話 2
「西園寺の本家には、絶対に戻れない」
彩音のマンションのリビング。ソファに深く腰掛けた静は、冷静に告げた。
「完全に姿を消して、私がまだパリにいると全員に思い込ませる必要がある」
「でも、どうやって法的に有効な証拠を手に入れるの?一人で無茶する気じゃないでしょうね」
彩音は心配そうに言いながら、静の前に温かいコーヒーを置いた。
静は答えず、スマートフォンの地図をテレビ画面に映し出す。その指先が、麻布十番にそびえ立つ、要塞のようなタワーマンションを正確に指し示した。
「健斗は外面だけはいいから、取引先との会食は断らない、でも、妙に自律的なところがあって、毎週金曜の夜だけは『残業』を理由に必ず姿を消すの、そこが、あの女との密会時間よ」
断片的な情報から、相手の行動パターンを完璧に読み解く。静は、先回りして罠を張るという、基本的な戦術を組み立てていた。
彼女は彩音から借りたノートパソコンを開くと、その指がキーボードの上を嵐のように駆け巡った。画面には、意味不明な文字列が滝のように流れ落ちていく。
「ちょっ……静、あんた、何やってるの?」
彩音は、手に持っていたコーヒーを危うくこぼしそうになりながら、信じられないものを見る目で静を見つめた。
「パリのアパート、空き巣が多くて、自衛のために、少しだけネットワークセキュリティの勉強をしたの」
静はこともなげに言って、コーヒーを一口すする。その横顔は、以前の彼女からは想像もつかないほど、冷徹で頼もしかった。
彩音は、その小さな肩にどれだけのものを背負ってきたのかを思い、胸が締め付けられるような気持ちになった。
「静……」
「彩音」
静は彩音の手を強く握り返し、その目をまっすぐに見つめた。
「私は、ただ婚約を破棄したいだけじゃない、佐藤家を、破滅させる」
その言葉を聞いた瞬間、彩音のジャーナリストとしての魂が燃え上がった。
「わかったわ!すぐに編集長に電話して、週刊誌のトップ記事、一面を確保しておく!」
「まだよ」
静は興奮する彩音の手を冷静に制した。
「最大の効果を得るには、最高の舞台が必要、明日の夜、佐藤家が主催するチャリティーパーティー、そこで、公開処刑する」
そう言うと、静はスーツケースの底から、あらかじめ用意していた灰色の作業着を取り出した。清掃員の制服だ。
手早く着替え、長い髪を帽子の中にしまい込み、大きなマスクで顔を覆う。高級マンションの清掃員は、住人から顔を覚えられることのない、完璧な「見えない存在」だ。
念には念を。静はスマートフォンを取り出し、健斗の番号に電話をかけた。LINEの音声通話だ。
長いコールの後、健斗が電話に出た。その声は意図的に低く抑えられ、隠しきれない焦りが滲んでいる。
電話の向こうから、微かに聞こえるジャズの生演奏と、女性の甘えたような声。銀座の高級クラブ特有の喧騒だ。
「……静?どうしたんだ、こんな時間に」
「ごめんなさい、健斗さん、論文が少し行き詰ってしまって」
静は、いつもの穏やかで甘えるような声色を完璧に演じきった。
「今、パリの図書館、少しだけ、あなたの声が聞きたくなって」
「そうか、無理はするなよ、身体が資本だからな」
健斗は心底安心したように、ありきたりな言葉を返す。そして、一秒でも早く電話を切りたいという空気を隠そうともせず、一方的に通話を終了した。
静は、冷たい笑みを浮かべた。
これで、健斗が麻布十番のマンションにいないことは確定した。
彼女は清掃用具入れの底に超小型のカメラを忍ばせると、彩音のマンションを後にした。
地下鉄を乗り継ぎ、麻布十番へ。
清掃員の制服は、完璧な盾だった。他の住人に紛れてオートロックを通過し、受付のコンシェルジュに会釈だけして、エレベーターに乗り込む。誰一人として、彼女の顔をまともに見ようとはしなかった。
目的の階に到着し、廊下の監視カメラの死角に入る。事前にハッキングで入手した暗証番号を入力すると、重厚なドアが静かに開いた。
リビングを抜け、まっすぐ主寝室へ向かう。
視線は、キングサイズのベッドを真正面から見下ろす位置にある、エアコンの吹き出し口に固定されていた。
椅子を足場にして、慎重に、しかし手早く、カメラを吹き出し口のルーバーの裏に固定する。
レンズの角度を微調整し、ベッドの隅々までが死角なく映ることを確認した。
最後に、自分が触れた可能性のあるすべての場所を、持参したウェットティッシュで丁寧に拭き上げる。指紋一つ残さない。
完璧な仕事だった。
静かに部屋を出て、マンションの非常階段に身を隠す。スマートフォンを取り出し、遠隔モニタリングアプリを起動した。
画面には、先ほどまで自分がいた寝室が、鮮明な画質で映し出されている。
マスクを外し、静は大きく息を吐いた。
すぐにその場を離れ、来た時と同じルートで、彩音のマンションへと戻る。
汗で湿った制服を脱ぎ捨て、シャワーで冷たい汗を洗い流す。
柔らかなパジャマに着替え、自分へのご褒美に、グラスに赤ワインを注いだ。
リビングの電気は消したまま。
暗闇の中、ソファに深く身を沈める。
