話 1
今夜、波津市は豪雨に見舞われていた。高崎星織はずぶ濡れの姿で「夢幻クラブ」に辿り着いた。
傘もささずに駆けたため制服は雨の重みで張り付いているが、抱えたケーキ箱だけは一滴の染みもない。
ボックス席の扉の前で、高崎星織は手を伸ばしてゆっくりと押し開けた。
「幸汐、君が姿を消したこの三年、徹は一分たりとも君を探すのを止めなかった。 ようやく戻ってきたな!」
その言葉に、高崎星織の足は瞬間的に止まった。
「幸汐?
まさか…徹の元恋人、滝沢幸汐のこと?」
「…徹が結婚したって聞いたんだけど?」優しい女声が響いた。
「はあっ!幸汐、あの女のことなんか気にするなよ。 あの時、榊原の老爺がお前を人質に徹を脅したんだ。『結婚しなきゃあの女を始末する』ってな」 「だから徹が結婚したのは、お前を守るためだったんだぜ」
「…そうなの?」滝沢幸汐は疑いを含んだ目を細めた。
「当たり前だろ!でなきゃ、徹がどうしてブサイクでデブの上に非嫡出子の高崎星織なんか選ぶんだよ? 「ただの嫌がらせだ!榊原の老爺をイラつかせるためにな!」
扉の外で聞いていた高崎星織の顔が、見る見る青ざめていった。
あの日、徹に「俺と結婚するか?」と聞かれた時、彼女は嬉しさのあまり一晩中眠れなかった。棚からぼた餅が降ってきたと思ったのだ。
だが真実は―彼女が醜く太っていて、しかも非嫡出子だったから。娶ることで老爺への復讐になる、ただそれだけだった…
「はっ…はははっ!」
高崎星織は泣き笑いをこらえながら、よろりと体を揺らした。
必死にドアノブを握りしめ、かろうじて姿勢を保つ。
「そろそろ5時間だぜ。高崎は絶対来ないだろうなあ? 蜜菓堂なんて東郊にあるし、往復だけで3時間はかかる。あの店は毎日行列ができてるんだぜ?あの女、そんな馬鹿じゃないよ」
「徹が頼めば東郊どころか、绫野市だって彼女は飛んでいくさ」 「徹にぞっこんだってこと、周知の事実じゃねえか!」 「はははっ!」
嘲笑と蔑みの混じった言葉を浴びせられながら、高崎星織は無表情で深く息を吸った。ぐっとドアノブを握りしめ、扉を押し開けた。
室内に入ると、ソファ中央に座る天の寵児のように輝く男が視界に飛び込んだ。
長い脚を組み、優雅にソファにもたれるその姿は、気怠さの中に威厳をたたえていた。
彫刻のような顔立ちは、どの角度から見ても完璧で― 微細な欠点さえ見当たらない。
彼こそが夫であり、燿星財団の現支配者・榊原徹だった。
高崎星織の姿を見て、ボックス内は水を打ったように静まった。
「幸汐、徹の妻がどんな女か知りたがってたろ?」嘲る声が響いた。「ほら、こんなだよ」
彼女の姿は確かに惨めだった。雨に貼り付いた服がふくよかな体を露わにし、
髪は顔にべったりと張り付き、左頬には触れるのも厭う黒斑があった。
無数の侮蔑の視線を無視し、高崎星織は榊原徹の前に進み出た。「徹、頼まれたムースケーキよ」と無理に笑みを作りながらテーブルに箱を置いた。
榊原徹は冷たい視線すらくれず、ケーキを滝沢幸汐の前に押しやった。「食べな」と低い声がした。
「ただの戯れ言なのに…」滝沢幸汐が照れくさそうに唇を噛んだ。「高崎さんに行かせるなんて」
「…え?」高崎星織は雷に打たれたように目を見開いた。唇が震えた。
心臓を刃でえぐられるような痛みが走る。
5時間も雨の中を奔走して手に入れたケーキが――滝沢幸汐のために?
