話 2
終業時刻のチャイムが、無機質にオフィスに響き渡った。
凛はパソコンの電源を落とし、誰に挨拶することもなく席を立った。
エレベーターに乗り込み、地下駐車場の薄暗い空間に降り立つ。
母親の病院へ向かうため、自分のコンパクトカーが停めてある区画へ歩き出した。
その時、視界の隅に、見慣れた黒いセダンが映った。
佐藤暁の愛車だ。
彼の車の前で、足が自然と止まる。
暁が、助手席のドアを開けていた。
そして、杉野雅が乗り込む際に、彼女が頭をぶつけないように、そっと自分の手でルーフを庇っている。
その仕草は、かつて凛だけが向けられていた、彼の優しさの証だった。
雅が微笑みながら車内に収まると、暁は満足そうにドアを閉め、軽快な足取りで運転席へと回り込む。
凛は、駐車場の太い柱の影に身を潜め、その光景をただ冷ややかに見つめていた。
あの助手席は、自分の場所だったはずだ。
しかし、今、彼女の心に燃え上がったのは、嫉妬の炎ではなかった。
すべてを諦めた人間だけが持つ、氷のような無関心。
彼女は、駆け寄って彼を詰問したいという衝動を、微塵も感じなかった。
自分の車に乗り込み、エンジンをかける。
黒いセダンが滑るように駐車場を出ていくのを横目に、凛もまた、アクセルを踏み込んだ。
過去との決別は、もう始まっている。
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、がらんとしたダイニングテーブルを照らしていた。
凛は、昨夜のうちに印刷しておいた退職届を、丁寧に三つ折りにした。
そして、真っ白な専用の封筒に入れ、封をした部分に、自分の印鑑を静かに押し当てた。
封筒の表面に書かれた「辞表」という二文字を見つめる。
七年間、ずっと胸の上に乗っていた巨大な石が、ようやく取り除かれたような、不思議な解放感があった。
彼女は車を走らせ、会社へと向かった。
朝のラッシュアワーを避け、まだ人の少ないオフィスビルに入る。
向かったのは、社長秘書室だった。
秘書の加藤誠は、まだ出社していない。
凛は、彼の綺麗に整頓されたデスクの上に、その白い封筒を置いた。
『社長へお渡しください』と書いた簡潔なメモを添えて。
その後、自分のデスクに戻ると、小さな段ボール箱を取り出した。
机の上に飾っていた写真立てや、愛用していたマグカップを、一つ一つ、無言で箱に詰めていく。
「凛? 何してるの?」
コーヒーを片手に、清水結衣が訝しげな顔で近づいてきた。
段ボール箱を見て、彼女は驚きに目を丸くしている。
凛は顔も上げず、淡々と答えた。
「少し疲れたから、長期休暇を取ることにしたの」
「長期休暇って……」
結衣の目が、何かを探るようにきらりと光った。
彼女は内心で、凛が暁の気を引くために芝居を打っているのだと決めつけている。
その軽蔑が、凛には痛いほど伝わってきた。
凛は彼女を無視し、さほど重くもない段ボール箱を抱え上げた。
そして、一度も振り返ることなく、ヴィンキュラム・テクノロジーのガラス張りのエントランスを通り抜けた。
東京の喧騒が、彼女を迎える。
ビル風が、頬を撫でた。
彼女は、久しぶりに吸う自由な空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。
その時だった。
一台の黒塗りのマイバッハが、音もなく滑るように、彼女の目の前に停車した。
後部座席の窓が、静かに下がる。
中には、完璧に仕立てられたスーツを着こなした、鷹司グループの御曹司、鷹司慧が座っていた。
彼の深い瞳が、まっすぐに凛を見つめている。
慧はドアを開けて車から降りると、その身分も顧みず、凛が抱えていた少しみすぼらしい段ボール箱を、自らの手で受け取った。
そして、それをトランクに丁寧に収めた。
「小林凛さん、ですね」
慧は、一枚の金箔押しの名刺を凛に差し出した。
そこには、『アークライト・イノベーションズ 代表取締役 鷹司慧』と記されている。
アークライト・イノベーションズ。
ヴィンキュラム社にとって、最大の潜在的脅威と目されている、新進気鋭のテクノロジー企業だ。
「我々の会社に来ていただきたい。CEOとして」
慧は、単刀直入に言った。
凛は名刺を見つめたまま、動けなかった。
心臓が、激しく脈打っている。
「ずっと、あなたを見ていました」
慧は、彼女の目を見て、静かに続けた。
「ヴィンキュラム社のコア特許……あの『自動金利カーブモデル』を本当に作り上げたのは、あなたでしょう」
その一言は、凛が七年間、暁のために意図的に隠し続けてきた、彼女の真の価値を、正確に撃ち抜いていた。
凛は、はっと顔を上げた。
目の前の男を、初めて本当の意味で見た。
しかし、彼女は喜びで我を忘れたりはしない。
冷静に、そして少しの警戒心をもって、彼に告げた。
「申し訳ありませんが、私は今、厄介な個人的な問題を抱えています 重要な決断を下せる状況ではありません」
慧は、彼女の返答を予測していたかのように、穏やかに微笑んだ。
「ええ、承知しています。ですから、契約を急ぐつもりはありません。まずは、我々のオフィスを見てみませんか」
彼は一歩下がり、マイバッハの後部座席のドアを、極めて紳士的な仕草で開けた。
そして、彼女を招き入れるように、軽く手を差し伸べる。
凛は、背後にそびえ立つヴィンキュラム・テクノロジーのビルを、一度だけ振り返った。
彼女の目に、決然とした光が宿る。
もう、迷いはなかった。
