話 1
結婚7年目の夫は, デザイン事務所の代表. 誰もが羨む理想の夫婦だと, 誰もが信じていた.
しかし, ある日送られてきた一枚の写真が, 私の全てを打ち砕いた. 夫とアシスタントの坂田蓮夏がソファで抱き合う姿.
蓮夏の薬指には, 私と全く同じデザインの指輪が光っていた. 内側には『HARUYA LOVE RENKA』と, はっきりと刻まれて.
テレビで夫は「妻, 浜本心葉は私の全てです」と完璧な嘘をつき, 私のデザインは蓮夏の手柄にされていた.
蓮夏からは「晴哉さんは私を愛している」「あなたのお腹の子なんて望んでいない」と挑発的なメッセージが次々と届く.
私の愛, 才能, そしてお腹の子. 夫は, その全てを裏切った.
問い詰めても, 彼はまた嘘をつくだけだろう. 私の心は, もう完全に壊れてしまった.
だから私は, 私の名前を捨てた. 戸籍から名前を消し, 財産を全て整理し, 過去との繋がりを断ち切った.
夫への復讐は, 私が「浜本心葉」としてこの世から完全に消え去ること.
第1章
浜本心葉 POV:
私が私の名前を放棄したいと伝えた時, 窓口の女性は困惑した顔をした. 「お客様, それは大変重大な決定です. 一度戸籍から名前を消せば, もう元には戻れませんよ? 」
彼女は私の意思を何度も確認した. それは人生を根底から覆す行為だと. その声は心からの心配を含んでいたが, 私の心には届かなかった.
私の心はもう死んでいた. この名前も, この人生も, もう私には必要ない. 全てを捨てて, 私はただ静かに消え去りたかった.
ペンを握る指は震えなかった. 私は, 私の過去に終止符を打つ書類に, 迷いなく署名した.
「これで, あなたはもう浜本心葉ではありません. 新しい名前が, あなたの新しい人生です. 」窓口の女性は, どこか寂しげに, しかしはっきりと告げた.
私の未来は白紙だ. どんな色にも染められる. そう, 私は自由になるのだ.
すぐに, 新しい名前での身分証明書の発行を求めた. 一刻も早く, 全てを終わらせたかった.
薄い紙切れ一枚が, 私の存在を書き換える証明だった. それは, 私にとって, 何よりも重いものだった.
銀行, 保険, 公共料金. あらゆる手続きを, 私は黙々とこなした. まるで機械のように. 感情はどこかへ置き去りにされていた.
古い免許証やパスポートは, 躊躇なくゴミ箱へ. ただ一枚だけ, 彼の名前が刻まれた結婚指輪だけは, まだ手元にあった. それは, 私の最後の執着だったのかもしれない.
新しい場所へ行く準備は, 着々と進んでいた. もうここには, 私の居場所はない. 浜本心葉という人間は, もう存在しないのだ.
浜本心葉は死んだ. ここにいるのは, 全くの別人, ただの影だった. そう自分に言い聞かせるたびに, 胸の奥が冷たくなった.
新しい身分証を握りしめ, 私は役所のドアを開けた. 外の世界は, 何も変わらず, ただ眩しかった.
駅前の大型ビジョンに, 見慣れた顔が映し出された. 彼の, 晴哉の顔だった. 彼は, 私たちのデザイン事務所の代表として, 満面の笑みでインタビューに応じていた. 彼の笑顔は, 私にはもう届かない場所にいた.
インタビュアーが, 彼の左手の指輪に気づいた. 「松井社長, その指輪は…」
彼は少し照れたように笑い, 「これですか? これは, 私の妻からの大切な贈り物です」と答えた. その言葉を聞くたび, 私の胃がねじれるような感覚に襲われた.
「奥様との仲睦まじいエピソードは, いつも羨ましく拝見しております」インタビュアーの声が弾んでいた. 周りの通行人も, 羨望の眼差しを向けていた.
「こんなにシンプルなデザインなのに, 社長がいつもされているのは, きっと特別な意味があるのでしょうね」インタビュアーの言葉に, 晴哉はゆっくりと頷いた.
