話 2
「離婚届?」その言葉を聞いた瞬間、高崎星織の顔から血の気が一気に引いた。震える唇を噛みしめながら榊原徹を見つめた。
「あの結婚は父をなだめ、幸汐を守るための偽装だった」男の声は機械のように冷たい。 「今や彼女は戻った。用済みだ」
…用済み?高崎星織はその真意を悟った。
最初から全てが計算だ。醜い私との結婚は榊原家への嫌がらせ。今や役目は終わった──
「……ふ」思わず嗤いが零れた。
その笑みには、全てを諦めた諦念がにじんでいた。
「徹」彼女が睫を濡らしながら問った。 「この三年…私に一片の愛もなかったの?」
「あるわけないだろ」誰かの嘲笑が飛んだ。 「あのブス、妄想も大概にしろよ!」
「こいつ鏡使ったことねえのかよ!」
「無視…ただ徹の答えを聞かせて」高崎星織はそう思ったうちに、榊原徹を見つめた。
灼けるような視線の中心で、榊原徹が薄い唇を開いた。「ああ」
高崎星織の目頭が、ぱっと赤く染まった。 その瞬間、まるで心臓をぐいっと引き抜かれ、地面に叩きつけられた挙句、ぐしゃりと踏み砕かれるような──
鋭い痛み…
「…わかった」声がひび割れた。「今夜中に離婚届にサインする」
俯きながら繰り返した。「必ず…」
「明日10時、区役所だ」 榊原徹はそう言うと、背を向け、ソファへ戻って座り込んだ。
高崎星織は重い足取りで背を向け、ボックスからゆっくりと去っていった。
「徹、お腹いっぱいだから、このケーキ捨てていい?」 優しく繊細な女性の声が響いた。
高崎星織の背筋が凍りついた。
「ああ」
榊原徹の返事を聞き、彼女は苦悶の表情で目を閉じた。涙が雨水と混じり、頬を伝って落ちた。
彼女は最短でクラブを出て、夢映居に戻った。
ここは、彼女と榊原徹の家だった。
テーブルの上には、榊原徹が言った離婚届があった。
内容を素早く確認すると、離婚後は60億円と高級別荘2棟が彼女のものになる。
榊原徹は実に気前の良い夫だった。利用されただけの彼女にすら、十分な報酬を与えたのだ。
三年の結婚で、60億円と別荘2棟。 彼女の大勝ちだった。
高崎星織は笑いながらペンを握り、書類に自らの名前を記した。
「ぽたり」と水滴が紙に落ちた。素早く拭い去り、天井を見上げて涙を堪えた。
その時、LINEの着信音が鳴った。
高崎星織が携帯を見ると、師からのメッセージだった。
「星織、留学の件どう考えてる?」 「今回の海外留学は本当に良いチャンスだよ!」 「信じて、これを逃したら一生後悔する!」
そのメッセージを見て、高崎星織は決意を固めた。
指先に力を込めて返信した。「先生、行きます」
かつて彼女は迷っていた。この留学のチャンスを掴むべきかどうか。
今、全てが明らかになった。
行くべきだ!
新たな人生を切り開くために! 高崎星織だけの人生を歩むために!
