1

今、小林凛はヴィクラムテクノロジー社の社長室の外に立っている。彼女の手にはトレイがあり、その上には彼女が自分で淹れたコーヒーが二杯置かれている。

彼女は、恋人の佐藤暁と一緒に、来月の結婚式の準備について話し合いたかったのです。

凛は自然と笑みを浮かべ、社長室のドアノブに手をかけた。

冷たい金属の感触。

しかし、ドアは完全に閉まっておらず、わずかに隙間が開いていた。

中から、ひそやかな話し声が聞こえる。

「……本当に、来月、凛さんと結婚するの?」

その声は、最近アメリカから帰国し、副社長として鳴り物入りで入社した、杉野雅のものだった。声が、微かに震えている。

凛の心臓が、どくん、と大きく跳ねた。

杉野雅は、佐藤暁の幼なじみであり、初恋の相手でした。

副社長のポストは、本来なら小林凛のものでした。というのも、この会社は7 年前に彼女と佐藤晓が一緒に設立したもので、彼女の全ての努力が注がれた場所だったからです。ですから、そのポストが杉野雅に与えられたと知った時、彼女は長い間落ち込んでいました。

指がドアノブの上で凍りつき、呼吸が止まる。

中を覗き見るつもりはなかった。

だが、狭い隙間から、暁と雅が窓際に立って向かい合っているのが見えてしまった。

雅の肩が、小さく震えている。

長い、長い沈黙が流れた。

凛の耳には、自分の心臓の音だけが大きく響いている。

やがて、暁が重い溜息をつき、こめかみを強く揉むのが見えた。

彼が苛立っている時の、いつもの癖だ。

「……ああ」

ようやく絞り出された暁の声は、ひどく疲れていた。

「凛とのことか? あれは……もう、ただの責任だ 習慣、と言ってもいい」

責任。

習慣。

その二つの単語が、鋭い氷の破片となって凛の鼓膜を突き刺した。

胃の奥が、きりりと痛む。

「俺が……ずっと忘れられなかったのは、雅、君だけだ」

暁の言葉が、とどめを刺した。

雅の目から、大粒の涙が滑り落ちるのが見えた。

彼女は、まるで糸が切れた人形のように、ふらりと暁の胸に倒れ込んだ。

暁の体が一瞬、硬直した。

しかし、彼は彼女を突き放さなかった。

それどころか、ためらいがちに伸ばされた彼の腕が、ゆっくりと雅の華奢な背中に回され、抱きしめる形になった。

凛の頭の中で、何かが轟音を立てて崩れ落ちた。

過去七年間の、暁の不可解な冷たさ。

記念日を忘れられたこと。

深夜の無言電話。

そのすべてが、この瞬間に一本の線で繋がった。

自分は、ただの代用品だった。

彼の「忘れられない人」が戻ってくるまでの、都合のいい存在。

彼女の目には、部屋の壁に掛けられている、会社の沿革を示す写真が映り込んでいた。だからこそ、彼は副社長のポストを杉野雅に与えたのだ。

事業は、最初は6 畳ほどのアパートから始まりましたが、今では丸の内の高層ビルにオフィスを構えるまで成長しました。

この道は、決して平坦な道ではありません。

資金繰りに困る夜であれ、プログラムの不具合で一晩中働かなければならない夜であれ、彼女は常に晓のそばにいてくれました。

彼の才能を信じ、彼の夢を応援すること――それこそが、凛が生きている意味なのです。

来月、彼らは小さな結婚式を挙げる予定です。

7 年間のすべての努力が報われる時が、もうすぐ来ます。その瞬間は、すぐそこにあります。

強烈な吐き気が、喉元までせり上がってくる。

凛はとっさに空いていた方の手で口を覆い、嗚咽を必死に押し殺した。

足がもつれ、一歩後ずさる。

その瞬間、トレイが傾き、二つのコーヒーカップが「カチャリ」とごく小さな音を立てた。

凛は息を呑んだ。

しかし、室内の二人は感傷的な空気に浸っているのか、その小さな物音には気づかなかったようだ。

凛は、まるで疫病神から逃げるように、その場から駆け出した。

どこをどう走ったのか、覚えていない。

気づけば、非常階段の冷たい壁に背中をもたせ、ずるずると床に座り込んでいた。

「はっ……はっ……」

荒い呼吸を繰り返しながら、目を固く閉じる。

騙されていた。

この七年間、すべてが欺瞞だった。

ポケットの中で、スマートフォンが震えた。

画面が光り、暁からのLINEメッセージが表示される。

「すまん 今夜、雅の業務引継ぎが終わらない ドレスの試着はキャンセルしてくれ」

以前の自分なら、「お仕事お疲れ様」と健気な返信を送っていただろう。