晴哉は指輪をそっと撫でながら, 「ええ, これは妻が, まだ駆け出しだった頃に, 私のためにデザインしてくれたものです. 私たちの始まりの証なんです」と言った. 彼の声は, あまりにも優しかった.
カメラが寄ると, 指輪の内側に小さく刻まれた文字が見えた. 『HARUYA LOVE KOHA』. それは, 私が心を込めて彫った文字だった.
「私の妻, 浜本心葉は, 最高のデザイナーであり, そして, 私の全てです」彼の言葉は, まるで蜜のように甘く, しかし私には毒だった. それは, あまりにも完璧な嘘だった.
通行人たちが, 「素敵な夫婦ね」「あんな旦那さん, 羨ましい」と, ため息交じりに話しているのが聞こえた. 彼らの言葉は, 私の耳には遠い幻聴のように響いた.
私は, その光景をただ見つめていた. 私の胸には, 何も響かなかった. ただ, 凍り付いたような虚無感が広がっていた. 私の感情は, もう壊れていた.
あの指輪をデザインした時のこと. 若かった私たちは, 未来を信じていた. あの頃の私は, 彼を心から愛していた.
彼と出会って十年, 結婚して七年. その全てが, あの日, 崩れ去った. 私の人生は, 彼の嘘によって, 脆くも崩壊した.
誰もが, 私たちを理想の夫婦だと思っていた. 彼も, 私も, そう演じていた. 皮肉なことに, その演技は完璧すぎた.
数週間前, 見知らぬ番号から一枚の写真が送られてきた. それは, 私の世界を壊す, たった一枚の紙片だった. その写真が, 私をこの道へ追いやったのだ.
写真は, 晴哉と, 私たちのデザイン事務所のアシスタント, 坂田蓮夏が, ソファで抱き合っている姿を捉えていた. それは, あまりにも生々しく, 私の目に焼き付いた.
蓮夏は晴哉の首に腕を回し, 顔を埋めていた. 彼もまた, 彼女の腰に手を回し, 満足げな表情をしていた. その表情は, 私に向けられていたものと寸分違わなかった.
そして, 蓮夏の左手の薬指には, 見覚えのある指輪が光っていた. 私の指にあったはずの, あの指輪が.
私があの日, 晴哉のためにデザインした, あの指輪. 内側には小さく, 『HARUYA LOVE KOHA』と刻まれているはずだった. だが, 蓮夏の指には, 『HARUYA LOVE RENKA』と, はっきりと刻まれていた. その文字は, 私の心臓をナイフでえぐり取るようだった.
その日, 私は偶然, 街で蓮夏とすれ違った. 彼女は, 晴哉がデザインしたばかりの, あの大型商業施設のロゴが入ったバッグを提げていた. そのバッグは, 本来なら私がデザインするはずだったものだ.
彼女は私に気づき, わざとらしく笑顔を向けた. その指には, あの指輪が眩しく光っていた. 彼女の瞳には, 私への嘲りが宿っていた.
私の視界は, 一瞬で歪んだ. 頭の中が真っ白になり, 足元がぐらついた. 呼吸が, できなくなった. 全身の血の気が引いていくのが分かった.
なぜ, と喉まで出かかった言葉を, 私は必死で飲み込んだ. 問いただす気力すら, もう残っていなかった. 問い詰めても, 彼はまた嘘をつくだけだろう.
問い詰めてどうする? 彼が何を言っても, 何の慰めにもならない. 真実を知ってしまった以上, もう元には戻れない. 私は, ただ, 全てを終わらせたかった.
私は, 何も言わずにその場を離れた. ただ, 一歩ずつ, 重い足を引きずって. 私の心は, その時, 完全に壊れたのだ.
気がつけば, 私は昔, 晴哉とペアリングを作った宝飾店の前に立っていた. 雨が降り始め, 私の顔を濡らしたが, それが涙なのかは分からなかった.
