話 1
国家機密レベルの任務を終えた直後、一本の電話がかかってきた。
「お母さん!一年間準備してきた世界連盟事務局のインターン、ついに受かったの!」
娘の声は、弾むような歓喜に震えていた。
そのままビザの準備に取りかかり、「何を持っていけばいい?」と立て続けに3つも音声メッセージが届く。
だが――一週間後。娘のGPS腕時計の座標は、学校の管理棟3階から一向に動かない。
嫌な胸騒ぎがして、秘密裏に帰国して学校を訪ねたとき、目に飛び込んできたのは――壁の隅に、まるで犬のように繋がれた娘の姿だった。
その傍らで、嘲りに口元を歪めた少女が言い放つ。
「貧乏人のくせに、うちのパパからもらった世界連盟の職を騙るなんて―― 死にたいの?」
それに追従するように、担当の教員までが卑屈にうなずいた。
「蘇原いおりさんのお父様はこの国で一番の資産家で、お母様は国家級の専門家。このポジションは彼女以外あり得ませんよ」
眉間に、ぴくりと皺が寄る。
世界連盟の事務局職――
それは、娘が全身全霊をかけて勝ち取ったものではなかったか?
“この国で一番の資産家”と“国家級の専門家”。
それは、どう考えても私と、あの「ヒモ夫」のことだろう。
私は迷いなく、ある番号に電話をかけた。
「……外に“娘”がいるって聞いたんだけど?」
...............
「仕事でちょっと疲れてるんじゃない?」
「君と歓を大事にするだけで精一杯だよ。ほかの誰かを気にかける余裕なんて、あるわけないだろ」
雪村思遠のいつもと変わらぬ優しい声に、胸の奥の小さな疑念は、あっという間に霧のように消えていった。
雪村思遠は、業界でも評判の“理想の夫”。この十年間、私と娘への愛情は一度も揺らいだことがない。
女友達との集まりでは、決まって誰かが茶化すように聞いてくる。「どうやって夫をそんなに手懐けてるの?」と。
けれど、秘訣なんてない。
私たちは、いわゆる学生結婚組。大学に入ってすぐに出会い、恋に落ちた。
あの頃、私は資産家の娘であることを隠していた。彼は、バイトでどうにか食いつなぐ苦学生だった。
それでも彼は、毎朝欠かさず、街で一番高い胃にやさしい朝ごはんを買ってきてくれた。
真冬の凍える朝には、周りの目も気にせず、頑なに教室の一番暖かい席を取ってくれていた。
結婚後、私は会社の経営をすべて彼に任せたが、彼は私と娘に対して少しも手を抜くことなく、むしろいっそう丁寧に接してくれた。
電話口の彼は、相変わらず体調を気遣う言葉をかけ続けていた。
けれど、私は慌ただしく通話を切った。
傍らで蘇原いおりが皮肉たっぷりにあざ笑っていたが、そんな言葉に構っている暇などない。
娘の首に巻かれた荒い麻縄が、肌を裂き、血が滲んでいたのを見たからだ。
「歓!」
正気を失ったように飛びかかり、必死で縄を剥がそうと指をかけた。
だが、あまりにきつく縛られていて、爪が食い込んでも血の皮一枚を剥がすのがやっとだった。
麻縄の繊維で爪が折れ、赤い血が指先からぽたぽたとこぼれ落ち、蒼白な歓の顔に滴った。彼女はほとんど息も絶え絶えな声で「ママ……」と呼んだ。
胸の奥がえぐられるように痛んだ。
私は咄嗟に口を開け、その縄を噛み切ろうとした。
「ははは、早く撮って!」蘇原いおりが甲高く笑った。「見て見て!このおばさん、犬みたいに縄を噛んでるわ!」
彼女は私の背後に目配せした。
すると、順番待ちをしていた生徒や保護者たちが一斉にスマホを構え、撮影や配信を始めた。
「この人、全国一の富豪と書記長の娘なんだってさ!空気読んでさっさと譲りなよ!」
「蘇原さんは天下の千金様よ?」担当の教員までスマホを構えながら近づいてきた。「貧乏人のくせに、秘書課の枠を横取りしようなんて図々しいにもほどがあるわ」
蘇原いおりはまた大げさに笑い出した。「見た目はまともぶってても、やっぱり中身はあの娘と同じ下品な犬!親子そろって縄かじりだなんて! これ、ネットに上げたら絶対バズるわ!」
私は聞く耳を持たなかった。
歯を強く食いしばって麻縄に噛みつく。
縄の棘が歯茎に刺さるのも構わず噛み続け、口中が鉄錆の味で満たされた頃、ようやく縄が切れた。