しかし今、その文字は、凛の心を抉る鋭利な刃物にしか見えなかった。

彼女は無表情のまま、返信せずに画面をロックした。

これまでの従順なコミュニケーションを、自ら断ち切った瞬間だった。

間髪入れず、再びスマートフォンが鳴った。

今度は、病院からの着信だった。

母、小林恵子の心臓の定期検診の予約日を知らせる電話だ。

凛は深く息を吸い込み、震える声を無理やり押し殺して電話に出た。

『はい、小林です ええ、承知しております ありがとうございます』

冷静に、事務的に、病院との会話を終える。

電話を切った後、現実の重みが彼女を完全に覚醒させた。

感傷に浸っている暇はない。

断ち切るべきは、この腐った婚約だけではない。

これからは、たった一人で、母の治療費も、自分の生活も、すべてを支えていかなければならないのだ。

凛は壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。

スーツについた埃を、力強く手で払う。

彼女の瞳から、それまでの柔らかな光が消え、冷酷なまでの光が宿っていた。

階段のドアを押し開け、凛は背筋を伸ばして自分の席――営業本部長のデスクへと戻った。

「凛、お疲れー。ドレスの試着どうだった?」

デスクに着くや否や、幼馴染で同僚の清水結衣が、好奇心丸出しの顔で話しかけてきた。

凛はゆっくりと顔を上げ、結衣の目をまっすぐに見つめた。

そして、平坦な声で告げた。

「中止になったの。結婚」

「えっ!?」

驚きに目を見開く結衣を無視して、凛はパソコンの電源を入れた。

彼女は一切の説明をせず、ただまっすぐに画面を見つめ、新しいWordファイルを開いた。

ファイル名入力欄に、彼女は迷いなく三つの文字を打ち込んだ。

「退職届」

2

終業時刻のチャイムが、無機質にオフィスに響き渡った。

凛はパソコンの電源を落とし、誰に挨拶することもなく席を立った。

エレベーターに乗り込み、地下駐車場の薄暗い空間に降り立つ。

母親の病院へ向かうため、自分のコンパクトカーが停めてある区画へ歩き出した。

その時、視界の隅に、見慣れた黒いセダンが映った。

佐藤暁の愛車だ。

彼の車の前で、足が自然と止まる。

暁が、助手席のドアを開けていた。

そして、杉野雅が乗り込む際に、彼女が頭をぶつけないように、そっと自分の手でルーフを庇っている。

その仕草は、かつて凛だけが向けられていた、彼の優しさの証だった。

雅が微笑みながら車内に収まると、暁は満足そうにドアを閉め、軽快な足取りで運転席へと回り込む。

凛は、駐車場の太い柱の影に身を潜め、その光景をただ冷ややかに見つめていた。

あの助手席は、自分の場所だったはずだ。

しかし、今、彼女の心に燃え上がったのは、嫉妬の炎ではなかった。

すべてを諦めた人間だけが持つ、氷のような無関心。

彼女は、駆け寄って彼を詰問したいという衝動を、微塵も感じなかった。

自分の車に乗り込み、エンジンをかける。

黒いセダンが滑るように駐車場を出ていくのを横目に、凛もまた、アクセルを踏み込んだ。

過去との決別は、もう始まっている。

翌朝。

カーテンの隙間から差し込む朝日が、がらんとしたダイニングテーブルを照らしていた。

凛は、昨夜のうちに印刷しておいた退職届を、丁寧に三つ折りにした。

そして、真っ白な専用の封筒に入れ、封をした部分に、自分の印鑑を静かに押し当てた。

封筒の表面に書かれた「辞表」という二文字を見つめる。

七年間、ずっと胸の上に乗っていた巨大な石が、ようやく取り除かれたような、不思議な解放感があった。

彼女は車を走らせ、会社へと向かった。

朝のラッシュアワーを避け、まだ人の少ないオフィスビルに入る。

向かったのは、社長秘書室だった。

秘書の加藤誠は、まだ出社していない。

凛は、彼の綺麗に整頓されたデスクの上に、その白い封筒を置いた。

『社長へお渡しください』と書いた簡潔なメモを添えて。

その後、自分のデスクに戻ると、小さな段ボール箱を取り出した。

机の上に飾っていた写真立てや、愛用していたマグカップを、一つ一つ、無言で箱に詰めていく。

「凛? 何してるの?」

コーヒーを片手に、清水結衣が訝しげな顔で近づいてきた。

段ボール箱を見て、彼女は驚きに目を丸くしている。