私の左手の薬指に嵌められた指輪は, まるで皮膚の一部のように食い込んでいた. それは, 愛の証ではなく, もはや枷でしかなかった.
店員に頼んで, 指輪を外してもらった. 固く嵌り込んだそれは, 外れる時に, 皮膚が裂けるような激痛を伴った. だが, その痛みは, 心の痛みよりはるかにマシだった.
「これを, すぐに溶かしてほしい」私の声は, ひどく掠れていた. 自分の声ではないようだった.
店員は, 困惑したように私を見た. 「お客様, 本当に, よろしいのですか? 大切なものだとお見受けしますが…」
「ええ, 構いません. 今すぐに. 二度と, 私の目に触れないように」私はそう言って, 店員に背を向けた. 早く, 早く終わらせてくれ.
指輪を外した左手は, 妙に軽かった. 私は, 溶かされて塊になった指輪の残骸を, 小さな袋に入れて持ち帰った. それは, 私の過去の全てを象徴していた.
その夜, 晴哉が帰ってきたのは, 日が変わる頃だった. いつものことだった. 彼は, 私がデザインした新しいプロジェクトの成功を祝うかのように, 上機嫌だった.
彼は, 私の好きなブランドの小さな紙袋を差し出した. 「遅くなってごめん. これ, 気に入るかなと思って」彼の笑顔は, 私にはもう届かなかった.
彼の体からは, 私のものではない, 甘ったるい香水の匂いがした. 蓮夏がいつもつけている, あの匂いだった. その匂いが, 私の吐き気を催させた.
シャツの襟元には, 薄っすらと, 見覚えのある口紅の跡がついていた. それは, 私の口紅ではなかった. 彼は, 私を欺き続けていたのだ.
彼は, 私を馬鹿だと思っているのだろう. いや, 私が馬鹿だったのだ. こんなにも長い間, 彼の芝居に気づかずにいたなんて. 私の心は, 嘲笑に満ちていた.
「どうした? 元気ないな. 疲れているのか? 」晴哉が, 優しい声で尋ねた. その優しさが, 私には毒のように感じられた.
「ええ, 少し. 今日は, ちょっとだけ疲れたわ」私は, 感情のない声で答えた. もう, 彼に真実を話す気力はなかった.
彼は, 私の肩に手を伸ばした. その手を, 私は無意識に避けていた. 彼の温もりは, 私にはもう, 不快でしかなかった.
「心葉, あれ? 君の指輪, どうしたんだ? いつもつけている, あの指輪が…」晴哉の声が, 途中で途切れた. 彼の視線は, 私の左手薬指に釘付けになっていた.
話 2
浜本心葉 POV:
「ああ, あれね. 作業中に邪魔になったから, どこかに置いてきたのよ」私は, 何でもないことのように答えた. 彼の視線が, 私の指に痛いほど突き刺さった.
「なんだよ, 大切な指輪だろ? 俺とお揃いの. どこに置いたか覚えてるのか? 」晴哉の声には, 不満と, ほんの少しの焦りが混じっていた. 彼は, 指輪が私にとってどれほど重要だったかを知っていたはずだ.
「さあ? どこだったかしら. まあ, どうせまた見つかるわ」私は, 平静を装って言った. 私の心は, 彼の動揺を見て, わずかに冷たい喜びを感じていた.
「見つかるって, そんな適当な. もしなくしたらどうするんだよ」晴哉は, 眉間にしわを寄せた. 彼は, 彼の偽りの愛の象徴が消えたことに, 苛立っているようだった.
「もしなくしたら, また新しいのを作ればいいじゃない. どうせもう, 古くなったでしょう? 」私の言葉に, 晴哉は一瞬言葉を失った.
彼の表情は, 一瞬で和らいだ. 「そうだな, お前らしいな. じゃあ, 今度一緒に見に行こう. もっと素敵なのを買ってやるから」彼の笑顔は, 私にはもう何も響かなかった.
「ええ, そうね」私は曖昧に答えた. 指輪が溶かされて, 小さな金属の塊になったことを, 彼はもちろん知らない. これが, 私の復讐の第一歩だった.
