話 2
篠田瑞紀 POV:
電話を切った後, 私は深呼吸をした. 決意は固い.
深夜, 和真はまるで何もなかったかのように帰宅した. 彼は私の隣に寝転び, 私の額にキスをした. その偽りの優しさに, 私は吐き気を覚えた.
「瑞紀, 愛してるよ. 」
彼の言葉が, 私の耳元で冷たく響いた. 私は彼の体に触れることすら嫌悪感を覚えたが, ぐっと堪えた. 今はまだ, 彼の演技に付き合う必要がある.
その時, 和真のスマホが鳴り響いた. 電話に出た彼の表情は, 一瞬にして凍りついた.
「会社に緊急事態が発生した. すぐに行かなければならない. 」
彼はそう言って, 慌ただしく家を飛び出した. 私は彼の後ろ姿を見送りながら, 静かにスマホを取り出した. 探偵に依頼して取り付けたGPSは, 和真の車がどこに向かっているのかを正確に示していた.
目的地は, やはりあの秘密の別荘だった.
私は車を走らせ, 別荘から少し離れた場所に車を停めた. 和真の車が, 別荘の前に停まった. すると, 亜佳里が嬉しそうに和真の車に乗り込んだ. 車体が激しく揺れ動くのを見て, 私は目を閉じた. 私の胸の奥から, 言いようのない吐き気がこみ上げてきた.
私は車内の盗聴アプリを起動させた. この盗聴器は, かつて和真が私へのプレゼントだと言ってくれたもので, 私の安全を守るためだと言っていた. 今となっては, その言葉もまた, 彼の欺瞞の一つでしかなかった.
「和真, 昨日はどうして帰ってこなかったの? 瑞紀のところに行っていたの? 」
亜佳里の声が, 甘ったるく響いた.
「ああ, 瑞紀は最近体調が悪いんだ. 少し休ませてやっていただけだ. あいつはもう, 俺の体にはついていけないからな. 」
和真の言葉に, 私の全身の血液が逆流するような感覚に襲われた. あの優しかった和真は, どこにもいない. 彼は, 私の体調を気遣うふりをしながら, 心の中で私を嘲笑っていたのだ.
「そんなこと言わないで, 和真. 今夜は私のそばにいてくれるかしら? 」
亜佳里の声が, 私の耳の奥で虫唾が走るような不快感を与えた.
「分かったよ, 亜佳里. お前の言う通りにする. 」
和真の声が, 私には聞こえた. 私は, 彼が亜佳里を抱きしめ, 別荘の中へと入っていく姿を見た.
私は一晩中, 車の中で和真を待ち続けた. なぜ, 彼はこんなにも変わってしまったのだろう. かつて, 私のすべてだった彼は, もうどこにもいなかった.
朝方, 和真は私の家に戻ってきた. 彼はシャワーを浴びたフリをし, 私に笑顔を見せた.
「瑞紀, おはよう. 今夜, 会社主催のオークションがあるんだ. 一緒に行かないか? 君のための特別なものを用意しているんだ. 」
彼は私の額にキスをし, 私を抱きしめた. 私は彼の胸の中で, 吐き気を抑えながら, 小さく頷いた.
オークション会場に着くと, 私は和真の腕に抱きしめられながら, 彼の隣に座った. すると, 突然, 亜佳里が会場に現れた. 彼女は私に挑戦的な視線を送りながら, 和真に近づこうとした.
和真は嫌悪感を露わにし, 亜佳里を冷たく突き放した.
「亜佳里, どうしてここにいるんだ? お前には関係ないだろう. 」
亜佳里は困ったように私に視線を向け, 目に涙を浮かべた.
「和真, ひどいわ. 私, あなたと結婚するために, ずっと頑張ってきたのに…. 」
その言葉に, 会場のざわめきが広がった. 和真が私を強く抱きしめながら, 亜佳里を非難した.
「黙れ, 亜佳里! 君は俺の秘書だ. その立場をわきまえなさい. 瑞紀を困らせるな. 」
亜佳里は泣きながら会場を飛び出した. 和真は再び私の額にキスをし, 私を席へと案内した. 彼の顔には, 苛立ちがはっきりと見て取れた. 彼の足は, 落ち着きなく貧乏ゆすりをしていた.
和真は, 高価な宝石をあっという間に落札し, 私にこう言った.
「瑞紀, すまない. 会社に急用ができた. 先に帰るよ. 」
彼はそう言って, 会場を後にした. 周りの人たちは, 和真が私をどれほど愛しているかを羨ましそうに語り合った. 私は心の中で, 嘲笑った.
和真の後を追うように, 私は会場を後にした. 洗面所の前を通りかかると, 和真と亜佳里の淫猥な会話が耳に飛び込んできた.
「和真, どうして私をあんなふうに扱うのよ? 私があなたの本物の妻じゃないの? 」
亜佳里の声が, 不満そうに響いた.
「黙れ. お前は俺の妻だ. だが, 公にできない事情があるんだ. 瑞紀を利用していることは, 誰にも知られてはならない. 」
和真の声は, 冷酷だった.