凛は、ためらうことなく、その豪奢な車のシートに身を沈めた。
ドアが静かに閉まり、マイバッハは滑るように発進する。
過去を象徴する街並みが、みるみるうちに遠ざかっていった。
話 3
マイバッハは、六本木の中心にそびえ立つ、ガラス張りの近代的な超高層ビルの前で静かに停車した。
鷹司慧に導かれ、凛は広々とした、光に満ちたエントランスホールに足を踏み入れる。
「社長、おはようございます!」
受付の女性たちが、慧の姿を認めると、一斉に立ち上がり、完璧な九十度のお辞儀で彼を迎えた。
慧は軽く頷きを返し、凛を伴って専用のエレベーターへと向かう。
最上階でドアが開くと、そこに広がっていたのは、凛の想像を絶するほど先進的で、開放的なオフィス空間だった。
壁がほとんどなく、社員たちは思い思いの場所でノートパソコンを広げ、活発に議論を交わしている。
ヴィンキュラム社に蔓延していた、息苦しいほどの階級主義的な空気は、ここには微塵も感じられない。
慧は、凛の歩調に合わせてゆっくりと歩きながら、各部門の構成を説明していく。
その口調は穏やかで、暁のような見下すような傲慢さは一切なかった。
やがて二人は、一面がガラス張りになった、広大な社長室へとたどり着いた。
窓の外には、東京タワーの雄大な姿が広がっている。
「どうぞ」
慧は凛をソファに促すと、自らバーカウンターに立ち、一杯の紅茶を淹れ始めた。
漂ってきたのは、凛が最も好む、セイロンティーの香りだった。
この、彼女の嗜好を正確に把握しているという些細な事実が、凛の警戒心を少しだけ解きほぐした。
「これを」
慧は、金庫から取り出した一冊の分厚いファイルを、テーブルの上に置いた。
それは、アークライト社の極秘の財務諸表と、今後三年間の詳細な戦略計画書だった。
凛は、黙ってページをめくり始めた。
そこに並んだ数字の背後にある、途方もない野心に、彼女は息を呑んだ。
この会社は、単なる国内企業ではない。
設立当初から、ナスダックへの上場を明確な目標としていた。
「我々の船は、巨大なエンジンと正確な海図を持っています」
慧は、凛の向かいに座り、彼女の目をまっすぐに見つめた。
「しかし、今、この船に最も欠けているものがある それは、あなたのような、海の底の潮流まで読み解ける、本物の航海士です」
凛はファイルから顔を上げた。
七年間、暁のために封印してきた事業への情熱の火種が、胸の奥で再び、ぱちぱちと音を立てて燃え始めるのを感じた。
しかし、彼女は理性を失わない。
「私には、ヴィンキュラム社との間に、競業避止義務契約があります。法的なリスクは避けられません」
凛がそう言うと、慧はフッと軽く笑った。
「その点はご心配なく。鷹司グループの法務部が、あなたの背後にあるすべての厄介事を、きれいさっぱり片付けます」
その絶対的な自信に満ちた言葉に、凛は無意識のうちに下唇を軽く噛んだ。
深く思考する時の、彼女の癖だった。
慧は、その小さな仕草を見逃さなかった。
「条件があります」と、凛は言った。
「佐藤暁との私的な関係を完全に清算するまで、私がCEOとして公の場に出ることはできません」
「承知しました」
慧は、間髪入れずに頷いた。
「では、それまでは、謎の特別業務顧問として、裏から指揮を執っていただくというのはいかがでしょう」
「もう一つ 一ヶ月の試用期間をいただきたい もし、あなた方の理念と私の考えが合わなければ、私はいつでもここを去ります」
凛は、最後の防御壁を築くように言った。
慧は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、大きなデスク越しに、凛に向かって右手を差し出した。
彼の瞳には、揺るぎない確信が宿っていた。
「一ヶ月後、あなたをここから離したくなくさせてみせますよ」
凛は、その骨張った、力強い手を見つめた。
心の中の葛藤は、ほんの数秒だった。
彼女は、意を決して自分の手を伸ばし、彼の手を握った。
手のひらが触れ合った瞬間、凛は、長い間忘れていた、対等なパートナーシップの感覚と、力強い信頼感をそこに感じた。
その後、慧はすぐさま、中核となる開発チームを招集した。
会議室で、彼は凛を「新任の特別業務顧問」として紹介した。
凛は、彼らが構想している新しい金融派生商品の予測モデルについて、静かに耳を傾けた。
やがて、プロジェクトリーダーが技術的な袋小路に陥った時、凛はすっと立ち上がった。
彼女はホワイトボードマーカーを手に取ると、彼らのアルゴリズムに潜む二つの致命的な論理的欠陥を、一言で指摘した。
そして、修正後のあるべき数式を、淀みなくボードに書き連ねていく。
会議室は、十秒間、水を打ったように静まり返った。
その後、堰を切ったように、技術者たちからの心からの賞賛と、熱烈な拍手が巻き起こった。
会議室の主座に座っていた慧は、ホワイトボードの前で自信に満ちた光を放つ凛の姿を、濃密な賞賛と、そして微かな独占欲の入り混じった眼差しで見つめていた。
会議が終わると、慧は提携を祝して、近くのミシュランレストランでの昼食を提案した。
しかし、凛は腕時計に目をやり、その誘いを丁寧に断った。
「これから、母の病院へ行かなければなりませんので」
慧は、少しも不快な顔を見せなかった。
それどころか、彼はすぐに内線電話を取り、彼女を病院まで送るよう、自身の専属運転手に命じた。
その完璧なまでの距離感に、凛は再び、目の前の男の底知れなさを感じた。