晴哉は, テーブルの上の小さな紙袋に気づいた. 「あれ? これ, 何だ? お前, 俺に何か買ってくれたのか? 」彼の声は, 子供のように弾んでいた.
「ええ, そうよ. あなたへの贈り物」私は, 偽りの笑顔を浮かべた. その中身は, 彼にとって最大の裏切りになるだろう.
「ありがとう! 何だろうな, 開けてもいいか? 」晴哉は, 目を輝かせた. 彼は, 私から贈られるものが, まだ自分を喜ばせると信じているようだった.
「いいわ. でも, 開けるのは, 少し後にね」私は, 彼の期待を煽るように言った. まだ, その時ではない.
彼の紙袋の中には, 溶かされた指輪の金属の塊が入っていた. それは, 彼の裏切りが形を変えたものだ.
「なんだよ, 焦らすなよ」晴哉は, 不満そうに口を尖らせたが, 私の言葉に従った. 彼は, 私が彼に報復しようとしているなど, 夢にも思っていないだろう.
私の心は, さらに冷たくなった. 彼の無邪気さが, 私にはあまりにも滑稽に見えた.
「そういえば, あなた, 今日が何の日か, 知ってる? 」私は, 静かに尋ねた. 彼の表情が, 一瞬で凍り付くのが見えた.
晴哉の顔から, さっと血の気が引いた. 彼は, おどおどと私を見つめた. 「えっと, その, 何か特別な日だったか? 」彼は, 明らかに思い出したくない顔をしていた.
「私たちの, 初めてのデート記念日よ. 十年, 経ったわね」私の声は, 感情を完全に失っていた. その言葉は, 彼にとって痛恨の一撃だっただろう.
晴哉は, 見る見るうちに顔色を変え, 慌てたように私の手を取った. 「ご, ごめん! 心葉, 本当に忘れてたわけじゃなくて! 最近仕事が忙しくて, つい…」彼は必死に言い訳を始めた.
「謝罪はいらないわ. それより, 埋め合わせをするなら, 今からどこかへ行きましょう. 二人で, ゆっくり過ごしましょうよ」私は, 彼の提案を予測していたかのように, 先手を打った.
「いいのか! ? もちろん, どこへでも! どこに行きたい? 」晴哉は, 心底ほっとしたように言った. 彼の顔には, 安堵の表情が広がっていた.
「そうね…あの, 私たちの思い出の場所へ行きたいわ」私は, 彼の裏切りを暴くための舞台を用意した.
「わかった! すぐに車を出すから! 」晴哉は, 喜び勇んで玄関へ向かった. 彼は, 私がまだ彼を愛していると信じているのだろう.
晴哉が運転する車の中, 彼は楽しそうに最近の仕事の話や, 蓮夏をいかに指導しているかを話していた. 私の心は, 窓の外の景色と同じくらい, 冷え切っていた.
「このプロジェクト, 蓮夏が担当する部分も多いんだ. あいつ, 本当に頑張り屋でさ」晴哉の声が, 私の耳には遠く聞こえた. 彼は, その名前を私に隠そうともしなかった.
私は, 彼の話に適当に相槌を打ちながら, 窓の外に目を向けた. 街の景色が, まるで他人事のように流れていく. 私の心は, もうここにはなかった.
ふと, 助手席の足元に, キラリと光るものが見えた. 拾い上げてみると, それは女性用の小さなヘアピンだった. 蓮夏がよくつけている, あのデザインだ.
私は, 表情一つ変えずにそのヘアピンを拾い上げ, ハンドバッグの奥底にしまい込んだ. それは, また一つ, 彼の裏切りの証拠となった.
何も言わなかった. 問い詰める気力も, もう湧かなかった. ただ, 淡々と証拠を集める. それが, 私に残された唯一の感情だった.
車は, 私たちが初めてデートした海辺のレストランに到着した. 思い出の場所は, 今はただの舞台でしかなかった.