スマートフォンの画面だけが、煌々と光を放っている。
そこに映し出されているのは、まだ誰もいない、がらんとした寝室。
静は、その漆黒の画面を、ただじっと見つめていた。
狩りのための罠は、仕掛けられた。
あとは、獲物がその中へ飛び込んでくるのを、静かに待つだけだ。
話 3
金曜日の深夜。窓の外は、急な夕立が地面を叩いている。ガラスを打つ雨音が、静の心に渦巻く焦燥と期待を煽るようだった。
スマートフォンの画面が、不意に光った。健斗からのLINEメッセージ。
「今、仕事が終わった、もう寝るよ、おやすみ、愛してる」
その安っぽい「愛してる」の文字を、静は感情の無い目で見つめた。唇の端が、侮蔑の形に歪む。返信はせず、スマートフォンをサイレントモードに切り替えた。
時計の針が、午前一時を指す。
彫像のようにソファに座り続けていた静の目の前で、ついにその瞬間が訪れた。
真っ暗だった監視画面に、玄関の明かりが差し込み、人影が現れた。
「……来た」
静は背筋を伸ばし、冷たく呟いた。迷うことなく、録画開始のボタンを押す。
画面の中で、健斗と玲奈が、千鳥足で寝室になだれ込んできた。二人とも、互いの衣服を獣のように引き裂き、欲望を隠そうともしない。
静は、その醜い姿を冷たい目で見つめていた。
「……静は、本当に面白みのない女でね、まるで木偶人形だ、やっぱり、俺を理解してくれるのは玲奈、お前だけだよ」
情欲に濡れた健斗の声が、スマートフォンのスピーカーから響く。
その侮辱の言葉を聞いても、静の心に怒りは湧かなかった。ただ、強い吐き気だけが、胃の底からこみ上げてくる。この男に対する、生理的な嫌悪感。
「じゃあ、いつになったらあのお飾りを追い出して、私を佐藤家の奥様にしてくれるの?」
玲奈の甘ったるい声が、健斗に絡みつく。
「決まってるだろう、西園寺の最後の土地を手に入れたら、すぐに捨ててやるさ」
その言葉が、静の中に残っていた、ほんの僅かな未練や感傷を、完全に消し去った。
「……人渣(クズ)」
静は、画面に向かって静かに吐き捨てた。
二人の顔と、決定的な会話がはっきりと録画されていることを確認すると、彼女はそれ以上見るに堪えず、アプリを閉じた。
二十分に及ぶ、破滅的な映像。
それを、三つの異なる暗号化されたクラウドストレージに、それぞれバックアップする。
全ての作業を終え、静は濁った息を深く吐き出した。これで、過去との繋がりは完全に断ち切られた。
彼女は文書作成アプリを開くと、その指が再びキーボードの上で踊り始めた。痛烈で、一切の逃げ道を許さない、婚約破棄の声明文の草稿を、瞬く間に書き上げていく。
翌朝。あくびをしながら寝室から出てきた彩音の目の前のテーブルに、静はバックアップ用のUSBメモリを置いた。
「弾薬は、十分に揃ったわ」
USBメモリを見て目を輝かせた彩音は、一枚の招待状を差し出した。金の箔押しが施された、豪奢なカード。
「今夜、ロイヤルクレストホテルで開かれる佐藤家のパーティー、最高の処刑場じゃない?」
招待状を受け取ると、それは彩音が報道関係者として受け取ったものだった。一般人は、足を踏み入れることすら許されない、上流階級だけの閉ざされた空間。
静は不敵に微笑むと、再びノートパソコンを開いた。ホテルの宴会管理システムに侵入し、招待客リストの末尾に、何食わぬ顔で自分の名前を付け加える。
夕暮れ時。静は、これまでの彼女のイメージを覆すような、深く、攻撃的な赤色のドレスに身を包んだ。大和撫子のような従順な仮面は、もうどこにもない。
一人、タクシーに乗り込み、ロイヤルクレストホテルへと向かう。
窓の外を流れるネオンの光が、彼女の瞳に、刃のような鋭い光を映し出していた。
タクシーが、金色の装飾が施されたホテルのエントランスに停まる。静がドレスの裾を捌きながら車を降りると、夜風が彼女の長い髪を揺らした。
回転ドアに向かおうとした、その時。
一台の黒いマイバッハが、特殊な連番のナンバープレートを誇示するように、彼女のすぐそばに滑り込んできた。
ドアが開き、黒服のSPが数人、素早く降りて黒い傘を広げ、鉄壁の人垣を作る。
静は、思わず足を止めた。
雨に煙るその向こうに、後部座席から降りてくる、長身の男のシルエットが見えた。
男は、黒い杖を手にしている。その姿から放たれる圧倒的な存在感に、周囲の空気が凍り付いたように感じられた。
その瞬間、静の心臓が、奇妙な音を立てて跳ねた。まるで、頂点に君臨する捕食者に、その存在を感知されたかのような、抗いがたい感覚。
男は、彼女の視線に気づいたかのように、僅かに顔をこちらに向けた。しかし、大きな傘の影が、その表情を窺わせない。冷たく、硬質な顎のラインだけが、闇の中に浮かび上がっていた。
ドアマンが、九十度の深いお辞儀で男を迎え入れる。
静は、彼ら一行が通り過ぎるのを、その場で待つしかなかった。
男の背中が、VIP専用の通路へと消えていく。
静は、頭を振って、今の奇妙な圧迫感を振り払った。
そして、視線を正面に戻す。
胸を張り、背筋を伸ばし、彼女は、これから始まる自分の戦場へと、堂々と足を踏み入れた。