凛は顔も上げず、淡々と答えた。

「少し疲れたから、長期休暇を取ることにしたの」

「長期休暇って……」

結衣の目が、何かを探るようにきらりと光った。

彼女は内心で、凛が暁の気を引くために芝居を打っているのだと決めつけている。

その軽蔑が、凛には痛いほど伝わってきた。

凛は彼女を無視し、さほど重くもない段ボール箱を抱え上げた。

そして、一度も振り返ることなく、ヴィンキュラム・テクノロジーのガラス張りのエントランスを通り抜けた。

東京の喧騒が、彼女を迎える。

ビル風が、頬を撫でた。

彼女は、久しぶりに吸う自由な空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。

その時だった。

一台の黒塗りのマイバッハが、音もなく滑るように、彼女の目の前に停車した。

後部座席の窓が、静かに下がる。

中には、完璧に仕立てられたスーツを着こなした、鷹司グループの御曹司、鷹司慧が座っていた。

彼の深い瞳が、まっすぐに凛を見つめている。

慧はドアを開けて車から降りると、その身分も顧みず、凛が抱えていた少しみすぼらしい段ボール箱を、自らの手で受け取った。

そして、それをトランクに丁寧に収めた。

「小林凛さん、ですね」

慧は、一枚の金箔押しの名刺を凛に差し出した。

そこには、『アークライト・イノベーションズ 代表取締役 鷹司慧』と記されている。

アークライト・イノベーションズ。

ヴィンキュラム社にとって、最大の潜在的脅威と目されている、新進気鋭のテクノロジー企業だ。

「我々の会社に来ていただきたい。CEOとして」

慧は、単刀直入に言った。

凛は名刺を見つめたまま、動けなかった。

心臓が、激しく脈打っている。

「ずっと、あなたを見ていました」

慧は、彼女の目を見て、静かに続けた。

「ヴィンキュラム社のコア特許……あの『自動金利カーブモデル』を本当に作り上げたのは、あなたでしょう」

その一言は、凛が七年間、暁のために意図的に隠し続けてきた、彼女の真の価値を、正確に撃ち抜いていた。

凛は、はっと顔を上げた。

目の前の男を、初めて本当の意味で見た。

しかし、彼女は喜びで我を忘れたりはしない。

冷静に、そして少しの警戒心をもって、彼に告げた。

「申し訳ありませんが、私は今、厄介な個人的な問題を抱えています 重要な決断を下せる状況ではありません」

慧は、彼女の返答を予測していたかのように、穏やかに微笑んだ。

「ええ、承知しています。ですから、契約を急ぐつもりはありません。まずは、我々のオフィスを見てみませんか」

彼は一歩下がり、マイバッハの後部座席のドアを、極めて紳士的な仕草で開けた。

そして、彼女を招き入れるように、軽く手を差し伸べる。

凛は、背後にそびえ立つヴィンキュラム・テクノロジーのビルを、一度だけ振り返った。

彼女の目に、決然とした光が宿る。

もう、迷いはなかった。

凛は、ためらうことなく、その豪奢な車のシートに身を沈めた。

ドアが静かに閉まり、マイバッハは滑るように発進する。

過去を象徴する街並みが、みるみるうちに遠ざかっていった。

3

マイバッハは、六本木の中心にそびえ立つ、ガラス張りの近代的な超高層ビルの前で静かに停車した。

鷹司慧に導かれ、凛は広々とした、光に満ちたエントランスホールに足を踏み入れる。

「社長、おはようございます!」

受付の女性たちが、慧の姿を認めると、一斉に立ち上がり、完璧な九十度のお辞儀で彼を迎えた。

慧は軽く頷きを返し、凛を伴って専用のエレベーターへと向かう。

最上階でドアが開くと、そこに広がっていたのは、凛の想像を絶するほど先進的で、開放的なオフィス空間だった。

壁がほとんどなく、社員たちは思い思いの場所でノートパソコンを広げ、活発に議論を交わしている。

ヴィンキュラム社に蔓延していた、息苦しいほどの階級主義的な空気は、ここには微塵も感じられない。

慧は、凛の歩調に合わせてゆっくりと歩きながら、各部門の構成を説明していく。

その口調は穏やかで、暁のような見下すような傲慢さは一切なかった。

やがて二人は、一面がガラス張りになった、広大な社長室へとたどり着いた。

窓の外には、東京タワーの雄大な姿が広がっている。

「どうぞ」

慧は凛をソファに促すと、自らバーカウンターに立ち、一杯の紅茶を淹れ始めた。