メッセージを送ると、携帯をポケットにしまい、荷造りのため二階へ向かった。
雨に濡れたせいか、翌日は39度の高熱が出た。それでも必死に体を引きずり、10時前に区役所に着いた。
しかし11時近くまで待っても、榊原徹は現れなかった。
高崎星織は彼に電話をかけた。
電話が繋がると、受話器から女性の声が聞こえた。 「徹、これ見てくれる?」
続いて榊原徹の声。「用事がある。区役所はまた今度だ」 そう言うと、彼は電話を切った。
通話終了の画面を見つめ、高崎星織の喉が詰まった。
うつむいて榊原徹にメッセージを送信すると、SIMカードを抜き取りゴミ箱へ放り込んだ。
携帯をしまい、振り返らずに立ち去った。
今日こそ、彼女が和泉国へ飛び立つ日だった。
心に誓った。海外に行ったら、この男を絶対に忘れると。
話 3
三年後、波津市、黒川家。
広大な宴会場には光がきらめき、華やかな衣装の香りが漂い、賑わいに満ちていた。
黒川家は波津市八大家族の第四位。その地位は極めて重要。
今夜、黒川家当主の義娘が帰国したため、歓迎晩餐会が催されていた。
波津市上流社会の家族がほぼ揃っていた。
「徹、高崎星織も今日帰国したとか?」 隅の方で藤波景和が榊原徹に声をかけた。
それを聞き、榊原徹はワイングラスを持つ手を微かに止めた。二秒後、杯の赤い液体を一口含み「ああ」と喉を鳴らした。
彼は今日、肌に密着する濃紺のスーツを着込んでいた。髪型から服装まで、厳格で禁欲的なオーラを放っていた。
「ようやくか!あの醜女はとっくに席を譲るべきだった」 そう言いながら藤波景和は、榊原徹の隣に立つ滝沢幸汐を見た。
「おめでとう幸汐。もうすぐ君を『榊原若奥様』と呼べるな」
滝沢幸汐は上品に微笑んだ。「私にとっては徹のそばにいられるだけで十分。肩書きなんてどうでもいいの」
そう言いながらも、彼女の期待に満ちた視線は榊原徹から離れず、誰の目にも明らかだった。
榊原徹はうつむき、骨張った指でグラスを軽く叩き続け、沈黙を守った。
滝沢幸汐が視線を送ると、藤波景和は即座に応じた。「徹はお前をこんなにも愛してるんだ。高崎と離婚すればすぐに君を娶るさ」 「言うまでもないだろ?な、徹?」
榊原徹は彼らの言葉を完全に無視し、まぶたすら動かさなかった。
滝沢幸汐が唇を噛み締めようとした時、場内にざわめきが起こった。
彼らも顔を上げた。
最初に響いたのは、ハイヒールが大理石を打つ音だった。
「カツ、カツ…」そのリズムが観客の胸奥に刻まれるようだった。
すると、炎のような赤が視界に飛び込んだ。
現れた女性は深Vネックの真紅のドレスを纏い、輝くラメが鱗のように散りばめられていた。マーメイドスカートが歩みと共に優雅に揺れた。
そのくびれたウエストと妖艶な肢体は、全ての視線を釘付けにした。
小さな顔には彫りの深い五官。切れ長の狐目がアイラインで強調され、一層妖しい魅力を放っていた。
これは紛れもなく──誰もが自らの醜さを恥じるほどの美女だった!
「まいったな!この美女は何者だ?」 「波津市にこんな絶世の美女がいたなんて!」 藤波景和が驚嘆の声をあげた。
「ええ、本当に美しいわ」 滝沢幸汐も笑みを浮かべて同調した。
榊原徹が睡そうに目を上げたが、その女性を見た瞬間、瞳孔が鋭く縮んだ。
「彼女を狙う!今すぐ電話番号を聞く!俺の勝利を待てろよ!」 そう叫ぶと藤波景和は大股で進み出た。
女性の前に立つと、得意げな笑みを浮かべた。「やあお嬢さん!ご紹介を。藤波景和。父は藤波グループの社長だ」 「君のような美しい女性とお友達になれる栄光を頂けまいか?」
孔雀のように気取った男を見て、高崎星織はふと唇端を上げた。
かつて榊原徹の友人の中で、最も彼女を蔑んだ男がこの人物だった。
「臭ブス」「デブ豚」「醜女」…あらゆる罵声が浴びせられていた。
今その男が、発情した犬のように垂涎の眼差しを向けている。
考えてみれば…実に滑稽この上ない!
その妖艶な笑みに藤波景和が喉を鳴らした。「お嬢様のお名前は?」
高崎星織が紅唇を開こうとした時、低い男声が響いた。「星織…」