晴哉は, 私が車を降りる際に, さりげなく私の腰に手を添えた. その手の感触が, 私にはぞっとするほど冷たかった. 彼は, まだ私を妻だと思っているのだろう.
「心葉, ここでプロポーズした時, 覚えてるか? 本当に幸せだったな」晴哉は, 懐かしそうに海を見つめた. その言葉は, 私には空虚な響きでしかなかった.
周りの客たちが, 晴哉の顔を見て, 「松井社長だ」「奥さんとデートなんて, 素敵ね」とささやいているのが聞こえた. 彼らは, 彼の完璧な演技に騙されている.
その時, 晴哉の携帯が鳴った. 彼は, 一瞬躊躇したが, すぐに「ああ, ごめん, ちょっと席を外す」と言って, 慌ただしく立ち上がった. 彼の表情には, 隠しきれない焦りが見えた.
「ああ, 蓮夏か. 今, どこだ? 」彼の声が, 少し離れた場所から聞こえてきた. 私の心は, 何の感情も抱かなかった.
「ごめん, 心葉. ちょっと急な仕事が入った. 少しだけ待っててくれるか? 」晴哉は, 申し訳なさそうな顔で私に言った. 彼の顔は, 嘘で塗り固められていた.
「ええ, 構わないわ」私は, ただ静かに頷いた. 私の心は, すでにこの状況を予測していた.
「松井社長, 仕事熱心だわね」「奥さんも理解があるわ」周りの声が, また聞こえてくる. 彼らの言葉は, 私にはもう届かなかった.
私は, ただ静かに窓の外の海を見ていた. 波の音が, 私の心の中の虚無感をさらに深くした. 彼が戻ってくるまで, 私はここで, 演技を続けるだけだ.
ふと, 振り返ると, 晴哉が携帯を耳に当て, 満面の笑みを浮かべているのが見えた. その笑顔は, 私には向けられていない. 彼の瞳は, 私にはもう映っていなかった.
彼の声が, 小さく聞こえてきた. 「ああ, 心配するな. 今, 心葉は一人で待ってるから, 大丈夫だ. すぐにそっちへ行く」その言葉が, 私の耳に届いた瞬間, 私の心は完全に凍り付いた.
私は, 無言で席を立ち, 車のキーを手に取った. もう, 彼の演技に付き合う必要はない.
彼の車に戻ると, 助手席のモニターに, 晴哉の携帯のメッセージアプリが開いたままになっていた. そこには, 蓮夏との生々しいやり取りが残されていた.
「今夜は心葉と一緒なの? 寂しいよ, 晴哉さん」「大丈夫だ, すぐに抜け出す. お前を一番に考えてるからな」
その言葉が, 私の目に飛び込んできた瞬間, 私の体は凍りつき, 心臓が大きく脈打った.
「愛してるよ, 私の晴哉さん」「俺もだ, 蓮夏」
そのメッセージを見た瞬間, 私の胃から何かが込み上げてきた. 喉の奥が熱くなり, 全身が震えた.
「心葉, 待たせたな. 本当にごめん. 急ぎの案件で, どうしても外せないんだ」晴哉が, まるで何もなかったかのように, 笑顔で車に戻ってきた. 彼の笑顔は, 私にはもう, 悍ましかった.
私は, 何も言わずに彼に冷たい視線を向けた. 私の顔には, 一切の感情がなかった.
「どうしたんだ? 気分でも悪いのか? 」晴哉は, 私の顔色を心配するように言った. 彼の心配など, 私にはもう必要なかった.
私は, 車を降りて, 海辺の茂みの陰に隠れた. 胃から込み上げてくるものを, 抑えきれなかった.
話 3
浜本心葉 POV:
「心葉! ? 大丈夫か! ? 」晴哉が, 慌てて私のもとに駆け寄ってきた. 彼の顔には, 焦りと, ほんの少しの恐怖が浮かんでいた.
しばらくして, 胃の不快感が落ち着き, 私はゆっくりと立ち上がった. 全身に力が入らず, まるで抜け殻のようだった.
