に尋ねた.

莉歌世は, 一瞬怯んだような顔をした.

「え? もちろんですよ! 将吾さんは, 私の大切な先輩ですから! 」

彼女は, そう言って将吾に寄り添った.

「そう. じゃあ, あなたに将吾をあげるわ」

私は, そう言って, 将吾の目を一瞥した.

将吾の顔は, 真っ青になっていた.

「なに, 言ってるんだ, 温美! ? 」

将吾が, 私の腕を掴もうとした.

私は, その手を振り払った.

「もう, あなたとは終わり. 二度と私の前に現れないで」

私の言葉は, 将吾の心臓に氷の刃を突き刺したようだった.

「温美, 待ってくれ! 頼む, 温美! 俺が悪かった! 温美がいないと, 俺はダメなんだ! 」

将吾は, 私に向かって叫んだ.

彼の声には, 焦りと, わずかな絶望が混じっていた.

「あなたがダメなのは, 私のせいじゃない. あなたの問題よ」

私は, そう言って背を向けた.

もう, 彼の声を聞くのも, 彼の顔を見るのも嫌だった.

莉歌世は, 呆然とした表情で将吾を見つめていた.

彼女の顔から, さっきまでの得意げな表情は消え失せていた.

「将吾さん…」

莉歌世は, 将吾の腕を掴んだまま, 不安げな声を上げた.

私は, 佳音の腕を掴んで, その場を離れた.

もう, 二度と振り返ることはなかった.

私の心は, 完全に将吾から離れていた.

彼への感情は, もう何も残っていない.

ただ, 空虚なだけだった.

その夜, スマホが鳴った.

将吾からだ.

私は, 無言で電話に出た.

「温美, 頼む! 話を聞いてくれ! 俺は, 温美を裏切るつもりなんてなかったんだ! 」

将吾の声は, 震えていた.

「莉歌世は, ただの後輩なんだ! 精神的に不安定だから, 放っておけなかっただけなんだ! 」

彼は, 必死に言い訳を繰り返した.

私は, 何も答えない.

ただ, 彼の言葉を静かに聞いていた.

「温美, 頼むから俺を許してくれ! 俺は温美がいないと, 本当にダメなんだ! 」

将吾の声が, 懇願に変わった.

「私の荷物, 実家に送っておいたから」

私は, 将吾の言葉を遮って, そう告げた.

将吾の声が, 途切れた.

「温美…お前, 本気なのか? 」

彼の声には, 絶望の色が混じっていた.

「私の人生に, もうあなたの居場所はない」

私は, そう言って電話を切った.

私の心は, もう何も感じなかった.

ただ, 将吾の声が, 自分の耳障りな音として響いているだけだった.

完全に, 心が死んでいた.

しかし, 私の解放を阻む最後の, そして最も迷惑な連絡が届いた.

「温美, 俺はお前のそばにいる. お前の人生から, 俺は消えない. だから, 覚悟しておけよ」

将吾の声が, 冷たい呟きとして私の耳に残った.

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汗ばむ婚姻届、裏切りの朝

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