「じゃあ, いつになったら私を正式に紹介してくれるの? 私たちも盛大な結婚式を挙げたいわ. 」
「それは無理だ. 瑞紀の姉さんのプロジェクトは, 俺にとって非常に重要なものだ. それを手に入れるまでは, 瑞紀を離すことはできない. 」
亜佳里が何やらねだった後, 聞こえてきたのはキスをする音だった. 吐き気を覚えた私は, その場から逃げ出した.
和真は, 私にとって完璧な恋人だった. しかし, それらはすべて, 彼の作り上げた虚像だったのだ. 彼が私に注いだ愛は, すべて欺瞞に満ちたものだった.
私はあと六日だけ, この悪夢に耐えなければならない. 私はスマホを取り出し, 秘書に電話をかけた.
「私の資産と, 姉のプロジェクトの詳細な明細を整理してください. 今すぐ. 」
秘書は困惑した様子だったが, すぐに私の指示に従った. しばらくして, 秘書から驚くべき報告が入った.
「篠田様, 大変申し訳ございません. 篠田様の姉様が遺されたプロジェクトは, すでに萱野亜佳里様の管理下にあります. 」
話 3
篠田瑞紀 POV:
「私のプロジェクトが, あの女のものだと? 」
秘書からの報告に, 私の電話を持つ手が震えた. 姉が命を懸けて作り上げたAI医療診断システム. それは, 私たちの父親が生涯をかけて追求した慈善事業の結晶だった. 父は, どんな人間でも, 貧富の差なく最高の医療を受けられるべきだと信じていた. その理念を継承し, 姉は私と共にこのプロジェクトに心血を注いだのだ.
妊娠中も, 私はこのプロジェクトに深く関わっていた. 和真は, 私が苦しんでいる時も, いつもそばで支えてくれた. その彼が, まさか私の姉の遺産を横取りするとは. 怒りよりも, 深い絶望が私を襲った.
私はすぐに会社に駆けつけた. 秘書が慌てた顔で私を迎えた.
「篠田様, 亜佳里様が…. 」
「分かっているわ. 彼のパソコンのパスワードは知っているから, 入れて. 」
和真のパスワードは, 私の誕生日だった. そんな, ささやかな愛情表現も, 今となっては醜い欺瞞にしか思えなかった.
私が社長室に向かうと, 亜佳里が慌てて廊下から飛び出してきた. 彼女の顔には, 和真と過ごした夜の痕跡がはっきりと残っていた.
「篠田さん, ここはあなたの来る場所ではありません! あなたがプロジェクトに関わるのは, もう和真様がお許しになりません! 」
彼女は私を阻むように, 腕を広げた. その腕には, 和真との関係を誇示するような, 赤い痕が残っていた.
「どいて! 」
私は亜佳里を突き飛ばし, 社長室へと入った. 亜佳里はヒステリックに叫んだ.
「何をするのよ! この泥棒猫! 和真様から離れてちょうだい! 」
その時, 和真が社長室に駆け込んできた. 彼は私を見て, 驚いたような顔をした.
「瑞紀, どうしてここに? 先に帰ったはずじゃ…. 」
私は彼の言葉を遮り, パソコンの画面に表示されたデータを指差した.
「見て, 和真. このプロジェクトのデータ, 異常よ. 資材の仕入れ履歴, 単価, 使用量…すべてが数倍に膨れ上がっている. これは, 誰かが中抜きしている証拠よ. 」
私の言葉に, 和真の顔色が変わった. 亜佳里の顔は, 真っ青になっていた.
「これは…どういうことだ, 亜佳里. 」
和真が亜佳里に問い詰めると, 亜佳里は途端に涙ぐんだ.
「和真様, ごめんなさい. 私, お金が欲しくて…. 私, 貧しい家に生まれたから…. 許してください…. 」
彼女は膝を突き, 和真にすがりついた. 和真は, そんな亜佳里を見て, 同情的な目を向けた.
「和真, 騙されないで. この女はそんな人間じゃないわ. すぐに警察に通報するから. 」
私の言葉に, 亜佳里は怯えたように身を震わせた. その時, 一人の男の子が社長室に飛び込んできた. 彼は私に体当たりし, 私を転倒させた.
「ママをいじめるな! このブス! パパ, この女を懲らしめて! 」
男の子の声に, 私の意識は遠のいた. 頭を強く打ち付けた衝撃で, 目の前が真っ白になった.
「瑞紀, 大丈夫か! 」
和真が駆け寄ってきた. 亜佳里は男の子を抱きしめながら, 私に勝ち誇ったような視線を送っていた.
「和真様, この子を叱らないで. まだ小さいんですもの. 」
亜佳里は, どこか私を挑発するように言った.
「瑞紀, 子供相手に何をそんなに怒っているんだ. 亜佳里, お前は莉世を連れて, 先に帰りなさい. 」
和真は私を責めるように言った. 私は怒りに震えながら, 和真に問い詰めた.
「和真, あなたは何を言っているの? この子, あなたの子供じゃないの? あなたには, 私との間に生まれた莉世しかいないって言ったじゃない! 」
私の言葉に, 和真の顔色が変わった. 彼は一瞬, 怯んだように見えたが, すぐに怒りの表情を浮かべた.
「何を馬鹿なことを言っているんだ! 俺の子供は, お前との間に生まれた莉世しかいない! お前も, 莉世も, 俺にとって大切な家族なんだ! 」
「大切な家族, ですって? あなたは自分の娘にさえ, まだ名前を付けていないじゃないの! 」