なぜ, 彼は私を裏切ったのだろう. 私に, 何が足りなかったのだろう. 私の心は, 問いと, 痛みで溢れていた.
もしかしたら, 蓮夏の若さや, 私にはない奔放さに惹かれたのだろうか. それとも, 私の才能に嫉妬し, 私を支配したかったのだろうか. 彼の真意は, 私にはもうどうでもよかった.
ゆっくりと呼吸を整え, 私は冷静さを取り戻した. 感情に流されてはいけない. これは, 私の計画の一部なのだ.
「心葉, 病院に行くぞ. こんな状態じゃ, 心配だ」晴哉は, 私の腕を掴もうとした. その手つきは, 私には不快でしかなかった.
「大丈夫よ. ただ, 少し神経性胃炎になっただけ. 最近, 仕事で疲れていたから」私は, 作り笑いを浮かべた. 彼の目には, 私の苦痛など映っていないだろう.
「そうか…無理をさせてしまって, ごめん. でも, 明日, 俺と一緒に事務所に来ないか? 最近, 心葉に会えてなくて, 寂しいんだ」晴哉の声は, 甘く, 私を誘うようだった.
私の心には, 嘲笑が湧き上がった. 寂しい? 彼の隣には, いつも蓮夏がいたはずだ. しかし, これは利用できる.
「いいわ. でも, ただ行って戻るだけじゃつまらない. あの, 先日晴哉が発表した新しいショッピングモールのデザイン. あれについて, いくつか確認しておきたいことがあるの」私は, 彼の提案に乗った.
晴哉の顔に, 一瞬の戸惑いが浮かんだ. 彼は, 私の質問が何を意味するのか, 分かっているはずだ.
「えっと, それは…急に言われても, 資料がないと…」彼は, 言い訳を探すように視線を泳がせた.
「あら, そう? でも, 私はあなたと一緒にデザインしたから, 大体のことは覚えているわ. あなたが私のデザインを盗んで, 蓮夏の手柄にしたこと以外はね」私は, 彼の目を真っ直ぐに見つめて言った.
晴哉は, ごくりと唾を飲み込んだ. 「わ, 分かった. 心葉がそこまで言うなら, 付き合うよ. でも, 無理はするなよ」彼は, 不承不承といった様子で頷いた.
家に戻ると, 晴哉はすぐにシャワーを浴びに行き, その後, 携帯を片手にどこかへ電話をかけ始めた. 彼の焦った様子が, 私の目にははっきりと映った.
私は, 彼の携帯が置いてあったテーブルに近づいた. やはり, 蓮夏に電話をかけていた. メッセージ履歴を見ると, 「明日, 心葉が事務所に来る. 準備しておけ」とあった. 彼らは, 私を欺く準備をしているのだ.
私は, 何も言わずにそのメッセージを閉じた. 私の心は, もう波立つこともなかった. ただ, 証拠が一つ増えただけだ.
晴哉は, シャワーから上がると, なぜか洗い物を始めた. 「心葉, 具合が悪いんだろ? 俺が洗い物をするよ」彼の声は, これ見よがしに優しかった.
「いいわ. 私がやるから, あなたは休んでいて」私は, 彼の厚意を冷たく断った. 彼の触れたものなど, もう触りたくなかった.
「そういえば, あのプレゼント, 開けてくれないのか? もしかして, 気に入らなかった? 」晴哉が, 不満そうに尋ねた. 彼は, まだあのプレゼントが私を喜ばせるものだと思っている.
「いいえ. 開けるのは, 明日, 事務所でね. みんなの前で開けたいの」私は, 冷たい声で言った. それは, 彼にとって, 公衆の面前での恥辱となるだろう.
「ん? なんでまた, そんなところで? 」晴哉は, 不思議そうに首を傾げた. 彼は, 私の意図を全く理解していない.
私の心の中では, 彼の裏切りが, 一つ残らず暴露される日が, 刻一刻と近づいていた. そのプレゼントは, 彼が私にしたことの, 象徴なのだ.
「なんとなく, そういう気分なのよ. サプライズは, みんなで分かち合うものだもの」私は, 曖昧に答えた. 彼の顔は, 混乱と期待が入り混じっていた.