だが、娘を抱き上げる前に――
腐った鶏の骨が娘の顔を直撃した。
「犬って骨が大好きでしょ?」蘇原いおりが腹を抱えて笑い転げる。
もう限界だった。私は反射的に手を振り上げ、彼女の頬を思いきり叩いた。
「パシッ!」
鼻梁が折れる音がして、噴き出した血がスマホのレンズに飛び散った。
「な、何すんのよっ!?」蘇原いおりは信じられないといった顔で腫れた頬を押さえた。
その直後、甲高い悲鳴が上がり、教員も慌てて動いた。
ティッシュを引っ掴み、蘇原いおりの鼻血を拭きながら怒鳴りつける。
「江島歓の母親、あんた正気!? 自分が何したかわかってんの!?」
私は娘をしっかりと抱きしめながら、片手で上層部に電話をかけた。
「張嶋先生、娘が怪我をしました。季村博士に、チームを率いて来てもらえますか」
受話器の向こうでは重い声が返ってきた。
「了解した。すぐに彼を向かわせる」
話 2
お礼を言おうとした矢先、イヤホンが蘇原いおりに乱暴に引きちぎられ、床に叩きつけられて粉々になった。
「季村博士ですって?」耳をつんざくような鋭い声で彼女が嘲る。「あんたみたいなのが、あの季村博士を知ってるとでも? あの人は国家の重鎮の診察すら任される国の宝よ。うちの母が先月頭痛で寝込んで、父が2億円積んでも来てもらえなかったんだから!」
私は黙って、ゆがんだ彼女の表情を見つめ返した。
たしかに季村衡は、いまや上層部専属の名医となっている。だが私と彼は幼なじみで、物心ついた頃から一緒に育ってきた。その絆は、金で測れるようなものではない。
「母がもうすぐ来るわよ」彼女は見下ろすように私を指差した。「今すぐ土下座して犬みたいに鳴きながら謝りなさい。さもないと、あんたたち、命はないと思いなさい!」
私は聞こえないふりをして、娘のパスポートを拾いに腰をかがめた。
その枠を、あの子が代わるなんて絶対にありえない。
娘はこの実習のために、一年間ずっと準備を重ねてきた。
念には念を入れて、『世界連盟憲章』の六か国語版を全て揃え、ノートには注釈と覚え書きをぎっしり書き込んでいた。
語学試験に備えて、三か月間毎日四時間しか寝ず、発音練習の録音を何度も繰り返し、喉を痛めてもなお、のど飴をなめながら練習を続けた。
一度、深夜に帰宅したときのことを思い出す。机に突っ伏して眠っていた歓の頬には『国際法』の教科書の跡が残り、腕には眠気を覚ますために自分でつけた爪の痕が赤く刻まれていた。
「お母さん、私、絶対にやり遂げたいの」 涙ぐみながら、あの子はそう言った。「このチャンス、自分の実力で勝ち取りたいの」
最終面接のあと、面接官からわざわざ電話がかかってきた。彼は言った――娘は今までで最も準備が行き届いた候補者だったと。
このインターンの枠は、あの子が眠れぬ夜を重ね、手にできたタコと、枯れた声と、血のにじむような努力で、やっと勝ち取ったものだ。
決められた時間内に娘を現地に送り出すことさえできれば、間違いなくこのポジションは彼女のものになる――
だが、私の指がパスポートのカバーに触れたその瞬間、蘇原いおりが発狂したように飛びかかってきた。
「自分が何様だと思ってるのよ!?」 蘇原いおりがヒステリックに叫びながら、私のパスポートをひったくって粉々に引き裂いた。「これで世界連盟に行けると思うな!」
紙片が雪のように舞い落ちた。
心が奈落に沈むのを感じた。
パスポートの再発行には最短でも三日かかる。だが、世界連盟からの報到期限は明日までだった。
「逃がすな!」背後で派手な化粧をした保護者が、私の腕を掴んできた。鋭い爪が肌に食い込む。「蘇原さんはまだ怒ってるのよ!」
ゆっくりと顔を上げ、鋭利な刃のような視線をその場の全員に投げかけた。
怒っていないのに、自然と周囲を威圧する気配――その場にいた人々は一瞬で動きを止め、
息をする音さえ鮮明に聞こえるほどの静寂が落ちた。
「蘇原いおり――お前には一生わからない。お前が壊したものが、どれだけのものだったか」 一語一語、氷をかませたような冷たい声音で告げる。「お前の素性を調べ上げたら、そのときは――命が二つあるよう祈っておくことね」