「幸汐、徹がお前をどれだけ大切にしているか、知ってるだろう?」 「ケーキなんてものじゃない。『星が欲しい』と言えば、徹は夜空を引き裂いてでも摘んでくるかもしれない」
「そうそう!遠慮するなよ、幸汐さん。高崎が東郊まで5時間も必死で走って買ってきたんだからな!」 「彼女の『献身的な好意』を無駄にするなんて、罪深いじゃないか?」
高崎星織は垂れた手をぎゅっと握りしめ、爪が掌に食い込んだ。今この瞬間、自分は光る舞台で嘲笑されるピエロに違いない。
その時、ソファから榊原徹が立ち上がった。影のように静かな足取りで、二歩、三歩と彼女の目前に迫る。
「離婚届は居間のテーブルだ」氷のような声が頭上から降り注んだ。「今夜中にサインしておけ。お前の出ていく最後の仕事だ」
話 2
「離婚届?」その言葉を聞いた瞬間、高崎星織の顔から血の気が一気に引いた。震える唇を噛みしめながら榊原徹を見つめた。
「あの結婚は父をなだめ、幸汐を守るための偽装だった」男の声は機械のように冷たい。 「今や彼女は戻った。用済みだ」
…用済み?高崎星織はその真意を悟った。
最初から全てが計算だ。醜い私との結婚は榊原家への嫌がらせ。今や役目は終わった──
「……ふ」思わず嗤いが零れた。
その笑みには、全てを諦めた諦念がにじんでいた。
「徹」彼女が睫を濡らしながら問った。 「この三年…私に一片の愛もなかったの?」
「あるわけないだろ」誰かの嘲笑が飛んだ。 「あのブス、妄想も大概にしろよ!」
「こいつ鏡使ったことねえのかよ!」
「無視…ただ徹の答えを聞かせて」高崎星織はそう思ったうちに、榊原徹を見つめた。
灼けるような視線の中心で、榊原徹が薄い唇を開いた。「ああ」
高崎星織の目頭が、ぱっと赤く染まった。 その瞬間、まるで心臓をぐいっと引き抜かれ、地面に叩きつけられた挙句、ぐしゃりと踏み砕かれるような──
鋭い痛み…
「…わかった」声がひび割れた。「今夜中に離婚届にサインする」
俯きながら繰り返した。「必ず…」
「明日10時、区役所だ」 榊原徹はそう言うと、背を向け、ソファへ戻って座り込んだ。
高崎星織は重い足取りで背を向け、ボックスからゆっくりと去っていった。
「徹、お腹いっぱいだから、このケーキ捨てていい?」 優しく繊細な女性の声が響いた。
高崎星織の背筋が凍りついた。
「ああ」
榊原徹の返事を聞き、彼女は苦悶の表情で目を閉じた。涙が雨水と混じり、頬を伝って落ちた。
彼女は最短でクラブを出て、夢映居に戻った。
ここは、彼女と榊原徹の家だった。
テーブルの上には、榊原徹が言った離婚届があった。
内容を素早く確認すると、離婚後は60億円と高級別荘2棟が彼女のものになる。
榊原徹は実に気前の良い夫だった。利用されただけの彼女にすら、十分な報酬を与えたのだ。
三年の結婚で、60億円と別荘2棟。 彼女の大勝ちだった。
高崎星織は笑いながらペンを握り、書類に自らの名前を記した。
「ぽたり」と水滴が紙に落ちた。素早く拭い去り、天井を見上げて涙を堪えた。
その時、LINEの着信音が鳴った。
高崎星織が携帯を見ると、師からのメッセージだった。
「星織、留学の件どう考えてる?」 「今回の海外留学は本当に良いチャンスだよ!」 「信じて、これを逃したら一生後悔する!」
そのメッセージを見て、高崎星織は決意を固めた。
指先に力を込めて返信した。「先生、行きます」
かつて彼女は迷っていた。この留学のチャンスを掴むべきかどうか。
今、全てが明らかになった。
行くべきだ!
新たな人生を切り開くために! 高崎星織だけの人生を歩むために!