晴哉は, それ以上何も言わずに, 私の言葉を受け入れた. 彼は, 私が彼に害をなすなど, 夢にも思っていないだろう.
翌朝, まだ夜明け前の薄暗い中, 携帯の着信音が鳴り響いた. 晴哉の携帯だ.
晴哉は, 最初は無視しようとしたが, 着信音は執拗に鳴り続けた. 彼は, 仕方なく携帯を手に取った.
私は, 眠ったふりをして, 彼の様子を伺った. 彼の, 微かな動揺が伝わってきた.
彼は, 電話をかけ直すためにベランダへ出て行った. そして, 数分後, 小さな包みを抱えて戻ってきた. それは, 彼が今朝受け取ったばかりの, 新しいサンプルのようだった.
「誰からだったの? 」私は, 起き上がって, 何気ないふりをして尋ねた.
「ああ, 取引先からだ. 急ぎの確認事項だってさ. 心配するな, もう大丈夫だ」晴哉は, 私に背を向けたまま, 曖昧に答えた. 彼の声には, 隠しきれない焦りがあった.
晴哉は, いつもより早く起きて, 私に豪華な朝食を作ってくれた. 食卓には, 私の好きなパンケーキが並べられていた.
「どうだ, 心葉. 最近, 疲れているみたいだから, 家事を手伝ってくれる人を雇おうと思うんだが, どうかな? 」晴哉は, 私の顔色を伺うように言った.
「いいえ, 必要ないわ. 自分のことは, 自分でできるから」私は, 彼の提案を断った. 彼の施しは, もう受けたくなかった.
「なんだよ, 頑固だな. お前はいつもそうだ」晴哉は, 冗談めかして言ったが, その声には, どこか本気の色が混じっていた.
「晴哉, あなた, 私を裏切ったでしょう? 蓮夏と, 何かあったの? 」私は, 彼の目を真っ直ぐに見つめて, 核心を突いた.
晴哉の顔から, 血の気が引いた. 彼は, 必死に首を横に振った. 「何を言ってるんだ! ? 心葉, 俺は, お前だけを愛してる! 誓って, 蓮夏とは何もない! 」
「本当に? 私の目を, 見て言ってごらんなさい」私は, さらに彼の顔に近づいた.
晴哉は, 私の視線から逃げるように, 顔を背けた. 「心葉, 信じてくれ! 俺は, お前しかいないんだ! 」彼は, 大げさな身振り手振りで, 私の手を掴もうとした.
私の心は, 彼の芝居にこれ以上付き合うことに疲弊していた. 彼の言葉は, もはや私の耳には届かなかった.
私は, 彼の掴もうとする手を振り払い, 静かに立ち上がった. 彼の顔には, 驚きと, ほんの少しの傷つきが浮かんでいた.
「心葉, どうして俺を信じてくれないんだ? 俺は, お前を心から愛しているんだぞ! 」晴哉は, 必死に訴えかけた.
私の心の中では, 彼の愛が, 私をどれだけ傷つけたか, 計算するような冷たい自分がいた.
「そろそろ, 事務所に行く時間じゃないかしら? 大事な会議があるのでしょう? 」私は, 彼の言葉を遮り, 冷静に言った.
晴哉は, ハッとしたように時計を見た. 「ああ, そうだった! 危ない危ない. 心葉, 本当にごめん. 早く準備するよ! 」彼は, 安堵したように言った.
「本当に, 蓮夏は使えないな. あの簡単な資料一つ, 作れないなんて」晴哉は, 準備をしながら, 蓮夏の悪口を言った.
「あら, そう? でも, 彼女は才能があるって, あなたが言っていたじゃない」私は, わざとらしく言った.
晴哉は, 私の問いかけに, 一瞬言葉を詰まらせた. 「そりゃ, 才能はあるさ. でも, やっぱり心葉には敵わないよ. お前が, 俺の唯一の宝物だからな」彼の言葉は, 私にはもう響かなかった.