視線を、腕をつかんでいた保護者のほうに移し、その息子の胸元に下がる校章を見つめる。「張嶋思紹、張嶋家の子ね。父親は――張嶋明遠」
口元に冷笑を浮かべる。「明日から、あなたたちの会社は破産整理の準備を始めなさい」
母子の顔色は一瞬で青ざめ、母親の手が震えながら私の腕を離した。
「どういうこと!?」と、けたたましい女の声が扉の向こうから響いた。
香水の匂いをこれでもかと漂わせて、蘇原佳代が怒りに満ちた顔で教室に踏み込んでくる。
彼女の目が場内をひととおり見回し、最終的に私をロックオンする。「あなたが、うちの大事な娘をいじめたっていうの!?」
蘇原いおりが、すかさず母の胸元に飛び込む。「お母さん!この人、私を殴っただけじゃなく、殺すってまで言ったの!」
その言葉に、蘇原佳代の目つきが一気に陰り、殺気を帯びる。
暑さに汗がにじみ、傷に染みて娘が震える。
……その哀れな姿を見た瞬間、私の中で何かがぷつんと切れた。
――パァン!
もう一発。蘇原いおりの頬を容赦なく打ちつけた。今度は勢いが強すぎて、顔面に埋め込まれていた何かが吹き飛ぶ。
「よく見なさい、この目で!」私はバッグから証明書を取り出し、机の上に叩きつけた。「私は国家研究院の首席専門家。そして、私の夫こそが真の資産トップ。今すぐ私たちを通しなさい。そうすれば……今回のことは見逃してあげる」
蘇原いおりは、血が滴る鼻を押さえながら、ヒステリックに叫んだ。「うそつけ!うちのパパこそが本当の大富豪よ!あんたなんか、ただの偽物でしょ!」
その叫びと同時に、蘇原佳代が後ろに視線を送ると、数人の保護者たちがすぐさま駆け寄り、私を力ずくで地面に押さえつけ、無理やり跪かせた。
娘の体が私の腕から滑り落ち、床に激しく叩きつけられた。小さな身体はそのまま意識を失い、動かなくなる。
「この女め!どうせ証拠も偽物なんでしょ、今どき画像なんて簡単に加工できるんだから!」 蘇原佳代が腕を振り上げた瞬間、私の目を見た途端にその手が止まった。威圧するような視線に気圧されたのか、結局彼女はただ鼻で笑って言い放った。「とにかく賠償しなさい!娘の整形代として、2000万払ってもらうわよ!」
「いいでしょう」私は冷たく笑いながら答えた。
その場の空気が一瞬にして凍りついた。あまりにもあっさりと応じたことで、誰もが言葉を失った。
「ただし……」私は視線を一掃しながら続けた。「うちの娘が着ていた服は、オートクチュール。そして、あんたたちが引きちぎったネックレスも合わせて、総額は2億を超えるのよ。――さあ、次はあんたたちが私に払う番ね」
辺りは水を打ったように静まり返った。蘇原母娘の顔はみるみる赤く染まり、怒りと羞恥でわなわなと震えていた。「だ、誰が本物のブランド品だって証明できるのよ……偽物かもしれないじゃない!」
「本物かどうかなんて、今はどうでもいいわ。 どうしたの? たった2億ぽっち――“富豪夫人”には払えない額なの?」私は皮肉げに微笑む。
保護者たちは互いに顔を見合わせ、徐々に蘇原佳代に向ける視線に疑念が混じり始めた。
すると彼女は突如として黒いカードを取り出し、私の足元に勢いよく叩きつけた。「これ見なさい!国家警備庁の幹部から特別に与えられた報奨カードよ!このカードで、あんたのボロ服なんて100着でも買ってやるわ!」
後ろにいた保護者たちの目がまたしても見開かれる。そして、ざわめきが広がった。
「えっ、本物なの……!?政府の黒カードだなんて、信じられない……」
「間違いないわ。見て、国家警備庁の印章と金箔の文字入りよ…… 噂には聞いてたけど、まさか本当に目にする日が来るなんて……!」
「やっぱり、あの人が本物で、この女が偽物だったのね……!」
瞳孔が一瞬で縮まった。
このカード……まぎれもなく、先月組織から表彰として受け取ったものだ。
全国にたった一枚しか存在しない特別なカード。
それを自分の手で夫に渡し、娘のお小遣い用に使ってほしいと頼んだはずなのに。
まさか……あの模範的な夫が、本当に浮気を――?