漂ってきたのは、凛が最も好む、セイロンティーの香りだった。

この、彼女の嗜好を正確に把握しているという些細な事実が、凛の警戒心を少しだけ解きほぐした。

「これを」

慧は、金庫から取り出した一冊の分厚いファイルを、テーブルの上に置いた。

それは、アークライト社の極秘の財務諸表と、今後三年間の詳細な戦略計画書だった。

凛は、黙ってページをめくり始めた。

そこに並んだ数字の背後にある、途方もない野心に、彼女は息を呑んだ。

この会社は、単なる国内企業ではない。

設立当初から、ナスダックへの上場を明確な目標としていた。

「我々の船は、巨大なエンジンと正確な海図を持っています」

慧は、凛の向かいに座り、彼女の目をまっすぐに見つめた。

「しかし、今、この船に最も欠けているものがある それは、あなたのような、海の底の潮流まで読み解ける、本物の航海士です」

凛はファイルから顔を上げた。

七年間、暁のために封印してきた事業への情熱の火種が、胸の奥で再び、ぱちぱちと音を立てて燃え始めるのを感じた。

しかし、彼女は理性を失わない。

「私には、ヴィンキュラム社との間に、競業避止義務契約があります。法的なリスクは避けられません」

凛がそう言うと、慧はフッと軽く笑った。

「その点はご心配なく。鷹司グループの法務部が、あなたの背後にあるすべての厄介事を、きれいさっぱり片付けます」

その絶対的な自信に満ちた言葉に、凛は無意識のうちに下唇を軽く噛んだ。

深く思考する時の、彼女の癖だった。

慧は、その小さな仕草を見逃さなかった。

「条件があります」と、凛は言った。

「佐藤暁との私的な関係を完全に清算するまで、私がCEOとして公の場に出ることはできません」

「承知しました」

慧は、間髪入れずに頷いた。

「では、それまでは、謎の特別業務顧問として、裏から指揮を執っていただくというのはいかがでしょう」

「もう一つ 一ヶ月の試用期間をいただきたい もし、あなた方の理念と私の考えが合わなければ、私はいつでもここを去ります」

凛は、最後の防御壁を築くように言った。

慧は、ゆっくりと立ち上がった。

そして、大きなデスク越しに、凛に向かって右手を差し出した。

彼の瞳には、揺るぎない確信が宿っていた。

「一ヶ月後、あなたをここから離したくなくさせてみせますよ」

凛は、その骨張った、力強い手を見つめた。

心の中の葛藤は、ほんの数秒だった。

彼女は、意を決して自分の手を伸ばし、彼の手を握った。

手のひらが触れ合った瞬間、凛は、長い間忘れていた、対等なパートナーシップの感覚と、力強い信頼感をそこに感じた。

その後、慧はすぐさま、中核となる開発チームを招集した。

会議室で、彼は凛を「新任の特別業務顧問」として紹介した。

凛は、彼らが構想している新しい金融派生商品の予測モデルについて、静かに耳を傾けた。

やがて、プロジェクトリーダーが技術的な袋小路に陥った時、凛はすっと立ち上がった。

彼女はホワイトボードマーカーを手に取ると、彼らのアルゴリズムに潜む二つの致命的な論理的欠陥を、一言で指摘した。

そして、修正後のあるべき数式を、淀みなくボードに書き連ねていく。

会議室は、十秒間、水を打ったように静まり返った。

その後、堰を切ったように、技術者たちからの心からの賞賛と、熱烈な拍手が巻き起こった。

会議室の主座に座っていた慧は、ホワイトボードの前で自信に満ちた光を放つ凛の姿を、濃密な賞賛と、そして微かな独占欲の入り混じった眼差しで見つめていた。

会議が終わると、慧は提携を祝して、近くのミシュランレストランでの昼食を提案した。

しかし、凛は腕時計に目をやり、その誘いを丁寧に断った。

「これから、母の病院へ行かなければなりませんので」

慧は、少しも不快な顔を見せなかった。

それどころか、彼はすぐに内線電話を取り、彼女を病院まで送るよう、自身の専属運転手に命じた。

その完璧なまでの距離感に、凛は再び、目の前の男の底知れなさを感じた。

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代用品の私は婚約破棄を選び、ライバル企業の御曹司に溺愛される

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