メッセージを送ると、携帯をポケットにしまい、荷造りのため二階へ向かった。
雨に濡れたせいか、翌日は39度の高熱が出た。それでも必死に体を引きずり、10時前に区役所に着いた。
しかし11時近くまで待っても、榊原徹は現れなかった。
高崎星織は彼に電話をかけた。
電話が繋がると、受話器から女性の声が聞こえた。 「徹、これ見てくれる?」
続いて榊原徹の声。「用事がある。区役所はまた今度だ」 そう言うと、彼は電話を切った。
通話終了の画面を見つめ、高崎星織の喉が詰まった。
うつむいて榊原徹にメッセージを送信すると、SIMカードを抜き取りゴミ箱へ放り込んだ。
携帯をしまい、振り返らずに立ち去った。
今日こそ、彼女が和泉国へ飛び立つ日だった。
心に誓った。海外に行ったら、この男を絶対に忘れると。
話 3
三年後、波津市、黒川家。
広大な宴会場には光がきらめき、華やかな衣装の香りが漂い、賑わいに満ちていた。
黒川家は波津市八大家族の第四位。その地位は極めて重要。
今夜、黒川家当主の義娘が帰国したため、歓迎晩餐会が催されていた。
波津市上流社会の家族がほぼ揃っていた。
「徹、高崎星織も今日帰国したとか?」 隅の方で藤波景和が榊原徹に声をかけた。
それを聞き、榊原徹はワイングラスを持つ手を微かに止めた。二秒後、杯の赤い液体を一口含み「ああ」と喉を鳴らした。
彼は今日、肌に密着する濃紺のスーツを着込んでいた。髪型から服装まで、厳格で禁欲的なオーラを放っていた。
「ようやくか!あの醜女はとっくに席を譲るべきだった」 そう言いながら藤波景和は、榊原徹の隣に立つ滝沢幸汐を見た。
「おめでとう幸汐。もうすぐ君を『榊原若奥様』と呼べるな」
滝沢幸汐は上品に微笑んだ。「私にとっては徹のそばにいられるだけで十分。肩書きなんてどうでもいいの」
そう言いながらも、彼女の期待に満ちた視線は榊原徹から離れず、誰の目にも明らかだった。
榊原徹はうつむき、骨張った指でグラスを軽く叩き続け、沈黙を守った。
滝沢幸汐が視線を送ると、藤波景和は即座に応じた。「徹はお前をこんなにも愛してるんだ。高崎と離婚すればすぐに君を娶るさ」 「言うまでもないだろ?な、徹?」
榊原徹は彼らの言葉を完全に無視し、まぶたすら動かさなかった。
滝沢幸汐が唇を噛み締めようとした時、場内にざわめきが起こった。
彼らも顔を上げた。
最初に響いたのは、ハイヒールが大理石を打つ音だった。
「カツ、カツ…」そのリズムが観客の胸奥に刻まれるようだった。
すると、炎のような赤が視界に飛び込んだ。
現れた女性は深Vネックの真紅のドレスを纏い、輝くラメが鱗のように散りばめられていた。マーメイドスカートが歩みと共に優雅に揺れた。
そのくびれたウエストと妖艶な肢体は、全ての視線を釘付けにした。
小さな顔には彫りの深い五官。切れ長の狐目がアイラインで強調され、一層妖しい魅力を放っていた。
これは紛れもなく──誰もが自らの醜さを恥じるほどの美女だった!
「まいったな!この美女は何者だ?」 「波津市にこんな絶世の美女がいたなんて!」 藤波景和が驚嘆の声をあげた。
「ええ、本当に美しいわ」 滝沢幸汐も笑みを浮かべて同調した。
榊原徹が睡そうに目を上げたが、その女性を見た瞬間、瞳孔が鋭く縮んだ。
「彼女を狙う!今すぐ電話番号を聞く!俺の勝利を待てろよ!」 そう叫ぶと藤波景和は大股で進み出た。
女性の前に立つと、得意げな笑みを浮かべた。「やあお嬢さん!ご紹介を。藤波景和。父は藤波グループの社長だ」 「君のような美しい女性とお友達になれる栄光を頂けまいか?」
孔雀のように気取った男を見て、高崎星織はふと唇端を上げた。
かつて榊原徹の友人の中で、最も彼女を蔑んだ男がこの人物だった。
「臭ブス」「デブ豚」「醜女」…あらゆる罵声が浴びせられていた。
今その男が、発情した犬のように垂涎の眼差しを向けている。
考えてみれば…実に滑稽この上ない!
その妖艶な笑みに藤波景和が喉を鳴らした。「お嬢様のお名前は?」
高崎星織が紅唇を開こうとした時、低い男声が響いた。「星織…」