いや、そんなはずはない。
私たちは結婚前にきちんと契約を交わしていた。離婚となれば、原因がどちらにあろうと、彼は一切の財産を放棄する取り決めだった。
それ以前に、長年積み重ねてきた私たちの絆があるし、彼はそんな馬鹿な真似をするような人間じゃない。
蘇原佳代は、私の衝撃を隠しきれない顔を見て満足げに微笑み、誇らしげに電話をかけた。「あなた、私たち母娘がいま、いじめられてるの。すぐ来て」
通話を終えると、勝ち誇ったように私を見下ろす。「うちの夫がもうすぐ来るわ。 どれだけ本物の富豪ってものがすごいか、思い知らせてあげる」
私は激痛に耐えながら、娘を腕の中に抱き寄せた。来るなら来い――そう覚悟を決めた。
やがて、オフィスの扉が開いた。姿を現したその人物を見た瞬間――私と娘は同時に、凍りついた。
話 3
それは、十年間連れ添った夫――雪村思遠だった。
「……あなた」声が震えた。
雪村思遠は、私たち母娘の姿を見て一瞬たじろいだが、すぐに無表情へと戻った。「申し訳ありませんが、あなたのことは存じ上げません」
蘇原親子の顔に、これ以上ない安堵と勝ち誇りが浮かぶ。
蘇原佳代は彼の腕にすがりつき、媚びるような笑みを浮かべた。「あなた、この母娘があなたの家族を騙って、うちのいおりを傷つけたのよ」
ざわめきが広がる。
「嘘でしょ、あれが本当に雪村社長!?」
「これは一騒動じゃすまないわね」
「やっぱりあの女、詐欺師だったのよ」
彼の声は氷のように冷たく、さっき電話口で聞いた優しく穏やかな夫のものとはまるで別人だった。
かつて私を深く愛してくれたその顔には、今や冷酷な嫌悪しか浮かんでいない。
私は彼を見つめたまま、胸の奥が裂けるような痛みに襲われた。
「雪村思遠」歯を食いしばり、血のにじむような声で問い詰めた。「もう一度言って。あなたの娘は、誰なの?」
彼の瞳孔がぎゅっと収縮し、一瞬だけ狼狽と動揺が走る。
だがすぐに目をそらし、私の血まみれの手と、瀕死の娘を見下ろして眉をひそめた。「警備員、この騒ぎを起こした二人を今すぐ外へ追い出せ」
「お父さんっ!」蘇原いおりが甲高く叫ぶ。「この人たちに殴られたのよ!ただじゃ済まさないわ!土下座して謝らせて!」
雪村思遠は短く沈黙し、やがて静かに頷いた。「……罰は必要だな」
周囲の保護者たちはすぐさま行動に移り、私の肩を押さえつけて地面に組み伏せた。
蘇原いおりは教室の鞭を手に取ると、私の背中に容赦なく振り下ろす。「このクズが!身分を偽って!私を殴った罰よ!」
打ちつけられるたびに皮膚が裂け、血が飛び散る。私は娘を守るように必死に抱きしめた。彼女の白いTシャツは、私の血で真っ赤に染まった。
雪村思遠の握り拳には青筋が浮かんでいたが、一言も発しなかった。
「やっぱり噂は本当だったのね……」
「雪村社長、愛妻家すぎて他の女なんて眼中にないんだって!」
ゴマすりのような声が四方八方から飛ぶ。
蘇原いおりは鞭を放り投げ、私を見下ろして唇を歪めた。「今すぐ犬の真似して三回鳴きなさい。そしたら許してあげる」
そのときになってようやく、雪村思遠がこちらへ歩み寄った。押し殺した声で、懇願するように囁く。「……お願いだ、歓を病院に連れて行こう。 みんな見てるんだ」
私は口の端から血を吐き、彼を睨み据えた。「――きっと、後悔するわ」
その瞬間――窓の外から、轟音が鳴り響いた。
ガラス張りの壁が砕け散り、三機の武装ヘリが空中に現れる。黒ずくめの特殊部隊がロープで室内に降下した。
「江島博士!」先頭の軍人が私に敬礼する。「国家警備庁特別行動部隊、命を受けて参上しました!季村医師率いる医療チームが、ただいま下で待機中です!」
空気が、一瞬で凍りついた。